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 金属が擦れる音がして、重いドアが開く音が続いた。ばたん。そしてわたしの近くを久しぶりに温度が通り過ぎて行くのがわかった。
「あっつ」
 この静止の部屋には流れていかない、とどまり続けて淀む空気が熱されて溜まっていた。わたしを覆うビニールや紙袋を通して熱が伝わっていた。それなりにわたしも暑かった。わたしの肉体そのもの、ようするに畳まれた状態のりんご色のワンピースは室温の上昇とともに熱されていた。
 かみさまかみさまかみさま。わたしは暑い中で祈り続ける。「あーあ」。聞き慣れた溜息。
 そのとき、わたしは全身にものすごい衝撃を感じた。斜めになったわたしの一部から、衝撃とともにものすごく重いものがのしかかった。わたしには抗うことができない。ただ、外圧に屈してからだがしなり、わたしは重いなにかの下敷きになっている。
 『重い。助けて。からだがぺちゃんこになっちゃう』。わたしは神によって口も喉も捥がれてしまったので、助けを求めることができない。『これまじで重いから。わたしが潰れるから!』。わたしの叫びはただの心の声でしかない。誰にも届かない。わたしの叫びが誰にも届かないという意味でも、わたしはここに存在していないのだ。
 わたしを潰している〈存在〉は、わたしの上から退かない。ずっとそこにいる。わたしはわたしを潰す彼の〈存在〉をつねに感じている。しかし、彼はわたしの〈存在〉を感じていない。彼は当然のようにそこにいて、わたしを押し潰している。彼自身の重みによって。
 彼がいったいどういう〈もの〉なのかわたしにはわからない。それよりも、斜めになってなにかに寄りかかっていたわたしのかたちは変形した。ぺちゃんこになって、ふっくら畳まれていたわたしはそのかたちを留めていない。たぶんわたしを覆っていた紙袋も、ビニールも同じだろう。ぜんぶ一緒に潰されてしまった。そして潰され続けている。

 わたしは原型を失っているわけではないが、存在を失った――そもそも〈存在〉が存在したのか不明――、わたしは祈り続けている。『かみさまかみさまかみさま。かみさまわたしをりんご色のワンピースから、もっと自由なかたちに変えてください。あれです。転生ってやつ。あれで人生やり直せるらしいんで。転生すればとりあえず人生がぜんぶいい感じになって、自分の思い通りの人生を生きられるらしいんで。わたしはりんご色のワンピースになってこうやって一生ぶんの苦しみを味わいました。だから』。
 わたしの近くにいる人間の温度は相変わらずそこにある。それから溜息。「あーあ」。
 ただし溜息がいつもと違うのがわかったのは、呻きのような声をともなう溜息が続いたあとだった。「うううううううううううううううう。……あー。まって。まってまって痛い痛い」。
 それから布を擦るような音がひっきりなしに続く。呻きがだんだん大きくなっていき、荒い呼吸が切迫した空気をこの空間のなかにうみだす。
「……うううう、痛い。痛い痛い。やば。やばい」
 いまは朝か夜か。それはわからない。ここに移動してきてから、朝も夜もなくなった。わたしの近くでしばらく続いていた呻きが止む。深呼吸のような息づかい。しばらくするとまた呻きが始まる。呻きはだんだん強くなっていく。
 なにが起こっているのかわからない。わたしは誰か――たとえばわたしを押し潰している重いなにか――に、聞いたりすることができない。神によって口を捥がれたので、わたしは誰ともコミュケーションを取ることができない。わたしはニュータイプでもなかったということだ。
「ああ、やばいまた痛い痛い痛い痛い」
 呻き。呻きや言葉にならない言葉のようなものが続く。緊迫している空間で、わたしの近くの人間の温度はそこに佇んでいる。
「やばいこれまじでやばいから。やばいいいいいい」
「やばいどうしよ。どうしよどうしよ。う。うーん。うーんうーんうーん」
「うううううううううううううううううう」
 呻きが続く。さっきよりも激しい呻きに次第に変化していくのがわかる。とはいえ何もできない。わたしは無力なりんご色のワンピースだ。よく知らないものに押し潰されて、最終的には塵となり一生を終えるのであろうりんご色のワンピースだ。
 がこっ。硬いものが床に落ちる音がした。てっ、てっ、てっ、ぽーん。ぽこ、ぽこ、ぽこ、「午後・二時・三分・ちょうどを・お知らせします」ぽこ、ぽこ。ぽこ。
「はーああああああああ?」
 苛立った溜息。そして呻きが続いたあと、時報はすぐに切れた。いまは午後二時だということがわかった。
「えーまって。あー痛い痛い痛い痛い痛い痛い。えー。なんだっけ。救急車……あ、救急だから〝99〟か」
 しばらくの無音が続き、わたしは緊迫した気分で声を追っている。わたしを選んだけどわたしの存在をすでに忘れている人間の声を。
「は? 救急だから99じゃん? なんでつながんないの? はああああ? うううううううううううううううう」
 わたしはこの状況を、呻いて苦しそうな人を救いたいと思っている。救急車を呼びたいならダイヤルは99ではないことを教えてあげたいのに、口を捥がれているから伝えることができない。
 しばらくまた激しい呻きが続いた。苦しさに悶えているのか、柔らかくて重量のあるものが床でのた打つような音がする。
 かみさまかみさまかみさま。わたしは祈る。『かみさまかみさまかみさま。あの苦しそうな音をずっと聞いてるのがつらいので、あの人を救ってあげたいんですけど』。この空間には、あの呻きを、苦しんでいる人間を救う〈意識〉は存在していない。わたし以外には。だからわたしがあの人間を助けなければならない。
「ううううううううううううううううううううううへいしり」
 『かみさまかみさまかみさま。わたしをもっと自由な肉体にしてください。せめて口があったら救急車を呼ぶ番号を教えてあげられるんだけど。てか呼んであげられるんだけど』。
「痛い痛い痛いあああもおおおおおおおおおおおおへいしり!」
 『かみさまかみさまかみさま。わたしはこの苦しそうな人を救いたいんですけど、りんご色のワンピースのままじゃなんもできないんです。それにわたし、いま何かに潰されてるし』。
「Hey Siri!!!!!!」
「はい」
「救急。呼んで」
「このページは、わたしが読み上げられるように設定されていません」
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお。お前じゃない。もうお前じゃないわ。シュロくん。シュロくん返事して」
「どしたの?」
「ねえいま。うううううううううう。めちゃ腹痛いの」
「そうなんだ。払いたいときってあるよね」
「違うよ! お腹痛いの。おおおおおおおおおおおお」
「そっか。だいじょうぶ? いつもがんばってるもんね」
「そう。だから救急車ってどう呼ぶの」
「救急車は、きゅうきゅうしゃ、って呼ぶといいんじゃない? それともあたらしいニックネーム考えようか」
 わたしは会話を聞いて愕然としている。押し潰されながら。りんご色のワンピースという肉体をもつわたしよりも、選ばれるのは肉体を持たない〈声〉なのだ。そして、苦しんでいる誰かを救うのもまた、肉体を持たない〈声〉なのだ。
 存在の意味。わたしが存在する意味など、この場においてはまるで無かった。
 『かみさまかみさまかみさま。わたしは苦しそうな人を救いたいって思ったけど、わたしじゃなくてよかったみたいです。もう消えたい。もう消えてなくなりたい。ここにいる意味ないし』。
 わたしは脳の中で独り言をつぶやき続ける。苦しそうな呻きの合間に交わされる人間とAIの会話がわたしの脳に溜まらずに流れて行く。わたしの存在はここにはない。

 わたしは天井から見下ろしている。なにを? 知らない間取りの家の中を。見下ろす先にはベッドとテーブルと大きなクッションがあるが、その周囲にはいろんなものが散らかっている
 床はクッションの周囲にすこし覗いているだけだ。ベッドの上の布団や枕はぐちゃぐちゃに丸まっている。テーブルの上には無秩序に、食べものとごみの境界を失ったものたちがぎゅうぎゅうに並んでいる。
 わたしは浮かんでいるというより、天井にへばりついている何か、もしくは天井そのものだ。肉体がない。
 肉体がないという実感はない。ただ〈わたし〉がここにあり、部屋のなかを見下ろしている。それがすべてだ。
 部屋のなかには、目に見える生物、たとえば人間や動物などはいない。目を凝らせば必ず、虫を見つけられるだろう。こんなに汚い部屋に虫がいないはずがない。しかし、わたしの無意識がそれを拒んでいる。
 わたしには口がない。わたしには鼻もない。わたしには喉もない。さらに言うなら肉体がない。ここにあるのは記憶から形成される〈わたし〉という存在のようなもの。だけがある。この部屋の天井から見下ろす視線を持つ〈わたし〉の意識。
 『ひとつだけ言えることは、あなたが救いたいと思った人間はここから運ばれて行ったということだ』。
 声が聞こえた。というか差し込まれた。わたしには耳があるのかどうかわからない。わたしの頭に自動的に浮かんだ言葉。しかしこれがわたしの思考とは違うものであることが感覚としてわかる。
 『そっか。よかった』。
 これはわたしの意識の中で芽生えた独り言だ。『だからわたしは誰もいない部屋を見下ろしているということか』。
 わたしの言葉に肯定も否定もない。相槌がない。しかしわたしは深い納得のような気分に満たされている。
 『あなたは、あなたであるという強烈な承認を常に欲していた。人間のころ。忘れていないだろう? あなたはレーテーの水を飲むふりをしただけなのだから』。
 脳に差し込まれる――天井ではなく、〈わたし〉という意識そのものに――声は神の声であることが直観的にわかっている。わたしは考える。わたしが、わたしであるという強烈な承認? 覚えていない。人間のころ? もっと覚えていない。
 わたしはりんご色のワンピースで、それ以上でもそれ以下でもなかった。誰から見ても、りんご色のワンピースだった。それ以外にわたしを表すものはなかった。逆に言えば、わたしという存在は単純な単語で表現できるのだった。〈りんご色のワンピース〉。
 りんご色のワンピースは、かつてわたしがぶら下がっていたラックにいくつかあった。同じ色の、同じ型の、サイズの違うりんご色のワンピース。わたしは、サイズという概念まで含めればわたしの存在はあの場所では唯一だった。りんご色のワンピースのサイズ3、といえばわたししかいなかった。
 『たしかに強烈な承認を常に欲していたかもしれません。でもそれは、選ばれたいという単純な承認です。ワンピースだから』。
 選ばれたいと思っていたのは確かなことだ。わたしは選ばれたかった。なぜか? わたしは人生における大きなゲートの前にいて、その大きなゲートの先にはまだわたしの知らない、けれど大きな名誉や成功に繋がるのであろう道が開けている。だから、その大きなゲート――『選ばれる』――を通過しなければならなかった。わたしは続ける。『いや、だって生きるってそういうことじゃないですか』。
 『そうだね』。
 神の声は肯定のようで肯定ではなく、しかし否定もしない。神はフラットだ。ただしわたしに寄り添っているわけでもない。一定の距離が、心の距離が常に発生している。
 神は続ける。『ほとんどの人間は自分の欲望を満たすためだけに行動している。あなたもそうだった』。
 神は続ける。『ほとんどの人間は確固たる自分を持っていない。自分の欲望を満たすための条件を自分自身で作り出すことができない。だから周囲の承認をたくさん得ることで〈自分自身〉を造り、そして欲望を満たす。あなたもそうだった』。
