「そうと決まれば、さっそく出発しよう。店主、柴殿のお屋敷はどちらであろう」
「このすぐ近くですよ。街道沿いにしばらく行ったところに大きな石橋があるのですが、それを渡っていけばすぐです。大きくて立派なお屋敷なので、見失うことはありますまい」
「かたじけない。大声を出してすまなかったな」
林冲はそわそわと立ち上がると、小粒を店主に握らせ、先頭切って店を出た。
董超と薛覇が慌てて追っても追いつくのが難しいほど、枷で繋がれた足にできる限りの大きな歩幅で早足に歩き、しばらくすると店主の言ったとおりの石橋が見えてくる。対岸に渡ると、そこはすでに屋敷の一角であった。
広い通りに沿って巡らされた堀には青々とした水が流れ、柳の大樹が優雅に緑の葉を揺らす並木の向こう側に、真っ白な塀に囲まれた広大な屋敷の屋根が見える。
「どうやらこちらのお屋敷のようだ。正門に回ってみよう」
ぐるりと塀の角を曲がり、正門に出た林冲たちは、しばし柴進の屋敷の威容に言葉を失った。
木橋の向こうの堂々たる正門の奥には、桃の木をはじめ絢爛な花々が咲き乱れ、まるでそこにだけ永久に春が留まっているかのようであった。さらにその奥に見える堂には勅額が金色に煌めき、朱と碧に彩られた重厚な瓦の屋根が連なっている。
「なんと、これほどまでのお屋敷にお住まいの方とは……」
夢見心地に屋敷を眺める董超たちを連れ、林冲は、木橋の上で涼んでいる小粋な姿の下男に声をかけた。
「失礼、こちらが柴大官人のお屋敷と伺って参りました。どうか、開封の都からここまで流刑になった罪人の林と言う者がお会いしたいと、柴進殿にお伝え願えませぬか」
主人が頻繁に罪人をもてなしているからであろう、手枷足枷をぶらさげた林冲の姿を見ても下男たちは驚かなかったが、己の言葉を聞くと申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「これは、なんと運の悪い御方だ。大官人様は、今朝から狩りにお出かけになって、こちらにはおられないよ。どうやらあなたはひとかどの者ではないように見受けられる。大官人様がいらっしゃれば、きっと酒をごちそうして路銀をお渡しされたろうに」
「なんと……柴殿はいつ頃お戻りであろうか」
「それが、我々にもなんとも。もしかすると、東の方にある別荘にお泊りになるかもしれないし、こちらへ帰ってくるかもしれないし……大官人様は気ままな方なので、確かなことは言えないのです」
「そうであったか……とことん俺は、運に見放されているらしい」
下男たちに礼を言うと、林冲はがくりと肩を落とし、来た道を引き返し始めた。
「林教頭、それでは」
「…… 牢獄までは、あと一日もかからぬ距離と聞いた。先を急ごう」
寄り道をせずに済みほっとしているのか、董超たちも、待ってみては、などとは言わなかった。
来る時とは打って変わって、一気に重さの増した足を引きずりながら歩く。
もとより、高俅に嵌められた時から悪運に取りつかれていたのだ、仕方があるまい――
「……おや、あれは?」
半里ほど道を引き返し先程立ち寄った酒屋のある街道に戻った時、薛覇がふと後ろを振り返り、目を細めて呟いた。
「なにやら一団が来るぞ。もしや、あれが噂の柴進殿では?」
「何?」
その言葉につられて林冲もまた背後を振り返れば、なるほど、小気味よい馬蹄の音とともに、林の奥から一群れの人馬がこちらへ向かって駆けてくる。
「あれは……」
先程柴進の屋敷の前で休んでいた下男たちもなかなか小粋な姿をしていたが、まっすぐこちらへと駆ける馬上の者たちも、みな一様に、どこか普通とは一味違う雰囲気を纏っている。
