第27話:十匹
ー/ー 煙。
まだ残っている。木が燃える匂い。その下に——肉が焼けている。
あいつが変わった。
音もなく。一瞬で。姿勢が落ちた。呼吸が消えた。目が違う——色じゃない。奥にあるもの。
背嚢に手を入れた。弩を探った。指が弦に触れた。引き出した。
あいつの手が来た。弩の上に。俺の手の上に。押さえた。
紫の目。
——首を振った。一度。
平手が胸に当たった。硬い。押された。岩の裏へ。訊いていない。命じている。
何も言えなかった。
消えた。
弩を握ったまま、待った。何も聞こえない。風だけ。自分の心臓だけ。
* * *
匂いを読んだ。風が運んでくるものを、一つずつ剥がした。酒。汗。獣脂。煤。
鼓動。一つの方角に、固まっておる。数えた。八。離れて、二つ。
近づいた。
崩れた石の構造が暗がりの中に浮かんでおる。壁の隙間から焚き火の光が漏れておる。声が聞こえる。くぐもっておる。中からだ。煙管の匂い。近い。外に一人。
見えた。壁に寄りかかっておる男。煙管を詰めておる。低い石壁が間にある。腰の高さ。向こう側は見えぬ。声はそちらから来ておる。
「——なあ、街に戻ったら最初に何する」
近づいた。足音を消した。石の上を爪先だけで。
「——知るか。黙ってろ」
「——俺はな、真っ先に女郎屋だ。あの乳のデカいのがまだいるかな」
煙管の男の首筋が見えた。汗と垢の匂い。脈が打っておる。
「——うるせえな、集中できねえだろうが」
「——クソするのに集中もクソもあるかよ」
「——あるんだよ。喋りかけんな、引っ込むだろうが」
煙管の男が笑った。短く。
馬が二頭、杭に繋がれておる。鼻を鳴らし始めた。引いておる。蹄が地を叩いておる。我の匂い。
男は首を傾げた。馬を見た。——首を振った。馬から目を離した。
闇から出た。背後から。片手で口を塞いだ。爪を喉に当てた。引いた。裂いた。肉が開く感触。指の間を熱いものが溢れた。男の体が跳ねた。声が掌の中でくぐもった。地面に降ろした。脚が一度跳ねた。反射。押さえた。
止まるまで。
煙管が手から落ちた。石に当たる前に、足で踏んだ。壁に血。手に血。温かい。
——一。
壁の裏へ回った。
「——おい、葉っぱ寄越せ。ケツがべちゃべちゃだ」
穴。浅い。男がしゃがんでおる。袴が膝まで落ちておる。壁に鉄鋤が立てかけてある。
「——聞こえてねえのか、このクソ耳が」
目が合った。
口が開いた。蹴った。胸の中心を。穴に落ちた。仰向け。頭が縁に当たった。脚が上を向いておる。袴が絡まって膝が開かぬ。腕が壁を掻いておる。浅い穴に嵌まっておる。首が反っておる。
鉄鋤を取った。首に振り下ろした。
刃が喰い込んだ。止まった。骨。足を刃の肩に乗せた。踏んだ。体重をかけた。刃の下で骨が折れた。土に届いた。脚がまだ動いておる。痙攣しておる。穴の縁を蹴っておる。
糞の匂い。血の匂い。混じっておる。
脚が止まった。
——二。
馬が本格的に暴れておる。繋ぎ杭が軋んでおる。蹄が地面を叩いておる。
中から声がした。
「——おい、馬がうるせえぞ。誰か見てこいよ」
「——あいつらまだ外でダベってんだろ。ほっとけ」
数秒。
入り口に寄った。焚き火の光が漏れておる。中を覗いた。火。その手前に男が一人、立っておる。こちらに背を向けておる。火の向こうは煙で滲んでおる。影が動いておる。いくつかは分からぬ。声がくぐもっておる。
入った。
匂いが濃くなった。酒。煮た肉。獣脂の灯り。汗。——酸い匂い。吐瀉物。隅の方。丸くなっておる。震えておる。
脅威ではない。