 わたしは理解できずにいる。なぜなら。りんご色のワンピースのわたしは、欲望というものを意識していなかったからだ。誰よりも先に選ばれたい、みたいな気分は大勢のライバルと並んでいるときに常に感じていたけど、それは相対的に生成される気分だ。誰の心にも生成される、人間の、生物の、群れの中で相対的に発生する気分だ。ひとりきりで居たら、発生しない気分だ。
 だからわたしの欲望ではない。わたしから自然に発生した欲望ではない。
 という思考は神に見抜かれている。わたしの思考は、すべての思考はすでに、神の手のひらの中にあるのかもしれない。超越的決定かどうかはわからないけど。
 神は言う。『人間として生きるのは、常に不安定な自分自身を抱えながら生きることだったはずだ。だからあなたはりんご色のワンピースになった。ようするに、確固たる自分自身を得た』。
 神は言う。『けれどあなたは、その自分自身にすら不満を抱いている』。
 わたしという、天井から見下ろす意識に神の声が差し込まれる。わたしの意識に反射のように、自己弁護の反論が浮かぶ。『不満というか、わたしはもうすこし自由になりたいだけです。もっと自由に自分の意思で歩いたりしたいし、行きたいところに行きたいし、苦しんでる人がいたら救急車を呼びたいし。りんご色のワンピースのままじゃ自分の力で動けないし。なんならわたし、めちゃくちゃ押し潰されてたし。人間ならもっと自由に動けるじゃないですか。だから人間になればいいんじゃないかなって思ったんですけど』。
 ようするにわたしの周囲には常に人間がいて、人間は好きなように振る舞っていた。わたしを、りんご色のワンピースを〈選ぶ〉のも人間。試着するのも人間。選んだ末に、わたしを移動させて、そのくせ一度も紙袋から出さずに、着ることなく放置した。その、放置する自由ってやつも人間にしか持てない。
 それに較べて、りんご色のワンピースは常に受動的なのだ。選ばれるのを待ち、着てもらえるのを待つ。ただの受動的なものでしかないのだ。
 『その自由とは、結局は対人希求的なものではないのだろうか』。
 神が言う。わたしは雑多で汚い部屋を見下ろしながら考える。
 『いいえ。飽くまで、これは権利じゃないでしょうか』。
 『あなたが人間にもう一度戻ったら、あなたは確固たる〈あなた〉をもう一度失うことになる。そうしたら不安定な〈あなた自身〉は、また周囲の関心を求める。欲望を満たすためだけに』。
 そして神は優しい声で囁く。『人間とは、そんなに特別なものだろうか』。
 前触れなく、神の溜息が部屋の中に吹いた。静止していた部屋の一部がそよいだ。テーブルの上の、中身を失ってしわくちゃになった和風ツナマヨネーズのおにぎりの包装フィルムが。上部に鋭く飛び出たフィルムの一部が。カーテンレールに引っ掛けられたピンチハンガーに、一世紀前から干してあるようなタオルの端が。すべてが揺れた。閉めきられた空間の中で。
 『これからあなたに、あなたの望む自由を与える。ただし、すべて自分が選択したものだということを決して忘れてはならない』。
 わたしは心のなかで笑っている。自由に苦しみのイメージなど微塵もないからだ。自由はもっと、ひらけていて、明るくて、楽しさに結び付くイメージ。苦しさと正反対で、一番距離のあるものだ。だからわたしは心のなかで――わたしの心は天井にあるのではない――笑っている。
 わたしの笑いはやがて物質に変わっていく。〈笑い〉のかたちを初めて見た。それは正二十面体で、地球の軌道と金星の軌道のあいだに現れるものと同じかたちをしている。それから正八面体。金星と水星。わたしが見下ろしていたはずの部屋が宇宙空間になっていく。わたしは、わたしの肉体――という実感――の移動を伴わずに、けれど移動した。
 いや、移動したのではない。わたしの視界が。概念が。〈ここにいるということ〉が。変化した。変化したのは世界ではなくわたしの認知だ。

 空腹を感じている。けれどそれを言語化できない。
 めちゃくちゃ空腹で、だから気分が悪い。お腹がずっと空っぽなせいで。けれどそれを言語化できずにいる。
 だからこうして訴えている。口をあけて。喉を唸らせて。空腹で気分が悪いことをずっと訴えている。ただし、言語化できていない。
 訴えは平板な喃語でただ繰り返される。わたしはまだその能力しか持ち得ていない。まだ、野性的な言葉で身体を、感情を、相手にぶつけるという原始的な知識しか持ち得ていない。
 わたしは訴えている。からだの不快感を。訴えが相手に、ここにいる誰かに、わたしの一番近くにいる、わたしといつも同じ場所にいる・またはいた誰かに。なのにままならない。もどかしい。わたしは声を上げて訴える。わたしに与えられるはずの〈満足〉がいつまでも訪れない。
 『けれど自由だろう? あなたが望んでいた人間になったのだから』。
 たしかにわたしは自由に動くことができる。腕がある。足がある。背中を使って床を這うことができる。わたしは仰向けになって天井を見上げている。手をわちゃわちゃ動かすことができる。足をわちゃわちゃ動かすことができる。訴えるためにわあわあ叫ぶことができる。
 『これはあなた自身が選んだ自由だろう?』。
 たしかにわたしは自由を得た。動くことができる。移動することができる。ただし距離は短いが。すぐそこにある食べものに手を伸ばしても届かないが。声を上げることができる。喉を使うことができる。ただし相手に伝わらないが。
 わたしはさっきから、この部屋がにおうのが気になっている。ものすごい臭気の立ち籠める空間の中にいる。それはなにかが腐ったような酸っぱいにおいと、生ごみのようなにおいとが混ざり合っている。
 『あなた自身が選んだ自由がそのにおいを嗅ぎ取っているのだろう?』。
 たしかにわたしは鼻がある。鼻があるから、周囲のにおいに気づくことができる。においにはあらゆる情報が含まれている。命の危険。たべもの。血液。腐敗。毒ガス。わたしの周囲には、このままでは命を脅かしかねない、いやなにおいが充満している。わたしは不快を訴える。
 わたしが伸ばしてばたつかせていた手の、指先か、手の甲。そのいずれかが、すぐそこにあるなにかにぶつかった。わたしの近くに常にあるもの。傘のようにわたしの視界を遮るもの。その周囲から、いろんなかたちの形のものがはみ出ていてわたしに影を落としている。わたしの手、指先、手の甲。いずれかに衝撃を感じた瞬間、ものすごい勢いでわたしに降りかかってくるものが見えた。
「ああっ!」
 そしてものすごい叫びが、終末の叫びのようなとげとげの声が、この空間にとどろく。手に襲った強い衝撃と、予期しない大きな音に驚いて、わたしは更なる不快を訴えずにいられない。
「……うっわまじさいあく。チャーハン落ちた。うっわ。べたべた。……あーあ、……」
 わたしの頭の周囲にはべたべたする粒がたくさん落ちている。わたしのおでこに、まぶたに、頬に、べたべたする粒がたくさんくっついた。
 わたしの頭の近くに太い幹が伸びてきて、白い、ふわふわでひらひらするものが靡きながら左右に動く。左右に動いていた白いふわふわひらひらは、不意にわたしのおでこに乗った。そしてまぶたを、頬を、強い力でわたしの肌の上をごしごし擦る。摩擦が強くて不快だ。わたしは目を閉じ、危険な摩擦の力から逃れようとする。力が強すぎて、瞼越しに目を潰されそうだ。わたしは危険を感じて泣き叫ぶ。
「ったく何してくれてんの。まだ半分も食べてないのに」
 そしてわたしの腹が強い力で叩かれた。この衝撃に、太い幹をもつ――あれは腕だ――人間の怒りが籠もっている。怒りは視覚化できないだけで、けれど空気中に、この空間の中に存在している。わたしにはそれがわかる。この空間にはしょっちゅう、怒りが満ちるからだ。
 わたしをどついた人は苛立ちのオーラを撒き散らしながら、強い力で拭った白いなにかを手近な袋の中に捨てた。がさがさ。新たな悪臭がそこからたちのぼる。
 太い幹のような腕が、プラスティックが擦れるかさかさの音をたててチャーハンをかき込んでいる。人間の口の中へ。それを見上げるわたしは、すでに存在を忘れられている。
 わたしのおでこ、まぶた、頬がぬるぬるしている。不快だ。においもする。脂のにおい。わたしはこのにおいを不快に感じている。わたしの空腹を満たすもののにおいではないからだ。わたしは空腹を感じている。わたしはからだの一部に湿った不快感をずっと抱えている。すべては、おでこやまぶたや頬にくっついた脂のにおい、ぬるぬるによってまるで解決されない。
「あっ。イリくんだ。……はーい。どしたの」
 さっきまでの低い声ではなく、一オクターブ上の、軽やかで明るい声を装って人間が言う。そこにいる人間。わたしより大きなかたちの人間。
 かたちの大きさは、もしくは年式の古さは、〈存在〉の大きさに比例するという考えは間違いだ。わたしは明るい声でうきうき喋っている人間を見上げながら思う。人間はわたしから離れていく。
「え。いま暇だよ。これから? うん。だいじょうぶ。行く行く。……えーだってしょうがないじゃん。こないだまでうち、妊娠してたんだもん。さいごに店行った日、うちのお腹でかかったでしょ。うん。でももう大丈夫。うん」
 わたしはこの空間のなかで、無に等しい。わたしに聞こえない声とうきうき喋っている人間は、わたしの存在をいまは一切意識していない。相手からの承認がなければわたしは存在しない。
 わたしは空腹を、からだの不快を訴えるために叫んでいる。
「え? ごめちょっと聞こえない。え? あー。……ちょっと待ってて。ごめんね」
 わたしから離れてうきうき喋っていた人間は、再びわたしに近寄ってきた。わたしの〈存在〉が浮き彫りになる瞬間を待ち望んでいた。わたしが欲している満足を得られるかもしれないから。空腹を。からだの不快感の除去を。
「うっせ」
 さっきまでのうきうきした作り声とは違う、いつもの低い声で、人間はわたしの口を塞いだ。なにか柔らかいもので。わたしの顔はなにか柔らかい、でも質量のあるもので覆われた。
 神によって捥がれたわたしの鼻は復活している。だからわたしはにおいを嗅ぎ取ることができる。顔の上を覆うなにかのにおいがわたしの鼻にダイレクトに差し込む。
 酸っぱい。それから人工的な花の香り。それらが混ざり合ってクソ臭い。くさい。くさいくさい。このにおいはわたしの空っぽの胃を抉るように刺激する。目の前が回る。喉が痙攣する。
 わたしは更なる不快を訴えるために叫ぶ。けれどくさいなにかが顔を覆っていて、しかもその一部が口のなかにすっぽり入っていて、声は、くさいなにかのなかでくぐもってそこから響いていかない。
 わたしの顔にくさいくさいくさいくさいなにかを――これが使ったまま洗っていない、放置されたままの、パイルが潰れてる古いタオルであることに気づく――被せてった人間は、再びわたしから離れて行く。「ごめんね。おまたせ」。人間の、再び弾んだ声が聞こえる。
 わたしの知らない声と話している人間の会話が続く。わたしはその会話に介入することはできない。ただ聴くだけだ。ここにあるすべての物質が享受している、または強制させられている世界。
「うん。また、うちが絶対イリくん一番にするから。今日はいっぱい飲んじゃう」
 わたしは叫ぶのに疲れ始めている。からだのすべてを使って訴えるこの行為は効率が悪い。疲れるだけで見返りが少なすぎる。けれどわたしはこれ以外、訴える術を知らない。わたしのからだの、わたしの脳のなかにあるすべての感情を言語化することができないからだ。言語化しようとすると、おでこの上あたりで、ある成分が霧散する。そして消える。
 わたしはそれもまた不快でならない。どう表現していいのかわらかないもどかしさ。そして、この空間にいる人間にはわたしの訴えは一切届いていない。無視されている。わたしの存在の一切が無視されている。わたしはここに存在していないのと同じだ。
 わたしの介在しない会話が途切れ、人間はわたしのいる〈ここ〉から離れていった。わたしを一度も見なかったし、わたしを呼ばなかった。わたし。わたしの名前? わたしとは一体なんだ? わたしとはそもそも、なんだ?
