1
ー/ー
わたしと誰かと誰かと誰かの集合体。ここにはパーソナルスペースを築く余白がない。ときどき、下から突き上げるような揺れを感じる。揺れのたびに、からだが下方向に引っ張られて全身に負荷がかかる。でもわたしはその不快を訴えることができずにいる。神によって口を捥がれてしまったから。
時間の概念の付随しない記憶。レーテーの水はケロヨンの風呂桶か、酔星ワンカップの空きコップか、いずれかを選んで汲むというので、わたしはレトロなチューリップがプリントされたコップで汲んで飲むふりをした。まわりの誰もがそんなふうで、口に運んだ水を口の脇で零して、胸をびっしょり濡らしたまま「飲みました」と申告するのだ。わたしはそのとき、わざとらしい無垢な表情をつくって「飲みました」と申告した。胸と腹と、右の太腿がびっしゃり濡れていた。見渡せば、誰もが胸や腕や腹を濡らしていた。
神が言うには。それは時間の概念の付随しない次元のできごとだった。ここから離れた、とある過去に――とはいえ、〈現在・いま〉もすでに過去のことだ。感覚が脳に送られ、処理されたのちにようやく〈現在・いま〉を本人が感じることができるのだから――わたしは水を飲むふりをしたあとに裁かれた。神が言うには、わたしは、たいして正しい態度で人生を歩んでいなかった。らしい。
『他罰的な態度』。神は言った。それから『創造を拒んだ受動的態度』。『失敗から常に逃れ続け、身近な人間から失敗しない方法ばかりを学習して上手く立ち回ろうとする、向上心のなさと非創造的態度。努力を嫌い、ただし自分の自尊心を保つために他人の粗を探しては指摘して第三者に吹聴し続けた態度』。神は穏やかな声でそう言った。
それが神から見たわたしで、わたしのような人間は自然界には必要がない。わたしのような生物は、自然から独立して、どの生物よりも偉大であると錯覚している傲慢な生物は淘汰されるのが〈自然である〉という。『資本主義にコミットしているだけで、人間として、自然の一部としてまるで機能していない肉の塊』。神はそう言った。散文的人生におけるBoule de suif。
神はうっすらと穏やかな微笑みを浮かべていた。なにもかもを見透かす目で、わたしの目をしっかりと見つめていた。わたしの目ではなく、わたしの魂のようなものを見つめられている気がした。『それから、利己のために相手を欺く姿勢』。そう言って神の視線がわたしの濡れた胸や腹や太腿に移るのがわかった。神は穏やかだったが、視線の持つ熱量がひどく冷たかった。『あなたへの決定。行きなさい』。穏やかな声はスチールパンの余韻のように美しい。そして音の波は前触れなく途切れた。
うどん生地が細く切り刻まれていくみたいに、大きな刃が時間の概念のない世界をざくっと切って、そこから時間が発生しはじめた。わたしの世界的時間。わたしはアウトレットやショッピングモールの、計画的に無駄をつくった曲がりくねる通路のようなぐねぐねの道路を進んでいた。そう命令されたのではない。すでにその道路を進むことが決まっていて、わたしの意識の中に無意識の決定が入り込んでいたからだ。
複雑にうねる道路の脇には古い商店がびっしり並んでいた。昭和につくられた街並みと軒先。ガラスサッシが閉じられた衣料品店と、自動販売機のない対面式の煙草屋のあいだでわたしはマンホールを踏んだ。
丸いマンホールがその瞬間にグルグル回りだしてわたしはマンホールの上で回転し始めた。そうなることをすでに了承していたかのように、わたしはネジだけの動力で動くレトロ人形の気分でグルグル回っていた。
回転によって変遷する景色はいつのまにか衣料品店の中にあった。
トルソーではなく、まるで蝋を飲んで固まった故人のような、濃い化粧が施された古いマネキンがサッシの向こうの外側――曲がりくねる道路とグルグル回っていたマンホール――へ向けられている。気取った表情とポーズ。青すぎる瞼。僅かに開いたままの口。それから古いハンガーラック。手書きのPOPには特価という文字が並ぶ。ビニールが掛かったままの、ラックにびっしり並ぶ衣料品たち。
「ここは臙脂の店だったわ。ここに昔、店を構えてたわ」
数年前に死んだはずの祖母が、ぎゅうぎゅうにハンガーが掛かったラックとラックのあいだから出てきてそう言った。かつて祖母はこのあたりに住んでいたらしかった。わたしは『臙脂の店』を知らなかったが、祖母に尋ねたりしなかった。疑問に思う、という感覚がわたしの中からすっぽり抜け落ちていた。
次の瞬間。わたしはぎゅうぎゅうにひしめく中にいた。下から突き上げる振動を感じるたびにからだじゅうからカサカサ音がした。
ここは暑い。暑いけど誰もが黙ったまま、カサカサしている。カサカサカサ。カサカサが揺れる音と、下からうねりのような音が聞こえ続けるだけ。これはたぶんディーゼルエンジンの唸りだ。
からだの表面に静電気を帯びていた。カサカサの外側にべったりくっつくカサカサを、静電気が引き寄せ合っていた。愛していないものとくっつきあう行為の精神的苦痛。愛していないものの体温をからだじゅうに感じる生理的嫌悪。わたしは気分が悪かったが、胃からすっぱいものがこみ上げてくるような感覚だけがなかった。もっと言えば、胃からこみ上げてくるものを吐き出す舌がないことに気づいた。
ここは真っ暗だ。真っ暗で、ひどく蒸し暑い。感覚を研ぎ澄ます。光を探す。ここから見えるすべての方角に光の予兆すらない。ただカサカサ音と、埃っぽさと、わたしがぶら下がっているということだけしかわからない。
揺れが止まった。その前により大きな衝撃があった。前後の揺れの衝撃で、わたしのからだが揺れた。ぶら下がっているから。カサカサカサ。
突然差し込んだのはグラスファイバーの束みたいな光だった。それから雑多な音。人の行きかう、せわしなく動く、騒がしさのノイズが伝染するみたいに流れ込んでくる。
衝撃。金属のぶつかる音とともに光が入る。大きな足音が近づいてくる。カサカサ音とともに、わたしに強い圧力がかかった。わたしのからだの前と後ろから。隣のからだが強く押し付けられる。暑い。不快だ。でもわたしは口を捥がれたので不満を訴えることができない。
ガラガラガラガラガラガラ。わたしは再び暗い中を進んでいる。ガラガラガラガラ。かちゃ、という金属の音がして、今までになかった音量の音楽が襲ってきた。それから光。ありえないくらいの光量が、鋭く天井から降ってくる。さっきまでなかった音量の音楽の下を進んでいる。ガラガラガラガラガラ。
わたしと、わたしの周囲の数人はすこし乱暴な感じで移動させられた。かちゃ。かちゃ。かちゃ。かちゃ。わたしが持ち上げられ、そしてわたしを包んでいたカサカサが取り払われた。カサカサが脱げるとき、ダウンライトの光が反射してとてもきらきらした。ダウンライト。そう、ここにあるのは太陽の光ではなく、茶色がかったダウンライトや鋭い光を放つハロゲンばかりだということに初めて気づく。
わたしがぶら下がっていたものが取り換えられたのがわかった。さっきまで幅のない、硬い棒にぶら下がっていたのだが、さっきよりも幅のある、木でできた棒に変わった。
わたしに手を添え、正面を向いたからだにぴったりと沿わせる知らない人。が映る鏡の中。そこでわたしは、わたしを初めて見たのだ。わたしは。わたしは、深い艶をもつチョコレート色のハンガーに掛けられた、りんご色のワンピースだった。神によってわたしはりんご色のワンピースに変えられてしまった。
天井のスピーカーから鳴る音楽が、物質として存在しない音符たちのシャワーがわたしを濡らしていく。わたしの下肢はハンガーを揺らされるたびに力なく揺れる。鏡に映る、わたしに見えている世界が真実ならば、わたしはりんご色のワンピースである。
「じゃ、VPはこれにしよ。替えといて」
わたしの上になにか布が重ねられた。それがなんなのかわからない。重みはまるで感じない。わたしは重さを感じる器官も失ってしまったのかもしれない。
「はい。……え待ってこれ3だ」
わたしの上に積もっていた布がなくなって視界が開け、わたしはすぐに放置された。「2。……あった」。
わたしの周囲が片付いていく。そしてわたしは持ち上げられた。しばらくの浮遊。浮遊するわたしの下肢は進むスピードによって揺らめく。
かたん。わたしはハンガーにぶら下がったまま、ある場所で止まった。腹側にはわたしと同じりんご色のワンピースがぶら下がっている。背中側にはオレンジ色のワンピースがぶら下がっている。どちらも同じ間隔を保っている。
それからわたしは放置された。永遠のように感じる放置のあと、スピーカーから鳴る音楽が物悲しいものに変わり、「また明日のご来店を心よりお待ち申し上げております」のアナウンスが何度か流れ、そして音楽はぷつっと止んでしまった。突然の静寂が現実を取り上げる。
明るすぎる世界の照度が半分以下になって、薄暗くなる。遠くから、音が、声が、聞こえる。小銭がぶつかる音。「伝票そっちにあります?」。ひどく忙しない音。それと反して、近くから聞こえる音はのんびりしている。カサカサをまとめる音。「おつかれさまでした」。そしてわたしは暗闇に放置される。
わたしは放置されている。わたしはただの、ハンガーにぶら下がるだけの肉体だ。とはいえ意思を持つトリステスの塊だ。
夜は完全に真っ暗になる。真っ暗な夜は長い。長い夜をやり過ごすとき、わたしは周囲とコミュニケーションをとることもできず、孤独を常に突きつけられながら過ごすことになる。口を捥がれたから。孤独はいくら消費しても尽きることはない。むしろ、孤独の質量は増えていくばかりだ。
長い夜が終わるのを待っていると、不意にぼんやりとした明かりがつく。そして、足音がどこかから聞こえる。そうして明かりと足音が増えていく。足音はほうぼうに伸びていく。わたしの孤独へ訪れる足音はない。
「この時間、めっちゃいいにおいしますよね。パンの」
「あの階段沿いに地下からにおいが上がってくるんだよ。四時くらいから焼いてんだって」
「四時! 早えー。朝の四時って基本、存在してないですよね。なんていうか。四時に出会ったことないんですけど。寝てるあいだのことなんで、省略されてんじゃないかって思いません?」
