表示設定
表示設定
目次 目次




第24話:ライラ編・路地裏の夜明け

ー/ー



 ギャン、ギャン、ギャン!

(……なんだ、この頭を割るような音は……)

 乾いた口の中に、昨夜の火酒(ひざけ)の苦い残滓(ざんし)が張り付いている。喉が焼けるように渇き、胃の底で何かが酸っぱく(うごめ)いている。

 ギャン、ギャン、ギャン!

(……うう、うるせえ……黙れ……)

 冷たい泥が背中に染み込んでいる。髪にこびりついた吐瀉物(としゃぶつ)が頬に貼り付く。

 ギャン、ギャン、ギャン!

(黙れっつってんだろ!)

 重い(まぶた)をこじ開けた。視界がぐらつく。頭が割れそうだ。

 痩せた野犬が、路地の角からこちらを見ていた。

 身を起こそうとして——胃が裏返った。横を向くのが精一杯で、泥の上に戻した。犬は一声鳴いて逃げた。

 仰向けに戻った。傾いた建物の間から、(あざ)のような空が見える。鉛色(なまりいろ)。重い。建物の隙間を縫って吹く風が、昨夜の雨の名残(なごり)を運んでくる。湿った石畳、錆びた雨樋(あまどい)、自分の臭い。


(……底、か)


 背中に、硬いものが食い込んでいる。ずっと。寝ている間も、ずっと痛かった。手を回した。腰の下から引き抜いた。

 銭袋(ぜにぶくろ)だ。

(エララの。ボーリンの。キールの。……アーレンの)

 胃が(よじ)れた。安酒のせいじゃない。

 長い間、それを握っていた。

(……こんな風には終わらない)

 この金で出口を買う。身体を起こした。脚は震えたが、持ちこたえた。

 * * *

 酒場の裏口へと向かった。従業員用の、しばしば(かんぬき)がかけられていない扉。予想通り、低い(きし)み音とともに開いた。中は静まり返っていた。

 昨夜と同じ給仕(きゅうじ)の娘が暖炉の近くで掃除をしていた。顔を上げた。驚きはない。疲れた目に、ただ認識があるだけだった。

「戻ってくると思ってた」低い声で言った。「あんたの荷物、裏階段のところに置いておいたよ。グロクがあんたを放り出した後、部屋から持ってきたんだ」

 裏階段の下に案内された。背嚢(はいのう)と帯が、丁寧に畳んで置かれていた。

 背嚢を開けた。中身を確かめる。帯、予備の紐、エララの治療袋——

 内ポケット。指先で銀貨を数えた。

(……七枚。十枚入れてたんだがな)

「もう駄賃は取ったみたいだね」

 給仕は鼻で笑った。「何の話だ。知らないね」

「銀貨三枚分、知らないんだ」

「荷物ごと売っ払えたんだ。ありがたく思いな、この売女(ばいた)が」

「さっさと出な。グロクを叩き起こされたくなけりゃね。昨夜の仕上げがしたくて(うず)いてるかもよ」

 拳が握られた。腕が震えた。


 ——殴らなかった。


(もう、どうでもいい)

「ありがとう」

 (かす)れた声で言った。本気だった。荷物を残してくれたことには。

 給仕は肩をすくめて掃除に戻った。背嚢を肩に担いだ。馴染みの重さ。裏口から出た。

 * * *

 路地で古い木箱を見つけ、腰を下ろした。

 まず、刃物だ。

 背嚢から砥石(といし)を出した。手の中の馴染みの重み。指先が自然と正しい角度に収まる。(はがね)が石を擦る音が、朝の静寂を破った。規則正しく。

「力任せじゃダメだ、ライラ。刃に語りかけるんだ」

 ——不意に。アーレンの声。彼の手があたしの手を包み、正しい角度を教えてくれた。

 歯を食いしばった。手は止めない。リズムを崩さない。強くまばたきし、鋼が冷たく鋭い光を放つまで研ぎ続けた。

 次は針と糸だった。擦り切れたチュニックを膝に広げた。破れを塞ぐ。糸を引く手は安定している。実用的だ。持ちこたえるだろう。ズボンの薄くなった膝を補強する。背嚢のほつれた紐を縫い直す。

(逃げるなら、準備を万全にして逃げる)

 (つくろ)いが終わると、木箱の横にひざまずき、所持品(しょじひん)を並べた。エララの擦り切れた革の治療袋(ちりょうぶくろ)。今は空だ。

(物資が必要だ。今度は本物の)

 * * *

 市場地区へ向かった。街が目を覚ましつつある。商人たちが屋台を開き、早起きの客が品定めを始めていた。

 革職人の屋台で足を止めた。

「ブーツの底を張り替える良い革をくれ」

「銅貨十五枚だ」

「高すぎる。この革、端の方が傷んでる。銅貨八枚が精一杯だ」

「銅貨八枚だと? 嬢ちゃん、これは上等な——」

「上等なら端は傷まない。銅貨九枚。それ以上は出さない」

 革職人は舌打ちして革を押しやった。

 食料品の屋台で干し肉の束を手に取り、指で曲げた。硬さを確かめる。隣の束も同じように。三つ目で頷いた。「これと、硬パン六つ」

「まとめて銅貨十二枚だ」

「干し肉に虫が入ってたら戻しに来る」

「入ってねえよ」

「なら十枚」

 水袋。ロープ。銅貨が少しずつ減っていく。古着屋で、旅に耐える厚手の外套(がいとう)を見つけた。銀貨一枚。値切る余地のない品だった。

 薬草売りの屋台で、包帯を手に取った。清潔で、白い。

(エララが使っていたような……)