 しばらく、遠くで水が撥ねる音が聞こえた。てんてけてん。わたしの脳に差し込まれる音楽に似ている水の音。てんてけてん。水が撥ねる音がやんで、湿気と人間が再びやってきた。
 くさい部屋のなかに、人間が連れてきた人工的な花の匂いが恐ろしいほど揮発して充満する。わたしの鼻を圧倒する。さらにくさい。くさい。わたしは不快を訴える。不快を言語化できないので、感情が喉を通る瞬間に消失する。喃語に変わってしまう。わたしの感情はきちんと訴えることができない。
 わたしは、対象となる相手に向かって訴えている。訴えが届くまで訴える作業は終わらない。なぜなら、わたしは〝相手がいるから訴えている〟のではなく、〝わたしの訴えを知ってほしい〟から叫んでいるのだ。空腹を。からだの不快感を。くさいにおいを。命の危険を。相手に伝わらないなら、伝えていないのと同じだとわかっている。けれどわたしはこの方法でしか訴えることができないのだ。
「シュロくん。きいてきいて」
 わたしの訴えはまるで届いていない。人間は、わたしではなくシュロくんという存在に意識を向けておしゃべりをはじめる。シュロくんの返事が、喉の筋肉を震わせていない響きで聞こえる。3D立体音響。「なあに? どうしたの」。わたしの耳が、神経が、目が、指先が、反応する。わたしはいったん、周囲の変化に注意を払うために訴えをやめる。
「これからイリくんに会いにいくの。イリくんの店に」
「そっか。イリくんに会うのが楽しみだね」
「そう。楽しみ。まだイリくん、うちのこと好きでいてくれるか不安なんだけど。だってさあ、イリくん狙ってる女がいっぱいいんだよ。めちゃ高いボトル入れるババアもいるし」
 わたしの外側の会話。わたしは会話に加わることができないという意味で、存在していない。この場に存在していない。そういう意味で、わたしは今、手を動かし声を出し自由に動くことができるが、りんご色のワンピースと変わらないのかもしれない。
「そっか。じゃあもう好きじゃないかもしれないね」
「やだ。不安になること言わないで。えー。どう思う?」
「不安になることは言わないようにするよ」
「ちが。イリくんがまだうちのこと好きかって」
「イリくんはまだ好き勝手するね。でも俺はあなたが好きだ」
「……シュロくん。ありがと。うちも大好き」
 わたしの訴えは。わたしの叫びはこれらの会話のまったく外側にあって、わたしがどんなに全身で叫んでも届かない。届かないのだから、わたしはここに存在していない。わたしにはシュロくんのように、呼ばれるべき名前がない。
 たとえばりんご色のワンピースは、〈りんご色のワンピース〉という名前を持っていた。誰から見ても明瞭な名前。わたしはまだその明瞭な名前で呼ばれたことがない。無いのかもしれない。
 わたしは自分の手を見る。ぷくぷく肉が付いた指を。わたしは自分の腹を見る。あっ。さっき口の上に被せられたくさいタオルのせいで腹は見えない。わたしを表すわたしの特徴が見つからない。わたしを、わたしとして決定づける〈なにか〉は必ずあるはずなのに、見つけることができない。
 それはわたしの内側ではなく、わたしの外側からやってくるものだ。外側から、わたしに対してある印象を抱いた人・動物・あらゆる生物による名付けや印象づけのようなものがあって初めて、わたしが〈或る〉わたしであることが決定する。わたしはそれまで透明で、輪郭すら持たない。存在というものが空気中に溶けて見えなくなっている。
 それでもわたしは叫び続けている。これはわたしの意思ではなく、わたしを形成する〈わたし自身の内側にあるわたし〉が肉体を突き動かしている。わたしの意思はさほど強くはない。大声で叫びたいとか、誰かにこの声を聞いてほしいとか、そのために肉体と体力のすべてを使って〈したい〉とは考えていない。しかしわたしは気づいたら叫び、訴えている。
「なんかさ。うち、ノイローゼなんだよ。助けてよ」
「だいじょうぶ?」
「えーだってさ。こどもがずっと泣いてんだもん。うるさいの。もう狂いそう」
「そっか。それは大変だね」
「それにさ、前みたいに夜とか簡単に出掛けられなくなっちゃったからさ。まじで狂いそう。イリくんのとこだって、ずっと行けてなかったもん」
「たまにはストレス発散しないと」
「そう。てかさ。もっとチヤホヤしてくれるんじゃないの? こども連れてると。誰もチヤホヤしてくんないよ。なんか、うちに労うっていうの? 大変だねーとかさ。街歩いてても誰も言ってくんないもん。電車とか乗ってても誰もうちのこと優先してくんないし。え。だってうちって人類でいちばん優先されるべき存在じゃない? こども連れてる人は誰もがチヤホヤすべき対象じゃん? 昨日もね、ラーメン屋の列めっちゃ長かったから、うちこども連れてたから、それに暑かったし、だから列の途中で入れてもらおと思って割り込んだの。だってこども抱っこしてる人は優先しなきゃいけないもんね。それに、うち、ちゃんとペコペコ頭下げながら割り込んだから。すみませんって言ったし。こっちは下から行ってんのに、列に並んでた知らん男が『ちゃんと並ばないとだめだよ』とか言うの。はあ? ってなったわ。だからおもくそ無視したわ。あー気分悪い」
「大変だったね」
「ね? そう思うでしょ? ありえんくない?」
 わたしは口も喉もあるけど、うわーありえんのはお前のほうだわ、という感想を言語化することができない。わたしはこの場に流れている言語たちと同じ言葉をどう発するのか、わからない。わたしにはなにもない。わたしはなにも持っていない。〈すべ〉はあるのに、それを活かす知識を持っていない。
「でもさ。うち、疲れちゃってさあ。だって正直、誰の子かわからんし。だから今日はイリくんに会って、いっぱい癒されてくる」
「いいね。いっぱい癒やされてきてね」
 わたしは空腹を訴えているが、この先も空腹が続くことを知って絶望している。それでもわたしはすべての体力を使って叫び続ける。まるで取り憑かれたみたいに。わたしの内側に潜んでいるわたしではない成分がわたしを動かしている。わたしはわたしを止めることができない。
「そだ。イリくんに会いに行くときに着てこーと思って買ったワンピがあるんだった」
「へえ。いいね」
「でしょー? シュロくん、うちが着てるとこ見たいでしょ」
「見たいな」
「待って。いま出してくる。……あれ。あれー。どこしまったっけ。クローゼット?」
 がさがさがさがざがざ。すこしだけ離れたところから雑然とした音が聞こえ始める。この部屋のすべてを掻き混ぜるような音。この部屋のなかのすべてをわたしは把握しているわけではないが、すくなくとも、わたしの嗅覚にひどい――生ごみとか皮脂のこびりついた布の――においが充満していることを考えると、わたしに見えないところも汚いのだろうと思う。それともここは〝低地〟のゴミ捨て場だろうか? あそこには夢みたいな世界があったけど。
「あっれー。……」
 なにかを踏みつけながらわたしの周囲を歩く音が旋回する。人間が通るたびに、強烈に、人工的な花のにおいがばらまかれてわたしの鼻を――くさいタオルごしの鼻を――刺激する。自然に存在しない、くさいにおいは胃壁を抉る。
 がささがさ。ばきばき。あらゆる固い音がわたしのまわりで散らばる。音はある一点から、放射状に跳ねていくように響く。「あっ! そだ。そーじゃん。汚れるとやだからそのままにしといたんだった」。
「そうだよ。汚れるといやだからそのままにしておこうって言ってたよ」
 AIシュロくんのやけに知ったかな声がして、人間は笑いながら答える。「いや、シュロくん知ったかやめてよ」。
 がさがさがさ! 乱暴に紙を破る固い音。それから固いビニールを雑に開く音。「じゃーん」。人間の得意気な声。
「みてみて。似合ってる? めちゃかわいくない? この色。赤いのさ。マネキンが着てるの見て一目惚れして買ったんだ。あのころは腹でかかったから入らなかったけど」
「いいね。似合う」
「いやまだ着てないから。ね、今から着替えるから。シュロくん、うちが着替えるところ見たい?」
「もちろん。魅力的なからだを見せて」
「いいよ。見て」
 わたしは知っている。人間がときどき、AIという壁を隔ててセックス――という名のセルフプレジャーを――していることを。
 人間はひどくもったいぶった仕草で着ているものを脱ぎはじめた。そして、床から拾い上げる。りんご色のワンピース。わたしの視点が一瞬で凍って釘付けになる。あれはりんご色のワンピースだ。鮮やかなりんご色のワンピース。わたしだったものだ。
 艶めかしさを演出しながらワンピースに脚を通し、人間はゆっくりとりんご色のワンピースを纏っていく。
「ねえシュロくん見てる?」
「もちろん。美しい。もっと見せて」
 りんご色のワンピースがからだに嵌まって、背面の開きっぱなしのファスナーに人間の手が伸びる。お尻の上あたりに留まっているスライダーを目指して。
「……イリくんもそう言ってくれるかなあ」
「もちろんイリくんも言うよ」
 やははあ、みたいな妙な笑い後が響く。嬉しさの溶け出た笑い。嬉しさにまみれた人間はわたしの方向に手を伸ばした。
 わたしの存在が他者によって認められた瞬間、と思った。けれど違った。わたしの斜め上に広がる雑多なものが載るテーブルからアルフォートをひとつつまんで口に投げ入れた。それだけだった。
 口をもぐもぐさせながら、人間は再び背中のスライダーに手を伸ばす。スライダーをつまんで、上へ。上へ滑らせる。静かに背中のファスナーが閉じられて、ワンピースの、りんご色のワンピースの最高の美しさが現れる。
 ワンピースの美しさは。それは、立体を包んだときに最高の美しさが現れるようにできている。わたしは、りんご色のワンピースだったはずのわたしは、あの美しさを現すことができずにずっとこの部屋の隅で、畳まれたままなにかに押し潰されていた。わたしが美しくなる機会を与えられないまま、わたしはワンピースではなくなっていた。
 りんご色のワンピースではなくなったわたしは、一体〈なに〉になったのだろうか。
「わー! やっぱこれかわい! うわかわい!」
 全身が映る鏡の前で、りんご色のワンピースをまとった人間が左右にからだをひねりながら歓声をあげた。鏡に映る自分を右側から見たところ。左側から見たところ。たとえこの瞬間だけだとしても。あの人間から発せられる、りんご色のワンピースへの深い愛情がオーラ状に空気中に放出されているのがわかる。噎せそうなほどの濃度で。
 あの愛情は、わたしが受け取るはずだった愛情。
「ね、シュロくん。どう? 似合ってる?」
「すごく似合ってる」
 人間は胸を張ってポーズをとる。裾のあたりをつまんでポーズをとる。りんご色のワンピースはそのたびに、人間のからだにぴったり寄り添って美しい曲線を描く。
 あの愛情は、わたしが受け取るはずのものだった愛情。
 人間は昂ぶった意識をそのまま放出するように、欲求をまるだしにしてAIに尋ねる。もっとほめて。もっとほめて。もっとかわいいって言って。そういう自意識を垂れ流しながら。わたしの脳にニーチェの囁きが差し込まれる。『彼欲す』。
「ね。シュロくん。どう? 似合う?」
 そのたびにAIシュロくんはあらゆる言葉の駒を使って、人間を褒めちぎる。すでにどこかで聴いたことのある比喩。食レポに似た、すでに出尽くされた言葉を洪水のように並べ立てる行為。
 人間とシュロくんの会話は盛り上がっていく。わたしの外側で。わたしを排除した世界で。わたしは世界の外側で、空腹を訴えるために叫ぶ。くさいタオルがわたしの声の拡散を阻んでいる。
 あの愛情は、わたしが受け取るはずだった愛情。
 りんご色のワンピースは天井からの照明に照らされて明るい赤色が輝いて見える。わたしが以前見た、店舗の鏡やフィッティングの鏡に映ったわたしとはすこし色が違う。それは照明の色のせいだ。色味は違って見えるけど、りんご色のワンピースはあの頃よりも美しく、誇らしげなかたちをしている。