わたしから離れたところで会話しているのが聞こえる。あの階段。パンのにおい。四時くらいから。すべてわたしの知らないことばかりだ。ずっとここにいるのに。鼻を捥がれたからにおいがわからない。移動できないから、『あの階段』の場所を知らない。
においさえ感じられたら、時間の目安になるのに。永遠のように感じられる――二十四時間のうちに一度訪れる〝だけ〟のはずの〈夜〉は、絶望のアボガドロ数をはらんだ長さでわたしを苛む――もうすぐ朝だ、という希望を、長すぎる夜の絶望の中で見つけることができるのに。
わたしの近くで明かりがつき、毎朝の物音が聞こえると、この店のスタッフが出勤してきたのがわかる。ようになったのは最近だ。
わたしがぶら下がった下部の床には大きな埃が溜まっている。モーター音が近づく。そしてわたしの下を掃除機のノズルが横切る。長い夜の孤独と静寂は、その瞬間だけ、酷いノイズに変わる。そして掃除機は遠ざかり、余韻だけが残る。
「おはようございます」で始まる、日中に流れるアナウンスとは違う、緊張感のない抑揚の声がスピーカーから流れる。「本日は金曜日です。全体朝礼の日です。一階中央エスカレーター脇にお集まりください」。声の後ろには人が蠢く雑音が紛れ込んでいる。ざわざわざわ。アナウンスはそれだけ告げて途切れる。SEなしで。
わたしの知らない中央エスカレーター。わたしの知らない全体朝礼。わたしに唯一わかるのは、わたしの周辺のできごとだけだ。近視眼的世界。掃除機と、照明の明るさの変化と、人々の会話。音楽とアナウンス。それがすべてだ。
わたしは今日もここで静止している。静止することだけがわたしの人生のすべてだ。ただし、静止は受動的ではない。わたしは私の意思で静止している。セイレーンの歌声に抗って船を進めるのと同じくらい強い意志。
静止しているあいだのわたしは、あふれるほどの自尊心に満ちている。わたしが常に美しい状態でありたい、他人から好意的に見られたいという気分で常に意識を張っている。
薄暗かった周囲が、突然明るくなる。すべての照明が全力でフロアを照らす。世界が白くなる。そして音楽とアナウンスが流れ始める。世界が始まる準備運動のような時間。もうすぐ開店時間であるということを知らせる朝のルーティン。わたしの背筋はこんな切り替えなどなくとも、朝でも夜でもいつでもしゃきっとしている。自尊心に満ちたわたし。
柔らかい鐘の音が鳴る。「開店いたします」。知らない声。でも毎朝聞いているせいで知らない声は知っている声に変わった。わたしにとって、いまは親しみの声でもある。希望・前向き・太陽の光、そういうものを想起させる音の羅列。そしてフロアを過ぎていく足音と、それらに向けて掛けられる挨拶の輪唱。「おはようございます」「いらっしゃいませ」。
冷気が床に溜まる無音のフロアの中で、わたしは自分の役割を見つけた。わたしの役割。それは選ばれることである。わたしの役割。それはここへ訪れる〈誰か〉に気に入られ、〈選ばれる〉ことである。
愛は人間だけに付与された感情ではない。愛は〈命〉のすべてに付与されている。愛し、愛され、あなたを選び、わたしが選ばれるということ。それはりんご色のワンピースであるわたしにも、愛の一部として与えられている。〈選ばれる〉ための愛。の義務。
「いらっしゃいませ」
チャンスは決して多くない。ここに並ぶすべてのアイテムの中から選ばれるのは容易ではない。わたしはここにどれだけのライバルがいるのか、具体的な数値をまったく知らない。ただ、数日ごとに新しいライバルが数点ずつ増えている。そして一日にいくつかのライバルが選ばれ、去って行く。
選ばれるのは。単純な確率や、古いものから押し出されるように選ばれていくようなシステムが出来上がっているわけではない。運が必要だ。気に入ってくれる誰かに見つけてもらうこと。そして一番重要なことをわたしは知った。ここで働くスタッフが気に入っているか否かで、チャンスの数は大きく変わる。
「こちらとかどうですか。いま、正面のVPにも着せてるんですけど」
わたしはスタッフに気に入られている。はじめてここへ運ばれてきたときからそうだ。だから、スタッフはわたしを――わたしと同じ並びのワンピースたちを――客に勧める。いまのように。
「かわいい。この色、私に似合うかなあ」
「えー絶対似合いそう」。そう言ってスタッフはわたしを客の胸に押しつけて、鏡に映す。「ほら。このあいだ買っていただいたジャケットにも合いそうじゃないですか。試着だけでもしてみません?」
「ああ。あのジャケット」
わたしがぶら下がるハンガーが前後に揺らされ、わたしの下肢がぴらぴらはためく。わたしは外界からの力に逆らうことができない。ただじっと待っているだけだ。選ばれるのを待つことしかできない。口を捥がれたから、自らアピールすることはできない。
わたしがもし選ばれたなら。音楽と照明のすべて消えた、闇と無音だけに包まれる孤独の夜に取り残されることがその瞬間からなくなる。ここに取り残され、存在を忘れ去られる長い孤独は過去の記憶になり、やがてわたしから離れて行くだろう。
そしてなにより、りんご色のワンピースとして生を受けた〈意味〉と〈義務〉を果たせる。
ハンガーから外されるわたしは、胸を突き出して、姿勢を正す。深い呼吸を繰り返し、瞑想状態に入る。選ばれるための演出。とはいえわたしは楽観している。そう遠くない未来に、わたしは選ばれると思っている。なぜなら、わたしはスタッフに気に入られていて、チャンスが多いからだ。
「あ、これ3だわ。すみません。いまお持ちします」
ハンガーが外されたわたしはものすごい勢いで、ぺっと什器の上に投げ置かれた。放置。わたしの脇目に、おなじりんご色のワンピースが高速移動していく。かちゃ。そしてフィッティングの中へ消えていく。りんご色のワンピース。カーテンが閉まる音のあと、わたしは再びハンガーに吊るされた。周囲を見渡す。わたしはもとの場所に戻ったようだ。再び、受動的候補の並ぶラックに。
なぜ? なぜなのだろう? わたしはさっきよりも遠くなった会話に耳を澄ます。
「あ、サイズこっちでぴったりですね」
わたしが選ばれなかった理由がなんとなくわかった。わたしは同じラックに並ぶりんご色のワンピースと同じだと思っていたが、違うようだ。サイズが違うという理由でチャンスをつかめなかった。
わたしはわたしのタグを確認したい。左ももにくっついてるタグ。そこには何年のどの季節の製品であるかという品番とかサイズとかお洗濯方法が表示されている。それを見たい。わたしのサイズ。それから、フィッティングの中へ選ばれて行ったサイズを知りたい。まったく同じに見えたはずだ。
そういうことを考えるのと同時に、どうでもいい、という強い虚無感がわたしを襲った。さっきまでわたしに漲っていた自意識の張りのようなものすべてがパーン! と音もなく弾けて、その中からは固まる前のセメントみたいにどろどろして重い虚無感が頭上からずわーっと垂れてきた。そしてわたしを覆った。セメント状の虚無感に厚く覆われて、視界は遮られ、呼吸もできない。肩が重い。めりこむ。ぶらぶらの下肢がわたしの肩を引っ張る。ハンガーがわたしにめり込む。
わたしのサイズが一体なんであろうが、わたしはわたしだ。
わたしはりんご色のワンピースである。ただそれだけだ。
虚無がわたしを諭す。どろどろのセメント虚無に覆われたまま、ただぶら下がる物体になった。待つだけの。チャンスを待つだけのりんご色のワンピース。
わたしは夜の数を数えるのをとっくにやめていた。過ぎていく夜の数を数えなくなったとき、これが自由の一部なのだということに気づいた。過去になっていく夜の数を数えるなんて、わたしは馬鹿げたことをしていた。意味のない行為を真剣に行っていたということに気づけずにいた。意味のない行為に無理やり、意味を見出そうとしていた。
ぱらららん。らららん。セメント虚無に覆われたわたしに、いつものように頭上から音楽が降っている。雨が降ってきたのを知らせる音楽。予算達成の音楽。売り上げが一千万円を超えましたの音楽。どこかのフロアが混雑してますの音楽。不審者がいますの音楽。それから、わたしの知らない情報の詰まったアナウンス。
あれからわたしには何度かチャンスが巡ってきた。フィッティングの中へもぐり込むことができた。すぐに選ばれると高を括っていたのに、フィッティングまでの道のりはひどく長い。
フィッティングの中でわたしは、あらゆる人のからだにぺったりくっついた。ある日は汗だらけの背中にくっついた。ある日はフェイスカバーをしていない、化粧の施された顔にギリギリですれ違った。ある日はフィッティングにもぐりこんだけど着てもらえなかった。
チャンスと痛苦は隣り合わせだった。誰だって、べたべたした他人の肌に触れたくない。誰だって、ファンデーションやチークやアイシャドウをべったりと擦り付けられて汚されたくない。誰だって、あなたに興味ないんだよねという目で一瞥されたくない。
わたしはそのたびに神経をすり減らし、そして傷ついた。選ばれなかったという事実がわたしの自尊心をそのたびに破壊した。破壊の音はりんご色のワンピースの内側で轟音をたてていたが、誰にも聞こえない。心の傷とはそういうものだ。擦過痕すら残らないのに、いつまでも治らない。
絶望を具現化したような長い暗闇と静寂の夜が過ぎ、再び掃除機のモーター音のする朝がやってきて、人工的な明るさに包まれる時間が始まる。絶望はそこでいったん途切れる。明けない夜などないという言葉を、なぜかこの時間に必ず思い出す。
世界が明るくなってからの時間は粘っこい。ひどく粘っこい。まったくわたしのまわりの世界を溶かしていかない。停止し続ける世界と不干渉と退屈の飽和溶液化した時間がわたしの周囲に満ちる。
わたしは今日も明るすぎる照明の下でぶら下がっている。かつて、ピュアな気分で選ばれるためのチャンスをわくわく待っていたピュアなわたしの中に、恐怖心に浸された気分が同居している。選ばれたい。けれどチャンスが巡ってきても、結局はまたこのラックに戻ってきたら。汗っぽい肌に触れなきゃいけなくなったら。わたしが汚されてしまったら。
「いらっしゃいませ」