一番近い男が振り返りかけておる。半歩。まだこちらを見ておらぬ。光が手の甲に当たった。
目が合った。
奴の顔が変わった。口が開きかけた。もう動いておる。奴の目に何かが浮かんだ——遅い。喉に爪を突き立てた。四指を揃えて。皮膚が裂けた。その下の筋。気管が指の下で潰れた。熱い血が掌を叩いた。引き抜いた。奴の手が自分の喉に上がった。指の隙間から泡立った血が溢れておる。声にならぬ。卓に倒れ込んだ。板が滑れた。杯が落ちた。酒がこぼれた。体が床に落ちた。
——三。
音。杯が石に当たる音。板が落ちる音。体。
目。いくつも。火を挟んで。壁際で。卓の影から。
一秒。
完全な静止。呼吸すら止まっておる。火の爆ぜる音だけ。
火の手前の男の口が開いた。
「——魔族だ——!」
部屋が爆発した。
「——武器!武器持ってこい!」
「——ドマ!ドマ!おい!」
「——逃げろ!外だ!外に——」
声。足音。卓がひっくり返った。酒袋が破れた。煙の中で影がぶつかっておる。誰かが転んだ。誰かが踏んだ。叫びが重なって一つの壁になっておる。
——壁の方へ走っておる。一人。
手前。火の横の男が何かを掴んだ。投げた。悪い方の肩に当たった。重い。鱗で弾いた。——熱い。液体が隙間に流れ込んだ。鱗の下に。雪獅子の傷の上を。
——煮汁。鍋の中身。火の匂いと獣脂の匂いが傷口に染みておる。
白い熱が走った。
歯の奥から音が漏れた。足が止まった。一歩分。
詰めた。もう手が空いておる。何も持っておらぬ。腕を上げた——防御。腕を薙いだ。布ごと裂けた。皮膚の下に腱の硬さがあった。骨に爪が擦れた。そのまま胸へ——掻き下ろした。肋が一本ずつ爪の下を通った。柔らかい肉が間で裂けた。四本の溝が開いた。
叫んだ。声ではない音。喉の奥から絞り出された、獣の音。火坑に倒れ込んだ。炭が飛んだ。毛布に火がついた。新しい光。新しい煙。
——四。
我の肩が燃えておる。鱗の下で。まだ。消えぬ。
「——殺せ!囲め!一匹だぞ!」
「——ゴズ!ホッケ!外の奴ら呼んで来い!」
来ぬ。もうおらぬ。
入り口は背の後ろ。火坑が右。奥の壁に影が三つ、四つ——固まっておる。奥で壁を叩く音が始まった。
壁際で手が伸びた。金属が石を擦る音。——剣。掴んだ。抜いた。振り返った。
「——こっち来んな!来んなぁ!」
振った。——広い。遅い。技術がない。
潜った。刃が壁に当たった。石の上で鳴った。火花。男の手が痺れておる。掴んだ。手首と肘。肩が軋んだ。悪い方の。熱がまだ鱗の下に残っておる。
関節の逆に折った。
音。
叫んだ。叫びが言葉に崩れた。
「——やめっ——やめてくれ——頼む——」
引いた。暴れておる。押さえた。背中が我の胸に当たっておる。叫ぶたびに震えが伝わってくる。
「——リク!リク助けて——」
火坑の方を叫んでおる。火坑の中で燃えておる。
——倒れた卓。その下の暗がりに、鼓動が一つ潜んでおる。動かずにおる。待っておる。
石の上で何かが擦れた。低い。卓の下から刃が突き上げてきた。
男を引いた。間に入れた。
衝撃。男の体を通して来た。叫びが途切れた。別の音に変わった。泡立った音。肺の中の音。重くなった。落とした。
——刃の先が抜けてきた。盾を通って。前腕の鱗を叩いた。滑った。隙間に引っかかった。鱗と鱗の間を割って、皮を裂いた。浅い。血が出た。我のだ。
距離を詰めた。爪を薙いだ。横一文字に。顔の中心を通った。鼻の骨で引っかかった。そのまま抉れた。眼窩の縁を爪が削った。骨の上を滑る振動が指に返ってきた。
顔が割れておる。赤い。白い。声ではない音が漏れた。膝から落ちた。
