第25話:最初の一歩
ー/ー 熱い。
体の奥から、何かが脈打っている。血管の内側を這っている。凍えた体で湯屋に浸かった時みたいだ。痛いほど熱い。——なのに、焼けない。指先まで。骨の髄まで。心臓が打つたびに、そいつが押し出されていく。全身に。
俺のものじゃない。
冷たさがない。何年も骨の奥にいた、あの冷たい炎が消えてる。代わりに、この熱が。
口の中に味がする。喉の奥にまとわりついている。生々しい。名前がない。吐き気が押し上げてくる。
目が開いた。
岩。灰色。低い。知らない天井。
体が——ひどい。階段から蹴り落とされた後みたいだ。関節が軋んでいる。頭蓋骨の内側がずきずきと脈打つ。筋肉が、全部、絞り切った雑巾。
(……なんで俺は生きてる)
薬はとうに切れていた。あの段階で。とっくに死んでるはずだ。なのに天井を見ている。息をしている。この——何だか分からない熱が、俺の血管の中を流れている。
最後に覚えているのは——
ナイフの柄。鱗の上の、自分の指。
(——ヤッテ……クレ)
親父と同じ言葉だった。ああならないと思っていた。ずっと。あの終わり方だけはしないと。結局、同じだ。同じ言葉で、同じ目で、頼んだ。
——そこで途切れる。
闇。
そして、この天井。
* * *
首を動かした。かろうじて。
窪み——岩の庇の下。狭い。覚えがない。灰色の光が入り口から差している。朝か夕か、分からない。
毛布が俺の体を覆っている。俺が掛けたんじゃない。火の跡がある。灰。鳥の骨が転がっている——肉を残らず削がれて。水袋が傍に置いてある。
(——何日だ)
魔族を探した。
いない。窪みの奥。暗い。誰もいない。毛布。火の跡。骨。水。誰かがここにいた跡だけが残っている。
だが——いる。どこか近くに。見えない。聞こえない。根拠はない。ただ、そう感じる。
闇の底から、何かが浮かんだ。
——額に何かが触れた。硬い。冷たい。鱗。
——体が持ち上がった。背中に——
——重さ。熱。脈。口の中に流れ込む——体が弓なりに——
全部が一度に来た。ばらばらに。重さと味と痛みと、何かの声が——
砕けた。掴めない。暗い。鱗。すぐ上に。目が——閉じている。
それだけが消えない。
(——魔族が。何かを。俺に——)
思考が、そこで止まった。
* * *
入り口の光が翳った。
影。
魔族が立っていた。入り口に。中には入らない。灰色の空を背にして、こちらを見ている。紫の目が、俺を捉えた。
——止まった。
間。
一歩。窪みの中に入った。
手首が見えた。血だ。まだ濡れている。傷口が開いている。脈が打つたびに、口の中の味が蘇った。あいつの手首。あいつの血。俺の口に——
(——魔族の血だ)
生の血で人間は死ぬ。そんなもん、ガキでも知ってる。なのに俺は生きてる。こいつが骨の奥の獣を押さえ込んでいる。こいつで心臓が動いている。
(——魔族の生き血で動いてる。俺は。今)
胃が冷たくなった。吐き気が込み上げた。飲み込んだ。
(——これが、俺に何をする)
(……まあ、死体よりはましか)
——手首が消えた。背中に。鋭く。
「——【ツェルスカズ!ヘク!】」
空気が裂けた。低い。吐き捨てるように。体が強張った。
——見ていたのか。俺は。ずっと——
意味は分からない。だが——分かる。声の温度で。紫の目の、あの光で。
(————何を、そんなに怒ることか……?)