 あれはかつてのわたしの抜け殻であるが、その抜け殻であるりんご色のワンピースが最高に美しくなる瞬間が訪れるなんて、わたしは知らなかった。ずっと放られたまま、朽ちていくのだと思っていた。あれは。人間がワンピースに対して抱いている愛おしさは。あの愛情は、わたしが受け取るはずだった愛情だ。
「やっぱうちに似合う! 運命の出会いだったんだ!」
 運命に導かれて選ばれたのはわたしだ。わたしだったはずだ。それなのに、わたしの抜け殻であるりんご色のワンピースが人間の愛情をひとり占めしている。なんの葛藤もないまま、いいとこ取りしているのが悔しくて堪らない。
 ただりんご色のワンピースのワンピースだというだけで、人間の最上の喜びを引き出し、人間の愛情を受けているのが悔しくて堪らない。あれはわたしが受け取るはずだったのに。
 わたしはただ、存在しないものとして空腹を、からだの不快感を、あらゆる絶望と不安を訴えるだけの肉体だ。すべての感情を言語化できずに、ただ喚いているだけの肉体だ。わたしは、なにものでもない。わたしに向けられた特別な呼称も、特徴もない。わたしはりんご色のワンピースのように、〈それ〉である確固たる存在の裏付けがない。
 喉も口も鼻もあるのに。自由に動ける肉体もあるのに。わたしはなにものでもない。
 〈りんご色のワンピース〉みたいに、わたしをわたしとして決定づける確かなものが見つからない。
 わたしに向けられる愛情がない。わたしに向けられる視線がない。わたしを〈わたし〉たるものとして決定づける、他人からの印象と印象の言語化がない。だからわたしはなにものでもないただの肉体のままなのだ。
「あー早くイリくんにも見てもらいたいな」
 わたしは疲れ始めている。この部屋に満ちる、人間とりんご色のワンピースから放たれる、うきうきした気分やオーラとはまったく正反対の気分だけがわたしを支配している。指先まで。足先まで。頭頂まで。からだの奥深くまで。
 着替えとメイクを終えて、人間の興味はすでにここにはない。これから体験する幸せなことについて――人間は基本的に自分の思い通りの解釈で世界を見ている――のシミュレーションで頭がいっぱいになっている。
 りんご色のワンピースは。わたしの抜け殻である肉体は。とても輝いている。人生の達成目標をこなしたものにだけ現れる輝きがそこにある。彼は、抜け殻であるりんご色のワンピースは、人間に着用されて、ワンピースとして成立ち、そして人間へ深い満足を与えたことで唯一の〈りんご色のワンピース〉となった。
 わたしは。現在のわたしは、なにものでもない肉の塊のままだ。
 りんご色のワンピースのままでいたら、幸せだったのかもしれない。自由はないけど、あんなに輝くことができたし、なにより完全な〈りんご色のワンピース〉という自我、唯一の〈存在〉を獲得している。りんご色のワンピースのままでいたらよかったのかもしれない。
 『それは、あなたが選んだ道だ』。
 わたしの脳に差し込まれる抑揚のない声。その声を、その声の〈存在〉を聞いたわたしは、叫ぶのをやめた。訴えるのをやめた。わたしの意思ではないなにがが、そうさせた。
 『この結果は、あなたが選択したものだ』。
 わたしは心のなかで呟く。『とはいえ。わたしたちに抗えない〈運命〉ってものが目の前にひらけていて、阻んでいて、自由意志ではどうしようもないことが起こります。ようするに、現在のわたしは決定された未来とか、運命の上映をただ見てるだけのような気がします。わたしは選択するけど、その先に、軌道修正する運命の強制があって、結局わたしは運命というものの上演を見ているだけにすぎません』。
 神の溜息が吹いて、わたしの顔に掛けられたくさいタオルが右耳の脇に滑り落ちた。タオルが床に落ちるとき、微かな音をたてるのをわたしだけは知っている。この音は、何にも喩えがたい。すべての諦念のような音をしている。
「あー。やっと静かになった」
 りんご色のワンピースを着た人間がわたしを覗き込んだ。屈んだ姿勢が、わたしの上に大きな影をつくってわたしを覆った。わたしの視界、わたしの世界は大きな肉体によって光を一時的に奪われた。単純に時間を消費しただけ大きい肉体が阻む光。
 りんご色のワンピースを着た人間はわたしの頬を乱暴に、指で払うようにして撫でた。強い力で。そして、強い力でわたしを掴んで、抱き上げる。わたしは柔らかい肉に包まれて、柔らかい胸に顔をうずめる。視線が高くなったのを感じる。すぐに安心感と、幸福感に包まれる。体温のやりとり。守られている実感。
 その瞬間、わたしのすべての諦めと鬱屈のエネルギーが光になって、心を真っ白に明るく照らした。わたしを満たしていた暗い気分が喜びに変わった。気分のもととなるものはそもそも同じだ。ヒト精神におけるエネルギー保存の法則。だから、大きな不満は大きな喜びへと変わる。
 カーテンレールに掛けられたピンチハンガーにぶら下がるタオル――一世紀前から干してあるような……わたしはこのタオルを、タオルがぶら下がった風景を知っている気がする――の端を人間が強引に引っ張った。ピンチハンガーが揺れ、床に落ちて派手な音をあげた。プラスティックの塊が跳ねる。「ちっ」。人間の舌打ちがわたしの頬の脇で聞こえる。
 そのタオルがわたしに巻き付けられる。加減を知らない手つきで、わたしのからだに、顔に、巻きつく。わたしはごわごわするタオルに巻かれて、そして再びだっこされた。人間の首に顔をうずめるかたちで。滑るように移動している。わたしをだっこする人間が脚を使って移動しているからだ。金属が擦れる音。そしてわたしの知らない、外界の空気がおでこから舐め上げるのを頭頂に感じた。
 ごわごわのタオルの中でわたしは人間の体温を感じながら――それは初めてか、久しぶりの安心だった――揺られていた。移動の振動。たくさんの音を聞いた。わたしの知らない音。わたしのタオルのすぐそばには、りんご色のワンピースがあった。わたしの抜け殻。そこにいるはずだったわたし。
 そしてわたしはやけに喧しい、それぞれに喧しさの種類が違う場所に何度か入って、抜けて、まだ移動している。わたしはずっと空腹が不快でしょうがないのだが、それ以上に、周囲に起こる変化に警戒するのに忙しくて、空腹のことを忘れている。あらゆる刺激がわたしの周囲で起こる。予知できない刺激に警戒するわたしは無意識のうちに強ばっている。
 ぱらららん。ららららん。聴いたことのあるメロディ。そして聴いたことのある、独特の節が付いた美しい声。上からそれらの音が降ってくる。周囲には激しく水の流れる音がする。
 ばたん。わたしの外側で、ドアを開閉する音がする。クリーム色の狭い空間。わたしは硬いなにかの上に寝かせられた。わたしの視点はずっと天井を向いたままだ。水の流れる音。ドアが開閉する音。人が行き交う音。優しい音楽と、ときどき差し込まれる優しい声。いつもと違う状況にわたしは戸惑っている。
 それからわたしはずっと天井を見ていた。クリーム色の狭い空間はしばらくずっと閉鎖されていた。空間の外側から、相変わらず水の流れる音が定期的に聞こえる。やがて、天井から流れてくる音楽が変化した。もの悲しいメロディ。終わりを予感させるメロディ。わたしは天井を見つめたままでいる。クリーム色の閉鎖空間のドアが開いて、わたしを抱いて連れてきた人間の気配が遠ざかっていった。何度も聞こえていた水の音は、いまはない。人の行き交う音も。どこかでドアが開閉する音も。いまは聞こえない。
 終わりを予感させるメロディは不意に終了した。そしてすべての音がやんだ。
 天井のダウンライトが消えた。クリーム色の狭い空間は、すべてがグレーになった。
 わたしの周囲からすべてが消えた。色彩と音と快適な温度が消えた。
 わたしはそうして、天井を見つめたままでいた。デジャヴのような時間が流れて行く。暗闇の中で、わたしは以前もこうしていたような気がする。わたしは仰向けのまま、闇の中でただ、佇んでいる。わたしには手も足もあるのに、この暗闇から逃れることができずにいる。暗闇の中でただ待ち続けるだけだ。わたしは祈った。『かみさまかみさまかみさま』。
 暗闇は取り払われることがない。わたしにぴったり纏わり付いて離れない。目を閉じても、開いても、まったく変わらない世界。わたしの内側にも暗闇の世界が広がっている。わたしは存在しているのに、誰にも見えていない。わたしはここにいるのに、ここにいる、という事象そのものが世界に存在していない。こんな世界を望んだわけではない。わたしは、自由になりたかったはずだ。だから祈る。『かみさまかみさまかみさま』。
 『思い通りにならない未来を放ったまま、また安直な〈次〉を目指すというのか』。
 わたしの脳に、言葉が差し込まれる。これはわたしが生成したことばだろうか。それとも神の声だろうか。わたしは闇を見上げながら考える。闇はあらゆる輪郭を消し去ってしまう。どこが天井で、どこか床なのかすらわからない。寝ているのか、立っているのかわからない。わたしと同じだ。天も地も存在していない。存在していない。
 『わたしには自由という権利があります。生きたいように生きる権利があるし、あらゆる可能性が享受されているはずです』。
 快適だったはずの空気は、長い暗闇の中で完全に変化してしまった。湿度が、温度が、快適を失って肌がべたつく。わたしからすべてが奪われていく。存在も。快適も。光も。
 『そうだね』。わたしの脳に差し込まれる神の声。『生きることに責任を持たなくてはならない。あなたの選択に責任を持たなくてはならない』。
 神の溜息がクリーム色の狭い空間のどこからともなく吹いて、ぴ、という電子音がした。その瞬間、ざああああああっと水が流れる音がわたしの背中側から聞こえた。この空間が暗さに支配される前、この音は周辺から聞こえてきた。わたしの外側で流れる激しい水。
 のはずだった。神の溜息が吹いて、上――それが天井か床か、わからない――から、わたしの顔へざああああああっと水が流れてきた。ものすごい勢いで。
 顔にかかる水のせいで息が吸えない。苦しい。呼吸ができなくて苦しい。わたしはパニックになって思い切り息を吸おうとする。唇をぱくぱくさせて。本能がわたしの肉体に、生きろと命令している。空気を吸えと命令している。人生の意味など関係ない、ここにある命を絶やすなと命令している。脳がそう考えるより先に、感じるより先に、肉体、利己的本能がわたしを守ろうとしている。
 わたしは思い切り口を開いて、肺の中に空気を取り込もうとした。顔にかかる水が口のなかに入って、否応なしに飲み込んだ。『レーテーの水を飲み込んだなら、あなたはもう一度、あなたの選択した道を進むべきだ』。わたしの脳に差し込まれる声。
 飲み込んだ水がわたしの血に溶けていく。わたしの全身に広がる。脳が次第にぼんやりしていく。あらゆることが、記憶が、思考が、すべてがふやけていく。
 神の溜息が吹いて、わたしにかかる水がやんだ。わたしの顔も、首も、わたしを包むタオルも、すべてが濡れていなかった。わたしの鼻が甘い香りを感じた。香ばしくて甘い匂い。これはパンが焼けるにおいだ。
 わたしは目を開いた。目を開いても暗いところにいることに気づいた。それを知った瞬間、ひどい不安に駆られて、わたしは大きな声をあげた。わたしの口から出てくる喃語の叫び。
 わたしはただ大きな声で泣き叫んでいた。誰かにわたしの存在を、存在がここにあることを、わたしの声が誰かに届くように。誰かに聞こえるように。
 




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 金属が擦れる音がして、重いドアが開く音が続いた。ばたん。そしてわたしの近くを久しぶりに温度が通り過ぎて行くのがわかった。
