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(三)

ー/ー



 それから十七、八日の間、智深は、荒法師というよりは、提轄であったという彼の過去を彷彿とさせるように、厳しくぬかりなく林冲の旅路を見守り続けた。
 手足と首を戒める枷や傷の痛みさえなければ、まるで義兄弟と気楽な旅をしてでもいるかのようだった。
林冲は彼と何気ない話を楽しみ、足の調子が少しずつ良くなってくると、時折枷をつけたまま軽く手合わせをしたりもした。
 すべてが変わり、すべてが失われたと思った今、智深と過ごす時間は東京での日々を思い出させ、そして時折、友だった男のことを思い出させた。
 (いつからだ、陸謙)
 考えぬよう努めていたその言葉が頭の中を過ぎるたび、林冲はそれを忘れようと酒を口にした。もはやいくら考えても、詮のないことだった。
 そうしてとある村を通り過ぎた朝のこと、智深が村人と話したところによれば、この村は滄州まであと七十里ほどという場所にあり、この先の松林を抜ければあとは街道沿いに延々と、人家が続くということであった。
 「弟、何人かに聞いたが、どうやら確かにこの先は、人目のないところはないそうだ。滄州までもあとわずか、ここまで来れば安心だろう」
 松林の陰で涼んでいた林冲は、智深の言葉にふと、旅の終わりを悟った。
 「随分……遠くに来てしまった」
 松の梢から降り注ぐ葉擦れの音にかき消されるような林冲の声を、聞いたか聞いていないのか、智深は、ぐ、と伸びをして、ここまで歩いてきた方を振り返る。
 「もう少しお前の足がよくなっていれば、ともに逃げ出したものを」
 心にもないことを呟く智深に肩をすくめ、林冲は彼の真ん前に立った。
 「兄貴」
 「おう、ここでお別れだ。俺は東京へ帰る」
 真夏の日差しより熱い拳に包まれた己の手の中に、あっという間に銀子の入った袋が現れる。尾行のことといい、己の世話のことといい、どうやらやろうと思えば細かい芸当もできなくはないらしい。そのことがおかしくて思わず吹き出せば、きょとんとする顔は、毛むくじゃらではあったが愛嬌があった。
 「兄貴、東京へ帰ったら、俺の家族に俺は大丈夫だと伝え、頼むから逃げてくれ。絶対だぞ。この恩はいつか必ずお返ししよう」
 「はは、この魯智深、あんなへっぽこ太尉などにやられる男ではない」
 智深はそれ以上林冲に何も言わせまいとするようにくるりと身を翻し、後ろでおっかなびっくり様子をうかがっていた董超と薛覇にのしのしと近づいた。
 「やい、てめえら」
 「ひ、ひい、ど、どうか殴るのだけはご勘弁を……!」
 「誰が殴ると言った。ほら、手を出せ、さっさと受け取れ」
 二人の護送役人の前で握った両の拳を開き、彼らの掌の上に銀子を落としながら、智深はじろりとまん丸い目で二人を睨みつける。
 「弟の言葉がなけりゃ、てめえら二人とも、今ごろ体と首がばらばらになっているところだったぞ。いいか、いつでも俺はてめえらみたいな糞野郎は殺せるんだ。てめえらの命を助けてくれたのは弟なんだからな。あと少しの道のり、もう二度と妙な気を起こすんじゃねえぞ」
 「も、もちろんでございます! そもそもこれは、私たちが望んだことではなく……」
 「ええい、つべこべうるさい!」
 智深は、空になった掌を、手近に生えた松の木の幹に押し当てた。
 「てめえら、その腐りきった頭は、この松の木より硬いか?」
 董超と薛覇が、青ざめた顔を見合わせる。
 「わ、私たちの頭など、わずかな皮と肉が骨をくるんでいるだけでございます」
 「ほう」
 一陣の風が吹いたと思った次の刹那、悲鳴のような音を立てて、天を突く高さの松の大木が地面に崩れ落ちる。
 「てめえら、もしもまた悪い気を起こしたら、てめえらの頭はこうなる運命だ、覚えておけよ」
 言葉もなく腰を抜かす二人の役人の姿にからからと大笑し、智深は禅杖を背負いなおした。
 「林冲、弟、くれぐれも気を付けろよ」
 「兄貴も……」
 どすどすと、大きな猪のように猛然と走り去る智深の背中を暫しぼんやりと見送る。
 その広い背は松林を抜け、夏の日差しの白い煌めきの中に、やがて溶けていく。
 林冲は、ひとつ息をつき、董超と薛覇を振り返った。
