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第21話:最も細い糸

ー/ー



 ドクン……ドクン……

 ハァ——

 何かが緩んだ。胸の奥で——握りしめた拳が、開いた。肋骨(ろっこつ)が、広がる。

 ハァ——ハァ——ハァ——

 空気が流れ込む。冷たい。鋭い。喉を削る。止められぬ。筋肉が震えておる——顎が、肩が、手が。心臓が激しく打っておる。歯の奥まで響くほど。

 虚無が、砕けた。

 血の匂い。濃い。どこにでも。地面に。奴の口に。我の手首からまだ滴っておる。風が、匂いを運んでおる。山の方へ。

 奴が横たわっておる。ぐったりと。意識がない。我の腕——震えておる。空っぽだ。

 光の角度が変わっておった。どれほど長く、我は倒れておった?

(——長すぎた)

(——動け。今すぐ)

 体を起こした。

 左の手首を見下ろした。傷口からまだ血が(にじ)んでおる。細い流れだが、止まらぬ。右手を傷の上にかざした。

(——治癒魔法。己に使えば、消耗の方が大きい)

 だが選択肢はない。

サ・カールヴァラ……(癒しの女神よ……)カゾ・グルシュ・キ・ラーン、(私は弱さの中にひざまずくが、)

チェク・サゾ・カーズ・キ・クルアズ(内なるあなたの力を呼ぶ)

カゾ・コル・ドエナズ、(我が血を捧げ、)カゾ・カラーズン・ツォルクアズ(我が息を明け渡す)

ドロセン・レザールン、(壊れたものを繕い、)グラーズ・サルアズ(出血を止めよ)

グレーヴ・ネクシャアズ、(痛みを退かせ、)ヴェスク・ネクタズアズ(生命を保たせよ)

サカーリク・カーズ・クン(あなたの不朽の力によって)——シャールナク(小治癒)!】

 紋様が手首の上に浮かんだ。淡い紫。震えておる——生命力が足りぬ。それでも肉が動いた。裂けた縁がゆっくりと引き寄せられていく。

 出血が止まった。傷跡を見下ろす。銀色の線。歪んでおる。完全には塞がっておらぬ。縁はまだ赤い——触れれば開く。

(——十分だ)

 近くに転がっておる背嚢を見た。奴の身体を。

(——担がねばならぬ。だが——)

 我の生命力は尽きかけておる。奴の身体は我より大きい。

(——背中に。腕は手首を掴んで固定。脚は——腰に回して縛る)

 背嚢を掴んだ。胸に抱える。重心が前に移る。——悪くない。奴の重さが背中にかかれば、釣り合う。杖を拾った。

 奴の腕を掴み、引き起こそうとした。——重い。腕が震えた。歯を食いしばり、もう一度。奴の身体が持ち上がった。背を向け、膝を曲げ、肩の下に潜り込んだ。奴の両腕を肩の上に。脚を腰に回す。——ずり落ちる。外套の裾を爪で裂いた。長い帯で奴の脚を腰に縛りつけた。尾を奴の背に這わせ、肩へ巻きつけた。締める。

 奴の頭が首の横に落ちた。——熱い。まだ燃えておる。

 片手で奴の手首を掴む。もう片方で杖を握る。

 立ち上がった。膝が震えた。

 ——重い。

 右肩。雪獅子に裂かれた方。傷が燃えておる。かろうじて塞がった肉が、奴の重みで引き裂かれそうだ。歯を食いしばった。杖を突き、一歩踏み出した。

 夜明けの光が、灰色の丘を照らしておった。地面は泥と砕けた頁岩(けつがん)。一歩ごとにブーツが沈み、引き抜くのに力がいる。岩の露頭(ろとう)を縫い、窪地(くぼち)を迂回した。空を意識しておる。稜線を避けた。【ツェルザーク(監視鷹)】が飛んでおるかもしれぬ。低い地形を選んだ。だが谷底までは降りぬ。木の下は見通しが利かぬ。

 杖を突いた。足を引きずった。繰り返した。肩が燃えておる。膝が軋んでおる。腕が重い。

 * * *

 日が高く昇る頃には、膝が震え始めておった。視界の端が白く明滅した。一瞬だけ。戻った。

 杖に体重を預け、呼吸を整えた。奴の頭が首にもたれておる。耳の後ろに息がかかる。浅い。だが規則的。

 また歩き出した。

 頁岩の斜面に差しかかった。下り。雨に濡れた石が鈍い光を反射しておる。杖を深く突き、一歩ずつ降りた。下りでは、奴の重さが前に引っ張る。三歩目で、ブーツが滑った。

(——!)