馬の背からは狩りの獲物であろう兎や鳥がぶら下がり、馬のいななきにも恐れをなさぬ猟犬たちが足元に続く。
陽光に煌めく赤や青の旗を掲げる男たちはみな逞しく、一人一人の顔を見分けられずとも、さぞや江湖に名を轟かせる好漢たちであろうと思わせた。
だがその一団の中でも一際目を引くのは、やはり先頭で雪のように白い馬を駆る一人の貴人である。
天に昇る竜の背のような眉に、鳳凰の如き聡明な瞳を持ったその人は、噂どおり、年の頃はおそらく己とさして変わらぬ三十路ほど。雅にうねる髪を細かく花の模様がちりばめられた黒い紗の頭巾でまとめ、紫の上衣にもなんとも典雅な花模様が刺繍されている。そして腰には涼やかに煌めく宝珠が連なった帯を締め、金糸で縫い取った黒い長靴には緑の縁取りがされているという、さすがの洒落者ぶりである。
弓を携え矢壷を背負い、数多の供を引き連れて颯爽と街道を駆ける姿は、なるほど前王朝の皇帝の血を引く高貴な者に相応しい威厳を湛えていた。
(あの方こそ、柴進殿……)
その稀なる姿に圧倒され、今や罪人の身となった己から直接に声をかけるわけにもいかず、林冲はただ、彼らの道行きの邪魔にならぬようにと黙って道端に身を寄せる。
すると、それまで供の者たちと言葉を交わしながら一心に馬を駆っていた柴進が、ふとこちらを見、そして何かに驚いたように目を見開いた。
供の者に一言二言なにやら告げた貴人が、白馬の頭をこちらへと向ける。
瞬く間に、優し気な馬の目が、眼前に迫る。
「……そこの枷をつけた御方、貴方はいったい、どなたかな」
朗々と、しかし絹織物のように柔らかな声が、馬上から降り注ぐ。
その声は、決して居丈高でも高圧的でもなく、むしろどこか親しみと温もりのあるものであった。
だがその姿を間近にすると、この貴人のすべての意志には従わねばならぬという、不可思議な想いに襲われる。これが、かつての天子の血を引く人間の力というものであろうか。
「は。私は、東京開封にて禁軍教頭を務めておりました、姓は林、名は冲と申す者。不運にも高太尉に目をつけられ、謀を巡らせられたために、開封府にて裁判沙汰となり、滄州へ流罪となりました。先程近くの酒屋の主人から、この地には江湖の好漢と交わり彼らに力をお貸しになるという柴進殿がお住まいと聞き、お屋敷をお訪ねしたところだったのですが、運悪く大官人殿がお留守にしていたゆえ引き返してきたところでございます」
跪き、拱手しながら答える林冲の言葉が終わるか終わらないかといったうちに、気が付けば、転がるように白馬から滑り降りた柴進が、あろうことか目の前に跪いている。
「おお……この柴進、貴方がまさかこのようなところにいらっしゃるとは露知らず、お迎えすることもできずに大変失礼をいたしました」
よもやこの貴人が、己のような一介の武人相手に膝をつき拝礼するとは思いも寄らなかった林冲は、慌てて礼を返す。
「さ、柴進殿、もったいないことを。どうかお立ちください、お召し物が……」
「何をそんな些細なことを。さあ、林教頭、貴方もお立ちください。すぐに屋敷へご案内いたしましょう。豪傑には豪傑に相応しき歓待をせねば……さあ、皆、はやく屋敷へ戻るぞ」
柴進は白い歯を零し、優雅に整えられた髭を震わせ、柔和で聡明な瞳を細めながら微笑むと、手枷の繋った林冲の両手をぐいと包み、そのまま馬には乗らず徒歩で隣を歩きながら、林冲を屋敷へと誘った。
柴邸の正門の前まで戻ると、先程橋の上で涼んでいた下男たちが、「よかった、お会いできたのですね」と口々に言いながら、門を大きく開く。
「林教頭、こちらへ。奥の座敷に行きましょう」