 「さあ、参ろう」
 「あ、あ、なんという怪力なんだ……」
 「禅杖の一振りで、あんな松の大木を、ま、真っ二つに……」
 がくがくと立ち上がれないでいる二人に、枷に繋がれたままの手を差し出して助け起こしながら、林冲はほんの少し得意げに口尻をあげた。
 「何のこれしき。東京の大相国寺では、柳の大木を素手で引っこ抜いたぞ」
 「なんと……では魯智深殿とはやはりあの、花和尚魯智深だったのですね……」
 「あんな男が世に二人とあってたまるか。さあ、先を急ごう」

 智深の言葉通り、その後も行く道沿いには絶えることなく人家や店が続いた。
 そろそろ昼餉の時間かというころ、ちょうど道端に一件の小さな酒屋が目に入ったので、三人はそこで暫し休息することにした。
 青いのれんをくぐって中に入れば、ぐるりの壁には竹林の七賢や李白の姿が描かれ、店内をせわしく行き交う小二たちもどこか瀟洒な空気を纏っている。
 「さ、林教頭、こちらへ。小二、酒と肉を持ってきてくれ」
 「承知しました」
 だが、頷いた小二はちらりと林冲の方を見たきり、それからしばらく卓に寄り付こうともしない。
 店内は昼時とあって混みあっており、最初は林冲も仕方のないことと壁に書かれた詩を読んだり、窓の外の景色を楽しんでいたりもしたが、あまりにも誰一人近寄ってこようともしないのを見てついに耐え兼ね、首に提げた枷の角を卓に叩きつけた。
 「おい、小二、ここの店主を呼べ。先程から注文したものが一向に来ないではないか。俺が罪人と思い見くびったか。金を出さんと言ったわけでもあるまいし、無礼ではないか」
 腹から絞り出した林冲の説教声に仰天した小二が、罰の悪そうな顔で、店の奥に佇む店主に何やら声をかける。
 すると店主は、慌てたような足取りでこちらに飛んできて、潜めた声で林冲たちに囁いた。
 「お客さん、あんた、これは、俺の好意なんだとわからんのかい」
 「好意? 客に料理も、酒すら出さず、何が好意か」
 ぎろりと睨みつけてやれば、まるで目の前に刃を突き付けられでもしたかのように首をすくめる店主はしかし、話をやめようとはしなかった。
 「お客さん、まあ、流罪でこちらに来たんじゃ、知らないのは当たり前か。実はこの村には、姓を(さい)、名を(しん)と言う大金持ちの御仁がおられる。このあたりの者は皆、あの方のことを柴大官人と呼ぶのだが、江湖では『小旋風(しょうせんぷう)』という二つ名のほうが知られているだろう。この御仁、大周は柴世宗(さいせいそう)様の直系の御子孫。宋の太祖に位をお譲りになった際に丹書鉄券(たんしょてっけん)のお墨付きをいただいたのが伝わっているという立派な御方でな、今の皇帝陛下でさえ、あの方を無碍にはできぬというお立場。その柴進様は、江湖の好漢と交わりを結ぶのが大好きで、お屋敷にはいつも、四、五十人は下らぬ好漢が集っているってわけです。私どもにも、常々、流刑の罪人や路頭に迷った者のうちに好漢があれば、屋敷へ連れてよこせとおっしゃっておられるという具合で。お客さん、私が見たところ、あんたはただならぬ好漢、もしもあんたが酔っぱらって赤い顔をしていれば、金に不自由していないと思われて世話をされないやもしれん。それで私が、小二たちに酒も料理も出すなと言いつけたのです。そういうわけですので、どうぞ怒りを収めてくだされ」
 まるで予想もしなかった人物の名を、思いもかけぬ人物の口から聞いたので、林冲は驚き、思わず董超と薛覇に興奮した口調で語りかけた。
 「董殿、薛殿、小旋風柴進殿と言えば、江湖でも名高い人徳者。俺が禁軍に入った頃から常々、軍の中でも柴殿の噂が絶えることはなかった。俺とさして歳も違わぬはずだが、世にそんな立派な御仁がいるものかと、いつかお会いしてみたいと思ってはいたが、まさかこんな辺境の地にお住まいであったとは。どうだろう、一度、柴殿のお屋敷をお訪ねしてみるというのは」
 董超と薛覇はしばし顔を見合わせ小声で相談をしていたようであったが、罪人をもてなす奇特な存在が、皇帝も一目置く正真正銘の由緒ある金持ちだという点で、得になることがなかったとしても損はせぬという結論に至ったのであろう。
 「まあ、そういう立派なお人がいるというなら、会ってみるのもよいでしょう」
 と、林冲に同意した。