肘を突いた。体を押し上げようとした。腕が震えた。片膝を立てた。視界が白く明滅した。
立とうとした。胸の中の熱が脈打った——足が、地面を掴めなかった。
ゴホッ——
掌に赤いものが散った。視界が傾いた。膝が崩れる——
——腕が、下から来た。
肩の下に潜り込んだ。鱗の硬さ。体温。俺の体重を受け止めている。片腕が俺の脇を抱えていた。
紫の目が、下から俺を見上げていた。近い。
「——すまんな」
紫の目が止まった。
——逸らした。
「チッ。」
俺を下ろした。地面に。壊さないように重いものを置くみたいに。鱗の腕が離れた。入り口へ向かった。
——止まった。振り返らない。
「——【キシュ】」
低い。静かな。さっきの声とは別のものだった。
出ていった。
窪みに、俺だけが残った。窪みの空気が重い。灰と、汗と、乾いた血。何日分かの匂いが、低い天井の下に溜まっている。
掌の血を、地面で拭った。
* * *
気配が入り口を塞いだ。
泥だらけだった。鱗も、外套の裾も。濡れている。息が荒い。片手に水袋。重い。もう片方の手に、鳥。小さい。もう腸は抜いてある。
手首に布が巻かれていた。雑に、きつく。血が滲んでいる。
俺は目を逸らした。
魔族は死んだ火の傍にしゃがんだ。灰の中から熾を掻き出して、息を吹きかけた。火が戻った。小さな。俺の近くに置いた。水袋と一緒に。手の届く距離。窪みの奥に戻った。壁に背をつけた。
肉の匂いが近い。
食った。焦げた皮。硬い肉。顎が痛い。最初の一口が胃に落ちた時、体が痙攣しそうになった。重すぎる。空っぽの腹に。ゆっくり噛んで、飲み込んで、水で流した。安い火酒みたいに喉を焼いた。もう一口。もう一口。
鳥の味の下に、あの味がまだある。喉の奥に。消えない。
もう一度水を飲んだ。水が腹に落ちた。重さで体が沈んでいく。灰色の光が、少しだけ傾いていた。
目が重い。腹の中の重さが、そのまま体全部に広がっていく。毛布の温もり。火の熱。岩の天井。
視界の端で、紫の目がこちらを見ていた。
——
光が違う。白い。低い。入り口から真横に差している——朝だ。
体が痛い。昨日と同じだ。だが——昨日よりは、少しだけ。
口の中の味は、まだある。腹は空っぽじゃない。
* * *
入り口を見た。灰色の空。冷たい風。この窪みにいつまでもいられない。
魔族の目を見た。同じ理解がある。とうに分かっている顔だ。待っていたのだろう。俺が起き上がるのを。
壁に立てかけてある杖が目に入った。あいつが削った杖。手の届かない距離に。
杖を見た。魔族を見た。視線が杖に動いた。俺に戻った。
間。
尾が伸びた。身じろぎで右肩が光に入った。雪獅子の傷。俺が洗った傷だ。塞がっていない。
先端が杖の根元に滑り込み、押した。一度で。滑らかに。杖が湿った地面を転がって、俺の手の近くで止まった。
尾は即座に戻った。体に巻きつく。きつく。
指が木を握った。
* * *
先を地面に突いた。押した。肩が持ち上がった——腕が震えた——崩れた。
(くそ——)
もう一度。胸の中の異質な熱が脈打った。筋肉に何かが流れ込む。魔族の血だ。吐き気を飲み込んだ。
だが——動く。
肘をついて片膝を立てた。視界が白く明滅した。待った。戻った。両手で杖を握って、押し上げた。膝が震えている。足首が折れそうだ。杖が体重を受けて軋んだ。
立った。
血が下に落ちた。頭が空になった。視界の縁が灰色に滲んだ。——戻った。
心臓が肋骨を叩いている。息が足りない。たったこれだけの動きで。だが——立っている。
視界の端で、魔族が低い姿勢に移った。助けるためじゃない。崩れた時のための、構え。
一歩。杖の先が土にめり込んだ。脚が従った。二歩。三歩。
