手を引かれて門の内に入ってみれば、その景色は、外から見ていた以上に典雅にして風流であった。
「春の夢のようだ……」
美しさを競わんばかりに咲き誇る花々は隅々まで手入れが行き届いており、心地よい香りが鼻腔をくすぐる。
品よく配置された東屋や橋、泉や彫像の向こうからは、さざめきのような笑い声と、棒や槍を打ち合わせる音が微かに聞こえる。
その様子が禁軍での日々を思い起こさせ、林冲は、つ、と瞳を伏せた。
「林教頭、さあ、こちらです」
林冲の表情が疲れによるものと思ったらしい柴進が指し示す方を見れば、精緻な透かし彫りの彫刻が施された扉が開け放たれ、木漏れ日の差し込む座敷が現れる。
嗅いだことのない香が焚き染められた室内は広くはなかったが、その価値の計り知れない調度に囲まれている。艶めいた木の卓の上には、庭から摘んできたのであろう花が生けてあった。
「実は、あなたが八十万禁軍教頭の豹子頭林冲になる前から、そのご高名は聞き及んでおりました。かつて高唐州に滞在していた頃、禁軍に類まれなる逸材と言われる青年がいると、よく噂になっていたのでね。そしてその青年が禁軍教頭に取り立てられたとき、私とたいして歳も違わぬ方と知り、ひどく感服したものです。今日はこうして縁あってお会いすることができ、この柴進、喜びに心が打ち震えておりますぞ」
その鷹揚な立ち居振る舞いがそうさせるのか、実の年齢よりもはるかに落ち着いて見える柴進であったが、きらきらと少々暑苦しすぎるほどに輝く眼はまるで、憧れの人物に出会った少年のように無邪気であった。
「柴殿、この林冲、身に余るお言葉をいただきまして、恐悦至極にございます。なんの取柄もない一介の武人である俺も、柴大官人の懐深きお人柄を聞き及び、お会いしたことはなくとも立派な御仁と心の中で尊敬をしてまいりました。お恥ずかしくもこのような罪人姿でお目にかかることになるとは夢にも思いませんでしたが、ご尊顔を拝謁し、またとない幸せでございます」
「我が家には優秀な情報屋が幾人かおりますが、なにせ都から遠いこの地に知らせが入るのはいつもひと足遅く、貴方の不運を今日まで知らなかったのです。さあ、道中大変な想いをされたことでしょう、はやくこちらへおかけください」
「いえ、俺は末席で……」
「いけません、貴方がこちらに。さあ、後ろの君たちも、かけたまえ。誰か、一番良い酒を運んで来なさい」
しきりに上座を勧める柴進に根負けした林冲が椅子に腰かけたのち、「君たち」などと言われた董超と薛覇も顔を見合わせながら林冲の隣の席に着く。
だが、穏やかにその様子を見守っていた柴進は、主の命を聞いた下男たちが慌てて運んできた盆を見るなり、龍の如き眉を跳ね上げた。
「これはいったい、なんの真似だ?」
盆の上には、肉と餅、さらには湯気をあげる熱燗が一壷と、白米の上に十貫の銭が鎮座している。
林冲にすれば十分すぎる歓待であったが、どうやらこれが貴人のお気には召さなかったらしい。
「まったくお前たちは、いつまでたっても田舎者だね。かの林教頭をおもてなしするというのに、こんなものを持ってくるとは、いったいどういう了見なのだ。恥ずかしいのでさっさと下げたまえ。まずは酒と肴、それから羊を何匹でも潰してよい、料理番たちに腕を振るわせるのだ。さ、はやく行け」
決して声を荒げたわけではないその言葉に、雷に打たれたかのように身を震わせた下男たちは、しきりに恐縮する林冲に深々と頭を下げると、あたふたと盆を持って下がっていた。
「林教頭、どうか使用人たちの不手際をお許しあれ」
「いいえ、どうぞこんなにまでお気を遣わず。こうしてお会いし、お話をするだけで、すでに十分なのです」
「何をおっしゃる。並みの男ならばいざ知らず、貴方ほどの世に稀な豪傑がおいでくださったのだ、最上級の歓待をしなくては」
指先でゆるりと髭を撫でつけた柴進は、立ち上がって礼をする林冲の手を軽く叩き、着席を促す。