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 それから十七、八日の間、智深は、荒法師というよりは、提轄であったという彼の過去を彷彿とさせるように、厳しくぬかりなく林冲の旅路を見守り続けた。
 手足と首を戒める枷や傷の痛みさえなければ、まるで義兄弟と気楽な旅をしてでもいるかのようだった。
林冲は彼と何気ない話を楽しみ、足の調子が少しずつ良くなってくると、時折枷をつけたまま軽く手合わせをしたりもした。
 すべてが変わり、すべてが失われたと思った今、智深と過ごす時間は東京での日々を思い出させ、そして時折、友だった男のことを思い出させた。
 (いつからだ、陸謙)
 考えぬよう努めていたその言葉が頭の中を過ぎるたび、林冲はそれを忘れようと酒を口にした。もはやいくら考えても、詮のないことだった。
 そうしてとある村を通り過ぎた朝のこと、智深が村人と話したところによれば、この村は滄州まであと七十里ほどという場所にあり、この先の松林を抜ければあとは街道沿いに延々と、人家が続くということであった。
 「弟、何人かに聞いたが、どうやら確かにこの先は、人目のないところはないそうだ。滄州までもあとわずか、ここまで来れば安心だろう」
 松林の陰で涼んでいた林冲は、智深の言葉にふと、旅の終わりを悟った。
 「随分……遠くに来てしまった」
 松の梢から降り注ぐ葉擦れの音にかき消されるような林冲の声を、聞いたか聞いていないのか、智深は、ぐ、と伸びをして、ここまで歩いてきた方を振り返る。
 「もう少しお前の足がよくなっていれば、ともに逃げ出したものを」
 心にもないことを呟く智深に肩をすくめ、林冲は彼の真ん前に立った。
 「兄貴」
 「おう、ここでお別れだ。俺は東京へ帰る」
 真夏の日差しより熱い拳に包まれた己の手の中に、あっという間に銀子の入った袋が現れる。尾行のことといい、己の世話のことといい、どうやらやろうと思えば細かい芸当もできなくはないらしい。そのことがおかしくて思わず吹き出せば、きょとんとする顔は、毛むくじゃらではあったが愛嬌があった。
 「兄貴、東京へ帰ったら、俺の家族に俺は大丈夫だと伝え、頼むから逃げてくれ。絶対だぞ。この恩はいつか必ずお返ししよう」
 「はは、この魯智深、あんなへっぽこ太尉などにやられる男ではない」
 智深はそれ以上林冲に何も言わせまいとするようにくるりと身を翻し、後ろでおっかなびっくり様子をうかがっていた董超と薛覇にのしのしと近づいた。
 「やい、てめえら」
 「ひ、ひい、ど、どうか殴るのだけはご勘弁を……!」
 「誰が殴ると言った。ほら、手を出せ、さっさと受け取れ」
 二人の護送役人の前で握った両の拳を開き、彼らの掌の上に銀子を落としながら、智深はじろりとまん丸い目で二人を睨みつける。
 「弟の言葉がなけりゃ、てめえら二人とも、今ごろ体と首がばらばらになっているところだったぞ。いいか、いつでも俺はてめえらみたいな糞野郎は殺せるんだ。てめえらの命を助けてくれたのは弟なんだからな。あと少しの道のり、もう二度と妙な気を起こすんじゃねえぞ」
 「も、もちろんでございます! そもそもこれは、私たちが望んだことではなく……」
 「ええい、つべこべうるさい!」
 智深は、空になった掌を、手近に生えた松の木の幹に押し当てた。
 「てめえら、その腐りきった頭は、この松の木より硬いか?」
 董超と薛覇が、青ざめた顔を見合わせる。
 「わ、私たちの頭など、わずかな皮と肉が骨をくるんでいるだけでございます」
 「ほう」
 一陣の風が吹いたと思った次の刹那、悲鳴のような音を立てて、天を突く高さの松の大木が地面に崩れ落ちる。
 「てめえら、もしもまた悪い気を起こしたら、てめえらの頭はこうなる運命だ、覚えておけよ」
 言葉もなく腰を抜かす二人の役人の姿にからからと大笑し、智深は禅杖を背負いなおした。
 「林冲、弟、くれぐれも気を付けろよ」
 「兄貴も……」
 どすどすと、大きな猪のように猛然と走り去る智深の背中を暫しぼんやりと見送る。
 その広い背は松林を抜け、夏の日差しの白い煌めきの中に、やがて溶けていく。
 林冲は、ひとつ息をつき、董超と薛覇を振り返った。
 「さあ、参ろう」