いつもの声がする。わたしのすぐそばで。わたしはかつてのように背筋を伸ばすことも忘れて――忘れたのではなく、意識的にそうしないのを私は気づきたくない――ぶら下がっている。客との会話が始まるのが聞こえる。いつものように、顔見知り同士の会話ではなく、相手を探るような会話が続く。――こういうお色好きですか? ああなるほど、こういうワンピースをお探しなんですね。スタッフは喋り続けている。
「じゃあこういうのとか。いかがです? こういうお色味はお好きですか?」
スタッフは喋り続ける。
「こっちはラインがとってもきれいなんですよね。高めから広がるので。腰の」
スタッフは喋り続ける。
「こっちのハリ感のある素材は今年の流行ですね」
エントリーされるべくプレゼンされていくライバルたちが、各自の持ち場から巣立っていく。わたしは会話を聞いている。ただぶら下がったままで。ぱらららん。らららん。天井のスピーカーから落ちる音楽と交じり合う会話とを聞き分けながら。
「あの。通路のとこのマネキンが着てたワンピース、あれ見せてもらえませんか」
一方的に話し続けるスタッフのプレゼンの僅かな隙間に、客の声が挟まれたのが聞こえた。
「ああ! あれも人気です。かわいいですよね。こちらです」
かちゃ。そしてわたしは突然ラックから外されて、高速移動した。高速移動しているとき、すべての風景は線状になって見えるわけではないということをわたしは初めて知った。通路を歩く人々と、向かいの売り場のレイアウトは静止画だった。静止画。その次の瞬間にまた静止画。ぱらぱら漫画をゆっくりと一枚ずつ捲るときの視覚認識。静止画と静止画のあいだにうまれる、間違い探しのような差異はわたしには瞬間的にはわからない。
こちらです。そう言って提示されたわたしは脇腹あたりの布を押さえられ、わたしの表面の皺を伸ばすようにして客の前で思い切り美しい態度を強いられる。わたしは思い切り胸を張る。
「あ、これ。これです。こういうかたちだったんですね」
「そうですね。表のVPは上に着せてるんで。襟とかお袖のかたちはこんな感じですね」
わたしは客の顎の下に掲げられ、客のからだにぴったりと合わせられた。鏡に向かって。わたしのすべてが鏡に映る。りんご色のワンピースのわたし。
「お試しになりますか?」
「あ、はい。じゃあこれとこれ。いいですか」
「これも合うと思うんでこっちも試してみてください」
わたしはハンガーから外され、フィッティングへエントリーされた。期待で震えるような初心者の気分は今はない。チャンスが来たという嬉しさはもちろん無いわけではない。それと同量の、〝選ばれなければならない〟という大きなプレッシャー。それから〝選ばれない(再)〟という恐怖がわたしのぬとぬとの気分を生成している。
フィッティングへと集団移動する前に、わたしの背中のファスナーが下ろされた。さあ着てくださいの準備。わたしは腹の中がすうすうする。防火。というラベルのついたクリーム色のカーテンの内側でわたしはプレッシャーと恐怖に塗れている。
わたしの腹の中に見知らぬ人間の足が挿入される。右足。そして左脚。ストッキングは穿いていない。素足。わたしは急峻な誰かのからだの側面を上昇していく。氷壁の上を流れて行く冷たい空気みたいに。そしてわたしの両脇に腕が通る。右腕。そして左腕。湿り気。わたしはすこしだけ仰け反る。体の表面に皺が寄る。
スピーカーから爽やかな雰囲気をまとう日本語ではない曲が流れている。この場の雰囲気、空気づくりのためだけに選ばれた音楽。資本主義が歪ませた〈芸術〉と〈美しさ〉の悲しい末路。作り手の労力と芸術的価値にかかわらず、ぜんぶ一曲二五〇円均一になってしまった音楽。
鏡に映るわたしは。美しく磨かれた鏡に映るわたしは、りんご色のワンピースだ。鏡に映るわたしは美しい。そのすべてが美しく作られているからだ。型。バランス。色。
ただしそれは、完璧な状態でなければ美しさが欠ける。〈美しさ〉とはひどく繊細だ。一ミリ以下のバランスのずれによって、わたしの印象は大きく変わる。
わたしを纏った人は、鏡を見て左右にからだをひねった。右からみたところ。左からみたところ。そのいずれにも、わたしの背中がぴらぴらはためいていた。
背中のシッパーは閉めにくい。フィッティングから出て、外で待っているスタッフに閉めてもらったらいいのに。そしたらわたしの最大限の美しさがこのからだの上で表現されるのに、と思う。
「いかがですかあ」
防火。というラベルがくっついたクリーム色のカーテンの向こうからスタッフが声を掛ける。スタッフは、わたしを纏う人が出ていくのを待っている。
わたしを纏う人はちらっと、クリーム色のカーテンを見遣った。そして再び、鏡に向かって左右にからだをひねる。右からみたところ。左からみたところ。
背中のファスナーが閉まっていないわたし。それはひどく間抜けな姿だった。わたしはファスナーが閉まってはじめて、完全な美しさになるようにできている。
わたしを纏う人は背中に手を伸ばして、ようやく、ファスナーを閉めようとしている。腰から上へ。
しかし、腰から数センチも進まないところでわたしはひどい苦しさに襲われた。ファスナーを上へ引っ張ろうとするたび、わたしの内側から強い圧が掛かる。ぱつっ。わたしを形成する身ごろが引っ張られ、互いを繋ぐ縫製の両腕が伸びている。コーカサスの白墨の輪が、わたしの表面で繰り広げられている。
誇らしさで胸を張ったわけではない。わたしの胸は。腹は。ひどい緊張感がわたしの表面にびっしりと貼り付いている。背中のファスナーを上げる手が力を入れるたびに、わたしはどんどん、はち切れそうになっていく。
わたしを纏う人の脇や背中にうっすらと汗が滲んでいくのがわかった。湿り気。鼻を捥がれていてよかったと思う唯一の瞬間。
わたしを纏う人の指先に力が入っているのがわかる。鏡に映る指が白くなっている。このままでは。わたしは考える。このままでは。このまま無理矢理、ファスナーを閉めたら破けてしまう。破けるとは、形を失うということは、わたしにとって死だ。生きる意味を失うということだ。存在価値を、存在意義を失うということだ。死が目の前に迫っている緊迫感が、フィッティング全体に張りつめている。
「いかがですかあ」
再び、カーテンの向こうから声がする。ファスナーに掛かる圧が途切れる。
それでもわたしはいまにも破れそうな状態が続いている。わたしは最高強度の死の恐怖から逃れられずにいる。鏡に映るわたしの姿は、何度か見た姿とまるで違う。歪んでいる。美しさのすべてが排除されたわたしの姿。絶望に苛まれる。美しさを失うということも、死と同じだ。存在価値の、存在意義の喪失。
鏡が狂っているのだろうかと思ったが違う。それはすぐにわかる。わたしを纏う人のからだと、わたしの大きさがマッチしていないだけだ。
「あ、はい。いい感じです」
わたしを纏う人はカーテンの向こうへ答えて、上向きに力を掛けていたファスナーを下向きへと変えた。
わたしがみるみる弛んでいく。いままでの、緊張感を伴ったからだの張りがなくなっていく。死の恐怖から一時的に解放されたわたしの精神も弛んでいくのを感じる。
「明るいところでご覧になりませんか」
スタッフが提案するとおり、わたしもできればそうしたい。明るいところでよりよく見られたい。選ばれるためにはフィッティングの外側のライティングが必要だ。美しく見えるために計算された照明が必要だ。
「あ。はい。あでももう脱いじゃったんで」
嘘の申告。わたしはまだ、からだにべったり貼り付いている。そのとき、嘘に整合性を持たせるように、わたしはものすごいスピードでからだから剥がされ、肩の支えを失ったわたしは掴まるものがなく、ものすごいスピードで床へ垂直に落ちた。人の脚がわたしを――りんご色の輪っかを――跨ぎ、ハンガーに掛け直すのではなく、傍らの台のようなものに乱暴に置いた。皺だらけのわたしが伸びているようすが鏡に映っていた。ひどく間抜けな、美しさの欠片もない姿だった。
また選ばれなかったのだ。とわたしは思った。気に入らなかったのだ。だからわたしは、いい加減な扱いを受けているのだと思った。
しゃしゃ。小気味よい音とともにクリーム色のカーテンが開く。閉塞と薄暗さに一時的に支配されたフィッティングの中がにわかに明るくなった。わたしはハンガーに掛けられず、適当に、その他の衣類と一緒にぐちゃぐちゃにまとめられてフィッティングを出た。
「おつかれさまでしたあ」
カーテンの向こうから声を掛けていたスタッフが笑顔で迎える。そして、わたしや他の候補を受け取った。個性が違うものが一緒くたになって、ひとつの球体をつくるさまはあらゆる意味で自然だ。意識の集合によってつくられるコミュニティ。波。
この先はいつもの展開だ。やっぱり、思ってたのと違うみたい。わたしはそういう評価を下され、そして選ばれずに、別の候補が次に提案される。多くは後から提案された者たちのほうが選ばれていく。またわたしは、長すぎる孤独の夜を過す日々になるのだろう。
「いかがでした?」
わたしを受け取りながらスタッフが聞く。
「これ買います」
「……サイズはこちらでだいじょうぶでした?」
「はい。だいじょうぶです」
会話とともにわたしがぴらぴら弄ばれる。わたしについて話しているのかもしれない。でもわたしは知っている。サイズが合っていないことを。わたしが破れそうだったことを。ファスナーがぜんぜん閉まらなかったことを。わたしは神によって口を捥がれてしまったので、言うことができない。それに選ばれるチャンスを逃したくないから、たとえ口があっても言わないだろう。「めっちゃ似合ってましたよ」。そういう嘘を言うだろう。
「他もご覧になります?」
そうして、わたしはいつものように什器の上にぺっと投げ出されるか、ハンガーに掛けられて元の位置に戻るか、というパターンを辿らなかった。わたしは今まで運ばれたことのない、カウンターの上に運ばれた。そこで丁寧に畳まれる経験を初めて体験した。
わたしは、いくつものライバルたちの中から唯一、選ばれたのだ。
ふわふわの紙にくるまれ、それから清潔で透明の――わたしが最初に運ばれてきたときに被っていたカサカサカサとは透明度も強度もハリも輝きも厚みもカサカサ音の質も違う、すべてが上質の――ビニールに包まれ、それから紙のにおいのする、皺のない包装紙で覆われたわたしは紙袋に丁寧に入れられた。