 身体が傾いた。奴の重さに引きずられて前へ——杖を横に突っ込んだ。かろうじて止まった。心臓が口から飛び出しそうだ。

 より慎重に。一歩ずつ。膝を深く曲げ、重心を低く。斜面を抜ける頃には、息が荒くなっておった。

 肩が——

「ン——」

 歯の間から音が漏れた。塞がりかけた傷が裂けそうだ。熱い。脈打つ痛み。奴の重さをもう片方の肩に移した。わずかに。

 また歩き出した。

 * * *

 日が傾き始めた。

 小さな流れに出た。水は浅く、冷たい。渡る前に足を止めた。手を見下ろした。爪の下に乾いた血がこびりついておる。しゃがんで、手を水に浸した。血が溶けた。赤い糸が流れに乗り、下流へ消えていく。

 水袋に手を伸ばした——

 バサバサバサッ——

 頭上で羽ばたきが弾けた。

(——!! 【ツェルザーク】か?!)

 身体が凍りついた。手が止まった。——鳥だ。三羽。対岸から飛び立つ黒い影。ただの(からす)

 息を吐いた。ゆっくりと。

 水袋を流れに沈めた。泡が立った。満たされるのを待った。一口。二口。喉が動いた。栓をした。

 立ち上がり、流れを渡った。水がブーツに染み込んだ。奴の足も濡れた。

 流れの向こうは緩い登り。杖が湿った土を噛んだ。斜面の途中で、膝が崩れた。手が地面を打った。杖が転がった。奴の身体が背中でずれた。歯を食いしばり、肩をすくめて奴を押し戻した。杖を拾い、また立った。

(……あとどれくらいだ?)

 分からぬ。奴が示した方角だけが頼りだ。それだけ。

 * * *

 光が赤みを帯び始めた頃。

 脚が言うことを聞かなくなっておった。杖に縋りつき、半ば引きずられるように進んでおる。腰の縛りが緩んでおった。奴のブーツが草を擦る音。足を止め、縛り直した。指が震えておる。

(……限界だ)

 最初に見つけた窪みは、却下した。遮るものがない。空が見える。二つ目は、岩の裂け目。匂いを嗅いだ瞬間、鼻に皺が寄った。獣の糞。古いが、匂いが残っておる。

 三つ目。斜面にしがみつく大きな岩塊。その下に深い窪み。ほとんど洞になっておる。足を止め、匂いを確認した。土。湿った石。苔。——獣の気配はない。見上げた。岩塊が(ひさし)のように張り出しておる。空は見えぬ。

 最後の十歩が、一番長かった。

 ようやく辿り着き、縛りを解き、奴を窪みの中に滑り込ませた。土の壁にもたれさせ、頭が落ちぬよう位置を調整した。枯れ草を集め、奴の身体を覆った。

 それから奴の顔を覗き込んだ。青白い。唇に色がない。頬が(やつ)れ、目の周りに隈が浮いておる。だが——胸は動いておる。

 手を伸ばし、首筋に触れた。脈が指先に伝わった。遅い。弱い。だが——ある。

 水袋を取り出した。まず己の口へ。三口。喉が動いた。それから片手で奴の頭を支え、少し持ち上げた。水袋の口を奴の唇に当てた。傾けた。ゆっくりと。喉が動いた。もう少し傾けた。また喉が動いた。三口。四口。頭を下ろし、枯れ草の上に寝かせた。

 身体を滑り込ませた。奴の横に。背中を奴の背中に押し当てた。枯れ草の下で、互いの熱が混じった。奴の呼吸が背中に伝わる。浅い。規則的。心臓が、肋骨を通して脈打っておる。

 手首が、疼いた。

 ——奴の胸の上。
 ——ドクン。ドクン。肋骨の下で。
 ——腰が、勝手に——
 ——ンッ——ァ——

 爪が土に食い込んだ。顔が熱い。歯を食いしばった。顎が軋むほど。

 ——アオォォン……

(——!)