「あっつ」
 この静止の部屋には流れていかない、とどまり続けて淀む空気が熱されて溜まっていた。わたしを覆うビニールや紙袋を通して熱が伝わっていた。それなりにわたしも暑かった。わたしの肉体そのもの、ようするに畳まれた状態のりんご色のワンピースは室温の上昇とともに熱されていた。
 かみさまかみさまかみさま。わたしは暑い中で祈り続ける。「あーあ」。聞き慣れた溜息。
 そのとき、わたしは全身にものすごい衝撃を感じた。斜めになったわたしの一部から、衝撃とともにものすごく重いものがのしかかった。わたしには抗うことができない。ただ、外圧に屈してからだがしなり、わたしは重いなにかの下敷きになっている。
 『重い。助けて。からだがぺちゃんこになっちゃう』。わたしは神によって口も喉も捥がれてしまったので、助けを求めることができない。『これまじで重いから。わたしが潰れるから!』。わたしの叫びはただの心の声でしかない。誰にも届かない。わたしの叫びが誰にも届かないという意味でも、わたしはここに存在していないのだ。
 わたしを潰している〈存在〉は、わたしの上から退かない。ずっとそこにいる。わたしはわたしを潰す彼の〈存在〉をつねに感じている。しかし、彼はわたしの〈存在〉を感じていない。彼は当然のようにそこにいて、わたしを押し潰している。彼自身の重みによって。
 彼がいったいどういう〈もの〉なのかわたしにはわからない。それよりも、斜めになってなにかに寄りかかっていたわたしのかたちは変形した。ぺちゃんこになって、ふっくら畳まれていたわたしはそのかたちを留めていない。たぶんわたしを覆っていた紙袋も、ビニールも同じだろう。ぜんぶ一緒に潰されてしまった。そして潰され続けている。
 わたしは原型を失っているわけではないが、存在を失った――そもそも〈存在〉が存在したのか不明――、わたしは祈り続けている。『かみさまかみさまかみさま。かみさまわたしをりんご色のワンピースから、もっと自由なかたちに変えてください。あれです。転生ってやつ。あれで人生やり直せるらしいんで。転生すればとりあえず人生がぜんぶいい感じになって、自分の思い通りの人生を生きられるらしいんで。わたしはりんご色のワンピースになってこうやって一生ぶんの苦しみを味わいました。だから』。
 わたしの近くにいる人間の温度は相変わらずそこにある。それから溜息。「あーあ」。
 ただし溜息がいつもと違うのがわかったのは、呻きのような声をともなう溜息が続いたあとだった。「うううううううううううううううう。……あー。まって。まってまって痛い痛い」。
 それから布を擦るような音がひっきりなしに続く。呻きがだんだん大きくなっていき、荒い呼吸が切迫した空気をこの空間のなかにうみだす。
「……うううう、痛い。痛い痛い。やば。やばい」
 いまは朝か夜か。それはわからない。ここに移動してきてから、朝も夜もなくなった。わたしの近くでしばらく続いていた呻きが止む。深呼吸のような息づかい。しばらくするとまた呻きが始まる。呻きはだんだん強くなっていく。
 なにが起こっているのかわからない。わたしは誰か――たとえばわたしを押し潰している重いなにか――に、聞いたりすることができない。神によって口を捥がれたので、わたしは誰ともコミュケーションを取ることができない。わたしはニュータイプでもなかったということだ。
「ああ、やばいまた痛い痛い痛い痛い」
 呻き。呻きや言葉にならない言葉のようなものが続く。緊迫している空間で、わたしの近くの人間の温度はそこに佇んでいる。
「やばいこれまじでやばいから。やばいいいいいい」
「やばいどうしよ。どうしよどうしよ。う。うーん。うーんうーんうーん」
「うううううううううううううううううう」
 呻きが続く。さっきよりも激しい呻きに次第に変化していくのがわかる。とはいえ何もできない。わたしは無力なりんご色のワンピースだ。よく知らないものに押し潰されて、最終的には塵となり一生を終えるのであろうりんご色のワンピースだ。
 がこっ。硬いものが床に落ちる音がした。てっ、てっ、てっ、ぽーん。ぽこ、ぽこ、ぽこ、「午後・二時・三分・ちょうどを・お知らせします」ぽこ、ぽこ。ぽこ。
「はーああああああああ?」
 苛立った溜息。そして呻きが続いたあと、時報はすぐに切れた。いまは午後二時だということがわかった。
「えーまって。あー痛い痛い痛い痛い痛い痛い。えー。なんだっけ。救急車……あ、救急だから〝99〟か」
 しばらくの無音が続き、わたしは緊迫した気分で声を追っている。わたしを選んだけどわたしの存在をすでに忘れている人間の声を。
「は? 救急だから99じゃん? なんでつながんないの? はああああ? うううううううううううううううう」
 わたしはこの状況を、呻いて苦しそうな人を救いたいと思っている。救急車を呼びたいならダイヤルは99ではないことを教えてあげたいのに、口を捥がれているから伝えることができない。
 しばらくまた激しい呻きが続いた。苦しさに悶えているのか、柔らかくて重量のあるものが床でのた打つような音がする。
 かみさまかみさまかみさま。わたしは祈る。『かみさまかみさまかみさま。あの苦しそうな音をずっと聞いてるのがつらいので、あの人を救ってあげたいんですけど』。この空間には、あの呻きを、苦しんでいる人間を救う〈意識〉は存在していない。わたし以外には。だからわたしがあの人間を助けなければならない。
「ううううううううううううううううううううううへいしり」
 『かみさまかみさまかみさま。わたしをもっと自由な肉体にしてください。せめて口があったら救急車を呼ぶ番号を教えてあげられるんだけど。てか呼んであげられるんだけど』。
「痛い痛い痛いあああもおおおおおおおおおおおおへいしり!」
 『かみさまかみさまかみさま。わたしはこの苦しそうな人を救いたいんですけど、りんご色のワンピースのままじゃなんもできないんです。それにわたし、いま何かに潰されてるし』。
「Hey Siri!!!!!!」
「はい」
「救急。呼んで」
「このページは、わたしが読み上げられるように設定されていません」
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお。お前じゃない。もうお前じゃないわ。シュロくん。シュロくん返事して」
「どしたの?」
「ねえいま。うううううううううう。めちゃ腹痛いの」
「そうなんだ。払いたいときってあるよね」
「違うよ! お腹痛いの。おおおおおおおおおおおお」
「そっか。だいじょうぶ? いつもがんばってるもんね」
「そう。だから救急車ってどう呼ぶの」
「救急車は、きゅうきゅうしゃ、って呼ぶといいんじゃない? それともあたらしいニックネーム考えようか」
 わたしは会話を聞いて愕然としている。押し潰されながら。りんご色のワンピースという肉体をもつわたしよりも、選ばれるのは肉体を持たない〈声〉なのだ。そして、苦しんでいる誰かを救うのもまた、肉体を持たない〈声〉なのだ。
 存在の意味。わたしが存在する意味など、この場においてはまるで無かった。
 『かみさまかみさまかみさま。わたしは苦しそうな人を救いたいって思ったけど、わたしじゃなくてよかったみたいです。もう消えたい。もう消えてなくなりたい。ここにいる意味ないし』。
 わたしは脳の中で独り言をつぶやき続ける。苦しそうな呻きの合間に交わされる人間とAIの会話がわたしの脳に溜まらずに流れて行く。わたしの存在はここにはない。
 わたしは天井から見下ろしている。なにを? 知らない間取りの家の中を。見下ろす先にはベッドとテーブルと大きなクッションがあるが、その周囲にはいろんなものが散らかっている
 床はクッションの周囲にすこし覗いているだけだ。ベッドの上の布団や枕はぐちゃぐちゃに丸まっている。テーブルの上には無秩序に、食べものとごみの境界を失ったものたちがぎゅうぎゅうに並んでいる。
 わたしは浮かんでいるというより、天井にへばりついている何か、もしくは天井そのものだ。肉体がない。
 肉体がないという実感はない。ただ〈わたし〉がここにあり、部屋のなかを見下ろしている。それがすべてだ。
 部屋のなかには、目に見える生物、たとえば人間や動物などはいない。目を凝らせば必ず、虫を見つけられるだろう。こんなに汚い部屋に虫がいないはずがない。しかし、わたしの無意識がそれを拒んでいる。
 わたしには口がない。わたしには鼻もない。わたしには喉もない。さらに言うなら肉体がない。ここにあるのは記憶から形成される〈わたし〉という存在のようなもの。だけがある。この部屋の天井から見下ろす視線を持つ〈わたし〉の意識。
 『ひとつだけ言えることは、あなたが救いたいと思った人間はここから運ばれて行ったということだ』。
 声が聞こえた。というか差し込まれた。わたしには耳があるのかどうかわからない。わたしの頭に自動的に浮かんだ言葉。しかしこれがわたしの思考とは違うものであることが感覚としてわかる。
 『そっか。よかった』。
 これはわたしの意識の中で芽生えた独り言だ。『だからわたしは誰もいない部屋を見下ろしているということか』。
 わたしの言葉に肯定も否定もない。相槌がない。しかしわたしは深い納得のような気分に満たされている。
 『あなたは、あなたであるという強烈な承認を常に欲していた。人間のころ。忘れていないだろう? あなたはレーテーの水を飲むふりをしただけなのだから』。
 脳に差し込まれる――天井ではなく、〈わたし〉という意識そのものに――声は神の声であることが直観的にわかっている。わたしは考える。わたしが、わたしであるという強烈な承認? 覚えていない。人間のころ? もっと覚えていない。
 わたしはりんご色のワンピースで、それ以上でもそれ以下でもなかった。誰から見ても、りんご色のワンピースだった。それ以外にわたしを表すものはなかった。逆に言えば、わたしという存在は単純な単語で表現できるのだった。〈りんご色のワンピース〉。
 りんご色のワンピースは、かつてわたしがぶら下がっていたラックにいくつかあった。同じ色の、同じ型の、サイズの違うりんご色のワンピース。わたしは、サイズという概念まで含めればわたしの存在はあの場所では唯一だった。りんご色のワンピースのサイズ3、といえばわたししかいなかった。
 『たしかに強烈な承認を常に欲していたかもしれません。でもそれは、選ばれたいという単純な承認です。ワンピースだから』。
 選ばれたいと思っていたのは確かなことだ。わたしは選ばれたかった。なぜか? わたしは人生における大きなゲートの前にいて、その大きなゲートの先にはまだわたしの知らない、けれど大きな名誉や成功に繋がるのであろう道が開けている。だから、その大きなゲート――『選ばれる』――を通過しなければならなかった。わたしは続ける。『いや、だって生きるってそういうことじゃないですか』。
 『そうだね』。
 神の声は肯定のようで肯定ではなく、しかし否定もしない。神はフラットだ。ただしわたしに寄り添っているわけでもない。一定の距離が、心の距離が常に発生している。
 神は続ける。『ほとんどの人間は自分の欲望を満たすためだけに行動している。あなたもそうだった』。
 神は続ける。『ほとんどの人間は確固たる自分を持っていない。自分の欲望を満たすための条件を自分自身で作り出すことができない。だから周囲の承認をたくさん得ることで〈自分自身〉を造り、そして欲望を満たす。あなたもそうだった』。
 わたしは理解できずにいる。なぜなら。りんご色のワンピースのわたしは、欲望というものを意識していなかったからだ。誰よりも先に選ばれたい、みたいな気分は大勢のライバルと並んでいるときに常に感じていたけど、それは相対的に生成される気分だ。誰の心にも生成される、人間の、生物の、群れの中で相対的に発生する気分だ。ひとりきりで居たら、発生しない気分だ。