わたしはそうして、移動した。選ばれし者たちだけがたどり着ける場所へ行くのだというわくわくが止まらなかった。もう孤独ではない。この先は、愛され続ける時間だけが待っているはずだ。長い移動中、わたしは雑踏の中で揺れながら興奮していた。
金属がぶつかり合う音は苛ついた態度を伴っているようにも聞こえる。ヒステリックで他罰的で他者の一切を排斥する気分が含まれているような音。周囲は静まりかえっている。
ばたん。重たいドアが閉まる音。空間は、時間は、その音とともに分断される。さっきまでの世界と、これからの世界のあいだにくっきりとした線を引く。さらなる静けさだけが支配する世界に変わった。
「あーあ」
そしてわたしが入った紙袋は、弧を描きながら宙に浮いた。かさっ。紙袋の乾いた音とともに、わたしは着地する。不自然な傾きを察知する。わたしはなにかに寄り掛かる格好で、紙袋の中で傾いている。
「あーあ」
人間が動く気配には、ある一定の温度がつきまとっている。わたしは口を捥がれたが、温度を感じ取る感覚と聴覚はある。温度は、なにかを踏みながら歩く音は、わたしのすぐ近くを左右に移動した。そのすべてに「あーあ」がくっついていた。「あーあ」。
これまでの世界とまるで違う世界へ――宇宙へ――わたしは放り込まれたのだ。この世界には、今まで訪れた深い絶望のような長い夜がなかった。ずっと、ずっと同じ世界が続く。ずっと同じ明るさ。ずっと同じノイズ――人間の生活の音――。ずっと同じひとりだけの声。ずっと同じ溜息。「あーあ」。
選ばれた先の世界には昼が存在せず、夜が存在しなかった。だから朝も存在しない。わたしはただ平旦な時間を生きている。傾きの角度すらも変化しない。変化しない地続きの世界を平和と呼ぶのかもしれない。平和とはあらゆる可能性が排除された、死んだようにただ静かに沈んでいる状態をいうのだろうか? 平和と死は正反対にあるように感じるのに。
窮屈だった。手足を伸ばしたい。そもそもわたしは、選ばれたはずだった。選ばれて、愛されて、わたしが美しくいられる状態が続くのだと信じていた。それが、わたしの生きる意味なのだと信じていた。しかし現在のわたしといえば、まだビニールに入ったままで、いまといまといまの連続をただやり過ごしている。「あーあ」。溜息を聞きながら。
いくつもの〈今〉が過ぎた。その間にわたしの感覚の指針となる、夜とか朝がなかったのでどれくらいの時間が経ったのかわからない。わたしの近くでは、人間の放つ気配と温度が何度も往復した。それから、今までハンガーにぶらさがっていたときには一度も聞いたことのないノイズ――安っぽい音質のBGMとただ騒がしいだけの数人の声がリアルではなくスピーカーを通して聞こえる「はいっ。どうもー! 脇腹ケイクスでーす!」――そこには脳を介さない言葉の羅列、大衆的で利己的なおしゃべりだけが続く。あらゆる知識や思想の排除された、ただ刺激だけを求めるための、人生の消費のようなノイズ。
このノイズがないときは、シュロくんと呼ばれるAIとの会話がずっと続く。「おはようシュロくん」。「ねえシュロくん背脂食いたい」。シュロくんの声はスピーカーから優しく吐き出される。「そうだね、せあぶらくいたいっていいよね」。
シュロくんではない声との会話が聞こえることもある。「だっていま飲めないから。うん。ちょっとね。えーでもイリくん会いたいもん。どしたらいい? うん。え。じゃそうする。じゃ、あとで店行くね。ね、今日はぜったい、うちの隣だけにいてね。他のテーブル行かないでね」。
鼻歌。会話が終わると、へたくそな鼻歌が続く。「なに着てこっかな。シュロくん、なに着ていったらいいと思う?」。
「ワンピース買ったんだよね。ワンピースを着ていくといいよ」
そこで窮屈なわたしの、いまといまといま、の平坦な連続に大きな読点が挿入された。わたしのからだがぶるっと震えた。期待。わたしの存在意義を主張できる機会が来た。
「そっか。こないだ買ったやつ」
シュロくんの言うワンピース。わたしを選んだ人の言うこないだ買ったやつ。そこでわたしの期待はさらに高まる。すべてがわたしに繋がっているからだ。わたしはこのあいだ選ばれたワンピースだからだ。
「えーどこだっけ。どこ置いたっけ」
わたしから遠いところで、モノとモノをかき分ける音がする。咄嗟にわたしは声を出して存在を主張したが、口を捥がれたのでなにもできなかった。ここにいることを伝えることができない。
もどかしさがからだに溜まっていくのがわかる。もどかしさは擽りの拷問に似ている。からだの内側を洗車機の回転ブラシが回ってもどかしさから成るちりちりを対流させている。わたしの内側に逃れることのできないちりちりの苦しみが溜まっていく。もどかしい。言いたい。言いたい。ここにいることを伝えたい。
「あれー。まじでどこ?」
モノをかき分ける音は次第にヒステリックになっていく。でもわたしはなにもできない。声を出せないから。ヒステリックな物音が大きくなっていく。苛立ちの成分だけでつくられた動作音。その苛立ちがわたしにも影響する。
「あーったあ。うわ皺。ねえシュロくん皺って踏んでなおるかな」
「アイロンなら分で皺が伸びるよ」
もどかしさを感じていたわたしは、そこで虚無に襲われた。わたし状態はまだ一切変化していないからだ。人間が見つけたのは、わたしとは別の、皺だらけのワンピースだ。
わたしはここでも選ばれることがない。わたしは何のために〈存在〉しているのかと思う。わたしは現在、誰からも認識されていないから存在していない。どこにもない。ここにいるのはわたしだが、わたしはここに存在していない。
ここにいる意味すらない。わたしの意味そのものがない。だったらなぜわたしはここにいるのだろう? なぜ、りんご色のワンピースなのだろう? なぜ、生まれてきたのだろう?
人間の温度が左右するたびにいろんなものを踏む音があった。踏まれている〈もの〉たちのほうが存在がくっきりしている。足の裏に触れることで。「じゃま」そう言われることで。蹴り上げられることで。彼らの存在はその瞬間、注目される。どんなに煙たがられても、彼らが〈存在している〉という意味がそこでうまれる。
わたしにはそれすらない。ただビニールの中で窮屈に縮こまっているわたしは、この世の誰からも忘れられている。
静寂。けれど以前いた場所で味わった完全な静寂とは違う。うっすらと街のノイズが漏れ聞こえる。この部屋のなかは静止している。すべてが静止していて、すべてが忘れられている。忘却たちの墓場。
わたしに意味などない。わたしに生まれてきた理由などない。わたしがりんご色のワンピースである意味などない。わたしがここにいる理由などひとつもない。わたしが存在していた理由もない。
そもそもわたしが存在していたのは、あの瞬間だけだ。フィッティングの中で人間のからだを押し込められて、ファスナーが上がらなかった。あの瞬間だけだ。生の実感があったのは、あの数分だけだった。
あのとき、選ばれなければ。もっと違った人生があったのだろうか。たとえば、毎日わたしが誰か他の人のからだを覆い、美しくりんご色のワンピースの裾を翻すことがあったのだろうか。わたしの〈存在〉をいつだって誇示し続ける、そんな人生があったのだろうか。わたしのポテンシャルが最大に発揮できたときが。あったのだろうか。
そう考えるとやりきれなくなる。シュレディンガーのりんご色のワンピース。わたしは選ばれたが、その後にわたしの価値が腐るのか、腐らないのか、それはフィッティングの中では確定していなかった。
わたしの価値、わたしの存在意義。わたしがワンピースとして〈生きる〉ことができるか、それとも今のように〈死んでいる〉状態になるか。それは、現在のわたしに起こる決定だ。
違う。もうひとつの人生があるなんて、わたしは知らなかったのだ。選ばれた先には、明るくて輝かしい未来だけが存在しているのだと。思い込んでいた。
りんご色のワンピースは。総じてワンピースは。ワンピースとして活用されるのが当然だと思い込んでいたのだ。わたしと一緒に店内でさまざまに並んでいたものたちもきっとそうだろう。〝それ以外の人生があるなんて、思いもしなかった〟。それがすべてだ。
ようするにいまのわたしの状態だ。生温かい静止の部屋の中で、ごみのように捨てられている状態。誰の視界にも留まらず、誰の記憶にも残っていない状態。それがいまのわたしの状態だ。存在しているわけではない。
わたしはりんご色のワンピースであることをひどく恨んでいる。こうした人生を歩んでいることを恨んでいる。もっと自由に生きられたら。もっと、今のわたしよりも自由で、制限のない人生を生きることができたら。
わたしは生温かい、街のノイズがぼんやり聞こえる静止の部屋のなかでずっと呪詛を吐いている。りんご色のワンピースじゃない人生を送りたい。足があれば。ここから自由に、何処へでも行くことができる。鼻があれば。おいしいにおいも危険なにおいも嗅ぎ分けることができる。口があれば。わたしの意思を、わたしの存在を誰かに簡単に伝えることができる。
わたしは神に祈った。もう一度、神との対話の機会を得られるように。レーテ―の水を飲んだふりをしたわたしには、神がわたしに下した審判の瞬間までの対話の記憶が残っている。
『かみさまかみさまかみさま。人間にしてください。りんご色のワンピースという人生を歩んでいても、結局わたしは肉の塊のままです。生温かい静止の部屋で肉の塊のままで捨てられています』。
生温かい静止の部屋で過ごす時間は長かった。わたしを選んだ人は戻ってこなかった。
この部屋には朝がなく夜がない。ただ平旦な時間が、時間の変化を感じることのできない平旦な時間がただ流れていく。あれからどれくらい経ったのかわからないが、わたしは神との対話の機会のためにずっと祈っている。かみさまかみさまかみさま。
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
おすすめ作品を読み込み中です…
この作品と似た作品
似た傾向の作品は見つかりませんでした。