 遠い。森の向こう。来た方角から。狼。一匹。

 耳が闇の中で音を追った。……続くものはなかった。記憶に留めた。

 目を閉じた。奴の呼吸が背中に伝わる。浅い。規則的。

 それだけを聞いておった。


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次のエピソードへ進む 第22話:ヴァラ編・傷を舐める


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 ドクン……ドクン……
 ハァ——
 何かが緩んだ。胸の奥で——握りしめた拳が、開いた。|肋骨《ろっこつ》が、広がる。
 ハァ——ハァ——ハァ——
 空気が流れ込む。冷たい。鋭い。喉を削る。止められぬ。筋肉が震えておる——顎が、肩が、手が。心臓が激しく打っておる。歯の奥まで響くほど。
 虚無が、砕けた。
 血の匂い。濃い。どこにでも。地面に。奴の口に。我の手首からまだ滴っておる。風が、匂いを運んでおる。山の方へ。
 奴が横たわっておる。ぐったりと。意識がない。我の腕——震えておる。空っぽだ。
 光の角度が変わっておった。どれほど長く、我は倒れておった?
(——長すぎた)
(——動け。今すぐ)
 体を起こした。
 左の手首を見下ろした。傷口からまだ血が|滲《にじ》んでおる。細い流れだが、止まらぬ。右手を傷の上にかざした。
(——治癒魔法。己に使えば、消耗の方が大きい)
 だが選択肢はない。
【|サ・カールヴァラ……《癒しの女神よ……》|カゾ・グルシュ・キ・ラーン、《私は弱さの中にひざまずくが、》】
【|チェク・サゾ・カーズ・キ・クルアズ《内なるあなたの力を呼ぶ》】
【|カゾ・コル・ドエナズ、《我が血を捧げ、》|カゾ・カラーズン・ツォルクアズ《我が息を明け渡す》】
【|ドロセン・レザールン、《壊れたものを繕い、》|グラーズ・サルアズ《出血を止めよ》】
【|グレーヴ・ネクシャアズ、《痛みを退かせ、》|ヴェスク・ネクタズアズ《生命を保たせよ》】
【|サカーリク・カーズ・クン《あなたの不朽の力によって》——|シャールナク《小治癒》!】
 紋様が手首の上に浮かんだ。淡い紫。震えておる——生命力が足りぬ。それでも肉が動いた。裂けた縁がゆっくりと引き寄せられていく。
 出血が止まった。傷跡を見下ろす。銀色の線。歪んでおる。完全には塞がっておらぬ。縁はまだ赤い——触れれば開く。
(——十分だ)
 近くに転がっておる背嚢を見た。奴の身体を。
(——担がねばならぬ。だが——)
 我の生命力は尽きかけておる。奴の身体は我より大きい。
(——背中に。腕は手首を掴んで固定。脚は——腰に回して縛る)
 背嚢を掴んだ。胸に抱える。重心が前に移る。——悪くない。奴の重さが背中にかかれば、釣り合う。杖を拾った。
 奴の腕を掴み、引き起こそうとした。——重い。腕が震えた。歯を食いしばり、もう一度。奴の身体が持ち上がった。背を向け、膝を曲げ、肩の下に潜り込んだ。奴の両腕を肩の上に。脚を腰に回す。——ずり落ちる。外套の裾を爪で裂いた。長い帯で奴の脚を腰に縛りつけた。尾を奴の背に這わせ、肩へ巻きつけた。締める。
 奴の頭が首の横に落ちた。——熱い。まだ燃えておる。
 片手で奴の手首を掴む。もう片方で杖を握る。
 立ち上がった。膝が震えた。
 ——重い。
 右肩。雪獅子に裂かれた方。傷が燃えておる。かろうじて塞がった肉が、奴の重みで引き裂かれそうだ。歯を食いしばった。杖を突き、一歩踏み出した。
 夜明けの光が、灰色の丘を照らしておった。地面は泥と砕けた|頁岩《けつがん》。一歩ごとにブーツが沈み、引き抜くのに力がいる。岩の|露頭《ろとう》を縫い、|窪地《くぼち》を迂回した。空を意識しておる。稜線を避けた。【|ツェルザーク《監視鷹》】が飛んでおるかもしれぬ。低い地形を選んだ。だが谷底までは降りぬ。木の下は見通しが利かぬ。
 杖を突いた。足を引きずった。繰り返した。肩が燃えておる。膝が軋んでおる。腕が重い。
 * * *
