第26話:残り熱
ー/ー 杖を突いた。足を引きずった。
灰色の丘が広がっていた。風に削られた尾根。頁岩の斜面。まばらな枯れ草。低い雲が稜線に被さって、空との境目が消えている。
最初の二日は最悪だった。胸の中で、あいつの血と聖蝕がせめぎ合っていた。熱いのか冷たいのか分からない。体がきしんで、歩くたびに吐きそうになった。
(やめろ……頼むから、どっちか勝て……)
あいつはまっすぐ歩かない。柔らかい地面を避ける。泥。雪。足跡が残るものは全部。岩場を選ぶ。沢があれば水の中を行く。尾根に出れば風が強い方を選ぶ。
だがこいつは歩きながらやっている。前を見て、後ろを確かめて、地面を選んで。同時に。休まずに。半分壊れた体で。
何度も立ち止まった。振り返る。鼻をひくつかせる。来た道の方を向いている。俺も振り返った。何も見えない。灰色の尾根が重なっているだけだ。その間の谷は暗い。
それが余計に嫌だった。
* * *
最初の夜。
あいつが選んだ場所。窪みじゃない。見晴らしのいい岩陰。背中に岩壁。左右に逃げ道。尾根の上だ。いつも通り。
火は焚けなかった。
(……煙か)
毛布は一枚。俺のだ。共有した。背中合わせ。あいつの肩甲骨が背中に当たっている。硬い。鱗の感触。
深夜。寒さで起きた。あいつはもう座っていた。来た方向を向いている。耳がわずかに動いている。
いつから起きていた。
——最初から寝ていなかったのかもしれない。
* * *
あいつが何か仕留めて戻ってきた。小さい。兎か山鼠か。もう腸は抜いてある。
火を起こした。今夜は風向きがいいのか、あいつが頷いた。俺の仕事だ。力は要らない。手順だけ。裂いて、二つに分けた。大きい方を差し出した。
あいつの手が伸びた。——俺の手を避けた。もう片方の手から、小さい方を取った。
俺の手が止まった。大きい方を突き出したまま。何も言わない。紫の目が火を見ている。もう食い始めている。
(——化物かよ)
……化物だ。
昔、同じことをした。ライラがガキの頃。食い物を分ける時、多い方を渡した。あいつはいつも気づかない振りをした。
今、俺がされている。
食った。
* * *
その夜。
あいつの肩が目に入った。布の下が濡れている。滲んでいるのか、汗か。分からない。だが匂いが変わっている。
背嚢から布を出した。水袋を取った。あいつの前にしゃがんだ。布を持ち上げて見せた。肩を指した。
間。
紫の目が俺の手を見ている。布を。水袋を。顔を背けた。
古い布を外した。雪獅子の傷。左肩。塞がっているが、縁が黒ずんでいる。きれいじゃない。傷の周りの鱗が浮いていた。乾いた土みたいに。布を湿らせて、拭いた。薬草はない。苔もない。水で拭いて、巻き直す。それだけだ。指先に熱があった。
巻き直した。尾だけが一度、地面を叩いた。
手首が見えた。あの布。まだ巻いたままだ。血の色が黒ずんでいる。
手を伸ばした。
引いた。手首を膝の下に隠した。
目が合った。
手を下ろした。
その夜も、あいつが先に見張りに立った。俺が目を閉じる前に、もう来た道の方を向いていた。
* * *
朝。起きた。
あいつが焚き火の灰を砂で埋めていた。火を焚いた跡すら残さない。その横に、鳥が一羽置いてあった。小さい。羽が毟られて、中身も処理されている。
いつ狩った。俺が寝ている間に、見張りをしながら、狩りまでしたのか。
(——こいつは、いつ寝てるんだ)
体が軽い。昨日より。あの冷たさが遠い。
陽が出た。朝は霜が降りていた。昼には溶けた。空が青い。薄い。冬の終わりの色。雪が日陰にだけ残っていた。地面から湿った土の匂いがする。
丘が低くなり始めていた。尾根の間隔が狭くなって、谷が深くなっている。谷底の白樺が、前より太い。密になっている。
足元の泥の割れ目から、何か小さいものが頭を出していた。花だ。
あいつが一度、顔を上げた。空に向けて。目を閉じて。
——やめた。こっちを見て、目を逸らして、歩き出した。
* * *
午後から、あいつの歩き方が変わった。
尾根を降りた。