この作品を読んだ人が読んでいる作品
読者の傾向からおすすめできる作品がありませんでした。
おすすめ作品は現在準備中です。
おすすめ作品の取得に失敗しました。時間をおいて再度お試しください。
わたしと誰かと誰かと誰かの集合体。ここにはパーソナルスペースを築く余白がない。ときどき、下から突き上げるような揺れを感じる。揺れのたびに、からだが下方向に引っ張られて全身に負荷がかかる。でもわたしはその不快を訴えることができずにいる。神によって口を捥がれてしまったから。
時間の概念の付随しない記憶。レーテーの水はケロヨンの風呂桶か、酔星ワンカップの空きコップか、いずれかを選んで汲むというので、わたしはレトロなチューリップがプリントされたコップで汲んで飲むふりをした。まわりの誰もがそんなふうで、口に運んだ水を口の脇で零して、胸をびっしょり濡らしたまま「飲みました」と申告するのだ。わたしはそのとき、わざとらしい無垢な表情をつくって「飲みました」と申告した。胸と腹と、右の太腿がびっしゃり濡れていた。見渡せば、誰もが胸や腕や腹を濡らしていた。
神が言うには。それは時間の概念の付随しない次元のできごとだった。ここから離れた、とある過去に――とはいえ、〈現在・いま〉もすでに過去のことだ。感覚が脳に送られ、処理されたのちにようやく〈現在・いま〉を本人が感じることができるのだから――わたしは水を飲むふりをしたあとに裁かれた。神が言うには、わたしは、たいして正しい態度で人生を歩んでいなかった。らしい。
『他罰的な態度』。神は言った。それから『創造を拒んだ受動的態度』。『失敗から常に逃れ続け、身近な人間から失敗しない方法ばかりを学習して上手く立ち回ろうとする、向上心のなさと非創造的態度。努力を嫌い、ただし自分の自尊心を保つために他人の粗を探しては指摘して第三者に吹聴し続けた態度』。神は穏やかな声でそう言った。
それが神から見たわたしで、わたしのような人間は自然界には必要がない。わたしのような生物は、自然から独立して、どの生物よりも偉大であると錯覚している傲慢な生物は淘汰されるのが〈自然である〉という。『資本主義にコミットしているだけで、人間として、自然の一部としてまるで機能していない肉の塊』。神はそう言った。散文的人生におけるBoule de suif。
神はうっすらと穏やかな微笑みを浮かべていた。なにもかもを見透かす目で、わたしの目をしっかりと見つめていた。わたしの目ではなく、わたしの魂のようなものを見つめられている気がした。『それから、利己のために相手を欺く姿勢』。そう言って神の視線がわたしの濡れた胸や腹や太腿に移るのがわかった。神は穏やかだったが、視線の持つ熱量がひどく冷たかった。『あなたへの決定。行きなさい』。穏やかな声はスチールパンの余韻のように美しい。そして音の波は前触れなく途切れた。
うどん生地が細く切り刻まれていくみたいに、大きな刃が時間の概念のない世界をざくっと切って、そこから時間が発生しはじめた。わたしの世界的時間。わたしはアウトレットやショッピングモールの、計画的に無駄をつくった曲がりくねる通路のようなぐねぐねの道路を進んでいた。そう命令されたのではない。すでにその道路を進むことが決まっていて、わたしの意識の中に無意識の決定が入り込んでいたからだ。
複雑にうねる道路の脇には古い商店がびっしり並んでいた。昭和につくられた街並みと軒先。ガラスサッシが閉じられた衣料品店と、自動販売機のない対面式の煙草屋のあいだでわたしはマンホールを踏んだ。
丸いマンホールがその瞬間にグルグル回りだしてわたしはマンホールの上で回転し始めた。そうなることをすでに了承していたかのように、わたしはネジだけの動力で動くレトロ人形の気分でグルグル回っていた。
回転によって変遷する景色はいつのまにか衣料品店の中にあった。
トルソーではなく、まるで蝋を飲んで固まった故人のような、濃い化粧が施された古いマネキンがサッシの向こうの外側――曲がりくねる道路とグルグル回っていたマンホール――へ向けられている。気取った表情とポーズ。青すぎる瞼。僅かに開いたままの口。それから古いハンガーラック。手書きのPOPには特価という文字が並ぶ。ビニールが掛かったままの、ラックにびっしり並ぶ衣料品たち。
「ここは臙脂の店だったわ。ここに昔、店を構えてたわ」
数年前に死んだはずの祖母が、ぎゅうぎゅうにハンガーが掛かったラックとラックのあいだから出てきてそう言った。かつて祖母はこのあたりに住んでいたらしかった。わたしは『臙脂の店』を知らなかったが、祖母に尋ねたりしなかった。疑問に思う、という感覚がわたしの中からすっぽり抜け落ちていた。
次の瞬間。わたしはぎゅうぎゅうにひしめく中にいた。下から突き上げる振動を感じるたびにからだじゅうからカサカサ音がした。
ここは暑い。暑いけど誰もが黙ったまま、カサカサしている。カサカサカサ。カサカサが揺れる音と、下からうねりのような音が聞こえ続けるだけ。これはたぶんディーゼルエンジンの唸りだ。
からだの表面に静電気を帯びていた。カサカサの外側にべったりくっつくカサカサを、静電気が引き寄せ合っていた。愛していないものとくっつきあう行為の精神的苦痛。愛していないものの体温をからだじゅうに感じる生理的嫌悪。わたしは気分が悪かったが、胃からすっぱいものがこみ上げてくるような感覚だけがなかった。もっと言えば、胃からこみ上げてくるものを吐き出す舌がないことに気づいた。
ここは真っ暗だ。真っ暗で、ひどく蒸し暑い。感覚を研ぎ澄ます。光を探す。ここから見えるすべての方角に光の予兆すらない。ただカサカサ音と、埃っぽさと、わたしがぶら下がっているということだけしかわからない。
揺れが止まった。その前により大きな衝撃があった。前後の揺れの衝撃で、わたしのからだが揺れた。ぶら下がっているから。カサカサカサ。
突然差し込んだのはグラスファイバーの束みたいな光だった。それから雑多な音。人の行きかう、せわしなく動く、騒がしさのノイズが伝染するみたいに流れ込んでくる。
衝撃。金属のぶつかる音とともに光が入る。大きな足音が近づいてくる。カサカサ音とともに、わたしに強い圧力がかかった。わたしのからだの前と後ろから。隣のからだが強く押し付けられる。暑い。不快だ。でもわたしは口を捥がれたので不満を訴えることができない。
ガラガラガラガラガラガラ。わたしは再び暗い中を進んでいる。ガラガラガラガラ。かちゃ、という金属の音がして、今までになかった音量の音楽が襲ってきた。それから光。ありえないくらいの光量が、鋭く天井から降ってくる。さっきまでなかった音量の音楽の下を進んでいる。ガラガラガラガラガラ。
わたしと、わたしの周囲の数人はすこし乱暴な感じで移動させられた。かちゃ。かちゃ。かちゃ。かちゃ。わたしが持ち上げられ、そしてわたしを包んでいたカサカサが取り払われた。カサカサが脱げるとき、ダウンライトの光が反射してとてもきらきらした。ダウンライト。そう、ここにあるのは太陽の光ではなく、茶色がかったダウンライトや鋭い光を放つハロゲンばかりだということに初めて気づく。
わたしがぶら下がっていたものが取り換えられたのがわかった。さっきまで幅のない、硬い棒にぶら下がっていたのだが、さっきよりも幅のある、木でできた棒に変わった。
わたしに手を添え、正面を向いたからだにぴったりと沿わせる知らない人。が映る鏡の中。そこでわたしは、わたしを初めて見たのだ。わたしは。わたしは、深い艶をもつチョコレート色のハンガーに掛けられた、りんご色のワンピースだった。神によってわたしはりんご色のワンピースに変えられてしまった。
天井のスピーカーから鳴る音楽が、物質として存在しない音符たちのシャワーがわたしを濡らしていく。わたしの下肢はハンガーを揺らされるたびに力なく揺れる。鏡に映る、わたしに見えている世界が真実ならば、わたしはりんご色のワンピースである。
「じゃ、VPはこれにしよ。替えといて」
わたしの上になにか布が重ねられた。それがなんなのかわからない。重みはまるで感じない。わたしは重さを感じる器官も失ってしまったのかもしれない。
「はい。……え待ってこれ3だ」
わたしの上に積もっていた布がなくなって視界が開け、わたしはすぐに放置された。「2。……あった」。
わたしの周囲が片付いていく。そしてわたしは持ち上げられた。しばらくの浮遊。浮遊するわたしの下肢は進むスピードによって揺らめく。
かたん。わたしはハンガーにぶら下がったまま、ある場所で止まった。腹側にはわたしと同じりんご色のワンピースがぶら下がっている。背中側にはオレンジ色のワンピースがぶら下がっている。どちらも同じ間隔を保っている。
それからわたしは放置された。永遠のように感じる放置のあと、スピーカーから鳴る音楽が物悲しいものに変わり、「また明日のご来店を心よりお待ち申し上げております」のアナウンスが何度か流れ、そして音楽はぷつっと止んでしまった。突然の静寂が現実を取り上げる。
明るすぎる世界の照度が半分以下になって、薄暗くなる。遠くから、音が、声が、聞こえる。小銭がぶつかる音。「伝票そっちにあります?」。ひどく忙しない音。それと反して、近くから聞こえる音はのんびりしている。カサカサをまとめる音。「おつかれさまでした」。そしてわたしは暗闇に放置される。
わたしは放置されている。わたしはただの、ハンガーにぶら下がるだけの肉体だ。とはいえ意思を持つトリステスの塊だ。
夜は完全に真っ暗になる。真っ暗な夜は長い。長い夜をやり過ごすとき、わたしは周囲とコミュニケーションをとることもできず、孤独を常に突きつけられながら過ごすことになる。口を捥がれたから。孤独はいくら消費しても尽きることはない。むしろ、孤独の質量は増えていくばかりだ。
長い夜が終わるのを待っていると、不意にぼんやりとした明かりがつく。そして、足音がどこかから聞こえる。そうして明かりと足音が増えていく。足音はほうぼうに伸びていく。わたしの孤独へ訪れる足音はない。
「この時間、めっちゃいいにおいしますよね。パンの」
「あの階段沿いに地下からにおいが上がってくるんだよ。四時くらいから焼いてんだって」