——五。六。
前腕を見た。鱗の隙間が裂けておる。血が手首まで伝っておる。掌に落ちた。温かい。
——止まらぬ。今の体では——傷が塞がらぬ。
毛布が燃えておる。煙が溜まり始めた。部屋の上半分に層を作っておる。目に沁みる。
奥の壁を叩く音。速くなっておる。拳で。爪で。
「——開けろ!どこか——どこか穴が——」
外で馬が悲鳴を上げておる。嗚咽。どこからか。壁際か。卓の裏か。声を殺そうとして殺せておらぬ。
床が滑る。酒と血が混じっておる。転がった杯を踏んだ。砕けた。さっきまでの叫びが消えておる。
ガッ。
背中。両肩の間。何かが叩きつけられた。
前に叩き出された。膝から落ちた。石の床に掌をついた。視界が白くなった。
(——身体が……従わ……)
白が薄れた。まだ床の上におる。我の掌に石の冷たさ。足が見えた。揺れておる。薪か板か——振り被っておる。もう一度。
「——死ね!死ねよこの化け物!」
声が裏返っておる。泣いておるのか叫んでおるのか分からぬ。
尾が動いた。足首を刈った。男が倒れた。膝で乗った。爪を立てた。胸。真下へ。肋の間に指が沈んだ。隙間に滑り込んでおる。体重で押した。手首まで入った。中は熱い。濡れておる。男の体が弓なりに反った。目が開いておる。口が開いておる。ヒュ、と空気が漏れた。胸の中から。口からではない。
——七。
起き上がるのが遅い。一拍、長すぎた。
呼吸しておる。背中の筋肉が固まっておる。燃えておる毛布の下に体がある。布が焦げる匂いが変わった。髪の匂い。肉の匂い。
部屋が静かになっておる。壁を叩く音。嗚咽——さっきより弱い。火の音。それだけ。煙が胸の高さまで降りておる。血と脂と煤——何も嗅ぎ分けられぬ。耳の奥で自分の脈だけが鳴っておる。
立ち上がりかけた。
ドンッ。
床に叩きつけられた。横から。見えなかった。上に乗っておる。我の腕を押さえておる。近すぎて爪が届かぬ。顔が近い。叫んでおる。
「——てめえ!てめえが!皆——皆殺しやがって——」
酒の息。唾。怯えた獣の匂い。——吐瀉物の匂い。
——この匂い。隅で丸くなっておった。震えておった。脅威ではなかった。
肋に膝が入った。板で打たれた側。中で何かがずれた。折れてはおらぬ。たぶん。分からぬ。深く吸うと裂けるように痛い。
尾が見つけた。首に巻いた。締めた。
「——ぁ——がっ——は、離——」
掻いておる。爪で。鱗の上を。顔が赤い。紫になった。手が弱くなった。鱗を叩いておる。弱く。弱く。
ヒュ——……ヒュ——……
——止まった。
体を転がした。立とうとした。応えなかった。もう一度。脚が震えておる。見えるほどに。
——八。
(……立て)
肋が軋んでおる。息が浅い。深く吸えぬ。
部屋が変わっておる。煙が濃くなっておる。火が荷物に燃え移った。熱が右から押してくる。壁際が燃えておる。倒れた体。煤。煙。半分が塞がっておる。足元が滑る。血と脂と酒が石の床を光らせておる。燃えておる毛布の端を踏んだ。火が足首に触れた。退がった。
静かになっておる。叫び声がない。壁を叩く音も止まっておる。火の音。自分の息。どこかで肉が焼けておる匂い。
奥から足音。走ってくる。壁を叩いておった方から。出口がなかったか。我がおる。ここしかない。
こちらを見ておらぬ。入り口を見ておる。
尾が捉えた。巻いた。投げた。壁に叩きつけた。石が欠けた。体が滑り落ちた。
——動いておる。
這っておる。入り口へ。手と膝で。振り返った。我を見た。口が動いておる。何か言っておる。掌をこちらに向けておる。