魔族はもう入り口にいた。外を向いている。こちらを見ていない。
五歩。
冷たい風が顔を打った。灰色の丘が広がっている。どこだか分からない。頁岩と、まばらな草と、何もない空。
魔族が踏み出した。振り返らない。
杖を突いた。足を引きずった。魔族の血で動いて、魔族の杖で立って、魔族の背中を追ってる。
(……ふざけやがって)
歩いた。
体の奥から、何かが脈打っている。血管の内側を這っている。凍えた体で湯屋に浸かった時みたいだ。痛いほど熱い。——なのに、焼けない。指先まで。骨の髄まで。心臓が打つたびに、そいつが押し出されていく。全身に。
俺のものじゃない。
冷たさがない。何年も骨の奥にいた、あの冷たい炎が消えてる。代わりに、この熱が。
口の中に味がする。喉の奥にまとわりついている。生々しい。名前がない。吐き気が押し上げてくる。
目が開いた。
岩。灰色。低い。知らない天井。
体が——ひどい。階段から蹴り落とされた後みたいだ。関節が軋んでいる。頭蓋骨の内側がずきずきと脈打つ。筋肉が、全部、絞り切った雑巾。
(……なんで俺は生きてる)
薬はとうに切れていた。あの段階で。とっくに死んでるはずだ。なのに天井を見ている。息をしている。この——何だか分からない熱が、俺の血管の中を流れている。
最後に覚えているのは——
ナイフの柄。鱗の上の、自分の指。
(——ヤッテ……クレ)
親父と同じ言葉だった。ああならないと思っていた。ずっと。あの終わり方だけはしないと。結局、同じだ。同じ言葉で、同じ目で、頼んだ。
——そこで途切れる。
闇。
そして、この天井。
* * *
首を動かした。かろうじて。
窪み——岩の庇の下。狭い。覚えがない。灰色の光が入り口から差している。朝か夕か、分からない。
毛布が俺の体を覆っている。俺が掛けたんじゃない。火の跡がある。灰。鳥の骨が転がっている——肉を残らず削がれて。水袋が傍に置いてある。
(——何日だ)
魔族を探した。
いない。窪みの奥。暗い。誰もいない。毛布。火の跡。骨。水。誰かがここにいた跡だけが残っている。
だが——いる。どこか近くに。見えない。聞こえない。根拠はない。ただ、そう感じる。
闇の底から、何かが浮かんだ。
——額に何かが触れた。硬い。冷たい。鱗。
——体が持ち上がった。背中に——
——重さ。熱。脈。口の中に流れ込む——体が弓なりに——
全部が一度に来た。ばらばらに。重さと味と痛みと、何かの声が——
砕けた。掴めない。暗い。鱗。すぐ上に。目が——閉じている。
それだけが消えない。
(——魔族が。何かを。俺に——)
思考が、そこで止まった。
* * *
入り口の光が翳った。
影。
魔族が立っていた。入り口に。中には入らない。灰色の空を背にして、こちらを見ている。紫の目が、俺を捉えた。
——止まった。
間。
一歩。窪みの中に入った。
手首が見えた。血だ。まだ濡れている。傷口が開いている。脈が打つたびに、口の中の味が蘇った。あいつの手首。あいつの血。俺の口に——
(——魔族の血だ)
生の血で人間は死ぬ。そんなもん、ガキでも知ってる。なのに俺は生きてる。こいつが骨の奥の獣を押さえ込んでいる。こいつで心臓が動いている。
(——魔族の生き血で動いてる。俺は。今)
胃が冷たくなった。吐き気が込み上げた。飲み込んだ。
(——これが、俺に何をする)
(……まあ、死体よりはましか)
——手首が消えた。背中に。鋭く。
「——【ツェルスカズ!ヘク!】」
空気が裂けた。低い。吐き捨てるように。体が強張った。
——見ていたのか。俺は。ずっと——
意味は分からない。だが——分かる。声の温度で。紫の目の、あの光で。
(————何を、そんなに怒ることか……?)
