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第20話:ライラ編・忘却の代償

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 外へ。

 ギルドホールの扉が背後で閉まった。役人の「解散」という声が、まだ耳に残っている。

 外に出ても、世界はいつも通りだった。雪が建物の間に静かに降り、ゴミで詰まった路地を薄く覆っていく。泥は変わらず混ぜ返され、足を取っていく。

 長い間、そこに立っていた。動かずに。都市のざわめきだけが、周りを流れていく。

(うるさい。……いや、静かだ。頭の中が……静かすぎる。何も聞こえない。自分の心臓の音以外……)

 外套を強く引き寄せた。傷は塞がっているはずなのに、まだそこにあるかのように(うず)く脇腹に、無意識に手を伸ばした。今やより重い。ただの傷ではない。

 足が動いた。考える前に。『(すず)(へこ)み亭』。

(飲めば……消える。あの光景が。あの音が)

 * * *

 重く歪んだ木の扉を押し開けると、騒音が襲ってきた。笑い声。サイコロゲームの怒鳴り合い。べたつくテーブルの上で、錫の杯がガタガタと音を立てる。

 空気は濃く垂れ込め、ほとんど呼吸できない。安いエールの酸っぱい臭い。古い汗。暖炉(だんろ)のそばで乾いている湿った羊毛。古い煙。全部が混じって、吐き気がする。

(胸糞悪い)

(恐ろしいほど、落ち着く)

 暗い隅のブースを見つけた。傷ついた木、何年ものこぼれた飲み物と汚れでべたつく。無視した。硬いベンチに倒れ込み、外套を重く引き寄せた。

 エールを注文した。それからもう一つ。もう一つ。素早く飲んだ。ただひたすら。喉を下る焼けるような苦み。それから、頭の中がゆっくりと鈍っていく。

(四杯目……五杯目か? もうどうでもいい。……飲めば、忘れられる。あの光景を。……飲めば、何か……違う結末があったような気にさえなれる)

 * * *

 気づけば一週間が過ぎていた。錫の杯が空になり、また満たされることだけで測られる、(おぼろ)げな日々。『錫の凹み亭』が世界になった。騒音も、ただの遠い響きになった。客の顔は、煙った薄暗がりを動く、不明瞭な形。

 だが記憶の棘は——

 閃く映像。洞窟の光。青。アーレンの顔……

(いや……あれは彼の顔ではなかった、本当は。ただ聖穢(せいえ)が被った仮面。そう、それだ。仮面)

 ——少しだけ、鈍くなった。目の奥の鈍い痛みに変わっていく。

 * * *

 ある晩。いつもより深く酒に沈んでいた。五杯目のエールの濁った深みを見つめていた。それとも六杯目か?

 指先で見慣れた形に触れた。

 川石。

 熱い肌に冷たい。ぼんやりと引き出し、手のひらの上に転がした。汚れた爪でかすかに明るい筋をなぞる。

 * * *

 塵渓(ちりだに)

 燃えている。熱が焼く。煙と血が窒息するほど濃い。

 アーレンの顔。厳しく、煙で汚れている。あたしの手を掴んだ。あざができるほどきつく。この石を手のひらに押し付ける。

「何か確かなものにつかまれ」

 そう、彼が言った。あの声で。荒い声。あたしを引き離す。救う。

(確かだった。彼はあの時、確かだった。あたしの守護者。彼はあたしを救った)

 * * *

 石が、手の中であり得ないほど冷たかった。

 記憶がねじれた。濁り始める。火の暖かさが、いつしか氷のような青い光に取って代わられていた。

 洞窟。再びアーレンの顔。

 間違っている。ねじれている。

(いや——厳しい。歯を食いしばって。目は荒々しいが、悪意はない。あたしに対してではない)

 異質。

 剣が振り下ろされる。松明の光が鋼に光る。あたしを狙って。

(あたしじゃない! 魔族だ! 絶対にそうだ! そうじゃなきゃ……おかしいじゃないか!)

 息を呑んだ。石そのものが焼いたかのように手を引っ込めた。べたつくテーブルの上でガタガタと音を立て、わずかに揺れ、落ち着いた。

 それを見つめた。目を見開いて、息が詰まって。

(救世主。攻撃者)

 頭の中で、二つの光景が——重なる。離れる。また重なる。合わない。どこか、ずれている。

(あれは彼ではなかった。彼であるはずがない)

(だがもしそうなら——それならなぜ……なぜあたしはまだ生きている?)