歩いた。足が重い。倒れた体を跨いだ。血で滑った。堪えた。男の前に立った。まだ手を上げておる。掌がこちらを向いておる。まだ口が動いておる。
爪を振り下ろした。掌を通った。一瞬の抵抗。それだけ。そのまま下の顔に入った。
倒れた。掌がまだ顔に貼りついておる。
——九。
煙が目線まで降りてきておる。屈まなければ前が見えぬ。火が壁際の荷に燃え移った。熱が右側から押してくる。床が光っておる——血と酒と脂が火を映しておる。
静寂。火の音だけ。
残り、一。
壁際の男。煙の向こうにおる。最初からそこにおった。帯の刃物を抜いておる。
動かなかった。ずっと。同じ壁。同じ姿勢。目だけがこちらを追っておった。一度も叫んでおらぬ。一度も逃げようとしておらぬ。
足が据わっておる。刃の握りが正しい。
煙の切れ目からこちらを見ておる。体の向こうと、散った炭の向こうで。目が動いた。腕を。脚を。鱗の隙間を。怯えの中に、別のものが混じった。
——いけると言っておる。その目が。
壁から離れた。回っておる。刃を動かしておる。間合いを測っておる。誘っておる。
来た。鱗で受けた。滑った。手首を掴もうとした。
——握れなかった。肩から指まで繋がっておらぬ。力が途中で死んでおる。
引き抜かれた。退がった。体を踏んだ。躓きかけた。回っておる。また来る。読める。
奴が地面を掴んだ。投げた。目に来た。熱い。視界が潰れた。砂と灰。
来た。腿。鱗の隙間を通った。浅い。だが——三つ目。血が靴の中に入った。足元がぬるい。
目を擦った。涙と灰で滲んでおる。半分しか見えぬ。奴の影が見えた。構えを解いておる。
「——よく持ったな、化け物。その鱗と角、いくらになるかな」
笑っておる。
「——街に持ってきゃ一生遊べるぜ」
奴の目が変わった。いけると確信した目。もう怯えておらぬ。
膝が鳴った。
折れかけた。視界の端が暗い。もう縮まらぬ方へ縮んでおる。指が冷たい。掌の中に何も感じぬ。肺が浅い。吸えぬ。吐くしかできぬ。体が退がろうとしておる。我の意思ではない。
『【サソール・クレクウル!ロク!ヴァシュ!】』
——はい、キョウラン様。
もう退がらなかった。中に入った。
体を捩った。背を向けるように。半身。刃が背中の鱗を叩いた。硬い。弾いた。衝撃だけが肋に響いた。奴の腕が流れておる。振り切った体勢。戻しきれておらぬ。
半歩。
喉を貫いた。指が首の骨を掴んだ。捩った。抜いた。刃を落とした。自分の首に手を当てた。膝をついた。前に倒れた。
——十。
十。
部屋。煙。体。散った炭。石の床の血。燃えておる荷。崩れた卓。壁に飛んだものの跡。
立っておる。かろうじて。
自分の呼吸が聞こえる。荒い。肺の底で鳴っておる。外で馬が叫んでおる。火が爆ぜた。
揺れておる。爪から血が滴っておる。我のではない血と、我の血と。肩が下がっておる——悪い方の。もう上がらぬ。前腕が赤い。背中が固まっておる。肋が呼吸のたびに鳴る。腿から血が伝っておる。
視界が狭くなっておる。端から暗い。
——終わった。
膝が笑っておる。爪先の感覚が薄い。膝が折れかけた。堪えた。なぜ堪えたのか分からぬ。もう立っておる理由がない。
静寂。火の音。自分の息。死んだ者の静けさ。それだけ。
ゼェ……ゼェ……
——足音。入り口から。
頭を……上げた。
(【ヘク】)
(何を……しておる。)
(岩の……裏に……置いた……筈……。)
ゼェ……ゼェ……
弩が上がった。こちらに……向いて……。
(——やはり)
バシュッ——
まだ残っている。木が燃える匂い。その下に——肉が焼けている。