「四時! 早えー。朝の四時って基本、存在してないですよね。なんていうか。四時に出会ったことないんですけど。寝てるあいだのことなんで、省略されてんじゃないかって思いません?」
わたしから離れたところで会話しているのが聞こえる。あの階段。パンのにおい。四時くらいから。すべてわたしの知らないことばかりだ。ずっとここにいるのに。鼻を捥がれたからにおいがわからない。移動できないから、『あの階段』の場所を知らない。
においさえ感じられたら、時間の目安になるのに。永遠のように感じられる――二十四時間のうちに一度訪れる〝だけ〟のはずの〈夜〉は、絶望のアボガドロ数をはらんだ長さでわたしを苛む――もうすぐ朝だ、という希望を、長すぎる夜の絶望の中で見つけることができるのに。
わたしの近くで明かりがつき、毎朝の物音が聞こえると、この店のスタッフが出勤してきたのがわかる。ようになったのは最近だ。
わたしがぶら下がった下部の床には大きな埃が溜まっている。モーター音が近づく。そしてわたしの下を掃除機のノズルが横切る。長い夜の孤独と静寂は、その瞬間だけ、酷いノイズに変わる。そして掃除機は遠ざかり、余韻だけが残る。
「おはようございます」で始まる、日中に流れるアナウンスとは違う、緊張感のない抑揚の声がスピーカーから流れる。「本日は金曜日です。全体朝礼の日です。一階中央エスカレーター脇にお集まりください」。声の後ろには人が蠢く雑音が紛れ込んでいる。ざわざわざわ。アナウンスはそれだけ告げて途切れる。SEなしで。
わたしの知らない中央エスカレーター。わたしの知らない全体朝礼。わたしに唯一わかるのは、わたしの周辺のできごとだけだ。近視眼的世界。掃除機と、照明の明るさの変化と、人々の会話。音楽とアナウンス。それがすべてだ。
わたしは今日もここで静止している。静止することだけがわたしの人生のすべてだ。ただし、静止は受動的ではない。わたしは私の意思で静止している。セイレーンの歌声に抗って船を進めるのと同じくらい強い意志。
静止しているあいだのわたしは、あふれるほどの自尊心に満ちている。わたしが常に美しい状態でありたい、他人から好意的に見られたいという気分で常に意識を張っている。
薄暗かった周囲が、突然明るくなる。すべての照明が全力でフロアを照らす。世界が白くなる。そして音楽とアナウンスが流れ始める。世界が始まる準備運動のような時間。もうすぐ開店時間であるということを知らせる朝のルーティン。わたしの背筋はこんな切り替えなどなくとも、朝でも夜でもいつでもしゃきっとしている。自尊心に満ちたわたし。
柔らかい鐘の音が鳴る。「開店いたします」。知らない声。でも毎朝聞いているせいで知らない声は知っている声に変わった。わたしにとって、いまは親しみの声でもある。希望・前向き・太陽の光、そういうものを想起させる音の羅列。そしてフロアを過ぎていく足音と、それらに向けて掛けられる挨拶の輪唱。「おはようございます」「いらっしゃいませ」。
冷気が床に溜まる無音のフロアの中で、わたしは自分の役割を見つけた。わたしの役割。それは選ばれることである。わたしの役割。それはここへ訪れる〈誰か〉に気に入られ、〈選ばれる〉ことである。
愛は人間だけに付与された感情ではない。愛は〈命〉のすべてに付与されている。愛し、愛され、あなたを選び、わたしが選ばれるということ。それはりんご色のワンピースであるわたしにも、愛の一部として与えられている。〈選ばれる〉ための愛。の義務。
「いらっしゃいませ」
チャンスは決して多くない。ここに並ぶすべてのアイテムの中から選ばれるのは容易ではない。わたしはここにどれだけのライバルがいるのか、具体的な数値をまったく知らない。ただ、数日ごとに新しいライバルが数点ずつ増えている。そして一日にいくつかのライバルが選ばれ、去って行く。
選ばれるのは。単純な確率や、古いものから押し出されるように選ばれていくようなシステムが出来上がっているわけではない。運が必要だ。気に入ってくれる誰かに見つけてもらうこと。そして一番重要なことをわたしは知った。ここで働くスタッフが気に入っているか否かで、チャンスの数は大きく変わる。
「こちらとかどうですか。いま、正面のVPにも着せてるんですけど」
わたしはスタッフに気に入られている。はじめてここへ運ばれてきたときからそうだ。だから、スタッフはわたしを――わたしと同じ並びのワンピースたちを――客に勧める。いまのように。
「かわいい。この色、私に似合うかなあ」
「えー絶対似合いそう」。そう言ってスタッフはわたしを客の胸に押しつけて、鏡に映す。「ほら。このあいだ買っていただいたジャケットにも合いそうじゃないですか。試着だけでもしてみません?」
「ああ。あのジャケット」
わたしがぶら下がるハンガーが前後に揺らされ、わたしの下肢がぴらぴらはためく。わたしは外界からの力に逆らうことができない。ただじっと待っているだけだ。選ばれるのを待つことしかできない。口を捥がれたから、自らアピールすることはできない。
わたしがもし選ばれたなら。音楽と照明のすべて消えた、闇と無音だけに包まれる孤独の夜に取り残されることがその瞬間からなくなる。ここに取り残され、存在を忘れ去られる長い孤独は過去の記憶になり、やがてわたしから離れて行くだろう。
そしてなにより、りんご色のワンピースとして生を受けた〈意味〉と〈義務〉を果たせる。
ハンガーから外されるわたしは、胸を突き出して、姿勢を正す。深い呼吸を繰り返し、瞑想状態に入る。選ばれるための演出。とはいえわたしは楽観している。そう遠くない未来に、わたしは選ばれると思っている。なぜなら、わたしはスタッフに気に入られていて、チャンスが多いからだ。
「あ、これ3だわ。すみません。いまお持ちします」
ハンガーが外されたわたしはものすごい勢いで、ぺっと什器の上に投げ置かれた。放置。わたしの脇目に、おなじりんご色のワンピースが高速移動していく。かちゃ。そしてフィッティングの中へ消えていく。りんご色のワンピース。カーテンが閉まる音のあと、わたしは再びハンガーに吊るされた。周囲を見渡す。わたしはもとの場所に戻ったようだ。再び、受動的候補の並ぶラックに。
なぜ? なぜなのだろう? わたしはさっきよりも遠くなった会話に耳を澄ます。
「あ、サイズこっちでぴったりですね」
わたしが選ばれなかった理由がなんとなくわかった。わたしは同じラックに並ぶりんご色のワンピースと同じだと思っていたが、違うようだ。サイズが違うという理由でチャンスをつかめなかった。
わたしはわたしのタグを確認したい。左ももにくっついてるタグ。そこには何年のどの季節の製品であるかという品番とかサイズとかお洗濯方法が表示されている。それを見たい。わたしのサイズ。それから、フィッティングの中へ選ばれて行ったサイズを知りたい。まったく同じに見えたはずだ。
そういうことを考えるのと同時に、どうでもいい、という強い虚無感がわたしを襲った。さっきまでわたしに漲っていた自意識の張りのようなものすべてがパーン! と音もなく弾けて、その中からは固まる前のセメントみたいにどろどろして重い虚無感が頭上からずわーっと垂れてきた。そしてわたしを覆った。セメント状の虚無感に厚く覆われて、視界は遮られ、呼吸もできない。肩が重い。めりこむ。ぶらぶらの下肢がわたしの肩を引っ張る。ハンガーがわたしにめり込む。
わたしのサイズが一体なんであろうが、わたしはわたしだ。
わたしはりんご色のワンピースである。ただそれだけだ。
虚無がわたしを諭す。どろどろのセメント虚無に覆われたまま、ただぶら下がる物体になった。待つだけの。チャンスを待つだけのりんご色のワンピース。
わたしは夜の数を数えるのをとっくにやめていた。過ぎていく夜の数を数えなくなったとき、これが自由の一部なのだということに気づいた。過去になっていく夜の数を数えるなんて、わたしは馬鹿げたことをしていた。意味のない行為を真剣に行っていたということに気づけずにいた。意味のない行為に無理やり、意味を見出そうとしていた。
ぱらららん。らららん。セメント虚無に覆われたわたしに、いつものように頭上から音楽が降っている。雨が降ってきたのを知らせる音楽。予算達成の音楽。売り上げが一千万円を超えましたの音楽。どこかのフロアが混雑してますの音楽。不審者がいますの音楽。それから、わたしの知らない情報の詰まったアナウンス。
あれからわたしには何度かチャンスが巡ってきた。フィッティングの中へもぐり込むことができた。すぐに選ばれると高を括っていたのに、フィッティングまでの道のりはひどく長い。
フィッティングの中でわたしは、あらゆる人のからだにぺったりくっついた。ある日は汗だらけの背中にくっついた。ある日はフェイスカバーをしていない、化粧の施された顔にギリギリですれ違った。ある日はフィッティングにもぐりこんだけど着てもらえなかった。
チャンスと痛苦は隣り合わせだった。誰だって、べたべたした他人の肌に触れたくない。誰だって、ファンデーションやチークやアイシャドウをべったりと擦り付けられて汚されたくない。誰だって、あなたに興味ないんだよねという目で一瞥されたくない。
わたしはそのたびに神経をすり減らし、そして傷ついた。選ばれなかったという事実がわたしの自尊心をそのたびに破壊した。破壊の音はりんご色のワンピースの内側で轟音をたてていたが、誰にも聞こえない。心の傷とはそういうものだ。擦過痕すら残らないのに、いつまでも治らない。
絶望を具現化したような長い暗闇と静寂の夜が過ぎ、再び掃除機のモーター音のする朝がやってきて、人工的な明るさに包まれる時間が始まる。絶望はそこでいったん途切れる。明けない夜などないという言葉を、なぜかこの時間に必ず思い出す。
世界が明るくなってからの時間は粘っこい。ひどく粘っこい。まったくわたしのまわりの世界を溶かしていかない。停止し続ける世界と不干渉と退屈の飽和溶液化した時間がわたしの周囲に満ちる。
わたしは今日も明るすぎる照明の下でぶら下がっている。かつて、ピュアな気分で選ばれるためのチャンスをわくわく待っていたピュアなわたしの中に、恐怖心に浸された気分が同居している。選ばれたい。けれどチャンスが巡ってきても、結局はまたこのラックに戻ってきたら。汗っぽい肌に触れなきゃいけなくなったら。わたしが汚されてしまったら。