 「あ、あ、なんという怪力なんだ……」
 「禅杖の一振りで、あんな松の大木を、ま、真っ二つに……」
 がくがくと立ち上がれないでいる二人に、枷に繋がれたままの手を差し出して助け起こしながら、林冲はほんの少し得意げに口尻をあげた。
 「何のこれしき。東京の大相国寺では、柳の大木を素手で引っこ抜いたぞ」
 「なんと……では魯智深殿とはやはりあの、花和尚魯智深だったのですね……」
 「あんな男が世に二人とあってたまるか。さあ、先を急ごう」
 智深の言葉通り、その後も行く道沿いには絶えることなく人家や店が続いた。
 そろそろ昼餉の時間かというころ、ちょうど道端に一件の小さな酒屋が目に入ったので、三人はそこで暫し休息することにした。
 青いのれんをくぐって中に入れば、ぐるりの壁には竹林の七賢や李白の姿が描かれ、店内をせわしく行き交う小二たちもどこか瀟洒な空気を纏っている。
 「さ、林教頭、こちらへ。小二、酒と肉を持ってきてくれ」
 「承知しました」
 だが、頷いた小二はちらりと林冲の方を見たきり、それからしばらく卓に寄り付こうともしない。
 店内は昼時とあって混みあっており、最初は林冲も仕方のないことと壁に書かれた詩を読んだり、窓の外の景色を楽しんでいたりもしたが、あまりにも誰一人近寄ってこようともしないのを見てついに耐え兼ね、首に提げた枷の角を卓に叩きつけた。
 「おい、小二、ここの店主を呼べ。先程から注文したものが一向に来ないではないか。俺が罪人と思い見くびったか。金を出さんと言ったわけでもあるまいし、無礼ではないか」
 腹から絞り出した林冲の説教声に仰天した小二が、罰の悪そうな顔で、店の奥に佇む店主に何やら声をかける。
 すると店主は、慌てたような足取りでこちらに飛んできて、潜めた声で林冲たちに囁いた。
 「お客さん、あんた、これは、俺の好意なんだとわからんのかい」
 「好意? 客に料理も、酒すら出さず、何が好意か」
 ぎろりと睨みつけてやれば、まるで目の前に刃を突き付けられでもしたかのように首をすくめる店主はしかし、話をやめようとはしなかった。
 「お客さん、まあ、流罪でこちらに来たんじゃ、知らないのは当たり前か。実はこの村には、姓を|柴《さい》、名を|進《しん》と言う大金持ちの御仁がおられる。このあたりの者は皆、あの方のことを柴大官人と呼ぶのだが、江湖では『|小旋風《しょうせんぷう》』という二つ名のほうが知られているだろう。この御仁、大周は|柴世宗《さいせいそう》様の直系の御子孫。宋の太祖に位をお譲りになった際に|丹書鉄券《たんしょてっけん》のお墨付きをいただいたのが伝わっているという立派な御方でな、今の皇帝陛下でさえ、あの方を無碍にはできぬというお立場。その柴進様は、江湖の好漢と交わりを結ぶのが大好きで、お屋敷にはいつも、四、五十人は下らぬ好漢が集っているってわけです。私どもにも、常々、流刑の罪人や路頭に迷った者のうちに好漢があれば、屋敷へ連れてよこせとおっしゃっておられるという具合で。お客さん、私が見たところ、あんたはただならぬ好漢、もしもあんたが酔っぱらって赤い顔をしていれば、金に不自由していないと思われて世話をされないやもしれん。それで私が、小二たちに酒も料理も出すなと言いつけたのです。そういうわけですので、どうぞ怒りを収めてくだされ」
 まるで予想もしなかった人物の名を、思いもかけぬ人物の口から聞いたので、林冲は驚き、思わず董超と薛覇に興奮した口調で語りかけた。
 「董殿、薛殿、小旋風柴進殿と言えば、江湖でも名高い人徳者。俺が禁軍に入った頃から常々、軍の中でも柴殿の噂が絶えることはなかった。俺とさして歳も違わぬはずだが、世にそんな立派な御仁がいるものかと、いつかお会いしてみたいと思ってはいたが、まさかこんな辺境の地にお住まいであったとは。どうだろう、一度、柴殿のお屋敷をお訪ねしてみるというのは」
 董超と薛覇はしばし顔を見合わせ小声で相談をしていたようであったが、罪人をもてなす奇特な存在が、皇帝も一目置く正真正銘の由緒ある金持ちだという点で、得になることがなかったとしても損はせぬという結論に至ったのであろう。
 「まあ、そういう立派なお人がいるというなら、会ってみるのもよいでしょう」
 と、林冲に同意した。