あいつが変わった。
音もなく。一瞬で。姿勢が落ちた。呼吸が消えた。目が違う——色じゃない。奥にあるもの。
背嚢に手を入れた。弩を探った。指が弦に触れた。引き出した。
あいつの手が来た。弩の上に。俺の手の上に。押さえた。
紫の目。
——首を振った。一度。
平手が胸に当たった。硬い。押された。岩の裏へ。訊いていない。命じている。
何も言えなかった。
消えた。
弩を握ったまま、待った。何も聞こえない。風だけ。自分の心臓だけ。
* * *
匂いを読んだ。風が運んでくるものを、一つずつ剥がした。酒。汗。獣脂。煤。
鼓動。一つの方角に、固まっておる。数えた。八。離れて、二つ。
近づいた。
崩れた石の構造が暗がりの中に浮かんでおる。壁の隙間から焚き火の光が漏れておる。声が聞こえる。くぐもっておる。中からだ。煙管の匂い。近い。外に一人。
見えた。壁に寄りかかっておる男。煙管を詰めておる。低い石壁が間にある。腰の高さ。向こう側は見えぬ。声はそちらから来ておる。
「——なあ、街に戻ったら最初に何する」
近づいた。足音を消した。石の上を爪先だけで。
「——知るか。黙ってろ」
「——俺はな、真っ先に女郎屋だ。あの乳のデカいのがまだいるかな」
煙管の男の首筋が見えた。汗と垢の匂い。脈が打っておる。
「——うるせえな、集中できねえだろうが」
「——クソするのに集中もクソもあるかよ」
「——あるんだよ。喋りかけんな、引っ込むだろうが」
煙管の男が笑った。短く。
馬が二頭、杭に繋がれておる。鼻を鳴らし始めた。引いておる。蹄が地を叩いておる。我の匂い。
男は首を傾げた。馬を見た。——首を振った。馬から目を離した。
闇から出た。背後から。片手で口を塞いだ。爪を喉に当てた。引いた。裂いた。肉が開く感触。指の間を熱いものが溢れた。男の体が跳ねた。声が掌の中でくぐもった。地面に降ろした。脚が一度跳ねた。反射。押さえた。
止まるまで。
煙管が手から落ちた。石に当たる前に、足で踏んだ。壁に血。手に血。温かい。
——一。
壁の裏へ回った。
「——おい、葉っぱ寄越せ。ケツがべちゃべちゃだ」
穴。浅い。男がしゃがんでおる。袴が膝まで落ちておる。壁に鉄鋤が立てかけてある。
「——聞こえてねえのか、このクソ耳が」
目が合った。
口が開いた。蹴った。胸の中心を。穴に落ちた。仰向け。頭が縁に当たった。脚が上を向いておる。袴が絡まって膝が開かぬ。腕が壁を掻いておる。浅い穴に嵌まっておる。首が反っておる。
鉄鋤を取った。首に振り下ろした。
刃が喰い込んだ。止まった。骨。足を刃の肩に乗せた。踏んだ。体重をかけた。刃の下で骨が折れた。土に届いた。脚がまだ動いておる。痙攣しておる。穴の縁を蹴っておる。
糞の匂い。血の匂い。混じっておる。
脚が止まった。
——二。
馬が本格的に暴れておる。繋ぎ杭が軋んでおる。蹄が地面を叩いておる。
中から声がした。
「——おい、馬がうるせえぞ。誰か見てこいよ」
「——あいつらまだ外でダベってんだろ。ほっとけ」
数秒。
入り口に寄った。焚き火の光が漏れておる。中を覗いた。火。その手前に男が一人、立っておる。こちらに背を向けておる。火の向こうは煙で滲んでおる。影が動いておる。いくつかは分からぬ。声がくぐもっておる。
入った。
匂いが濃くなった。酒。煮た肉。獣脂の灯り。汗。——酸い匂い。吐瀉物。隅の方。丸くなっておる。震えておる。
脅威ではない。
一番近い男が振り返りかけておる。半歩。まだこちらを見ておらぬ。光が手の甲に当たった。
