表示設定
表示設定
目次 目次




第23話:止まらぬ

ー/ー



 目を開けた。

 重い。(まぶた)が。身体が。すべてが。

 灰色の光が岩の(ひさし)の下に差し込んでおる。朝か。背中に、温もりがある。奴の体温。まだ熱い。

 ゆっくりと身を起こした。枯れ草が()れる音。雪獅子(ゆきじし)の傷が、鈍く(うず)いておる。

 振り返った。

 奴は動いておらぬ。昨夜と同じ姿勢。顔は青白く、唇に色がない。

 耳を澄ませた。


 ——ドクン……ドクン……


 弱い。だが、ある。

 胸の動きを見た。浅い。規則的。

(——生きておる)

 それだけ確認して、目を逸らした。

 * * *

 水袋は軽い。食料はとうにない。

(——食わねば、動けぬ)

 奴を見下ろした。口がわずかに開いておる。飲み込めぬ。水すら、零れ落ちる。我が倒れたら、終わりだ。

 立ち上がった。膝が震えた。血を失いすぎた。あの——

 思考を断ち切った。今は考えるな。

 (くぼ)みの入り口を見た。狭い。外から見れば、ただの岩の影。だが念のため——枯れ草を集め、入り口を覆った。完全ではない。だが、ないよりはましだ。

 奴の顔をもう一度見た。

(——今更死んだら許さぬ、【ヘク(人間)】)

 外へ出た。

 * * *

 朝の空気が冷たい。灰色の丘が広がっておる。岩と、頁岩(けつがん)と、まばらな草。生き物の気配は薄い。

 だが——水の匂いがする。かすかに。風下から。そちらへ向かった。

 歩みは遅い。足が重い。視界の端が時折白く明滅(めいめつ)する。

(——情けない)

 丘を二つ越えた頃、窪地が見えた。深い。今までの窪地より広い。水面が光っておる。小さな池。周囲に葦が生えておる。痩せた白樺(しらかば)が数本、池の縁に立っておる。

 そして——動くものが見えた。水鳥。数羽。灰色の羽根。池の端で何かを(ついば)んでおる。

 身を低くした。風下に回り込んだ。葦の間を這うように進む。

 ——膝から、力が抜けた。

 手をついた。冷たい泥が指の間に(にじ)む。

(——くだらん)

 歯を食いしばり、体を起こした。近づく。十歩。五歩。鳥が頭を上げた。こちらを見た。

 息を止めた。

 ——跳んだ。

 ザッ——

 爪が閃いた。一羽目の首を(かす)めた。——浅い。逃げられた。

(——!)

 二羽目が飛び立った。三羽目も。羽ばたきの音が耳を打つ。だが一羽——一羽だけが遅れた。尾を振り抜いた。

 バシャッ——

 鳥が水面に叩きつけられた。跳ねた。逃げようとした。水に踏み込んだ。冷たい。膝まで。爪を突き立てた。ようやく。

 一羽。たった一羽。

 手の中で、まだ温かい。心臓が、小さく脈打っておる。すぐに止まった。

 息が荒い。たったこれだけの動きで。水の中で膝が震えておる。

(——落ちたものだ)

 だが、獲物はある。それで、十分だ。

 * * *

 窪みに戻った時、日は高く昇っておった。枯れ草の覆いをどけ、中を(のぞ)いた。

 奴は動いておらぬ。同じ姿勢。同じ場所。

 傍に膝をついた。耳を傾けた。


 ——ドクン……ドクン……


 弱い。朝より——遅い気がする。

(——感じる)

 【カエレン・トール(精神の侵染)】を通して——【トロ(聖蝕)】の気配。重い。冷たい。抑えられてはおる。だが——奴の身体の奥で、まだ潜んでおる。

 歯を噛んだ。考えるのは後だ。まず、食わねば。

 * * *

 鳥の羽を(むし)った。灰色の羽根が指にまとわりつく。内臓を抜いた。血の匂いが鼻を突いた。

 火が要る。乾いた枯れ草を集めた。小枝を折った。組んだ。

(——【セズ(生命力)】の無駄遣いだ。分かっておる)

(——だが今は——奴の道具に触れる気にならぬ)

 右手を(かざ)した。

サ・イグヴァラ。(炎の女神よ。)カセズン・ドエンアズ——(我が精気を捧げる——)サイグルン・ツォルク。(汝の火種を授けよ。)
ゾルン・ロ、(闇より、)サレルト。(汝の輝きを。)
グラーク!(燃えよ!)