(彼は仕事を中途半端にしない。だからあたしを殺そうとしていたのは彼ではなかったはずだ)

 エールの薄い酔いが、()がされた。

(彼はあたしを救った。いつも。今回も)

(……そうだ、あたしを傷つけたのも……あたしを救うためだったんだ! あの魔族から! 彼自身を乗っ取っていた、あの聖穢から、あたしを遠ざけるために!)

 詰まった嗚咽(おえつ)が唇から漏れた。石を掴み、急いで上着の下に押し戻した。触れたとたん、また体が震えた。

 給仕に必死に手を振った。空の錫の杯を指して。

(奴らが彼を殺した。魔族が。すべて、奴らのせいだ)

 * * *

 『(すず)(へこ)み亭』の扉を押し開けると、(よど)んだ空気が体を打つような感覚がした。今夜も、ここに来てしまった。

(……今日こそ、最後にする)

 嘘つき。心の中で、冷たい声が(ささや)く。

 いつもの席へ向かうと、こぼれたエールで(ねば)つく床に足を取られた。周りの酒飲みたちの低い呟きは意味のない唸りに溶け、時折響く耳障りな笑い声に断ち切られる。すべてが、遠い。

「エールを」

 グロクが、汚れたカウンターの上で錫の杯を滑らせてよこした。

 三杯目。四杯目。まだアーレンの顔が浮かぶ。洞窟で見た、あの異質な顔が。

 五杯目。六杯目。エララの最期の叫びが、まだ耳の奥で甲高(かんだか)く響いている。

(足りない。これじゃ、まだ足りない)

火酒(ひざけ)をくれ」

 グロクが油で汚れた眉を上げる。「今夜は飛ばすな、嬢ちゃん」

 無言で銅貨を積んだ。小さな杯。一口。喉から胃まで、焼けた。

 八杯目。九杯目。杯を取りこぼした。指の間から火酒が滴り落ちた。

 十杯目。十一杯目。ボーリンが倒れる鈍い音。キールの折れた首。

(まだだ。まだ思い出す。まだ、感じる)

「もっとだ」

「おい、嬢ちゃん。その杯を満たすだけの銭はまだ持ってるのか?」

 顔を上げない。震える手で、上着の内側をまさぐる。革の袋を引きずり出し、逆さに振ると、銀貨が二枚、カウンターに激しく音を立てて落ちた。

「火酒を注げ、グロク」

 声は砂利を噛んだように荒れている。

(この銀貨で、どれだけの治療薬が買えただろう。エララなら、そう言うだろうな)

 グロクの目が見開かれる。銀貨二枚——この汚い酒場で一ヶ月は飲み続けられる額だ。「嬢ちゃん、これは——」

「注げと、言ってるんだ」

 目に、一瞬だけ鋭さが戻った。彼は黙って注いだ。銀貨には触れなかった。

 十三杯目、あるいは十四杯目か。もう数えるのも億劫(おっくう)だった。カウンターに突っ伏したまま、空になった小さな杯の縁を指でなぞる。酒場のざわめきが、水中で聞いているかのように遠く、ぼやけていた。

 (まぶた)が重い。カウンターの木目(もくめ)が、ゆっくりと回り始める。唾液(だえき)が口の端から垂れているのも気づかない。

 誰かが肩に触れた気がしたが、もう何も感じない。

「おい、嬢ちゃん、生きてるか?」

 グロクの野太(のぶと)い声が、分厚い霧の向こうから聞こえる。顔を上げようとしたが、世界がぐらりと傾いた。

「……なあ、グロク」(ささや)いた。舌がもつれ、ほとんど聞き取れない。「まだ……あんのかい……?」

「あぁ? もう火酒は終わりだ、嬢ちゃん。これ以上強いもんは、この店にはねえよ」

 グロクが(あき)れたように言うと、ゆっくりと顔を上げた。(うつ)ろな瞳が、カウンターの向こうの彼を捉える。

「ううん……違う……グロク」か細い声で彼を遮った。「あんたが……隠してる……特別なやつ……。あたしみたいな……可愛い女の子のために……とってあるっていう……硬くて、高いやつ……」