初めてだった。何日も——もっとか。ずっと上を歩いてきた。それを捨てた。斜面を下って、谷筋に入った。
空気が変わった。風が消えた。湿気がまとわりつく。白樺。松。枯れた下草。苔むした岩。倒木が道を塞いでいる。目が慣れない。暗い。空が木の枝で細切れになっている。
あいつは低地を行く。木の陰。岩の陰。地形に体を隠すように。後ろだけじゃない。前も見ている。
(——人の領域に近づいてるのか)
沢を見つけた。岩の間を流れ落ちてくる、細い水。冷たい。澄んでいる。膝をついた。両手ですくって、顔ごと突っ込んだ。頭の芯まで痛い。石の味がした。泥じゃない。それだけで十分だった。
深く飲んだ。水袋を満たした。手が悴んでいる。それだけのことが、とんでもない贅沢に感じた。
あいつも飲んだ。少しだけ。膝をついている間も、目が止まらない。
——硬直した。
頭が跳ね上がった。鼻孔が広がる。俺の腕を掴んだ。爪が布を通して食い込む。引きずられた。倒木の裏へ。苔で滑る幹に背中を押し付けられた。水がまだ手から滴っている。
(——何だ)
何も聞こえない。沢の音だけ。あいつは動かない。耳がわずかに動いている。呼吸を殺している。尾が脚に巻きついている。きつく。
——聞こえた。
声。人間の声。風に乗って。
「——だから下の古道を使えばよかったんだ——」
「——車軸がもてばの話だろうが——」
商人だ。荷車の軋み。驢馬の鼻息。谷の上——尾根の方だ。さっきまで俺たちがいた場所。
胃の底が冷えた。
(——あいつを見られたら)
声が近づいた。大きくなった。通り過ぎていく。遠ざかっていく。消えた。
まだ、あいつの手が腕を掴んでいる。
待った。脚が痙攣し始めた。湿気が服に染み込んでくる。沢の音が、静寂の中でやけに大きく聞こえる。
ようやく、握りが緩んだ。頭を傾けて、何かを確認して。一度頷いた。
倒木の裏から這い出た。体が硬い。冷えている。脚を伸ばした。痙攣した方の膝を揉んだ。手が震えている。寒さか、それとも——分からない。
* * *
立ち上がろうとして、足元に目が行った。
沢の脇。湿った土と朽ちた丸太の間。キノコ。密に群生している。腐った切り株の根元に群がって、暗い土を押し上げて生えている。
茶色い、ずんぐりしたやつ。傘が広くて丸い。影耳だ。その横に、淡い色のやつ。背が高くて細い。半透明の傘。
腹が鳴った。
(——食えるものがある)
膝をついた。手が動いた。影耳は簡単だ。形も色も間違えようがない。しっかりした肉。土の匂い。ガキの頃から採ってきた。淡い方。一つ取った。癖でひっくり返した。傘の裏のひだ。乾いている。クリーム色。きれいだ。金笠。食える。
小さな山にした。一つずつ。裏を確認して。
顔を上げた。
あいつが、もう採っていた。俺より速い。すでに小さな山を作っている。影耳と、淡い色のやつ。
——手が止まった。
あいつは裏を見ていない。色と形だけで選んで、そのまま積んでいる。
(——待て)
手を伸ばした。あいつの山から淡いやつを一つ取った。ひっくり返した。ひだの間に、黄色い滲み。湿っている。粘りがある。
黄油笠。
胃が締まった。
(——こいつの山の半分が……)
——それで、裏も見ずにキノコを積んでいる。
あいつの手首を掴んだ。
紫の目が上がった。何をする、という目。尾の先が跳ねた。
黄油笠を持ち上げた。もう片手で自分の山から金笠を一つ取った。並べた。上から見たら、同じだ。同じ色。同じ大きさ。同じ形。
金笠をひっくり返した。ひだを指した。乾いている。きれい。黄油笠をひっくり返した。ひだの間の黄色い滲みを指した。指で触れた。粘りつく。鼻に刺す匂い。地面で指を拭った。
喉に手を当てた。斬る仕草。
あいつの目が動いた。金笠と黄油笠の間を。裏のひだに視線が落ちた。
自分の山に手を伸ばした。一つ取って、鼻に近づけた。嗅いだ。ひっくり返した。黄色い。——投げ捨てた。次。嗅いだ。ひっくり返した。きれい。——残した。次。黄色い。——捨てた。
速い。一度理解したら、迷わない。匂いで大半を仕分けて、裏で確認している。捕食者の順番。
終わると、俺を見た。