肘を突いた。体を押し上げようとした。腕が震えた。片膝を立てた。視界が白く明滅した。
立とうとした。胸の中の熱が脈打った——足が、地面を掴めなかった。
ゴホッ——
掌に赤いものが散った。視界が傾いた。膝が崩れる——
——腕が、下から来た。
肩の下に潜り込んだ。鱗の硬さ。体温。俺の体重を受け止めている。片腕が俺の脇を抱えていた。
紫の目が、下から俺を見上げていた。近い。
「——すまんな」
紫の目が止まった。
——逸らした。
「チッ。」
俺を下ろした。地面に。壊さないように重いものを置くみたいに。鱗の腕が離れた。入り口へ向かった。
——止まった。振り返らない。
「——【キシュ】」
低い。静かな。さっきの声とは別のものだった。
出ていった。
窪みに、俺だけが残った。窪みの空気が重い。灰と、汗と、乾いた血。何日分かの匂いが、低い天井の下に溜まっている。
掌の血を、地面で拭った。
* * *
気配が入り口を塞いだ。
泥だらけだった。鱗も、外套の裾も。濡れている。息が荒い。片手に水袋。重い。もう片方の手に、鳥。小さい。もう腸は抜いてある。
手首に布が巻かれていた。雑に、きつく。血が滲んでいる。
俺は目を逸らした。
魔族は死んだ火の傍にしゃがんだ。灰の中から熾を掻き出して、息を吹きかけた。火が戻った。小さな。俺の近くに置いた。水袋と一緒に。手の届く距離。窪みの奥に戻った。壁に背をつけた。
肉の匂いが近い。
食った。焦げた皮。硬い肉。顎が痛い。最初の一口が胃に落ちた時、体が痙攣しそうになった。重すぎる。空っぽの腹に。ゆっくり噛んで、飲み込んで、水で流した。安い火酒みたいに喉を焼いた。もう一口。もう一口。
鳥の味の下に、あの味がまだある。喉の奥に。消えない。
もう一度水を飲んだ。水が腹に落ちた。重さで体が沈んでいく。灰色の光が、少しだけ傾いていた。
目が重い。腹の中の重さが、そのまま体全部に広がっていく。毛布の温もり。火の熱。岩の天井。
視界の端で、紫の目がこちらを見ていた。
——
光が違う。白い。低い。入り口から真横に差している——朝だ。
体が痛い。昨日と同じだ。だが——昨日よりは、少しだけ。
口の中の味は、まだある。腹は空っぽじゃない。
* * *
入り口を見た。灰色の空。冷たい風。この窪みにいつまでもいられない。
魔族の目を見た。同じ理解がある。とうに分かっている顔だ。待っていたのだろう。俺が起き上がるのを。
壁に立てかけてある杖が目に入った。あいつが削った杖。手の届かない距離に。
杖を見た。魔族を見た。視線が杖に動いた。俺に戻った。
間。
尾が伸びた。身じろぎで右肩が光に入った。雪獅子の傷。俺が洗った傷だ。塞がっていない。
先端が杖の根元に滑り込み、押した。一度で。滑らかに。杖が湿った地面を転がって、俺の手の近くで止まった。
尾は即座に戻った。体に巻きつく。きつく。
指が木を握った。
* * *
先を地面に突いた。押した。肩が持ち上がった——腕が震えた——崩れた。
(くそ——)
もう一度。胸の中の異質な熱が脈打った。筋肉に何かが流れ込む。魔族の血だ。吐き気を飲み込んだ。
だが——動く。
肘をついて片膝を立てた。視界が白く明滅した。待った。戻った。両手で杖を握って、押し上げた。膝が震えている。足首が折れそうだ。杖が体重を受けて軋んだ。
立った。
血が下に落ちた。頭が空になった。視界の縁が灰色に滲んだ。——戻った。
心臓が肋骨を叩いている。息が足りない。たったこれだけの動きで。だが——立っている。
視界の端で、魔族が低い姿勢に移った。助けるためじゃない。崩れた時のための、構え。
一歩。杖の先が土にめり込んだ。脚が従った。二歩。三歩。
魔族はもう入り口にいた。外を向いている。こちらを見ていない。
五歩。
冷たい風が顔を打った。灰色の丘が広がっている。どこだか分からない。頁岩と、まばらな草と、何もない空。
魔族が踏み出した。振り返らない。
杖を突いた。足を引きずった。魔族の血で動いて、魔族の杖で立って、魔族の背中を追ってる。
(……ふざけやがって)
歩いた。
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