 グロクは黙った。それから——厚い唇が、ゆっくりと歪んだ。

(知っている。何を求めているのか、分かっている。それでも、構わない)

 彼はもう何も言わなかった。ただ(うなず)くと、抵抗しない体を樽のような腕で抱え上げた。

 * * *

 酒場の裏の部屋。古びて腐った簡易寝台、湿気を(にじ)ませる壁、息が詰まるほど濃いカビの臭い。

 彼を止めなかった。口も開かなかった。

 彼が服をまさぐり、その汗ばんだ不潔な重みが圧し掛かる間、ただ天井の染みを見つめていた。一点に集中して、現実から逃れるように。

 そして——記憶。

(アーレン)

 洞窟の男ではない。前の男。

 ——息。耳元に。荒い。
 ——手。背中を掴む。剣術で硬くなった指。
 ——声。低い唸り。

(あの時は……意味が、あった)

 これは違う。ただ重い。ただ臭い。ただ——

(無だ)

 回転が速まる。唸り声と、苦みだけ——

 腹の底が、裏返った。

「——ウッ、オェェェッ!」

 胃の中身が、熱い奔流となって彼の背中と寝台にぶちまけられた。

「この汚ねえ女狐(めぎつね)が!」

 髪を掴まれた。引きずられた。上着が半分脱げた。冷たい泥の中に落ちた。

 扉が閉まる音を最後に、周りの世界は沈黙した。

 * * *

 冷たい泥の中に横たわっていた。まだ彼の臭いが残っている。乱れた衣服から泥が染み込み、小石が背中に食い込む。

 上着の下から、震える手で川石を引き出した。その冷たく滑らかな感触に、必死に(すが)りついた。端が(てのひら)に食い込むほど強く握りしめる。

 目で、傾いた建物の間から見える、(あざ)のような空をたどった。

(彼はあたしをこのために救ったのか? こんなものになるために?)

 涙は出なかった。

(これは生きることじゃない)

(これはただ……ゆっくりとした死だ)