 日が高く昇る頃には、膝が震え始めておった。視界の端が白く明滅した。一瞬だけ。戻った。
 杖に体重を預け、呼吸を整えた。奴の頭が首にもたれておる。耳の後ろに息がかかる。浅い。だが規則的。
 また歩き出した。
 頁岩の斜面に差しかかった。下り。雨に濡れた石が鈍い光を反射しておる。杖を深く突き、一歩ずつ降りた。下りでは、奴の重さが前に引っ張る。三歩目で、ブーツが滑った。
(——!)
 身体が傾いた。奴の重さに引きずられて前へ——杖を横に突っ込んだ。かろうじて止まった。心臓が口から飛び出しそうだ。
 より慎重に。一歩ずつ。膝を深く曲げ、重心を低く。斜面を抜ける頃には、息が荒くなっておった。
 肩が——
「ン——」
 歯の間から音が漏れた。塞がりかけた傷が裂けそうだ。熱い。脈打つ痛み。奴の重さをもう片方の肩に移した。わずかに。
 また歩き出した。
 * * *
 日が傾き始めた。
 小さな流れに出た。水は浅く、冷たい。渡る前に足を止めた。手を見下ろした。爪の下に乾いた血がこびりついておる。しゃがんで、手を水に浸した。血が溶けた。赤い糸が流れに乗り、下流へ消えていく。
 水袋に手を伸ばした——
 バサバサバサッ——
 頭上で羽ばたきが弾けた。
(——!! 【ツェルザーク】か?!)
 身体が凍りついた。手が止まった。——鳥だ。三羽。対岸から飛び立つ黒い影。ただの|鴉《からす》。
 息を吐いた。ゆっくりと。
 水袋を流れに沈めた。泡が立った。満たされるのを待った。一口。二口。喉が動いた。栓をした。
 立ち上がり、流れを渡った。水がブーツに染み込んだ。奴の足も濡れた。
 流れの向こうは緩い登り。杖が湿った土を噛んだ。斜面の途中で、膝が崩れた。手が地面を打った。杖が転がった。奴の身体が背中でずれた。歯を食いしばり、肩をすくめて奴を押し戻した。杖を拾い、また立った。
(……あとどれくらいだ?)
 分からぬ。奴が示した方角だけが頼りだ。それだけ。
 * * *
 光が赤みを帯び始めた頃。
 脚が言うことを聞かなくなっておった。杖に縋りつき、半ば引きずられるように進んでおる。腰の縛りが緩んでおった。奴のブーツが草を擦る音。足を止め、縛り直した。指が震えておる。
(……限界だ)
 最初に見つけた窪みは、却下した。遮るものがない。空が見える。二つ目は、岩の裂け目。匂いを嗅いだ瞬間、鼻に皺が寄った。獣の糞。古いが、匂いが残っておる。
 三つ目。斜面にしがみつく大きな岩塊。その下に深い窪み。ほとんど洞になっておる。足を止め、匂いを確認した。土。湿った石。苔。——獣の気配はない。見上げた。岩塊が|庇《ひさし》のように張り出しておる。空は見えぬ。
 最後の十歩が、一番長かった。
 ようやく辿り着き、縛りを解き、奴を窪みの中に滑り込ませた。土の壁にもたれさせ、頭が落ちぬよう位置を調整した。枯れ草を集め、奴の身体を覆った。
 それから奴の顔を覗き込んだ。青白い。唇に色がない。頬が|窶《やつ》れ、目の周りに隈が浮いておる。だが——胸は動いておる。
 手を伸ばし、首筋に触れた。脈が指先に伝わった。遅い。弱い。だが——ある。
 水袋を取り出した。まず己の口へ。三口。喉が動いた。それから片手で奴の頭を支え、少し持ち上げた。水袋の口を奴の唇に当てた。傾けた。ゆっくりと。喉が動いた。もう少し傾けた。また喉が動いた。三口。四口。頭を下ろし、枯れ草の上に寝かせた。
 身体を滑り込ませた。奴の横に。背中を奴の背中に押し当てた。枯れ草の下で、互いの熱が混じった。奴の呼吸が背中に伝わる。浅い。規則的。心臓が、肋骨を通して脈打っておる。
 手首が、疼いた。
 ——奴の胸の上。
 ——ドクン。ドクン。肋骨の下で。
 ——腰が、勝手に——
 ——ンッ——ァ——
 爪が土に食い込んだ。顔が熱い。歯を食いしばった。顎が軋むほど。
 ——アオォォン……
(——!)
 遠い。森の向こう。来た方角から。狼。一匹。
 耳が闇の中で音を追った。……続くものはなかった。記憶に留めた。
 目を閉じた。奴の呼吸が背中に伝わる。浅い。規則的。
 それだけを聞いておった。