「新しい包帯、消毒薬の小瓶、濃い傷薬をください」

 老婆(ろうば)が品物を並べた。消毒薬の小瓶を光にかざして、中身の色を見た。

(濁りはない。使える)

「合わせて銀貨二枚」

 薬は高い。いつだってそうだ。銀貨が手から離れていく。躊躇(ためら)わなかった。

 路地裏に戻って、残りを数えた。銭袋と背嚢の分を合わせて、銀貨と散らばった銅貨。

(十分だ。そうでなければならない)

 * * *

 木箱に腰を落ち着けて夜明けを待った。傾いた建物の間で空が少しずつ明るくなるのを見守る。鉛色の雲の隙間から、薄い陽光が差し込み始めた。

 遠くで鐘が鳴った。街の一日が始まる。商人たちの声、荷車の軋む音、生きている街の息づかい。

 立ち上がり、背嚢を担いだ。

 西門が見えてきた。振り返れば、煙を吐く『(すず)の凹み亭』の煙突(えんとつ)が小さく見える。

(さよなら)

(西へ。海の向こうに島々があるという。新しい土地。新しい名前)

 * * *

 冒険者の砦(ぼうけんしゃのとりで)の西門が軋みながら開いた。夜明けの薄い光。通り抜けた。繕った外套に包まれて。継ぎ当て(つぎあて)だらけで、薄い。

 川石は、胸に馴染みの冷たい重さ。

 朝の寒さに身を寄せ合う門番たちは、ほとんど見なかった。

(ただの漂流物(ひょうりゅうぶつ)。潮に流された。良い。そう思わせておけ)

 寒さが継ぎ当ての縫い目を通して肌を刺した。鋭い。

 門が背後で閉じた。

 一度だけ振り返った。

 東の空に裂け背山脈(さけせさんみゃく)の峰々が立っている。目的地ではない。

(もう後戻りはできない。良い)