目が合った。
奴の顔が変わった。口が開きかけた。もう動いておる。奴の目に何かが浮かんだ——遅い。喉に爪を突き立てた。四指を揃えて。皮膚が裂けた。その下の筋。気管が指の下で潰れた。熱い血が掌を叩いた。引き抜いた。奴の手が自分の喉に上がった。指の隙間から泡立った血が溢れておる。声にならぬ。卓に倒れ込んだ。板が滑れた。杯が落ちた。酒がこぼれた。体が床に落ちた。
——三。
音。杯が石に当たる音。板が落ちる音。体。
目。いくつも。火を挟んで。壁際で。卓の影から。
一秒。
完全な静止。呼吸すら止まっておる。火の爆ぜる音だけ。
火の手前の男の口が開いた。
「——魔族だ——!」
部屋が爆発した。
「——武器!武器持ってこい!」
「——ドマ!ドマ!おい!」
「——逃げろ!外だ!外に——」
声。足音。卓がひっくり返った。酒袋が破れた。煙の中で影がぶつかっておる。誰かが転んだ。誰かが踏んだ。叫びが重なって一つの壁になっておる。
——壁の方へ走っておる。一人。
手前。火の横の男が何かを掴んだ。投げた。悪い方の肩に当たった。重い。鱗で弾いた。——熱い。液体が隙間に流れ込んだ。鱗の下に。雪獅子の傷の上を。
——煮汁。鍋の中身。火の匂いと獣脂の匂いが傷口に染みておる。
白い熱が走った。
歯の奥から音が漏れた。足が止まった。一歩分。
詰めた。もう手が空いておる。何も持っておらぬ。腕を上げた——防御。腕を薙いだ。布ごと裂けた。皮膚の下に腱の硬さがあった。骨に爪が擦れた。そのまま胸へ——掻き下ろした。肋が一本ずつ爪の下を通った。柔らかい肉が間で裂けた。四本の溝が開いた。
叫んだ。声ではない音。喉の奥から絞り出された、獣の音。火坑に倒れ込んだ。炭が飛んだ。毛布に火がついた。新しい光。新しい煙。
——四。
我の肩が燃えておる。鱗の下で。まだ。消えぬ。
「——殺せ!囲め!一匹だぞ!」
「——ゴズ!ホッケ!外の奴ら呼んで来い!」
来ぬ。もうおらぬ。
入り口は背の後ろ。火坑が右。奥の壁に影が三つ、四つ——固まっておる。奥で壁を叩く音が始まった。
壁際で手が伸びた。金属が石を擦る音。——剣。掴んだ。抜いた。振り返った。
「——こっち来んな!来んなぁ!」
振った。——広い。遅い。技術がない。
潜った。刃が壁に当たった。石の上で鳴った。火花。男の手が痺れておる。掴んだ。手首と肘。肩が軋んだ。悪い方の。熱がまだ鱗の下に残っておる。
関節の逆に折った。
音。
叫んだ。叫びが言葉に崩れた。
「——やめっ——やめてくれ——頼む——」
引いた。暴れておる。押さえた。背中が我の胸に当たっておる。叫ぶたびに震えが伝わってくる。
「——リク!リク助けて——」
火坑の方を叫んでおる。火坑の中で燃えておる。
——倒れた卓。その下の暗がりに、鼓動が一つ潜んでおる。動かずにおる。待っておる。
石の上で何かが擦れた。低い。卓の下から刃が突き上げてきた。
男を引いた。間に入れた。
衝撃。男の体を通して来た。叫びが途切れた。別の音に変わった。泡立った音。肺の中の音。重くなった。落とした。
——刃の先が抜けてきた。盾を通って。前腕の鱗を叩いた。滑った。隙間に引っかかった。鱗と鱗の間を割って、皮を裂いた。浅い。血が出た。我のだ。
距離を詰めた。爪を薙いだ。横一文字に。顔の中心を通った。鼻の骨で引っかかった。そのまま抉れた。眼窩の縁を爪が削った。骨の上を滑る振動が指に返ってきた。
顔が割れておる。赤い。白い。声ではない音が漏れた。膝から落ちた。
——五。六。