「いらっしゃいませ」
いつもの声がする。わたしのすぐそばで。わたしはかつてのように背筋を伸ばすことも忘れて――忘れたのではなく、意識的にそうしないのを私は気づきたくない――ぶら下がっている。客との会話が始まるのが聞こえる。いつものように、顔見知り同士の会話ではなく、相手を探るような会話が続く。――こういうお色好きですか? ああなるほど、こういうワンピースをお探しなんですね。スタッフは喋り続けている。
「じゃあこういうのとか。いかがです? こういうお色味はお好きですか?」
スタッフは喋り続ける。
「こっちはラインがとってもきれいなんですよね。高めから広がるので。腰の」
スタッフは喋り続ける。
「こっちのハリ感のある素材は今年の流行ですね」
エントリーされるべくプレゼンされていくライバルたちが、各自の持ち場から巣立っていく。わたしは会話を聞いている。ただぶら下がったままで。ぱらららん。らららん。天井のスピーカーから落ちる音楽と交じり合う会話とを聞き分けながら。
「あの。通路のとこのマネキンが着てたワンピース、あれ見せてもらえませんか」
一方的に話し続けるスタッフのプレゼンの僅かな隙間に、客の声が挟まれたのが聞こえた。
「ああ! あれも人気です。かわいいですよね。こちらです」
かちゃ。そしてわたしは突然ラックから外されて、高速移動した。高速移動しているとき、すべての風景は線状になって見えるわけではないということをわたしは初めて知った。通路を歩く人々と、向かいの売り場のレイアウトは静止画だった。静止画。その次の瞬間にまた静止画。ぱらぱら漫画をゆっくりと一枚ずつ捲るときの視覚認識。静止画と静止画のあいだにうまれる、間違い探しのような差異はわたしには瞬間的にはわからない。
こちらです。そう言って提示されたわたしは脇腹あたりの布を押さえられ、わたしの表面の皺を伸ばすようにして客の前で思い切り美しい態度を強いられる。わたしは思い切り胸を張る。
「あ、これ。これです。こういうかたちだったんですね」
「そうですね。表のVPは上に着せてるんで。襟とかお袖のかたちはこんな感じですね」
わたしは客の顎の下に掲げられ、客のからだにぴったりと合わせられた。鏡に向かって。わたしのすべてが鏡に映る。りんご色のワンピースのわたし。
「お試しになりますか?」
「あ、はい。じゃあこれとこれ。いいですか」
「これも合うと思うんでこっちも試してみてください」
わたしはハンガーから外され、フィッティングへエントリーされた。期待で震えるような初心者の気分は今はない。チャンスが来たという嬉しさはもちろん無いわけではない。それと同量の、〝選ばれなければならない〟という大きなプレッシャー。それから〝選ばれない(再)〟という恐怖がわたしのぬとぬとの気分を生成している。
フィッティングへと集団移動する前に、わたしの背中のファスナーが下ろされた。さあ着てくださいの準備。わたしは腹の中がすうすうする。防火。というラベルのついたクリーム色のカーテンの内側でわたしはプレッシャーと恐怖に塗れている。
わたしの腹の中に見知らぬ人間の足が挿入される。右足。そして左脚。ストッキングは穿いていない。素足。わたしは急峻な誰かのからだの側面を上昇していく。氷壁の上を流れて行く冷たい空気みたいに。そしてわたしの両脇に腕が通る。右腕。そして左腕。湿り気。わたしはすこしだけ仰け反る。体の表面に皺が寄る。
スピーカーから爽やかな雰囲気をまとう日本語ではない曲が流れている。この場の雰囲気、空気づくりのためだけに選ばれた音楽。資本主義が歪ませた〈芸術〉と〈美しさ〉の悲しい末路。作り手の労力と芸術的価値にかかわらず、ぜんぶ一曲二五〇円均一になってしまった音楽。
鏡に映るわたしは。美しく磨かれた鏡に映るわたしは、りんご色のワンピースだ。鏡に映るわたしは美しい。そのすべてが美しく作られているからだ。型。バランス。色。
ただしそれは、完璧な状態でなければ美しさが欠ける。〈美しさ〉とはひどく繊細だ。一ミリ以下のバランスのずれによって、わたしの印象は大きく変わる。
わたしを纏った人は、鏡を見て左右にからだをひねった。右からみたところ。左からみたところ。そのいずれにも、わたしの背中がぴらぴらはためいていた。
背中のシッパーは閉めにくい。フィッティングから出て、外で待っているスタッフに閉めてもらったらいいのに。そしたらわたしの最大限の美しさがこのからだの上で表現されるのに、と思う。
「いかがですかあ」
防火。というラベルがくっついたクリーム色のカーテンの向こうからスタッフが声を掛ける。スタッフは、わたしを纏う人が出ていくのを待っている。
わたしを纏う人はちらっと、クリーム色のカーテンを見遣った。そして再び、鏡に向かって左右にからだをひねる。右からみたところ。左からみたところ。
背中のファスナーが閉まっていないわたし。それはひどく間抜けな姿だった。わたしはファスナーが閉まってはじめて、完全な美しさになるようにできている。
わたしを纏う人は背中に手を伸ばして、ようやく、ファスナーを閉めようとしている。腰から上へ。
しかし、腰から数センチも進まないところでわたしはひどい苦しさに襲われた。ファスナーを上へ引っ張ろうとするたび、わたしの内側から強い圧が掛かる。ぱつっ。わたしを形成する身ごろが引っ張られ、互いを繋ぐ縫製の両腕が伸びている。コーカサスの白墨の輪が、わたしの表面で繰り広げられている。
誇らしさで胸を張ったわけではない。わたしの胸は。腹は。ひどい緊張感がわたしの表面にびっしりと貼り付いている。背中のファスナーを上げる手が力を入れるたびに、わたしはどんどん、はち切れそうになっていく。
わたしを纏う人の脇や背中にうっすらと汗が滲んでいくのがわかった。湿り気。鼻を捥がれていてよかったと思う唯一の瞬間。
わたしを纏う人の指先に力が入っているのがわかる。鏡に映る指が白くなっている。このままでは。わたしは考える。このままでは。このまま無理矢理、ファスナーを閉めたら破けてしまう。破けるとは、形を失うということは、わたしにとって死だ。生きる意味を失うということだ。存在価値を、存在意義を失うということだ。死が目の前に迫っている緊迫感が、フィッティング全体に張りつめている。
「いかがですかあ」
再び、カーテンの向こうから声がする。ファスナーに掛かる圧が途切れる。
それでもわたしはいまにも破れそうな状態が続いている。わたしは最高強度の死の恐怖から逃れられずにいる。鏡に映るわたしの姿は、何度か見た姿とまるで違う。歪んでいる。美しさのすべてが排除されたわたしの姿。絶望に苛まれる。美しさを失うということも、死と同じだ。存在価値の、存在意義の喪失。
鏡が狂っているのだろうかと思ったが違う。それはすぐにわかる。わたしを纏う人のからだと、わたしの大きさがマッチしていないだけだ。
「あ、はい。いい感じです」
わたしを纏う人はカーテンの向こうへ答えて、上向きに力を掛けていたファスナーを下向きへと変えた。
わたしがみるみる弛んでいく。いままでの、緊張感を伴ったからだの張りがなくなっていく。死の恐怖から一時的に解放されたわたしの精神も弛んでいくのを感じる。
「明るいところでご覧になりませんか」
スタッフが提案するとおり、わたしもできればそうしたい。明るいところでよりよく見られたい。選ばれるためにはフィッティングの外側のライティングが必要だ。美しく見えるために計算された照明が必要だ。
「あ。はい。あでももう脱いじゃったんで」
嘘の申告。わたしはまだ、からだにべったり貼り付いている。そのとき、嘘に整合性を持たせるように、わたしはものすごいスピードでからだから剥がされ、肩の支えを失ったわたしは掴まるものがなく、ものすごいスピードで床へ垂直に落ちた。人の脚がわたしを――りんご色の輪っかを――跨ぎ、ハンガーに掛け直すのではなく、傍らの台のようなものに乱暴に置いた。皺だらけのわたしが伸びているようすが鏡に映っていた。ひどく間抜けな、美しさの欠片もない姿だった。
また選ばれなかったのだ。とわたしは思った。気に入らなかったのだ。だからわたしは、いい加減な扱いを受けているのだと思った。
しゃしゃ。小気味よい音とともにクリーム色のカーテンが開く。閉塞と薄暗さに一時的に支配されたフィッティングの中がにわかに明るくなった。わたしはハンガーに掛けられず、適当に、その他の衣類と一緒にぐちゃぐちゃにまとめられてフィッティングを出た。
「おつかれさまでしたあ」
カーテンの向こうから声を掛けていたスタッフが笑顔で迎える。そして、わたしや他の候補を受け取った。個性が違うものが一緒くたになって、ひとつの球体をつくるさまはあらゆる意味で自然だ。意識の集合によってつくられるコミュニティ。波。
この先はいつもの展開だ。やっぱり、思ってたのと違うみたい。わたしはそういう評価を下され、そして選ばれずに、別の候補が次に提案される。多くは後から提案された者たちのほうが選ばれていく。またわたしは、長すぎる孤独の夜を過す日々になるのだろう。
「いかがでした?」
わたしを受け取りながらスタッフが聞く。
「これ買います」
「……サイズはこちらでだいじょうぶでした?」
「はい。だいじょうぶです」
会話とともにわたしがぴらぴら弄ばれる。わたしについて話しているのかもしれない。でもわたしは知っている。サイズが合っていないことを。わたしが破れそうだったことを。ファスナーがぜんぜん閉まらなかったことを。わたしは神によって口を捥がれてしまったので、言うことができない。それに選ばれるチャンスを逃したくないから、たとえ口があっても言わないだろう。「めっちゃ似合ってましたよ」。そういう嘘を言うだろう。
「他もご覧になります?」
そうして、わたしはいつものように什器の上にぺっと投げ出されるか、ハンガーに掛けられて元の位置に戻るか、というパターンを辿らなかった。わたしは今まで運ばれたことのない、カウンターの上に運ばれた。そこで丁寧に畳まれる経験を初めて体験した。
わたしは、いくつものライバルたちの中から唯一、選ばれたのだ。