 西へと向き直った。


 もう二度と振り返らなかった。


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 第25話:最初の一歩


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 ギャン、ギャン、ギャン!
(……なんだ、この頭を割るような音は……)
 乾いた口の中に、昨夜の|火酒《ひざけ》の苦い|残滓《ざんし》が張り付いている。喉が焼けるように渇き、胃の底で何かが酸っぱく|蠢《うごめ》いている。
 ギャン、ギャン、ギャン!
(……うう、うるせえ……黙れ……)
 冷たい泥が背中に染み込んでいる。髪にこびりついた|吐瀉物《としゃぶつ》が頬に貼り付く。
 ギャン、ギャン、ギャン!
(黙れっつってんだろ!)
 重い|瞼《まぶた》をこじ開けた。視界がぐらつく。頭が割れそうだ。
 痩せた野犬が、路地の角からこちらを見ていた。
 身を起こそうとして——胃が裏返った。横を向くのが精一杯で、泥の上に戻した。犬は一声鳴いて逃げた。
 仰向けに戻った。傾いた建物の間から、|痣《あざ》のような空が見える。|鉛色《なまりいろ》。重い。建物の隙間を縫って吹く風が、昨夜の雨の|名残《なごり》を運んでくる。湿った石畳、錆びた|雨樋《あまどい》、自分の臭い。
(……底、か)
 背中に、硬いものが食い込んでいる。ずっと。寝ている間も、ずっと痛かった。手を回した。腰の下から引き抜いた。
 |銭袋《ぜにぶくろ》だ。
(エララの。ボーリンの。キールの。……アーレンの)
 胃が|捩《よじ》れた。安酒のせいじゃない。
 長い間、それを握っていた。
(……こんな風には終わらない)
 この金で出口を買う。身体を起こした。脚は震えたが、持ちこたえた。
 * * *
 酒場の裏口へと向かった。従業員用の、しばしば|閂《かんぬき》がかけられていない扉。予想通り、低い|軋《きし》み音とともに開いた。中は静まり返っていた。
 昨夜と同じ|給仕《きゅうじ》の娘が暖炉の近くで掃除をしていた。顔を上げた。驚きはない。疲れた目に、ただ認識があるだけだった。
「戻ってくると思ってた」低い声で言った。「あんたの荷物、裏階段のところに置いておいたよ。グロクがあんたを放り出した後、部屋から持ってきたんだ」
 裏階段の下に案内された。|背嚢《はいのう》と帯が、丁寧に畳んで置かれていた。
 背嚢を開けた。中身を確かめる。帯、予備の紐、エララの治療袋——
 内ポケット。指先で銀貨を数えた。
(……七枚。十枚入れてたんだがな)
「もう駄賃は取ったみたいだね」
 給仕は鼻で笑った。「何の話だ。知らないね」
「銀貨三枚分、知らないんだ」
「荷物ごと売っ払えたんだ。ありがたく思いな、この|売女《ばいた》が」
「さっさと出な。グロクを叩き起こされたくなけりゃね。昨夜の仕上げがしたくて|疼《うず》いてるかもよ」
 拳が握られた。腕が震えた。
 ——殴らなかった。
(もう、どうでもいい)
「ありがとう」
 |掠《かす》れた声で言った。本気だった。荷物を残してくれたことには。
 給仕は肩をすくめて掃除に戻った。背嚢を肩に担いだ。馴染みの重さ。裏口から出た。
 * * *
 路地で古い木箱を見つけ、腰を下ろした。
 まず、刃物だ。
 背嚢から|砥石《といし》を出した。手の中の馴染みの重み。指先が自然と正しい角度に収まる。|鋼《はがね》が石を擦る音が、朝の静寂を破った。規則正しく。
「力任せじゃダメだ、ライラ。刃に語りかけるんだ」
 ——不意に。アーレンの声。彼の手があたしの手を包み、正しい角度を教えてくれた。
 歯を食いしばった。手は止めない。リズムを崩さない。強くまばたきし、鋼が冷たく鋭い光を放つまで研ぎ続けた。
 次は針と糸だった。擦り切れたチュニックを膝に広げた。破れを塞ぐ。糸を引く手は安定している。実用的だ。持ちこたえるだろう。ズボンの薄くなった膝を補強する。背嚢のほつれた紐を縫い直す。
(逃げるなら、準備を万全にして逃げる)
 |繕《つくろ》いが終わると、木箱の横にひざまずき、|所持品《しょじひん》を並べた。エララの擦り切れた革の|治療袋《ちりょうぶくろ》。今は空だ。
(物資が必要だ。今度は本物の)
 * * *
 市場地区へ向かった。街が目を覚ましつつある。商人たちが屋台を開き、早起きの客が品定めを始めていた。
 革職人の屋台で足を止めた。
「ブーツの底を張り替える良い革をくれ」
「銅貨十五枚だ」
「高すぎる。この革、端の方が傷んでる。銅貨八枚が精一杯だ」
「銅貨八枚だと? 嬢ちゃん、これは上等な——」
「上等なら端は傷まない。銅貨九枚。それ以上は出さない」
 革職人は舌打ちして革を押しやった。
 食料品の屋台で干し肉の束を手に取り、指で曲げた。硬さを確かめる。隣の束も同じように。三つ目で頷いた。「これと、硬パン六つ」
「まとめて銅貨十二枚だ」
「干し肉に虫が入ってたら戻しに来る」
「入ってねえよ」
「なら十枚」
 水袋。ロープ。銅貨が少しずつ減っていく。古着屋で、旅に耐える厚手の|外套《がいとう》を見つけた。銀貨一枚。値切る余地のない品だった。
 薬草売りの屋台で、包帯を手に取った。清潔で、白い。
(エララが使っていたような……)
「新しい包帯、消毒薬の小瓶、濃い傷薬をください」
 |老婆《ろうば》が品物を並べた。消毒薬の小瓶を光にかざして、中身の色を見た。
(濁りはない。使える)
「合わせて銀貨二枚」
 薬は高い。いつだってそうだ。銀貨が手から離れていく。|躊躇《ためら》わなかった。
 路地裏に戻って、残りを数えた。銭袋と背嚢の分を合わせて、銀貨と散らばった銅貨。
(十分だ。そうでなければならない)
 * * *
 木箱に腰を落ち着けて夜明けを待った。傾いた建物の間で空が少しずつ明るくなるのを見守る。鉛色の雲の隙間から、薄い陽光が差し込み始めた。
 遠くで鐘が鳴った。街の一日が始まる。商人たちの声、荷車の軋む音、生きている街の息づかい。
 立ち上がり、背嚢を担いだ。
 西門が見えてきた。振り返れば、煙を吐く『|錫《すず》の凹み亭』の|煙突《えんとつ》が小さく見える。
(さよなら)
(西へ。海の向こうに島々があるという。新しい土地。新しい名前)
 * * *
 |冒険者の砦《ぼうけんしゃのとりで》の西門が軋みながら開いた。夜明けの薄い光。通り抜けた。繕った外套に包まれて。|継ぎ当て《つぎあて》だらけで、薄い。
 川石は、胸に馴染みの冷たい重さ。
 朝の寒さに身を寄せ合う門番たちは、ほとんど見なかった。
(ただの|漂流物《ひょうりゅうぶつ》。潮に流された。良い。そう思わせておけ)
 寒さが継ぎ当ての縫い目を通して肌を刺した。鋭い。
 門が背後で閉じた。
 一度だけ振り返った。
 東の空に|裂け背山脈《さけせさんみゃく》の峰々が立っている。目的地ではない。
(もう後戻りはできない。良い)
 西へと向き直った。
 もう二度と振り返らなかった。