 赤い紋様(もんよう)が指先に灯った。小さな火球が飛び、枯れ草に燃え移った。

 ——視界が、傾いた。一瞬。

 手をついた。息が浅い。指先の感覚が遠い。

(——くだらん)

 息を整えた。炎が安定するのを待った。

 鳥を火にかざした。脂が(したた)り、炎が()ぜた。肉の焼ける匂いが、狭い空間を満たした。煙が目に()みる。

 食った。骨から肉を()ぎ、噛み、飲み込んだ。熱い。脂が唇を濡らす。身体が求めておったものが、腹に落ちていく。喰い終えた頃には、手が脂で光っておった。骨だけが残った。

 奴を見た。動かぬ。目を閉じたまま。口がわずかに開いておる。

(——こいつは、食えぬ)

 火を見つめた。熾火(おきび)が赤く脈打っておる。時折、小さく()ぜる音。腹が重い。温かい。脂の残り香が口の中にある。

 だが奴は動かぬ。

(——目を覚まさぬ)

 我の血が——あの時——【トロ】を後退させた。

(——もう一度、必要なのか)

 思考が、そこで止まった。

 手首を見下ろした。銀色の傷跡。歪んで、まだ赤みが残っておる。あの時の記憶が、蘇りかけた。熱。脈。身体が勝手に——

 歯を食いしばった。

(——考えるな)

 だが。廃墟(はいきょ)への道が分からぬ。奴だけが、地図を読める。ここに留まれば——【ズル(追跡者)】に見つかる。

 奴の傍に膝をついた。

 まず、試す。

 爪の先で、傷跡をわずかに引っ掻いた。浅く。ほんの少しだけ血が(にじ)む程度に。その指を、奴の唇に近づけた。

 ——止めた。下唇の手前で。

(——反応するな)

 思考が、勝手に浮かんだ。

(——何も起きるな。そうすれば——別の手がある。他に方法がある)

 あるはずだ。あってほしい。

 指を、下唇に触れさせた。


 ——奴の口が、動いた。


 唇が開いた。舌が、指先を()めた。ゴクン。喉が動いた。目は閉じたまま。だが、身体が応えておる。

 手を引いた。奴の口が、かすかに追いかけるように動いた。


 最後の逃げ道が、閉じた。


 これしか、ない。

 傷跡に爪を当てた。

 深呼吸した。熾火(おきび)の匂いが肺を満たす。


 ドクン。ドクン。


 心臓が、跳ねておる。

 まだ何もしておらぬ。爪は皮膚に当てておるだけだ。切っておらぬ。血は一滴も流れておらぬ。


 ドクン。ドクン。ドクン。


 なのに——胸が、煩い。

(——何を、焦っておる)

 この身体。もう覚えておるのだ。あの時の——

(——黙れ)

 苛立(いらだ)ちが、歯の裏に溜まった。

(——今度は、流されぬ)

(——あの時とは違う。少し、後押しするだけだ)

(——少しで済む。身体も——あの時ほどでは——)

 爪を引いた。

 ザシュッ。

 肉が裂けた。血が溢れた。熱い。奴の口に、手首を押し当てた。

 ——奴の唇が、傷口を塞いだ。

 ゴクン。

 吸った。

 * * *


 ——ッ。


 来た。

 温かいものが、手首から腕を這い上がっていく。血管の内側を撫でるように。あの時と同じ。

 歯を食いしばった。

(——流されるな)

 奴の吸う力が弱い。あの時のように引き(むし)られる感覚ではない。緩い。ゆっくりと。だが——感覚は、ある。

 二度、三度と吸われるたびに、温もりが肩まで広がった。背筋を何かが這い上がった。尾が、勝手に揺れた。

(——くだらん——こんなもの——)