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 外へ。
 ギルドホールの扉が背後で閉まった。役人の「解散」という声が、まだ耳に残っている。
 外に出ても、世界はいつも通りだった。雪が建物の間に静かに降り、ゴミで詰まった路地を薄く覆っていく。泥は変わらず混ぜ返され、足を取っていく。
 長い間、そこに立っていた。動かずに。都市のざわめきだけが、周りを流れていく。
(うるさい。……いや、静かだ。頭の中が……静かすぎる。何も聞こえない。自分の心臓の音以外……)
 外套を強く引き寄せた。傷は塞がっているはずなのに、まだそこにあるかのように|疼《うず》く脇腹に、無意識に手を伸ばした。今やより重い。ただの傷ではない。
 足が動いた。考える前に。『|錫《すず》の|凹《へこ》み亭』。
(飲めば……消える。あの光景が。あの音が)
 * * *
 重く歪んだ木の扉を押し開けると、騒音が襲ってきた。笑い声。サイコロゲームの怒鳴り合い。べたつくテーブルの上で、錫の杯がガタガタと音を立てる。
 空気は濃く垂れ込め、ほとんど呼吸できない。安いエールの酸っぱい臭い。古い汗。|暖炉《だんろ》のそばで乾いている湿った羊毛。古い煙。全部が混じって、吐き気がする。
(胸糞悪い)
(恐ろしいほど、落ち着く)
 暗い隅のブースを見つけた。傷ついた木、何年ものこぼれた飲み物と汚れでべたつく。無視した。硬いベンチに倒れ込み、外套を重く引き寄せた。
 エールを注文した。それからもう一つ。もう一つ。素早く飲んだ。ただひたすら。喉を下る焼けるような苦み。それから、頭の中がゆっくりと鈍っていく。
(四杯目……五杯目か? もうどうでもいい。……飲めば、忘れられる。あの光景を。……飲めば、何か……違う結末があったような気にさえなれる)
 * * *
 気づけば一週間が過ぎていた。錫の杯が空になり、また満たされることだけで測られる、|朧《おぼろ》げな日々。『錫の凹み亭』が世界になった。騒音も、ただの遠い響きになった。客の顔は、煙った薄暗がりを動く、不明瞭な形。
 だが記憶の棘は——
 閃く映像。洞窟の光。青。アーレンの顔……
(いや……あれは彼の顔ではなかった、本当は。ただ|聖穢《せいえ》が被った仮面。そう、それだ。仮面)
 ——少しだけ、鈍くなった。目の奥の鈍い痛みに変わっていく。
 * * *
 ある晩。いつもより深く酒に沈んでいた。五杯目のエールの濁った深みを見つめていた。それとも六杯目か?
 指先で見慣れた形に触れた。
 川石。
 熱い肌に冷たい。ぼんやりと引き出し、手のひらの上に転がした。汚れた爪でかすかに明るい筋をなぞる。
 * * *
 |塵渓《ちりだに》。
 燃えている。熱が焼く。煙と血が窒息するほど濃い。
 アーレンの顔。厳しく、煙で汚れている。あたしの手を掴んだ。あざができるほどきつく。この石を手のひらに押し付ける。
「何か確かなものにつかまれ」
 そう、彼が言った。あの声で。荒い声。あたしを引き離す。救う。
(確かだった。彼はあの時、確かだった。あたしの守護者。彼はあたしを救った)
 * * *
 石が、手の中であり得ないほど冷たかった。
 記憶がねじれた。濁り始める。火の暖かさが、いつしか氷のような青い光に取って代わられていた。
 洞窟。再びアーレンの顔。
 間違っている。ねじれている。
(いや——厳しい。歯を食いしばって。目は荒々しいが、悪意はない。あたしに対してではない)
 異質。
 剣が振り下ろされる。松明の光が鋼に光る。あたしを狙って。
(あたしじゃない! 魔族だ! 絶対にそうだ! そうじゃなきゃ……おかしいじゃないか!)
 息を呑んだ。石そのものが焼いたかのように手を引っ込めた。べたつくテーブルの上でガタガタと音を立て、わずかに揺れ、落ち着いた。
 それを見つめた。目を見開いて、息が詰まって。
(救世主。攻撃者)
 頭の中で、二つの光景が——重なる。離れる。また重なる。合わない。どこか、ずれている。
(あれは彼ではなかった。彼であるはずがない)
(だがもしそうなら——それならなぜ……なぜあたしはまだ生きている?)
(彼は仕事を中途半端にしない。だからあたしを殺そうとしていたのは彼ではなかったはずだ)
 エールの薄い酔いが、|剥《は》がされた。
(彼はあたしを救った。いつも。今回も)
(……そうだ、あたしを傷つけたのも……あたしを救うためだったんだ! あの魔族から! 彼自身を乗っ取っていた、あの聖穢から、あたしを遠ざけるために!)
 詰まった|嗚咽《おえつ》が唇から漏れた。石を掴み、急いで上着の下に押し戻した。触れたとたん、また体が震えた。
 給仕に必死に手を振った。空の錫の杯を指して。
(奴らが彼を殺した。魔族が。すべて、奴らのせいだ)
 * * *