捨てた山を指した。「——【ヴィルイク】」
残した山を指した。「——【タルニク】」
(——毒と、食えるもの、か)
頷いた。残した山を指した。口に何かを入れる仕草をした。「——食える」
捨てた山を指した。喉を押さえて、顔を歪めた。「——毒」
あいつの目がわずかに動いた。音を拾っている。
「……ドク」
「……クエル」
発音が硬い。だが——合っている。
「【ヴィルイク】」
俺の番だ。舌に乗せた。音の流れが俺の言葉と違う。「……【ヴィルイク】」
「【タルニク】」
「……【タルニク】」
あいつが一度頷いた。キノコの選別に戻った。
* * *
小枝を削って串にした。影耳を厚く切って刺した。金笠はそのまま。火に翳した。脂が落ちて、煙が上がる。土の匂いが松の煙と混ざった。
あいつは火の向こうに座って、俺の手元を見ていた。キノコの焼き方を知らない目。
焼けた。串ごと渡した。今度は、大きさを選ばなかった。渡したものを、そのまま食った。
俺も食った。歯応えがあった。温かかった。肉じゃない。だが根っこや干し肉とは違う。まともな食い物の味がした。腹の底に落ちていく重さ。いつ以来だ。
* * *
次の日も歩いた。谷が深くなっていく。白樺が減って、松が増えた。幹が太い。根が岩を抱いている。
地図を広げた。畳んだ。また広げた。
印がある。自分でつけたものだ。川の合流点の近く、山の記号の隙間に、小さな点。その横に走り書き。二十年近く前の俺の字。
羅針盤を横に置いた。方角は合っている。この谷筋の先のはずだ。
(——はずだ)
あいつが足を止めた。振り返っている。顔を上げた。指で方角を示した。——あっちだ。あいつは俺の顔を見て、地図を見て、俺が指した方向を見た。
歩き出した。俺が指した方向へ。
谷が狭くなる。斜面がきつくなる。松の間隔が詰まって、足元は根と落ち葉で埋まっている。
地図を畳んだ。ここから先は点の一つしか描いてない。使えるのは記憶だけだ。二十年前。一度だけ来た。覚えているのは地形だ。谷の入り口が狭くて、両側から岩壁が迫っていた。手前に松が並んでいた。捩れた幹。石を積んだ道の跡。
だが二十年だ。木が育って、道が消えて、岩が崩れて、土が被さっている。
(——見つけられるのか)
振り返った。あいつが後ろにいる。肩が傾いでいる。
(——何もなかったら、喉を裂かれるな)
前を向いた。
斜面が急になった。割れた岩の間に棘のある灌木が這い回っている。足元に石の破片。自然に割れたものじゃない。角が直線的すぎる。人が積んだ石が崩れたもの。道だったもの。土と蔓に半分以上食われている。
(——ある)
心臓が少し速くなった。抑えた。まだ早い。
足元から目を上げた。斜面の先、松の向こうに——谷の入り口が見えた。左右から岩壁が迫っている。暗い。狭い。記憶の通りだ。
だがまだ遠い。ここからは見えない。中に何があるか。二十年の間に何が起きたか。崩れたかもしれない。水に流されたかもしれない。誰かに見つかったかもしれない。
(——もしなかったら)
あいつの肩が視界の端にあった。傾いでいる。三歩に一度。
(——あいつが全部払った代価で、俺が連れてきた場所に、何もなかったら)
灌木を越えた。石の破片が増えた。斜面に張り付くように崩れた壁の残骸。苔に覆われて、半分は地面と一体化している。だが——石組みだ。人の手が積んだ石。
風に捩れた松の群れ。数えた。七本。
(——合ってる)
その先に——枝の間から、石。苔。古い壁の一部。古い。崩れかけている。だが——ある。
息を吐いた。拳を握って、開いた。
あいつの気配が変わった。重心がさらに低くなった。歩幅がさらに縮んだ。俺の体が変わったのを読んだのか。
近づいた。谷の口が大きくなる。灰色の地衣類に覆われた岩壁。裂け目の奥は暗い。
(——まだだ。もう少し近づけば見える。中が残っているかどうか——)
あいつが止まった。鼻が動いた。
俺も嗅いだ。
煙。かすかに。風の下に。木が燃えている匂い。その奥に——肉が焼ける匂い。
足が止まった。
胃の底が冷えた。
(——誰かいる)