 呼吸が乱れかけた。唇を噛んだ。整えた。腹の奥で、熱が(わだかま)り始めた。

 拳を握った。爪が掌に食い込んだ。痛み。それで意識を繋ぎ止める。

 波のように押し寄せてくる。あの時ほど激しくはない。だが、確かに——

 目を閉じた。闇。奴の顔が消えた。吸う力は消えぬ。音が近くなった。奴の喉が動く音。己の血が流れる音。


「——ン」


 声が漏れた。

 歯の間から。押し殺したはずの。

(——黙れ)

 顎が震えておる。噛み締めすぎて、痛い。背中に汗が伝う。尾が地面を擦っておる。止められぬ。


「ンッ——」


 また。短く。喉の奥から絞り出されるように。

 空いた手が、顔に近づいておった。いつの間にか。拳を握ったまま、顎に、唇に、押し当てておる。歯に拳が当たる。振動が骨に響く。

(——もう少し——もう少しで——)

 ゴホッ——ゴホッ——

 手首に——衝撃。引いた。目が開いた。

 奴の目が——こちらを見ておる。

 立ち上がった。走った。窪みの入り口を(くぐ)り、外へ転がり出た。冷たい風が顔を打った。

 * * *

 岩陰まで走った。三歩。四歩。それ以上は脚が持たなんだ。岩に手をついた。

 息が荒い。顔が熱い。

 ——奴の目。濁って。焦点が合わぬ。だが——開いておった。こちらを、見ておった。

(——見られた)

 手首を見下ろした。血がまだ流れておる。滴が地面に落ちた。額が濡れておる。背中が汗で張り付いておる。声を——漏らしておった。あの顔で。あの姿で。

(——見られた——奴に——)

 風が、汗を冷やしていく。額が。首筋が。背中が。冷たい。

 だが腹の奥は冷えぬ。そこだけが、まだ——(くすぶ)っておる。

 (うずくま)った。

 ガリッ——ガリッ——

 片手の爪が地面に食い込んでおる。土を。石を。削っておる。もう片方の手は——拳のまま、胸に押し当てておる。


 ドクン。ドクン。ドクン。


 肋骨(ろっこつ)の奥で、心臓が叩いておる。

(——止まれ)