前腕を見た。鱗の隙間が裂けておる。血が手首まで伝っておる。掌に落ちた。温かい。
——止まらぬ。今の体では——傷が塞がらぬ。
毛布が燃えておる。煙が溜まり始めた。部屋の上半分に層を作っておる。目に沁みる。
奥の壁を叩く音。速くなっておる。拳で。爪で。
「——開けろ!どこか——どこか穴が——」
外で馬が悲鳴を上げておる。嗚咽。どこからか。壁際か。卓の裏か。声を殺そうとして殺せておらぬ。
床が滑る。酒と血が混じっておる。転がった杯を踏んだ。砕けた。さっきまでの叫びが消えておる。
ガッ。
背中。両肩の間。何かが叩きつけられた。
前に叩き出された。膝から落ちた。石の床に掌をついた。視界が白くなった。
(——身体が……従わ……)
白が薄れた。まだ床の上におる。我の掌に石の冷たさ。足が見えた。揺れておる。薪か板か——振り被っておる。もう一度。
「——死ね!死ねよこの化け物!」
声が裏返っておる。泣いておるのか叫んでおるのか分からぬ。
尾が動いた。足首を刈った。男が倒れた。膝で乗った。爪を立てた。胸。真下へ。肋の間に指が沈んだ。隙間に滑り込んでおる。体重で押した。手首まで入った。中は熱い。濡れておる。男の体が弓なりに反った。目が開いておる。口が開いておる。ヒュ、と空気が漏れた。胸の中から。口からではない。
——七。
起き上がるのが遅い。一拍、長すぎた。
呼吸しておる。背中の筋肉が固まっておる。燃えておる毛布の下に体がある。布が焦げる匂いが変わった。髪の匂い。肉の匂い。
部屋が静かになっておる。壁を叩く音。嗚咽——さっきより弱い。火の音。それだけ。煙が胸の高さまで降りておる。血と脂と煤——何も嗅ぎ分けられぬ。耳の奥で自分の脈だけが鳴っておる。
立ち上がりかけた。
ドンッ。
床に叩きつけられた。横から。見えなかった。上に乗っておる。我の腕を押さえておる。近すぎて爪が届かぬ。顔が近い。叫んでおる。
「——てめえ!てめえが!皆——皆殺しやがって——」
酒の息。唾。怯えた獣の匂い。——吐瀉物の匂い。
——この匂い。隅で丸くなっておった。震えておった。脅威ではなかった。
肋に膝が入った。板で打たれた側。中で何かがずれた。折れてはおらぬ。たぶん。分からぬ。深く吸うと裂けるように痛い。
尾が見つけた。首に巻いた。締めた。
「——ぁ——がっ——は、離——」
掻いておる。爪で。鱗の上を。顔が赤い。紫になった。手が弱くなった。鱗を叩いておる。弱く。弱く。
ヒュ——……ヒュ——……
——止まった。
体を転がした。立とうとした。応えなかった。もう一度。脚が震えておる。見えるほどに。
——八。
(……立て)
肋が軋んでおる。息が浅い。深く吸えぬ。
部屋が変わっておる。煙が濃くなっておる。火が荷物に燃え移った。熱が右から押してくる。壁際が燃えておる。倒れた体。煤。煙。半分が塞がっておる。足元が滑る。血と脂と酒が石の床を光らせておる。燃えておる毛布の端を踏んだ。火が足首に触れた。退がった。
静かになっておる。叫び声がない。壁を叩く音も止まっておる。火の音。自分の息。どこかで肉が焼けておる匂い。
奥から足音。走ってくる。壁を叩いておった方から。出口がなかったか。我がおる。ここしかない。
こちらを見ておらぬ。入り口を見ておる。
尾が捉えた。巻いた。投げた。壁に叩きつけた。石が欠けた。体が滑り落ちた。
——動いておる。
這っておる。入り口へ。手と膝で。振り返った。我を見た。口が動いておる。何か言っておる。掌をこちらに向けておる。