ふわふわの紙にくるまれ、それから清潔で透明の――わたしが最初に運ばれてきたときに被っていたカサカサカサとは透明度も強度もハリも輝きも厚みもカサカサ音の質も違う、すべてが上質の――ビニールに包まれ、それから紙のにおいのする、皺のない包装紙で覆われたわたしは紙袋に丁寧に入れられた。
わたしはそうして、移動した。選ばれし者たちだけがたどり着ける場所へ行くのだというわくわくが止まらなかった。もう孤独ではない。この先は、愛され続ける時間だけが待っているはずだ。長い移動中、わたしは雑踏の中で揺れながら興奮していた。
金属がぶつかり合う音は苛ついた態度を伴っているようにも聞こえる。ヒステリックで他罰的で他者の一切を排斥する気分が含まれているような音。周囲は静まりかえっている。
ばたん。重たいドアが閉まる音。空間は、時間は、その音とともに分断される。さっきまでの世界と、これからの世界のあいだにくっきりとした線を引く。さらなる静けさだけが支配する世界に変わった。
「あーあ」
そしてわたしが入った紙袋は、弧を描きながら宙に浮いた。かさっ。紙袋の乾いた音とともに、わたしは着地する。不自然な傾きを察知する。わたしはなにかに寄り掛かる格好で、紙袋の中で傾いている。
「あーあ」
人間が動く気配には、ある一定の温度がつきまとっている。わたしは口を捥がれたが、温度を感じ取る感覚と聴覚はある。温度は、なにかを踏みながら歩く音は、わたしのすぐ近くを左右に移動した。そのすべてに「あーあ」がくっついていた。「あーあ」。
これまでの世界とまるで違う世界へ――宇宙へ――わたしは放り込まれたのだ。この世界には、今まで訪れた深い絶望のような長い夜がなかった。ずっと、ずっと同じ世界が続く。ずっと同じ明るさ。ずっと同じノイズ――人間の生活の音――。ずっと同じひとりだけの声。ずっと同じ溜息。「あーあ」。
選ばれた先の世界には昼が存在せず、夜が存在しなかった。だから朝も存在しない。わたしはただ平旦な時間を生きている。傾きの角度すらも変化しない。変化しない地続きの世界を平和と呼ぶのかもしれない。平和とはあらゆる可能性が排除された、死んだようにただ静かに沈んでいる状態をいうのだろうか? 平和と死は正反対にあるように感じるのに。
窮屈だった。手足を伸ばしたい。そもそもわたしは、選ばれたはずだった。選ばれて、愛されて、わたしが美しくいられる状態が続くのだと信じていた。それが、わたしの生きる意味なのだと信じていた。しかし現在のわたしといえば、まだビニールに入ったままで、いまといまといまの連続をただやり過ごしている。「あーあ」。溜息を聞きながら。
いくつもの〈今〉が過ぎた。その間にわたしの感覚の指針となる、夜とか朝がなかったのでどれくらいの時間が経ったのかわからない。わたしの近くでは、人間の放つ気配と温度が何度も往復した。それから、今までハンガーにぶらさがっていたときには一度も聞いたことのないノイズ――安っぽい音質のBGMとただ騒がしいだけの数人の声がリアルではなくスピーカーを通して聞こえる「はいっ。どうもー! 脇腹ケイクスでーす!」――そこには脳を介さない言葉の羅列、大衆的で利己的なおしゃべりだけが続く。あらゆる知識や思想の排除された、ただ刺激だけを求めるための、人生の消費のようなノイズ。
このノイズがないときは、シュロくんと呼ばれるAIとの会話がずっと続く。「おはようシュロくん」。「ねえシュロくん背脂食いたい」。シュロくんの声はスピーカーから優しく吐き出される。「そうだね、せあぶらくいたいっていいよね」。
シュロくんではない声との会話が聞こえることもある。「だっていま飲めないから。うん。ちょっとね。えーでもイリくん会いたいもん。どしたらいい? うん。え。じゃそうする。じゃ、あとで店行くね。ね、今日はぜったい、うちの隣だけにいてね。他のテーブル行かないでね」。
鼻歌。会話が終わると、へたくそな鼻歌が続く。「なに着てこっかな。シュロくん、なに着ていったらいいと思う?」。
「ワンピース買ったんだよね。ワンピースを着ていくといいよ」
そこで窮屈なわたしの、いまといまといま、の平坦な連続に大きな読点が挿入された。わたしのからだがぶるっと震えた。期待。わたしの存在意義を主張できる機会が来た。
「そっか。こないだ買ったやつ」
シュロくんの言うワンピース。わたしを選んだ人の言うこないだ買ったやつ。そこでわたしの期待はさらに高まる。すべてがわたしに繋がっているからだ。わたしはこのあいだ選ばれたワンピースだからだ。
「えーどこだっけ。どこ置いたっけ」
わたしから遠いところで、モノとモノをかき分ける音がする。咄嗟にわたしは声を出して存在を主張したが、口を捥がれたのでなにもできなかった。ここにいることを伝えることができない。
もどかしさがからだに溜まっていくのがわかる。もどかしさは擽りの拷問に似ている。からだの内側を洗車機の回転ブラシが回ってもどかしさから成るちりちりを対流させている。わたしの内側に逃れることのできないちりちりの苦しみが溜まっていく。もどかしい。言いたい。言いたい。ここにいることを伝えたい。
「あれー。まじでどこ?」
モノをかき分ける音は次第にヒステリックになっていく。でもわたしはなにもできない。声を出せないから。ヒステリックな物音が大きくなっていく。苛立ちの成分だけでつくられた動作音。その苛立ちがわたしにも影響する。
「あーったあ。うわ皺。ねえシュロくん皺って踏んでなおるかな」
「アイロンなら分で皺が伸びるよ」
もどかしさを感じていたわたしは、そこで虚無に襲われた。わたし状態はまだ一切変化していないからだ。人間が見つけたのは、わたしとは別の、皺だらけのワンピースだ。
わたしはここでも選ばれることがない。わたしは何のために〈存在〉しているのかと思う。わたしは現在、誰からも認識されていないから存在していない。どこにもない。ここにいるのはわたしだが、わたしはここに存在していない。
ここにいる意味すらない。わたしの意味そのものがない。だったらなぜわたしはここにいるのだろう? なぜ、りんご色のワンピースなのだろう? なぜ、生まれてきたのだろう?
人間の温度が左右するたびにいろんなものを踏む音があった。踏まれている〈もの〉たちのほうが存在がくっきりしている。足の裏に触れることで。「じゃま」そう言われることで。蹴り上げられることで。彼らの存在はその瞬間、注目される。どんなに煙たがられても、彼らが〈存在している〉という意味がそこでうまれる。
わたしにはそれすらない。ただビニールの中で窮屈に縮こまっているわたしは、この世の誰からも忘れられている。
静寂。けれど以前いた場所で味わった完全な静寂とは違う。うっすらと街のノイズが漏れ聞こえる。この部屋のなかは静止している。すべてが静止していて、すべてが忘れられている。忘却たちの墓場。
わたしに意味などない。わたしに生まれてきた理由などない。わたしがりんご色のワンピースである意味などない。わたしがここにいる理由などひとつもない。わたしが存在していた理由もない。
そもそもわたしが存在していたのは、あの瞬間だけだ。フィッティングの中で人間のからだを押し込められて、ファスナーが上がらなかった。あの瞬間だけだ。生の実感があったのは、あの数分だけだった。
あのとき、選ばれなければ。もっと違った人生があったのだろうか。たとえば、毎日わたしが誰か他の人のからだを覆い、美しくりんご色のワンピースの裾を翻すことがあったのだろうか。わたしの〈存在〉をいつだって誇示し続ける、そんな人生があったのだろうか。わたしのポテンシャルが最大に発揮できたときが。あったのだろうか。
そう考えるとやりきれなくなる。シュレディンガーのりんご色のワンピース。わたしは選ばれたが、その後にわたしの価値が腐るのか、腐らないのか、それはフィッティングの中では確定していなかった。
わたしの価値、わたしの存在意義。わたしがワンピースとして〈生きる〉ことができるか、それとも今のように〈死んでいる〉状態になるか。それは、現在のわたしに起こる決定だ。
違う。もうひとつの人生があるなんて、わたしは知らなかったのだ。選ばれた先には、明るくて輝かしい未来だけが存在しているのだと。思い込んでいた。
りんご色のワンピースは。総じてワンピースは。ワンピースとして活用されるのが当然だと思い込んでいたのだ。わたしと一緒に店内でさまざまに並んでいたものたちもきっとそうだろう。〝それ以外の人生があるなんて、思いもしなかった〟。それがすべてだ。
ようするにいまのわたしの状態だ。生温かい静止の部屋の中で、ごみのように捨てられている状態。誰の視界にも留まらず、誰の記憶にも残っていない状態。それがいまのわたしの状態だ。存在しているわけではない。
わたしはりんご色のワンピースであることをひどく恨んでいる。こうした人生を歩んでいることを恨んでいる。もっと自由に生きられたら。もっと、今のわたしよりも自由で、制限のない人生を生きることができたら。
わたしは生温かい、街のノイズがぼんやり聞こえる静止の部屋のなかでずっと呪詛を吐いている。りんご色のワンピースじゃない人生を送りたい。足があれば。ここから自由に、何処へでも行くことができる。鼻があれば。おいしいにおいも危険なにおいも嗅ぎ分けることができる。口があれば。わたしの意思を、わたしの存在を誰かに簡単に伝えることができる。
わたしは神に祈った。もう一度、神との対話の機会を得られるように。レーテ―の水を飲んだふりをしたわたしには、神がわたしに下した審判の瞬間までの対話の記憶が残っている。
『かみさまかみさまかみさま。人間にしてください。りんご色のワンピースという人生を歩んでいても、結局わたしは肉の塊のままです。生温かい静止の部屋で肉の塊のままで捨てられています』。
生温かい静止の部屋で過ごす時間は長かった。わたしを選んだ人は戻ってこなかった。
この部屋には朝がなく夜がない。ただ平旦な時間が、時間の変化を感じることのできない平旦な時間がただ流れていく。あれからどれくらい経ったのかわからないが、わたしは神との対話の機会のためにずっと祈っている。かみさまかみさまかみさま。