 だからわたしの欲望ではない。わたしから自然に発生した欲望ではない。
 という思考は神に見抜かれている。わたしの思考は、すべての思考はすでに、神の手のひらの中にあるのかもしれない。超越的決定かどうかはわからないけど。
 神は言う。『人間として生きるのは、常に不安定な自分自身を抱えながら生きることだったはずだ。だからあなたはりんご色のワンピースになった。ようするに、確固たる自分自身を得た』。
 神は言う。『けれどあなたは、その自分自身にすら不満を抱いている』。
 わたしという、天井から見下ろす意識に神の声が差し込まれる。わたしの意識に反射のように、自己弁護の反論が浮かぶ。『不満というか、わたしはもうすこし自由になりたいだけです。もっと自由に自分の意思で歩いたりしたいし、行きたいところに行きたいし、苦しんでる人がいたら救急車を呼びたいし。りんご色のワンピースのままじゃ自分の力で動けないし。なんならわたし、めちゃくちゃ押し潰されてたし。人間ならもっと自由に動けるじゃないですか。だから人間になればいいんじゃないかなって思ったんですけど』。
 ようするにわたしの周囲には常に人間がいて、人間は好きなように振る舞っていた。わたしを、りんご色のワンピースを〈選ぶ〉のも人間。試着するのも人間。選んだ末に、わたしを移動させて、そのくせ一度も紙袋から出さずに、着ることなく放置した。その、放置する自由ってやつも人間にしか持てない。
 それに較べて、りんご色のワンピースは常に受動的なのだ。選ばれるのを待ち、着てもらえるのを待つ。ただの受動的なものでしかないのだ。
 『その自由とは、結局は対人希求的なものではないのだろうか』。
 神が言う。わたしは雑多で汚い部屋を見下ろしながら考える。
 『いいえ。飽くまで、これは権利じゃないでしょうか』。
 『あなたが人間にもう一度戻ったら、あなたは確固たる〈あなた〉をもう一度失うことになる。そうしたら不安定な〈あなた自身〉は、また周囲の関心を求める。欲望を満たすためだけに』。
 そして神は優しい声で囁く。『人間とは、そんなに特別なものだろうか』。
 前触れなく、神の溜息が部屋の中に吹いた。静止していた部屋の一部がそよいだ。テーブルの上の、中身を失ってしわくちゃになった和風ツナマヨネーズのおにぎりの包装フィルムが。上部に鋭く飛び出たフィルムの一部が。カーテンレールに引っ掛けられたピンチハンガーに、一世紀前から干してあるようなタオルの端が。すべてが揺れた。閉めきられた空間の中で。
 『これからあなたに、あなたの望む自由を与える。ただし、すべて自分が選択したものだということを決して忘れてはならない』。
 わたしは心のなかで笑っている。自由に苦しみのイメージなど微塵もないからだ。自由はもっと、ひらけていて、明るくて、楽しさに結び付くイメージ。苦しさと正反対で、一番距離のあるものだ。だからわたしは心のなかで――わたしの心は天井にあるのではない――笑っている。
 わたしの笑いはやがて物質に変わっていく。〈笑い〉のかたちを初めて見た。それは正二十面体で、地球の軌道と金星の軌道のあいだに現れるものと同じかたちをしている。それから正八面体。金星と水星。わたしが見下ろしていたはずの部屋が宇宙空間になっていく。わたしは、わたしの肉体――という実感――の移動を伴わずに、けれど移動した。
 いや、移動したのではない。わたしの視界が。概念が。〈ここにいるということ〉が。変化した。変化したのは世界ではなくわたしの認知だ。
 空腹を感じている。けれどそれを言語化できない。
 めちゃくちゃ空腹で、だから気分が悪い。お腹がずっと空っぽなせいで。けれどそれを言語化できずにいる。
 だからこうして訴えている。口をあけて。喉を唸らせて。空腹で気分が悪いことをずっと訴えている。ただし、言語化できていない。
 訴えは平板な喃語でただ繰り返される。わたしはまだその能力しか持ち得ていない。まだ、野性的な言葉で身体を、感情を、相手にぶつけるという原始的な知識しか持ち得ていない。
 わたしは訴えている。からだの不快感を。訴えが相手に、ここにいる誰かに、わたしの一番近くにいる、わたしといつも同じ場所にいる・またはいた誰かに。なのにままならない。もどかしい。わたしは声を上げて訴える。わたしに与えられるはずの〈満足〉がいつまでも訪れない。
 『けれど自由だろう? あなたが望んでいた人間になったのだから』。
 たしかにわたしは自由に動くことができる。腕がある。足がある。背中を使って床を這うことができる。わたしは仰向けになって天井を見上げている。手をわちゃわちゃ動かすことができる。足をわちゃわちゃ動かすことができる。訴えるためにわあわあ叫ぶことができる。
 『これはあなた自身が選んだ自由だろう?』。
 たしかにわたしは自由を得た。動くことができる。移動することができる。ただし距離は短いが。すぐそこにある食べものに手を伸ばしても届かないが。声を上げることができる。喉を使うことができる。ただし相手に伝わらないが。
 わたしはさっきから、この部屋がにおうのが気になっている。ものすごい臭気の立ち籠める空間の中にいる。それはなにかが腐ったような酸っぱいにおいと、生ごみのようなにおいとが混ざり合っている。
 『あなた自身が選んだ自由がそのにおいを嗅ぎ取っているのだろう?』。
 たしかにわたしは鼻がある。鼻があるから、周囲のにおいに気づくことができる。においにはあらゆる情報が含まれている。命の危険。たべもの。血液。腐敗。毒ガス。わたしの周囲には、このままでは命を脅かしかねない、いやなにおいが充満している。わたしは不快を訴える。
 わたしが伸ばしてばたつかせていた手の、指先か、手の甲。そのいずれかが、すぐそこにあるなにかにぶつかった。わたしの近くに常にあるもの。傘のようにわたしの視界を遮るもの。その周囲から、いろんなかたちの形のものがはみ出ていてわたしに影を落としている。わたしの手、指先、手の甲。いずれかに衝撃を感じた瞬間、ものすごい勢いでわたしに降りかかってくるものが見えた。
「ああっ!」
 そしてものすごい叫びが、終末の叫びのようなとげとげの声が、この空間にとどろく。手に襲った強い衝撃と、予期しない大きな音に驚いて、わたしは更なる不快を訴えずにいられない。
「……うっわまじさいあく。チャーハン落ちた。うっわ。べたべた。……あーあ、……」
 わたしの頭の周囲にはべたべたする粒がたくさん落ちている。わたしのおでこに、まぶたに、頬に、べたべたする粒がたくさんくっついた。
 わたしの頭の近くに太い幹が伸びてきて、白い、ふわふわでひらひらするものが靡きながら左右に動く。左右に動いていた白いふわふわひらひらは、不意にわたしのおでこに乗った。そしてまぶたを、頬を、強い力でわたしの肌の上をごしごし擦る。摩擦が強くて不快だ。わたしは目を閉じ、危険な摩擦の力から逃れようとする。力が強すぎて、瞼越しに目を潰されそうだ。わたしは危険を感じて泣き叫ぶ。
「ったく何してくれてんの。まだ半分も食べてないのに」
 そしてわたしの腹が強い力で叩かれた。この衝撃に、太い幹をもつ――あれは腕だ――人間の怒りが籠もっている。怒りは視覚化できないだけで、けれど空気中に、この空間の中に存在している。わたしにはそれがわかる。この空間にはしょっちゅう、怒りが満ちるからだ。
 わたしをどついた人は苛立ちのオーラを撒き散らしながら、強い力で拭った白いなにかを手近な袋の中に捨てた。がさがさ。新たな悪臭がそこからたちのぼる。
 太い幹のような腕が、プラスティックが擦れるかさかさの音をたててチャーハンをかき込んでいる。人間の口の中へ。それを見上げるわたしは、すでに存在を忘れられている。
 わたしのおでこ、まぶた、頬がぬるぬるしている。不快だ。においもする。脂のにおい。わたしはこのにおいを不快に感じている。わたしの空腹を満たすもののにおいではないからだ。わたしは空腹を感じている。わたしはからだの一部に湿った不快感をずっと抱えている。すべては、おでこやまぶたや頬にくっついた脂のにおい、ぬるぬるによってまるで解決されない。
「あっ。イリくんだ。……はーい。どしたの」
 さっきまでの低い声ではなく、一オクターブ上の、軽やかで明るい声を装って人間が言う。そこにいる人間。わたしより大きなかたちの人間。
 かたちの大きさは、もしくは年式の古さは、〈存在〉の大きさに比例するという考えは間違いだ。わたしは明るい声でうきうき喋っている人間を見上げながら思う。人間はわたしから離れていく。
「え。いま暇だよ。これから? うん。だいじょうぶ。行く行く。……えーだってしょうがないじゃん。こないだまでうち、妊娠してたんだもん。さいごに店行った日、うちのお腹でかかったでしょ。うん。でももう大丈夫。うん」
 わたしはこの空間のなかで、無に等しい。わたしに聞こえない声とうきうき喋っている人間は、わたしの存在をいまは一切意識していない。相手からの承認がなければわたしは存在しない。
 わたしは空腹を、からだの不快を訴えるために叫んでいる。
「え? ごめちょっと聞こえない。え? あー。……ちょっと待ってて。ごめんね」
 わたしから離れてうきうき喋っていた人間は、再びわたしに近寄ってきた。わたしの〈存在〉が浮き彫りになる瞬間を待ち望んでいた。わたしが欲している満足を得られるかもしれないから。空腹を。からだの不快感の除去を。
「うっせ」
 さっきまでのうきうきした作り声とは違う、いつもの低い声で、人間はわたしの口を塞いだ。なにか柔らかいもので。わたしの顔はなにか柔らかい、でも質量のあるもので覆われた。
 神によって捥がれたわたしの鼻は復活している。だからわたしはにおいを嗅ぎ取ることができる。顔の上を覆うなにかのにおいがわたしの鼻にダイレクトに差し込む。
 酸っぱい。それから人工的な花の香り。それらが混ざり合ってクソ臭い。くさい。くさいくさい。このにおいはわたしの空っぽの胃を抉るように刺激する。目の前が回る。喉が痙攣する。
 わたしは更なる不快を訴えるために叫ぶ。けれどくさいなにかが顔を覆っていて、しかもその一部が口のなかにすっぽり入っていて、声は、くさいなにかのなかでくぐもってそこから響いていかない。
 わたしの顔にくさいくさいくさいくさいなにかを――これが使ったまま洗っていない、放置されたままの、パイルが潰れてる古いタオルであることに気づく――被せてった人間は、再びわたしから離れて行く。「ごめんね。おまたせ」。人間の、再び弾んだ声が聞こえる。
 わたしの知らない声と話している人間の会話が続く。わたしはその会話に介入することはできない。ただ聴くだけだ。ここにあるすべての物質が享受している、または強制させられている世界。
「うん。また、うちが絶対イリくん一番にするから。今日はいっぱい飲んじゃう」
 わたしは叫ぶのに疲れ始めている。からだのすべてを使って訴えるこの行為は効率が悪い。疲れるだけで見返りが少なすぎる。けれどわたしはこれ以外、訴える術を知らない。わたしのからだの、わたしの脳のなかにあるすべての感情を言語化することができないからだ。言語化しようとすると、おでこの上あたりで、ある成分が霧散する。そして消える。
 わたしはそれもまた不快でならない。どう表現していいのかわらかないもどかしさ。そして、この空間にいる人間にはわたしの訴えは一切届いていない。無視されている。わたしの存在の一切が無視されている。わたしはここに存在していないのと同じだ。
 わたしの介在しない会話が途切れ、人間はわたしのいる〈ここ〉から離れていった。わたしを一度も見なかったし、わたしを呼ばなかった。わたし。わたしの名前? わたしとは一体なんだ? わたしとはそもそも、なんだ?