 止まらぬ。


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 第24話:ライラ編・路地裏の夜明け


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 目を開けた。
 重い。|瞼《まぶた》が。身体が。すべてが。
 灰色の光が岩の|庇《ひさし》の下に差し込んでおる。朝か。背中に、温もりがある。奴の体温。まだ熱い。
 ゆっくりと身を起こした。枯れ草が|擦《す》れる音。|雪獅子《ゆきじし》の傷が、鈍く|疼《うず》いておる。
 振り返った。
 奴は動いておらぬ。昨夜と同じ姿勢。顔は青白く、唇に色がない。
 耳を澄ませた。
 ——ドクン……ドクン……
 弱い。だが、ある。
 胸の動きを見た。浅い。規則的。
(——生きておる)
 それだけ確認して、目を逸らした。
 * * *
 水袋は軽い。食料はとうにない。
(——食わねば、動けぬ)
 奴を見下ろした。口がわずかに開いておる。飲み込めぬ。水すら、零れ落ちる。我が倒れたら、終わりだ。
 立ち上がった。膝が震えた。血を失いすぎた。あの——
 思考を断ち切った。今は考えるな。
 |窪《くぼ》みの入り口を見た。狭い。外から見れば、ただの岩の影。だが念のため——枯れ草を集め、入り口を覆った。完全ではない。だが、ないよりはましだ。
 奴の顔をもう一度見た。
(——今更死んだら許さぬ、【|ヘク《人間》】)
 外へ出た。
 * * *
 朝の空気が冷たい。灰色の丘が広がっておる。岩と、|頁岩《けつがん》と、まばらな草。生き物の気配は薄い。
 だが——水の匂いがする。かすかに。風下から。そちらへ向かった。
 歩みは遅い。足が重い。視界の端が時折白く|明滅《めいめつ》する。
(——情けない)
 丘を二つ越えた頃、窪地が見えた。深い。今までの窪地より広い。水面が光っておる。小さな池。周囲に葦が生えておる。痩せた|白樺《しらかば》が数本、池の縁に立っておる。
 そして——動くものが見えた。水鳥。数羽。灰色の羽根。池の端で何かを|啄《ついば》んでおる。
 身を低くした。風下に回り込んだ。葦の間を這うように進む。
 ——膝から、力が抜けた。
 手をついた。冷たい泥が指の間に|滲《にじ》む。
(——くだらん)
 歯を食いしばり、体を起こした。近づく。十歩。五歩。鳥が頭を上げた。こちらを見た。
 息を止めた。
 ——跳んだ。
 ザッ——
 爪が閃いた。一羽目の首を|掠《かす》めた。——浅い。逃げられた。
(——!)
 二羽目が飛び立った。三羽目も。羽ばたきの音が耳を打つ。だが一羽——一羽だけが遅れた。尾を振り抜いた。
 バシャッ——
 鳥が水面に叩きつけられた。跳ねた。逃げようとした。水に踏み込んだ。冷たい。膝まで。爪を突き立てた。ようやく。
 一羽。たった一羽。
 手の中で、まだ温かい。心臓が、小さく脈打っておる。すぐに止まった。
 息が荒い。たったこれだけの動きで。水の中で膝が震えておる。
(——落ちたものだ)
 だが、獲物はある。それで、十分だ。
 * * *
 窪みに戻った時、日は高く昇っておった。枯れ草の覆いをどけ、中を|覗《のぞ》いた。
 奴は動いておらぬ。同じ姿勢。同じ場所。
 傍に膝をついた。耳を傾けた。
 ——ドクン……ドクン……
 弱い。朝より——遅い気がする。
(——感じる)
 【|カエレン・トール《精神の侵染》】を通して——【|トロ《聖蝕》】の気配。重い。冷たい。抑えられてはおる。だが——奴の身体の奥で、まだ潜んでおる。
 歯を噛んだ。考えるのは後だ。まず、食わねば。
 * * *
 鳥の羽を|毟《むし》った。灰色の羽根が指にまとわりつく。内臓を抜いた。血の匂いが鼻を突いた。
 火が要る。乾いた枯れ草を集めた。小枝を折った。組んだ。
(——【|セズ《生命力》】の無駄遣いだ。分かっておる)
(——だが今は——奴の道具に触れる気にならぬ)
 右手を|翳《かざ》した。
【|サ・イグヴァラ。《炎の女神よ。》|カセズン・ドエンアズ——《我が精気を捧げる——》|サイグルン・ツォルク。《汝の火種を授けよ。》】
【|ゾルン・ロ、《闇より、》|サレルト。《汝の輝きを。》】
【|グラーク!《燃えよ!》】
 赤い|紋様《もんよう》が指先に灯った。小さな火球が飛び、枯れ草に燃え移った。
 ——視界が、傾いた。一瞬。
 手をついた。息が浅い。指先の感覚が遠い。
(——くだらん)
 息を整えた。炎が安定するのを待った。
 鳥を火にかざした。脂が|滴《したた》り、炎が|爆《は》ぜた。肉の焼ける匂いが、狭い空間を満たした。煙が目に|沁《し》みる。
 食った。骨から肉を|削《そ》ぎ、噛み、飲み込んだ。熱い。脂が唇を濡らす。身体が求めておったものが、腹に落ちていく。喰い終えた頃には、手が脂で光っておった。骨だけが残った。