「さ、林教頭、お口に合いますかどうか」
さっそく下男が運んできた肴を林冲たちの目の前に置き、酒壷を掲げた柴進が、今度は逆に立ち上がり、自ら林冲の盃に酒を注ぐ。
「……良い香りです」
盃を掲げ、礼をして一口含めば、今まで飲んだどの酒よりも濃厚な香りが体いっぱいに広がる。これほどの名酒は、大宋国広しと言えど、滅多に口にできるものではないだろう。
「君たちも遠慮なく飲みたまえ」
「は……これは……なんとも……」
おこぼれにあずかった董超たちも、目を丸くして舌鼓を打つ。
そうして何杯か盃をあけた後、弓袋や矢壷を背負ったままであったことにようやく思い至ったらしい柴進は、いそいそとそれらを外し、「ここでは落ち着きませんな、どうぞ私の部屋へ」と林冲たちをさらに奥の座敷へと誘った。
廊下に出れば、主の機嫌を損ねまいと懸命になっているであろう料理人たちが腕をふるう音とともに、腹の虫が騒ぎ出すような香りが漂っている。
「急なことで用意が遅くなっております。酒を飲んで、ゆるりとお待ちくだされ」
私室へと誘う柴進の手が林冲の手を握りしめたとき、ふと、その手が、何も暮らしに不自由していない貴人にしては荒れていることに気が付いた。
(肉刺が……武芸を嗜んでおられるのか)
数十人もの好漢がこの屋敷に滞在していると言う。きっと彼らと手合わせを楽しんでいるのだろう。
「武芸者の声が聞こえていました。柴殿も、体を動かされるのですか」
美しい玻璃細工の御簾をかき分け、先程よりもさらに広い卓の上に酒を並べる柴進に問えば、貴人は照れくさそうに微笑んだ。
「林教頭を前にしては、恥ずかしくなるほどですが」
「書画や詩、音曲だけでなく、武芸も嗜まれるとは、なんとも御立派な御方だ」
部屋のあちこちに無造作に置かれた、彼の才能を物語る品の数々を、失礼のない程度に眺めながら、林冲は再び勧められるがままに酒を飲む。
「幼い頃から、父や叔父に、よく言い聞かせられたものです。我々のような身分の者は世間を知らず、自ら身を守る術もない。江湖の好漢たちの言葉を聞き、その技を見、その義に触れ、民の声に心を開くようにと。この屋敷には大勢の好漢が滞在しておりますが、中には貴方のように、権力を振りかざした腹黒い者に陥れられた者もいれば、義の心のあまりに過ちを犯してしまった者もいます。先日も、東の別荘に屈強な若者が転がり込んできましたが、話を聞けば、実の兄を馬鹿にされたが故に相手を殴り殺してしまったと……我が家には、お上も不可侵の丹書鉄券がありますので、それを頼りにしてくるのでしょう。私は、彼らのような好漢こそ、世のため、民のために尽くす者と思っておりますので、こうして彼らの拠り所として我が家を開放しているまでのこと。そしてそのついで、ほんの遊び程度に武術を習っておりますが、大したことではありません」
そうしてあれこれと話をしているうちに、窓の外では太陽が地平の向こうに沈み、やがて山もりの豪勢な料理とともに酒が再び運ばれてくる。
「どんどん運ぶのだぞ。君、吸い物を運んでおいで。さあ、林教頭、どうか心ゆくまで食べて飲み、そして貴方の身に何が起こったのか、詳しく話してくださりませんか。すべてぶちまければ、心も軽くなるというもの。ここには官府の手先などおりませぬ故」
林冲たち三人に手ずから酒を注いで回りつつ下男たちへ目を配ることも忘れない柴進の立ち居振る舞いに感じ入っているのは林冲だけではないようで、最初は胡散臭そうに柴進をじろじろ見ていた董超たちも、次第にぺこぺこと頭を下げ、柴大官人もどうぞ、などと酒壷を傾けるようになっていた。
すると、酒も話も盛り上がってきたころ、一人の下男が進み出て拱手した。
「旦那様、表に先生がお越しです」
「おお、これはちょうどいいところに。武術の達人と膝を交えられると知れば、先生も喜ぶであろう。ともに一杯やろうではないか。君、先生をこちらへお呼びしなさい。君は卓をもう一つ出してくれたまえ」