灰色の丘が広がっていた。風に削られた尾根。頁岩の斜面。まばらな枯れ草。低い雲が稜線に被さって、空との境目が消えている。
最初の二日は最悪だった。胸の中で、あいつの血と聖蝕がせめぎ合っていた。熱いのか冷たいのか分からない。体がきしんで、歩くたびに吐きそうになった。
(やめろ……頼むから、どっちか勝て……)
あいつはまっすぐ歩かない。柔らかい地面を避ける。泥。雪。足跡が残るものは全部。岩場を選ぶ。沢があれば水の中を行く。尾根に出れば風が強い方を選ぶ。
だがこいつは歩きながらやっている。前を見て、後ろを確かめて、地面を選んで。同時に。休まずに。半分壊れた体で。
何度も立ち止まった。振り返る。鼻をひくつかせる。来た道の方を向いている。俺も振り返った。何も見えない。灰色の尾根が重なっているだけだ。その間の谷は暗い。
それが余計に嫌だった。
* * *
最初の夜。
あいつが選んだ場所。窪みじゃない。見晴らしのいい岩陰。背中に岩壁。左右に逃げ道。尾根の上だ。いつも通り。
火は焚けなかった。
(……煙か)
毛布は一枚。俺のだ。共有した。背中合わせ。あいつの肩甲骨が背中に当たっている。硬い。鱗の感触。
深夜。寒さで起きた。あいつはもう座っていた。来た方向を向いている。耳がわずかに動いている。
いつから起きていた。
——最初から寝ていなかったのかもしれない。
* * *
あいつが何か仕留めて戻ってきた。小さい。兎か山鼠か。もう腸は抜いてある。
火を起こした。今夜は風向きがいいのか、あいつが頷いた。俺の仕事だ。力は要らない。手順だけ。裂いて、二つに分けた。大きい方を差し出した。
あいつの手が伸びた。——俺の手を避けた。もう片方の手から、小さい方を取った。
俺の手が止まった。大きい方を突き出したまま。何も言わない。紫の目が火を見ている。もう食い始めている。
(——化物かよ)
……化物だ。
昔、同じことをした。ライラがガキの頃。食い物を分ける時、多い方を渡した。あいつはいつも気づかない振りをした。
今、俺がされている。
食った。
* * *
その夜。
あいつの肩が目に入った。布の下が濡れている。滲んでいるのか、汗か。分からない。だが匂いが変わっている。
背嚢から布を出した。水袋を取った。あいつの前にしゃがんだ。布を持ち上げて見せた。肩を指した。
間。
紫の目が俺の手を見ている。布を。水袋を。顔を背けた。
古い布を外した。雪獅子の傷。左肩。塞がっているが、縁が黒ずんでいる。きれいじゃない。傷の周りの鱗が浮いていた。乾いた土みたいに。布を湿らせて、拭いた。薬草はない。苔もない。水で拭いて、巻き直す。それだけだ。指先に熱があった。
巻き直した。尾だけが一度、地面を叩いた。
手首が見えた。あの布。まだ巻いたままだ。血の色が黒ずんでいる。
手を伸ばした。
引いた。手首を膝の下に隠した。
目が合った。
手を下ろした。
その夜も、あいつが先に見張りに立った。俺が目を閉じる前に、もう来た道の方を向いていた。
* * *
朝。起きた。
あいつが焚き火の灰を砂で埋めていた。火を焚いた跡すら残さない。その横に、鳥が一羽置いてあった。小さい。羽が毟られて、中身も処理されている。
いつ狩った。俺が寝ている間に、見張りをしながら、狩りまでしたのか。
(——こいつは、いつ寝てるんだ)
体が軽い。昨日より。あの冷たさが遠い。
陽が出た。朝は霜が降りていた。昼には溶けた。空が青い。薄い。冬の終わりの色。雪が日陰にだけ残っていた。地面から湿った土の匂いがする。
丘が低くなり始めていた。尾根の間隔が狭くなって、谷が深くなっている。谷底の白樺が、前より太い。密になっている。
足元の泥の割れ目から、何か小さいものが頭を出していた。花だ。
あいつが一度、顔を上げた。空に向けて。目を閉じて。
——やめた。こっちを見て、目を逸らして、歩き出した。
* * *
午後から、あいつの歩き方が変わった。
尾根を降りた。
初めてだった。何日も——もっとか。ずっと上を歩いてきた。それを捨てた。斜面を下って、谷筋に入った。