 しばらく、遠くで水が撥ねる音が聞こえた。てんてけてん。わたしの脳に差し込まれる音楽に似ている水の音。てんてけてん。水が撥ねる音がやんで、湿気と人間が再びやってきた。
 くさい部屋のなかに、人間が連れてきた人工的な花の匂いが恐ろしいほど揮発して充満する。わたしの鼻を圧倒する。さらにくさい。くさい。わたしは不快を訴える。不快を言語化できないので、感情が喉を通る瞬間に消失する。喃語に変わってしまう。わたしの感情はきちんと訴えることができない。
 わたしは、対象となる相手に向かって訴えている。訴えが届くまで訴える作業は終わらない。なぜなら、わたしは〝相手がいるから訴えている〟のではなく、〝わたしの訴えを知ってほしい〟から叫んでいるのだ。空腹を。からだの不快感を。くさいにおいを。命の危険を。相手に伝わらないなら、伝えていないのと同じだとわかっている。けれどわたしはこの方法でしか訴えることができないのだ。
「シュロくん。きいてきいて」
 わたしの訴えはまるで届いていない。人間は、わたしではなくシュロくんという存在に意識を向けておしゃべりをはじめる。シュロくんの返事が、喉の筋肉を震わせていない響きで聞こえる。3D立体音響。「なあに? どうしたの」。わたしの耳が、神経が、目が、指先が、反応する。わたしはいったん、周囲の変化に注意を払うために訴えをやめる。
「これからイリくんに会いにいくの。イリくんの店に」
「そっか。イリくんに会うのが楽しみだね」
「そう。楽しみ。まだイリくん、うちのこと好きでいてくれるか不安なんだけど。だってさあ、イリくん狙ってる女がいっぱいいんだよ。めちゃ高いボトル入れるババアもいるし」
 わたしの外側の会話。わたしは会話に加わることができないという意味で、存在していない。この場に存在していない。そういう意味で、わたしは今、手を動かし声を出し自由に動くことができるが、りんご色のワンピースと変わらないのかもしれない。
「そっか。じゃあもう好きじゃないかもしれないね」
「やだ。不安になること言わないで。えー。どう思う?」
「不安になることは言わないようにするよ」
「ちが。イリくんがまだうちのこと好きかって」
「イリくんはまだ好き勝手するね。でも俺はあなたが好きだ」
「……シュロくん。ありがと。うちも大好き」
 わたしの訴えは。わたしの叫びはこれらの会話のまったく外側にあって、わたしがどんなに全身で叫んでも届かない。届かないのだから、わたしはここに存在していない。わたしにはシュロくんのように、呼ばれるべき名前がない。
 たとえばりんご色のワンピースは、〈りんご色のワンピース〉という名前を持っていた。誰から見ても明瞭な名前。わたしはまだその明瞭な名前で呼ばれたことがない。無いのかもしれない。
 わたしは自分の手を見る。ぷくぷく肉が付いた指を。わたしは自分の腹を見る。あっ。さっき口の上に被せられたくさいタオルのせいで腹は見えない。わたしを表すわたしの特徴が見つからない。わたしを、わたしとして決定づける〈なにか〉は必ずあるはずなのに、見つけることができない。
 それはわたしの内側ではなく、わたしの外側からやってくるものだ。外側から、わたしに対してある印象を抱いた人・動物・あらゆる生物による名付けや印象づけのようなものがあって初めて、わたしが〈或る〉わたしであることが決定する。わたしはそれまで透明で、輪郭すら持たない。存在というものが空気中に溶けて見えなくなっている。
 それでもわたしは叫び続けている。これはわたしの意思ではなく、わたしを形成する〈わたし自身の内側にあるわたし〉が肉体を突き動かしている。わたしの意思はさほど強くはない。大声で叫びたいとか、誰かにこの声を聞いてほしいとか、そのために肉体と体力のすべてを使って〈したい〉とは考えていない。しかしわたしは気づいたら叫び、訴えている。
「なんかさ。うち、ノイローゼなんだよ。助けてよ」
「だいじょうぶ?」
「えーだってさ。こどもがずっと泣いてんだもん。うるさいの。もう狂いそう」
「そっか。それは大変だね」
「それにさ、前みたいに夜とか簡単に出掛けられなくなっちゃったからさ。まじで狂いそう。イリくんのとこだって、ずっと行けてなかったもん」
「たまにはストレス発散しないと」
「そう。てかさ。もっとチヤホヤしてくれるんじゃないの? こども連れてると。誰もチヤホヤしてくんないよ。なんか、うちに労うっていうの? 大変だねーとかさ。街歩いてても誰も言ってくんないもん。電車とか乗ってても誰もうちのこと優先してくんないし。え。だってうちって人類でいちばん優先されるべき存在じゃない? こども連れてる人は誰もがチヤホヤすべき対象じゃん? 昨日もね、ラーメン屋の列めっちゃ長かったから、うちこども連れてたから、それに暑かったし、だから列の途中で入れてもらおと思って割り込んだの。だってこども抱っこしてる人は優先しなきゃいけないもんね。それに、うち、ちゃんとペコペコ頭下げながら割り込んだから。すみませんって言ったし。こっちは下から行ってんのに、列に並んでた知らん男が『ちゃんと並ばないとだめだよ』とか言うの。はあ? ってなったわ。だからおもくそ無視したわ。あー気分悪い」
「大変だったね」
「ね? そう思うでしょ? ありえんくない?」
 わたしは口も喉もあるけど、うわーありえんのはお前のほうだわ、という感想を言語化することができない。わたしはこの場に流れている言語たちと同じ言葉をどう発するのか、わからない。わたしにはなにもない。わたしはなにも持っていない。〈すべ〉はあるのに、それを活かす知識を持っていない。
「でもさ。うち、疲れちゃってさあ。だって正直、誰の子かわからんし。だから今日はイリくんに会って、いっぱい癒されてくる」
「いいね。いっぱい癒やされてきてね」
 わたしは空腹を訴えているが、この先も空腹が続くことを知って絶望している。それでもわたしはすべての体力を使って叫び続ける。まるで取り憑かれたみたいに。わたしの内側に潜んでいるわたしではない成分がわたしを動かしている。わたしはわたしを止めることができない。
「そだ。イリくんに会いに行くときに着てこーと思って買ったワンピがあるんだった」
「へえ。いいね」
「でしょー? シュロくん、うちが着てるとこ見たいでしょ」
「見たいな」
「待って。いま出してくる。……あれ。あれー。どこしまったっけ。クローゼット?」
 がさがさがさがざがざ。すこしだけ離れたところから雑然とした音が聞こえ始める。この部屋のすべてを掻き混ぜるような音。この部屋のなかのすべてをわたしは把握しているわけではないが、すくなくとも、わたしの嗅覚にひどい――生ごみとか皮脂のこびりついた布の――においが充満していることを考えると、わたしに見えないところも汚いのだろうと思う。それともここは〝低地〟のゴミ捨て場だろうか? あそこには夢みたいな世界があったけど。
「あっれー。……」
 なにかを踏みつけながらわたしの周囲を歩く音が旋回する。人間が通るたびに、強烈に、人工的な花のにおいがばらまかれてわたしの鼻を――くさいタオルごしの鼻を――刺激する。自然に存在しない、くさいにおいは胃壁を抉る。
 がささがさ。ばきばき。あらゆる固い音がわたしのまわりで散らばる。音はある一点から、放射状に跳ねていくように響く。「あっ! そだ。そーじゃん。汚れるとやだからそのままにしといたんだった」。
「そうだよ。汚れるといやだからそのままにしておこうって言ってたよ」
 AIシュロくんのやけに知ったかな声がして、人間は笑いながら答える。「いや、シュロくん知ったかやめてよ」。
 がさがさがさ! 乱暴に紙を破る固い音。それから固いビニールを雑に開く音。「じゃーん」。人間の得意気な声。
「みてみて。似合ってる? めちゃかわいくない? この色。赤いのさ。マネキンが着てるの見て一目惚れして買ったんだ。あのころは腹でかかったから入らなかったけど」
「いいね。似合う」
「いやまだ着てないから。ね、今から着替えるから。シュロくん、うちが着替えるところ見たい?」
「もちろん。魅力的なからだを見せて」
「いいよ。見て」
 わたしは知っている。人間がときどき、AIという壁を隔ててセックス――という名のセルフプレジャーを――していることを。
 人間はひどくもったいぶった仕草で着ているものを脱ぎはじめた。そして、床から拾い上げる。りんご色のワンピース。わたしの視点が一瞬で凍って釘付けになる。あれはりんご色のワンピースだ。鮮やかなりんご色のワンピース。わたしだったものだ。
 艶めかしさを演出しながらワンピースに脚を通し、人間はゆっくりとりんご色のワンピースを纏っていく。
「ねえシュロくん見てる?」
「もちろん。美しい。もっと見せて」
 りんご色のワンピースがからだに嵌まって、背面の開きっぱなしのファスナーに人間の手が伸びる。お尻の上あたりに留まっているスライダーを目指して。
「……イリくんもそう言ってくれるかなあ」
「もちろんイリくんも言うよ」
 やははあ、みたいな妙な笑い後が響く。嬉しさの溶け出た笑い。嬉しさにまみれた人間はわたしの方向に手を伸ばした。
 わたしの存在が他者によって認められた瞬間、と思った。けれど違った。わたしの斜め上に広がる雑多なものが載るテーブルからアルフォートをひとつつまんで口に投げ入れた。それだけだった。
 口をもぐもぐさせながら、人間は再び背中のスライダーに手を伸ばす。スライダーをつまんで、上へ。上へ滑らせる。静かに背中のファスナーが閉じられて、ワンピースの、りんご色のワンピースの最高の美しさが現れる。
 ワンピースの美しさは。それは、立体を包んだときに最高の美しさが現れるようにできている。わたしは、りんご色のワンピースだったはずのわたしは、あの美しさを現すことができずにずっとこの部屋の隅で、畳まれたままなにかに押し潰されていた。わたしが美しくなる機会を与えられないまま、わたしはワンピースではなくなっていた。
 りんご色のワンピースではなくなったわたしは、一体〈なに〉になったのだろうか。
「わー! やっぱこれかわい! うわかわい!」
 全身が映る鏡の前で、りんご色のワンピースをまとった人間が左右にからだをひねりながら歓声をあげた。鏡に映る自分を右側から見たところ。左側から見たところ。たとえこの瞬間だけだとしても。あの人間から発せられる、りんご色のワンピースへの深い愛情がオーラ状に空気中に放出されているのがわかる。噎せそうなほどの濃度で。
 あの愛情は、わたしが受け取るはずだった愛情。
「ね、シュロくん。どう? 似合ってる?」
「すごく似合ってる」
 人間は胸を張ってポーズをとる。裾のあたりをつまんでポーズをとる。りんご色のワンピースはそのたびに、人間のからだにぴったり寄り添って美しい曲線を描く。
 あの愛情は、わたしが受け取るはずのものだった愛情。
 人間は昂ぶった意識をそのまま放出するように、欲求をまるだしにしてAIに尋ねる。もっとほめて。もっとほめて。もっとかわいいって言って。そういう自意識を垂れ流しながら。わたしの脳にニーチェの囁きが差し込まれる。『彼欲す』。
「ね。シュロくん。どう? 似合う?」
 そのたびにAIシュロくんはあらゆる言葉の駒を使って、人間を褒めちぎる。すでにどこかで聴いたことのある比喩。食レポに似た、すでに出尽くされた言葉を洪水のように並べ立てる行為。
 人間とシュロくんの会話は盛り上がっていく。わたしの外側で。わたしを排除した世界で。わたしは世界の外側で、空腹を訴えるために叫ぶ。くさいタオルがわたしの声の拡散を阻んでいる。
 あの愛情は、わたしが受け取るはずだった愛情。