歩いた。足が重い。倒れた体を跨いだ。血で滑った。堪えた。男の前に立った。まだ手を上げておる。掌がこちらを向いておる。まだ口が動いておる。
爪を振り下ろした。掌を通った。一瞬の抵抗。それだけ。そのまま下の顔に入った。
倒れた。掌がまだ顔に貼りついておる。
——九。
煙が目線まで降りてきておる。屈まなければ前が見えぬ。火が壁際の荷に燃え移った。熱が右側から押してくる。床が光っておる——血と酒と脂が火を映しておる。
静寂。火の音だけ。
残り、一。
壁際の男。煙の向こうにおる。最初からそこにおった。帯の刃物を抜いておる。
動かなかった。ずっと。同じ壁。同じ姿勢。目だけがこちらを追っておった。一度も叫んでおらぬ。一度も逃げようとしておらぬ。
足が据わっておる。刃の握りが正しい。
煙の切れ目からこちらを見ておる。体の向こうと、散った炭の向こうで。目が動いた。腕を。脚を。鱗の隙間を。怯えの中に、別のものが混じった。
——いけると言っておる。その目が。
壁から離れた。回っておる。刃を動かしておる。間合いを測っておる。誘っておる。
来た。鱗で受けた。滑った。手首を掴もうとした。
——握れなかった。肩から指まで繋がっておらぬ。力が途中で死んでおる。
引き抜かれた。退がった。体を踏んだ。躓きかけた。回っておる。また来る。読める。
奴が地面を掴んだ。投げた。目に来た。熱い。視界が潰れた。砂と灰。
来た。腿。鱗の隙間を通った。浅い。だが——三つ目。血が靴の中に入った。足元がぬるい。
目を擦った。涙と灰で滲んでおる。半分しか見えぬ。奴の影が見えた。構えを解いておる。
「——よく持ったな、化け物。その鱗と角、いくらになるかな」
笑っておる。
「——街に持ってきゃ一生遊べるぜ」
奴の目が変わった。いけると確信した目。もう怯えておらぬ。
膝が鳴った。
折れかけた。視界の端が暗い。もう縮まらぬ方へ縮んでおる。指が冷たい。掌の中に何も感じぬ。肺が浅い。吸えぬ。吐くしかできぬ。体が退がろうとしておる。我の意思ではない。
『【サソール・クレクウル!ロク!ヴァシュ!】』
——はい、キョウラン様。
もう退がらなかった。中に入った。
体を捩った。背を向けるように。半身。刃が背中の鱗を叩いた。硬い。弾いた。衝撃だけが肋に響いた。奴の腕が流れておる。振り切った体勢。戻しきれておらぬ。
半歩。
喉を貫いた。指が首の骨を掴んだ。捩った。抜いた。刃を落とした。自分の首に手を当てた。膝をついた。前に倒れた。
——十。
十。
部屋。煙。体。散った炭。石の床の血。燃えておる荷。崩れた卓。壁に飛んだものの跡。
立っておる。かろうじて。
自分の呼吸が聞こえる。荒い。肺の底で鳴っておる。外で馬が叫んでおる。火が爆ぜた。
揺れておる。爪から血が滴っておる。我のではない血と、我の血と。肩が下がっておる——悪い方の。もう上がらぬ。前腕が赤い。背中が固まっておる。肋が呼吸のたびに鳴る。腿から血が伝っておる。
視界が狭くなっておる。端から暗い。
——終わった。
膝が笑っておる。爪先の感覚が薄い。膝が折れかけた。堪えた。なぜ堪えたのか分からぬ。もう立っておる理由がない。
静寂。火の音。自分の息。死んだ者の静けさ。それだけ。
ゼェ……ゼェ……
——足音。入り口から。
頭を……上げた。
(【ヘク】)
(何を……しておる。)
(岩の……裏に……置いた……筈……。)
ゼェ……ゼェ……
弩が上がった。こちらに……向いて……。
(——やはり)
バシュッ——
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