空気が変わった。風が消えた。湿気がまとわりつく。白樺。松。枯れた下草。苔むした岩。倒木が道を塞いでいる。目が慣れない。暗い。空が木の枝で細切れになっている。
あいつは低地を行く。木の陰。岩の陰。地形に体を隠すように。後ろだけじゃない。前も見ている。
(——人の領域に近づいてるのか)
沢を見つけた。岩の間を流れ落ちてくる、細い水。冷たい。澄んでいる。膝をついた。両手ですくって、顔ごと突っ込んだ。頭の芯まで痛い。石の味がした。泥じゃない。それだけで十分だった。
深く飲んだ。水袋を満たした。手が悴んでいる。それだけのことが、とんでもない贅沢に感じた。
あいつも飲んだ。少しだけ。膝をついている間も、目が止まらない。
——硬直した。
頭が跳ね上がった。鼻孔が広がる。俺の腕を掴んだ。爪が布を通して食い込む。引きずられた。倒木の裏へ。苔で滑る幹に背中を押し付けられた。水がまだ手から滴っている。
(——何だ)
何も聞こえない。沢の音だけ。あいつは動かない。耳がわずかに動いている。呼吸を殺している。尾が脚に巻きついている。きつく。
——聞こえた。
声。人間の声。風に乗って。
「——だから下の古道を使えばよかったんだ——」
「——車軸がもてばの話だろうが——」
商人だ。荷車の軋み。驢馬の鼻息。谷の上——尾根の方だ。さっきまで俺たちがいた場所。
胃の底が冷えた。
(——あいつを見られたら)
声が近づいた。大きくなった。通り過ぎていく。遠ざかっていく。消えた。
まだ、あいつの手が腕を掴んでいる。
待った。脚が痙攣し始めた。湿気が服に染み込んでくる。沢の音が、静寂の中でやけに大きく聞こえる。
ようやく、握りが緩んだ。頭を傾けて、何かを確認して。一度頷いた。
倒木の裏から這い出た。体が硬い。冷えている。脚を伸ばした。痙攣した方の膝を揉んだ。手が震えている。寒さか、それとも——分からない。
* * *
立ち上がろうとして、足元に目が行った。
沢の脇。湿った土と朽ちた丸太の間。キノコ。密に群生している。腐った切り株の根元に群がって、暗い土を押し上げて生えている。
茶色い、ずんぐりしたやつ。傘が広くて丸い。影耳だ。その横に、淡い色のやつ。背が高くて細い。半透明の傘。
腹が鳴った。
(——食えるものがある)
膝をついた。手が動いた。影耳は簡単だ。形も色も間違えようがない。しっかりした肉。土の匂い。ガキの頃から採ってきた。淡い方。一つ取った。癖でひっくり返した。傘の裏のひだ。乾いている。クリーム色。きれいだ。金笠。食える。
小さな山にした。一つずつ。裏を確認して。
顔を上げた。
あいつが、もう採っていた。俺より速い。すでに小さな山を作っている。影耳と、淡い色のやつ。
——手が止まった。
あいつは裏を見ていない。色と形だけで選んで、そのまま積んでいる。
(——待て)
手を伸ばした。あいつの山から淡いやつを一つ取った。ひっくり返した。ひだの間に、黄色い滲み。湿っている。粘りがある。
黄油笠。
胃が締まった。
(——こいつの山の半分が……)
——それで、裏も見ずにキノコを積んでいる。
あいつの手首を掴んだ。
紫の目が上がった。何をする、という目。尾の先が跳ねた。
黄油笠を持ち上げた。もう片手で自分の山から金笠を一つ取った。並べた。上から見たら、同じだ。同じ色。同じ大きさ。同じ形。
金笠をひっくり返した。ひだを指した。乾いている。きれい。黄油笠をひっくり返した。ひだの間の黄色い滲みを指した。指で触れた。粘りつく。鼻に刺す匂い。地面で指を拭った。
喉に手を当てた。斬る仕草。
あいつの目が動いた。金笠と黄油笠の間を。裏のひだに視線が落ちた。
自分の山に手を伸ばした。一つ取って、鼻に近づけた。嗅いだ。ひっくり返した。黄色い。——投げ捨てた。次。嗅いだ。ひっくり返した。きれい。——残した。次。黄色い。——捨てた。
速い。一度理解したら、迷わない。匂いで大半を仕分けて、裏で確認している。捕食者の順番。
終わると、俺を見た。
捨てた山を指した。「——【ヴィルイク】」
残した山を指した。「——【タルニク】」
