先生なる者は、どうやら柴進の武術の師であるらしい。滄州の軍人であろうかとも思ったが、江湖のお尋ね者も集う屋敷に軍の者が出入りをするとは考えにくい。
(とすれば、この屋敷に留まる好漢か)
柴進が師と認める人物ならば、きっと立派な豪傑に違いない、と林冲は慌てて立ち上がる。
「洪先生、どうぞこちらへ」
だが、下男の案内に言葉も返さず、ずかずかと部屋に入り込んできた男の姿を見て、林冲は微かに失望した。
体つきこそ立派だが、胸をふんぞり返らせ、頭巾を斜めにかぶり、世の中を見下したような冷めた目つきに無精ひげをはやした男の姿は、とても柴進の尊敬を受けるような好漢には見えない。
それでも礼は尽くさねばと、林冲は拱手し、腰をかがめた。
「初めまして。私は、林冲と申すもの。ご縁があって、柴殿にお招きいただきました。どうぞお見知りおきを」
だが、男は林冲には見向きもせず、言葉も礼も返さずに、柴進のほうへと歩み寄った。
「柴大官人、随分とおもてなしされているようで」
「……洪先生、こちらの林冲殿は、かの東京開封八十万禁軍にて槍棒術の教頭をお務めであった豹子頭林冲殿です。わけあって無実の罪を着せられこちらへ配流となったところを偶然お会いしましてな。林教頭、こちらは洪秋殿です。蘇州にて知府の屋敷で護衛を務めておられたが、横暴で理不尽な仕打ちに耐え兼ねここまで逃げてこられたのです。我が屋敷でも一番腕の立つ方で、私も槍や棒を習っておりますので、皆、洪教頭、洪先生とお呼びしております」
「なるほど。洪殿、お会いできて光栄です」
再び頭を下げた林冲に、しかし洪秋は、かすかに鼻を鳴らし、吐き捨てるように「あんたの礼など結構」とだけ返した。
それでも林冲が敬意をこめてさらに二拝し、席を譲れば、洪秋は迷惑そうな目でちらりとこちらを一瞥し、林冲が座っていた椅子にどかりと腰を下ろす。
椅子の脚がぎりりと鳴った音に重ねるように、柴進の漏らした苛立たしげな咳ばらいは、柴進の下手に座した林冲にしか聞こえなかった。
「柴大官人、このようなもてなし、罪人相手に度がすぎるんじゃありませんかね」
切れ長の目をさらに細め、細い眉を顰められるだけ顰めた顔にはなかなか凄みがあるが、軽薄な語り口には、人の心を波立たせる雰囲気があった。
「洪先生、この御方は世にまたとおられぬ豪傑です。罪人の姿をしてはいますが、そもそもこれも無実の罪。かの豹子頭林冲殿とこうしてお会いできたというのに、貴方こそなぜそうつっけんどんな態度をとりなさる」
「はっ、豹子頭だかなんだか知らんが、所詮は高俅の飼い犬が用済みになって捨てられたまでのことではないですか。大官人殿は人が良いので、流罪になった軍人たちをもてなすと世のもっぱらの噂を聞いた男たちが、やれ槍の教頭だ、棒の教頭だと騙って銭や飯だけもらいにここへ来るのです。その男とて、どんな魂胆があるやら知れぬ。騙されちゃいけませんよ」
よくよく洪秋の顔を見れば、態度が大きなせいで思いも寄らなかったが、歳は自分たちより幾分か下のようである。まだ若い身で、柴進のような人物に先生などともてはやされ、思いあがっているのは明白であった。
「洪先生、人のことをそう軽率に判断するものではありませんぞ。よもや罪人姿であるからと侮っておられるのではありませんかな」
「何……?」
ぎらり、目を光らせ、洪秋が立ち上がる。
「俺はこの男が信用ならんだけです。棒の腕を見ぬことには、禁軍教頭とは確かめられん」
「はは、先生、おもしろいことをおっしゃりますな。手合わせなど林冲殿にとってはわけもないこと。さあ、林教頭、どうなさる」
真実を言えば、林冲には、手合わせなどしなくともこの男の実力のほどが知れていた。
体つき、身のこなし、そして慢心――禁軍に入りたての未熟な若い兵士によく見られる弱さが、彼の全身に露呈している。
「いえ、そのような恐れ多いこと、この林冲、ご辞退申し上げたい」
「ふん、禁軍教頭が聞いて呆れる。怖気づきましたかな、林冲殿?」
にやりと唇を吊り上げる洪秋の挑発にも動じぬ己の様子を見かねたのか、はたまた己がこの軽薄な男を打ちのめすところを見たくなったのか、柴進がなだめるように洪秋と林冲の肩を叩いた。
「まあまあ先生、ここはしばし、月が出るまで酒を酌み交わしましょう。林教頭、洪先生もこのような田舎の暮らしでは体がなまってしまうといつも言っておられるのです。どうかひとつ、私のためと思って、手合わせを願いたい」
「……柴殿にそこまでお願いされては、お断りするのも失礼と言うもの。それでは、月が昇りましたら、ひとつ手合わせをいたしましょう」
あくまで丁寧に頭を下げてやれば、偉そうに顎をそらして頷いた洪秋は、壷ごとぐびりと上酒を飲み干した。
林冲も柴進も、そして洪秋も、互いに言葉少なに酒を酌み交わしているうちに、あたりはすっかり宵闇に沈んでいった。
「……頃合いですな」
己の酒杯に映った月影を、ふ、と吐息で揺らし、柴進がくりくりと目を輝かせながら呟く。
「それでは参ろう」
先に立ち上がった洪秋に見降ろされ、林冲は小さなため息をついた。
この勝負、しぶしぶ引き受けたはいいが、やはり気は進まない。
(柴殿の師匠に恥をかかせてしまうのは、避けたい)
かといって、ここで引き下がるのを許してくれる柴進ではなかった。
ぐずぐずとためらっている林冲の肩に手を置き、貴人が唇を吊り上げる。
「私は、貴方たちお二人の本気の打ち合いが見たい。きっと洪先生もそれをお望みでしょう。どうかご遠慮なさらぬよう」
月明かりに煌めく柴進の瞳を見つめ返せば、そこには抗いがたい意志がある。
「……わかりました」
ようやく観念した林冲は、話を聞きつけた下男たちや柴邸の侠客たちに囲まれながら、洪秋の後に続いて裏庭へと出た。
「では、勝負といこう」
すでに勝利したかのような得意げな顔を浮かべた洪秋が、がばりと上衣をからげ、下衣の裾をたくしあげる。
なるほど、たしかに逞しくはあるが、どうやら無駄な鍛え方をしているらしいと見える。
背には、いつ負ったのか、棒打ちらしき痕がうっすらと残っていた。
「さあ、いざ!」
下男が運んできた棒を手に、洪秋がまくしたてる。
「では林教頭、どうぞ」
林冲もまた、棒を手に取る。
道中、軽く智深と打ち合いなどしてはいたが、こうして真剣勝負をするのはいつぶりであったろうか。
(山東の大擂……)
さあ、さあ、と威勢よく棒で地を叩く洪秋の姿に、何故か、湯陰での修行の日々を思い出す。
大勢の子供や若者たちがともに修行をする中で、あの頃一番強かったのは、いまは北京に居を構える兄弟子だった。
『冲児、お前は山東の大擂、俺は河北の夾鎗……いずれ共に世に名を轟かせよう』
普段は大人しい人だったが、稽古の時には、人が変わったように闘志を燃やした。
弱い相手にも決して手加減せず正面から戦ったのは、彼の優しさ故の厳しさだった。
「……参ります」