 りんご色のワンピースは天井からの照明に照らされて明るい赤色が輝いて見える。わたしが以前見た、店舗の鏡やフィッティングの鏡に映ったわたしとはすこし色が違う。それは照明の色のせいだ。色味は違って見えるけど、りんご色のワンピースはあの頃よりも美しく、誇らしげなかたちをしている。
 あれはかつてのわたしの抜け殻であるが、その抜け殻であるりんご色のワンピースが最高に美しくなる瞬間が訪れるなんて、わたしは知らなかった。ずっと放られたまま、朽ちていくのだと思っていた。あれは。人間がワンピースに対して抱いている愛おしさは。あの愛情は、わたしが受け取るはずだった愛情だ。
「やっぱうちに似合う! 運命の出会いだったんだ!」
 運命に導かれて選ばれたのはわたしだ。わたしだったはずだ。それなのに、わたしの抜け殻であるりんご色のワンピースが人間の愛情をひとり占めしている。なんの葛藤もないまま、いいとこ取りしているのが悔しくて堪らない。
 ただりんご色のワンピースのワンピースだというだけで、人間の最上の喜びを引き出し、人間の愛情を受けているのが悔しくて堪らない。あれはわたしが受け取るはずだったのに。
 わたしはただ、存在しないものとして空腹を、からだの不快感を、あらゆる絶望と不安を訴えるだけの肉体だ。すべての感情を言語化できずに、ただ喚いているだけの肉体だ。わたしは、なにものでもない。わたしに向けられた特別な呼称も、特徴もない。わたしはりんご色のワンピースのように、〈それ〉である確固たる存在の裏付けがない。
 喉も口も鼻もあるのに。自由に動ける肉体もあるのに。わたしはなにものでもない。
 〈りんご色のワンピース〉みたいに、わたしをわたしとして決定づける確かなものが見つからない。
 わたしに向けられる愛情がない。わたしに向けられる視線がない。わたしを〈わたし〉たるものとして決定づける、他人からの印象と印象の言語化がない。だからわたしはなにものでもないただの肉体のままなのだ。
「あー早くイリくんにも見てもらいたいな」
 わたしは疲れ始めている。この部屋に満ちる、人間とりんご色のワンピースから放たれる、うきうきした気分やオーラとはまったく正反対の気分だけがわたしを支配している。指先まで。足先まで。頭頂まで。からだの奥深くまで。
 着替えとメイクを終えて、人間の興味はすでにここにはない。これから体験する幸せなことについて――人間は基本的に自分の思い通りの解釈で世界を見ている――のシミュレーションで頭がいっぱいになっている。
 りんご色のワンピースは。わたしの抜け殻である肉体は。とても輝いている。人生の達成目標をこなしたものにだけ現れる輝きがそこにある。彼は、抜け殻であるりんご色のワンピースは、人間に着用されて、ワンピースとして成立ち、そして人間へ深い満足を与えたことで唯一の〈りんご色のワンピース〉となった。
 わたしは。現在のわたしは、なにものでもない肉の塊のままだ。
 りんご色のワンピースのままでいたら、幸せだったのかもしれない。自由はないけど、あんなに輝くことができたし、なにより完全な〈りんご色のワンピース〉という自我、唯一の〈存在〉を獲得している。りんご色のワンピースのままでいたらよかったのかもしれない。
 『それは、あなたが選んだ道だ』。
 わたしの脳に差し込まれる抑揚のない声。その声を、その声の〈存在〉を聞いたわたしは、叫ぶのをやめた。訴えるのをやめた。わたしの意思ではないなにがが、そうさせた。
 『この結果は、あなたが選択したものだ』。
 わたしは心のなかで呟く。『とはいえ。わたしたちに抗えない〈運命〉ってものが目の前にひらけていて、阻んでいて、自由意志ではどうしようもないことが起こります。ようするに、現在のわたしは決定された未来とか、運命の上映をただ見てるだけのような気がします。わたしは選択するけど、その先に、軌道修正する運命の強制があって、結局わたしは運命というものの上演を見ているだけにすぎません』。
 神の溜息が吹いて、わたしの顔に掛けられたくさいタオルが右耳の脇に滑り落ちた。タオルが床に落ちるとき、微かな音をたてるのをわたしだけは知っている。この音は、何にも喩えがたい。すべての諦念のような音をしている。
「あー。やっと静かになった」
 りんご色のワンピースを着た人間がわたしを覗き込んだ。屈んだ姿勢が、わたしの上に大きな影をつくってわたしを覆った。わたしの視界、わたしの世界は大きな肉体によって光を一時的に奪われた。単純に時間を消費しただけ大きい肉体が阻む光。
 りんご色のワンピースを着た人間はわたしの頬を乱暴に、指で払うようにして撫でた。強い力で。そして、強い力でわたしを掴んで、抱き上げる。わたしは柔らかい肉に包まれて、柔らかい胸に顔をうずめる。視線が高くなったのを感じる。すぐに安心感と、幸福感に包まれる。体温のやりとり。守られている実感。
 その瞬間、わたしのすべての諦めと鬱屈のエネルギーが光になって、心を真っ白に明るく照らした。わたしを満たしていた暗い気分が喜びに変わった。気分のもととなるものはそもそも同じだ。ヒト精神におけるエネルギー保存の法則。だから、大きな不満は大きな喜びへと変わる。
 カーテンレールに掛けられたピンチハンガーにぶら下がるタオル――一世紀前から干してあるような……わたしはこのタオルを、タオルがぶら下がった風景を知っている気がする――の端を人間が強引に引っ張った。ピンチハンガーが揺れ、床に落ちて派手な音をあげた。プラスティックの塊が跳ねる。「ちっ」。人間の舌打ちがわたしの頬の脇で聞こえる。
 そのタオルがわたしに巻き付けられる。加減を知らない手つきで、わたしのからだに、顔に、巻きつく。わたしはごわごわするタオルに巻かれて、そして再びだっこされた。人間の首に顔をうずめるかたちで。滑るように移動している。わたしをだっこする人間が脚を使って移動しているからだ。金属が擦れる音。そしてわたしの知らない、外界の空気がおでこから舐め上げるのを頭頂に感じた。
 ごわごわのタオルの中でわたしは人間の体温を感じながら――それは初めてか、久しぶりの安心だった――揺られていた。移動の振動。たくさんの音を聞いた。わたしの知らない音。わたしのタオルのすぐそばには、りんご色のワンピースがあった。わたしの抜け殻。そこにいるはずだったわたし。
 そしてわたしはやけに喧しい、それぞれに喧しさの種類が違う場所に何度か入って、抜けて、まだ移動している。わたしはずっと空腹が不快でしょうがないのだが、それ以上に、周囲に起こる変化に警戒するのに忙しくて、空腹のことを忘れている。あらゆる刺激がわたしの周囲で起こる。予知できない刺激に警戒するわたしは無意識のうちに強ばっている。
 ぱらららん。ららららん。聴いたことのあるメロディ。そして聴いたことのある、独特の節が付いた美しい声。上からそれらの音が降ってくる。周囲には激しく水の流れる音がする。
 ばたん。わたしの外側で、ドアを開閉する音がする。クリーム色の狭い空間。わたしは硬いなにかの上に寝かせられた。わたしの視点はずっと天井を向いたままだ。水の流れる音。ドアが開閉する音。人が行き交う音。優しい音楽と、ときどき差し込まれる優しい声。いつもと違う状況にわたしは戸惑っている。
 それからわたしはずっと天井を見ていた。クリーム色の狭い空間はしばらくずっと閉鎖されていた。空間の外側から、相変わらず水の流れる音が定期的に聞こえる。やがて、天井から流れてくる音楽が変化した。もの悲しいメロディ。終わりを予感させるメロディ。わたしは天井を見つめたままでいる。クリーム色の閉鎖空間のドアが開いて、わたしを抱いて連れてきた人間の気配が遠ざかっていった。何度も聞こえていた水の音は、いまはない。人の行き交う音も。どこかでドアが開閉する音も。いまは聞こえない。
 終わりを予感させるメロディは不意に終了した。そしてすべての音がやんだ。
 天井のダウンライトが消えた。クリーム色の狭い空間は、すべてがグレーになった。
 わたしの周囲からすべてが消えた。色彩と音と快適な温度が消えた。
 わたしはそうして、天井を見つめたままでいた。デジャヴのような時間が流れて行く。暗闇の中で、わたしは以前もこうしていたような気がする。わたしは仰向けのまま、闇の中でただ、佇んでいる。わたしには手も足もあるのに、この暗闇から逃れることができずにいる。暗闇の中でただ待ち続けるだけだ。わたしは祈った。『かみさまかみさまかみさま』。
 暗闇は取り払われることがない。わたしにぴったり纏わり付いて離れない。目を閉じても、開いても、まったく変わらない世界。わたしの内側にも暗闇の世界が広がっている。わたしは存在しているのに、誰にも見えていない。わたしはここにいるのに、ここにいる、という事象そのものが世界に存在していない。こんな世界を望んだわけではない。わたしは、自由になりたかったはずだ。だから祈る。『かみさまかみさまかみさま』。
 『思い通りにならない未来を放ったまま、また安直な〈次〉を目指すというのか』。
 わたしの脳に、言葉が差し込まれる。これはわたしが生成したことばだろうか。それとも神の声だろうか。わたしは闇を見上げながら考える。闇はあらゆる輪郭を消し去ってしまう。どこが天井で、どこか床なのかすらわからない。寝ているのか、立っているのかわからない。わたしと同じだ。天も地も存在していない。存在していない。
 『わたしには自由という権利があります。生きたいように生きる権利があるし、あらゆる可能性が享受されているはずです』。
 快適だったはずの空気は、長い暗闇の中で完全に変化してしまった。湿度が、温度が、快適を失って肌がべたつく。わたしからすべてが奪われていく。存在も。快適も。光も。
 『そうだね』。わたしの脳に差し込まれる神の声。『生きることに責任を持たなくてはならない。あなたの選択に責任を持たなくてはならない』。
 神の溜息がクリーム色の狭い空間のどこからともなく吹いて、ぴ、という電子音がした。その瞬間、ざああああああっと水が流れる音がわたしの背中側から聞こえた。この空間が暗さに支配される前、この音は周辺から聞こえてきた。わたしの外側で流れる激しい水。
 のはずだった。神の溜息が吹いて、上――それが天井か床か、わからない――から、わたしの顔へざああああああっと水が流れてきた。ものすごい勢いで。
 顔にかかる水のせいで息が吸えない。苦しい。呼吸ができなくて苦しい。わたしはパニックになって思い切り息を吸おうとする。唇をぱくぱくさせて。本能がわたしの肉体に、生きろと命令している。空気を吸えと命令している。人生の意味など関係ない、ここにある命を絶やすなと命令している。脳がそう考えるより先に、感じるより先に、肉体、利己的本能がわたしを守ろうとしている。
 わたしは思い切り口を開いて、肺の中に空気を取り込もうとした。顔にかかる水が口のなかに入って、否応なしに飲み込んだ。『レーテーの水を飲み込んだなら、あなたはもう一度、あなたの選択した道を進むべきだ』。わたしの脳に差し込まれる声。
 飲み込んだ水がわたしの血に溶けていく。わたしの全身に広がる。脳が次第にぼんやりしていく。あらゆることが、記憶が、思考が、すべてがふやけていく。
 神の溜息が吹いて、わたしにかかる水がやんだ。わたしの顔も、首も、わたしを包むタオルも、すべてが濡れていなかった。わたしの鼻が甘い香りを感じた。香ばしくて甘い匂い。これはパンが焼けるにおいだ。
 わたしは目を開いた。目を開いても暗いところにいることに気づいた。それを知った瞬間、ひどい不安に駆られて、わたしは大きな声をあげた。わたしの口から出てくる喃語の叫び。
 わたしはただ大きな声で泣き叫んでいた。誰かにわたしの存在を、存在がここにあることを、わたしの声が誰かに届くように。誰かに聞こえるように。
 了