 奴を見た。動かぬ。目を閉じたまま。口がわずかに開いておる。
(——こいつは、食えぬ)
 火を見つめた。|熾火《おきび》が赤く脈打っておる。時折、小さく|爆《は》ぜる音。腹が重い。温かい。脂の残り香が口の中にある。
 だが奴は動かぬ。
(——目を覚まさぬ)
 我の血が——あの時——【トロ】を後退させた。
(——もう一度、必要なのか)
 思考が、そこで止まった。
 手首を見下ろした。銀色の傷跡。歪んで、まだ赤みが残っておる。あの時の記憶が、蘇りかけた。熱。脈。身体が勝手に——
 歯を食いしばった。
(——考えるな)
 だが。|廃墟《はいきょ》への道が分からぬ。奴だけが、地図を読める。ここに留まれば——【|ズル《追跡者》】に見つかる。
 奴の傍に膝をついた。
 まず、試す。
 爪の先で、傷跡をわずかに引っ掻いた。浅く。ほんの少しだけ血が|滲《にじ》む程度に。その指を、奴の唇に近づけた。
 ——止めた。下唇の手前で。
(——反応するな)
 思考が、勝手に浮かんだ。
(——何も起きるな。そうすれば——別の手がある。他に方法がある)
 あるはずだ。あってほしい。
 指を、下唇に触れさせた。
 ——奴の口が、動いた。
 唇が開いた。舌が、指先を|舐《な》めた。ゴクン。喉が動いた。目は閉じたまま。だが、身体が応えておる。
 手を引いた。奴の口が、かすかに追いかけるように動いた。
 最後の逃げ道が、閉じた。
 これしか、ない。
 傷跡に爪を当てた。
 深呼吸した。|熾火《おきび》の匂いが肺を満たす。
 ドクン。ドクン。
 心臓が、跳ねておる。
 まだ何もしておらぬ。爪は皮膚に当てておるだけだ。切っておらぬ。血は一滴も流れておらぬ。
 ドクン。ドクン。ドクン。
 なのに——胸が、煩い。
(——何を、焦っておる)
 この身体。もう覚えておるのだ。あの時の——
(——黙れ)
 |苛立《いらだ》ちが、歯の裏に溜まった。
(——今度は、流されぬ)
(——あの時とは違う。少し、後押しするだけだ)
(——少しで済む。身体も——あの時ほどでは——)
 爪を引いた。
 ザシュッ。
 肉が裂けた。血が溢れた。熱い。奴の口に、手首を押し当てた。
 ——奴の唇が、傷口を塞いだ。
 ゴクン。
 吸った。
 * * *
 ——ッ。
 来た。
 温かいものが、手首から腕を這い上がっていく。血管の内側を撫でるように。あの時と同じ。
 歯を食いしばった。
(——流されるな)
 奴の吸う力が弱い。あの時のように引き|毟《むし》られる感覚ではない。緩い。ゆっくりと。だが——感覚は、ある。
 二度、三度と吸われるたびに、温もりが肩まで広がった。背筋を何かが這い上がった。尾が、勝手に揺れた。
(——くだらん——こんなもの——)
 呼吸が乱れかけた。唇を噛んだ。整えた。腹の奥で、熱が|蟠《わだかま》り始めた。
 拳を握った。爪が掌に食い込んだ。痛み。それで意識を繋ぎ止める。
 波のように押し寄せてくる。あの時ほど激しくはない。だが、確かに——
 目を閉じた。闇。奴の顔が消えた。吸う力は消えぬ。音が近くなった。奴の喉が動く音。己の血が流れる音。
「——ン」
 声が漏れた。
 歯の間から。押し殺したはずの。
(——黙れ)
 顎が震えておる。噛み締めすぎて、痛い。背中に汗が伝う。尾が地面を擦っておる。止められぬ。
「ンッ——」
 また。短く。喉の奥から絞り出されるように。
 空いた手が、顔に近づいておった。いつの間にか。拳を握ったまま、顎に、唇に、押し当てておる。歯に拳が当たる。振動が骨に響く。
(——もう少し——もう少しで——)
 ゴホッ——ゴホッ——
 手首に——衝撃。引いた。目が開いた。
 奴の目が——こちらを見ておる。
 立ち上がった。走った。窪みの入り口を|潜《くぐ》り、外へ転がり出た。冷たい風が顔を打った。
 * * *
 岩陰まで走った。三歩。四歩。それ以上は脚が持たなんだ。岩に手をついた。
 息が荒い。顔が熱い。
 ——奴の目。濁って。焦点が合わぬ。だが——開いておった。こちらを、見ておった。
(——見られた)
 手首を見下ろした。血がまだ流れておる。滴が地面に落ちた。額が濡れておる。背中が汗で張り付いておる。声を——漏らしておった。あの顔で。あの姿で。
(——見られた——奴に——)
 風が、汗を冷やしていく。額が。首筋が。背中が。冷たい。
 だが腹の奥は冷えぬ。そこだけが、まだ——|燻《くすぶ》っておる。
 |蹲《うずくま》った。
 ガリッ——ガリッ——
 片手の爪が地面に食い込んでおる。土を。石を。削っておる。もう片方の手は——拳のまま、胸に押し当てておる。
 ドクン。ドクン。ドクン。
 |肋骨《ろっこつ》の奥で、心臓が叩いておる。
(——止まれ)
 止まらぬ。