 『|錫《すず》の|凹《へこ》み亭』の扉を押し開けると、|淀《よど》んだ空気が体を打つような感覚がした。今夜も、ここに来てしまった。
(……今日こそ、最後にする)
 嘘つき。心の中で、冷たい声が|囁《ささや》く。
 いつもの席へ向かうと、こぼれたエールで|粘《ねば》つく床に足を取られた。周りの酒飲みたちの低い呟きは意味のない唸りに溶け、時折響く耳障りな笑い声に断ち切られる。すべてが、遠い。
「エールを」
 グロクが、汚れたカウンターの上で錫の杯を滑らせてよこした。
 三杯目。四杯目。まだアーレンの顔が浮かぶ。洞窟で見た、あの異質な顔が。
 五杯目。六杯目。エララの最期の叫びが、まだ耳の奥で|甲高《かんだか》く響いている。
(足りない。これじゃ、まだ足りない)
「|火酒《ひざけ》をくれ」
 グロクが油で汚れた眉を上げる。「今夜は飛ばすな、嬢ちゃん」
 無言で銅貨を積んだ。小さな杯。一口。喉から胃まで、焼けた。
 八杯目。九杯目。杯を取りこぼした。指の間から火酒が滴り落ちた。
 十杯目。十一杯目。ボーリンが倒れる鈍い音。キールの折れた首。
(まだだ。まだ思い出す。まだ、感じる)
「もっとだ」
「おい、嬢ちゃん。その杯を満たすだけの銭はまだ持ってるのか?」
 顔を上げない。震える手で、上着の内側をまさぐる。革の袋を引きずり出し、逆さに振ると、銀貨が二枚、カウンターに激しく音を立てて落ちた。
「火酒を注げ、グロク」
 声は砂利を噛んだように荒れている。
(この銀貨で、どれだけの治療薬が買えただろう。エララなら、そう言うだろうな)
 グロクの目が見開かれる。銀貨二枚——この汚い酒場で一ヶ月は飲み続けられる額だ。「嬢ちゃん、これは——」
「注げと、言ってるんだ」
 目に、一瞬だけ鋭さが戻った。彼は黙って注いだ。銀貨には触れなかった。
 十三杯目、あるいは十四杯目か。もう数えるのも|億劫《おっくう》だった。カウンターに突っ伏したまま、空になった小さな杯の縁を指でなぞる。酒場のざわめきが、水中で聞いているかのように遠く、ぼやけていた。
 |瞼《まぶた》が重い。カウンターの|木目《もくめ》が、ゆっくりと回り始める。|唾液《だえき》が口の端から垂れているのも気づかない。
 誰かが肩に触れた気がしたが、もう何も感じない。
「おい、嬢ちゃん、生きてるか?」
 グロクの|野太《のぶと》い声が、分厚い霧の向こうから聞こえる。顔を上げようとしたが、世界がぐらりと傾いた。
「……なあ、グロク」|囁《ささや》いた。舌がもつれ、ほとんど聞き取れない。「まだ……あんのかい……?」
「あぁ? もう火酒は終わりだ、嬢ちゃん。これ以上強いもんは、この店にはねえよ」
 グロクが|呆《あき》れたように言うと、ゆっくりと顔を上げた。|虚《うつ》ろな瞳が、カウンターの向こうの彼を捉える。
「ううん……違う……グロク」か細い声で彼を遮った。「あんたが……隠してる……特別なやつ……。あたしみたいな……可愛い女の子のために……とってあるっていう……硬くて、高いやつ……」
 グロクは黙った。それから——厚い唇が、ゆっくりと歪んだ。
(知っている。何を求めているのか、分かっている。それでも、構わない)
 彼はもう何も言わなかった。ただ|頷《うなず》くと、抵抗しない体を樽のような腕で抱え上げた。
 * * *
 酒場の裏の部屋。古びて腐った簡易寝台、湿気を|滲《にじ》ませる壁、息が詰まるほど濃いカビの臭い。
 彼を止めなかった。口も開かなかった。
 彼が服をまさぐり、その汗ばんだ不潔な重みが圧し掛かる間、ただ天井の染みを見つめていた。一点に集中して、現実から逃れるように。
 そして——記憶。
(アーレン)
 洞窟の男ではない。前の男。
 ——息。耳元に。荒い。
 ——手。背中を掴む。剣術で硬くなった指。
 ——声。低い唸り。
(あの時は……意味が、あった)
 これは違う。ただ重い。ただ臭い。ただ——
(無だ)
 回転が速まる。唸り声と、苦みだけ——
 腹の底が、裏返った。
「——ウッ、オェェェッ!」
 胃の中身が、熱い奔流となって彼の背中と寝台にぶちまけられた。
「この汚ねえ|女狐《めぎつね》が!」
 髪を掴まれた。引きずられた。上着が半分脱げた。冷たい泥の中に落ちた。
 扉が閉まる音を最後に、周りの世界は沈黙した。
 * * *
 冷たい泥の中に横たわっていた。まだ彼の臭いが残っている。乱れた衣服から泥が染み込み、小石が背中に食い込む。
 上着の下から、震える手で川石を引き出した。その冷たく滑らかな感触に、必死に|縋《すが》りついた。端が|掌《てのひら》に食い込むほど強く握りしめる。
 目で、傾いた建物の間から見える、|痣《あざ》のような空をたどった。
(彼はあたしをこのために救ったのか? こんなものになるために?)
 涙は出なかった。
(これは生きることじゃない)
(これはただ……ゆっくりとした死だ)