(——毒と、食えるもの、か)
頷いた。残した山を指した。口に何かを入れる仕草をした。「——食える」
捨てた山を指した。喉を押さえて、顔を歪めた。「——毒」
あいつの目がわずかに動いた。音を拾っている。
「……ドク」
「……クエル」
発音が硬い。だが——合っている。
「【ヴィルイク】」
俺の番だ。舌に乗せた。音の流れが俺の言葉と違う。「……【ヴィルイク】」
「【タルニク】」
「……【タルニク】」
あいつが一度頷いた。キノコの選別に戻った。
* * *
小枝を削って串にした。影耳を厚く切って刺した。金笠はそのまま。火に翳した。脂が落ちて、煙が上がる。土の匂いが松の煙と混ざった。
あいつは火の向こうに座って、俺の手元を見ていた。キノコの焼き方を知らない目。
焼けた。串ごと渡した。今度は、大きさを選ばなかった。渡したものを、そのまま食った。
俺も食った。歯応えがあった。温かかった。肉じゃない。だが根っこや干し肉とは違う。まともな食い物の味がした。腹の底に落ちていく重さ。いつ以来だ。
* * *
次の日も歩いた。谷が深くなっていく。白樺が減って、松が増えた。幹が太い。根が岩を抱いている。
地図を広げた。畳んだ。また広げた。
印がある。自分でつけたものだ。川の合流点の近く、山の記号の隙間に、小さな点。その横に走り書き。二十年近く前の俺の字。
羅針盤を横に置いた。方角は合っている。この谷筋の先のはずだ。
(——はずだ)
あいつが足を止めた。振り返っている。顔を上げた。指で方角を示した。——あっちだ。あいつは俺の顔を見て、地図を見て、俺が指した方向を見た。
歩き出した。俺が指した方向へ。
谷が狭くなる。斜面がきつくなる。松の間隔が詰まって、足元は根と落ち葉で埋まっている。
地図を畳んだ。ここから先は点の一つしか描いてない。使えるのは記憶だけだ。二十年前。一度だけ来た。覚えているのは地形だ。谷の入り口が狭くて、両側から岩壁が迫っていた。手前に松が並んでいた。捩れた幹。石を積んだ道の跡。
だが二十年だ。木が育って、道が消えて、岩が崩れて、土が被さっている。
(——見つけられるのか)
振り返った。あいつが後ろにいる。肩が傾いでいる。
(——何もなかったら、喉を裂かれるな)
前を向いた。
斜面が急になった。割れた岩の間に棘のある灌木が這い回っている。足元に石の破片。自然に割れたものじゃない。角が直線的すぎる。人が積んだ石が崩れたもの。道だったもの。土と蔓に半分以上食われている。
(——ある)
心臓が少し速くなった。抑えた。まだ早い。
足元から目を上げた。斜面の先、松の向こうに——谷の入り口が見えた。左右から岩壁が迫っている。暗い。狭い。記憶の通りだ。
だがまだ遠い。ここからは見えない。中に何があるか。二十年の間に何が起きたか。崩れたかもしれない。水に流されたかもしれない。誰かに見つかったかもしれない。
(——もしなかったら)
あいつの肩が視界の端にあった。傾いでいる。三歩に一度。
(——あいつが全部払った代価で、俺が連れてきた場所に、何もなかったら)
灌木を越えた。石の破片が増えた。斜面に張り付くように崩れた壁の残骸。苔に覆われて、半分は地面と一体化している。だが——石組みだ。人の手が積んだ石。
風に捩れた松の群れ。数えた。七本。
(——合ってる)
その先に——枝の間から、石。苔。古い壁の一部。古い。崩れかけている。だが——ある。
息を吐いた。拳を握って、開いた。
あいつの気配が変わった。重心がさらに低くなった。歩幅がさらに縮んだ。俺の体が変わったのを読んだのか。
近づいた。谷の口が大きくなる。灰色の地衣類に覆われた岩壁。裂け目の奥は暗い。
(——まだだ。もう少し近づけば見える。中が残っているかどうか——)
あいつが止まった。鼻が動いた。
俺も嗅いだ。
煙。かすかに。風の下に。木が燃えている匂い。その奥に——肉が焼ける匂い。
足が止まった。
胃の底が冷えた。
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