第19話:帰れぬ道
ー/ー いつ——爪が——己の手首を——
血が、【セズ】が、溢れておる。熱い筋が、腕の内側を伝う。
「ゴボ……ッ、ゴボ」
——身体が、動いた。這った。跨いだ。手首を、奴の口へ押し付けた。血が、流れ込んでいく。
「ゴクン」
奴の喉が動いた。
——ッ。
声が漏れた。痛みでは——ない。熱い。手首が。胸が。背骨を何かが這い上がっていく。奴の唇が傷口を吸った。
——ァ
息が詰まった。腹の奥で何かが——締まる。尾が跳ねた。石を打った。ガリッ、と爪が削れる音。
「ゴクン。ゴクン」
奴が飲んでおる。我の血を。熱い。頭が。目の奥が。息が荒くなっていく。——なぜだ。なぜ、こんな——思考が浮かんだ。断片的に。
(——近くにおれば、奴の【トロ】は和らいだ——)
「ゴクン」
ンッ——
声が止められぬ。喉の奥から勝手に。
(——触れれば、もっと——)
奴の舌が傷口を舐めた。無意識に。視界が白く飛んだ。一瞬。腰が勝手に動いた。前に。押し付けるように。息が——足りぬ。肺が追いつかぬ。
(——【ヘク】は、魔族の血を、【トロ】の薬に——)
「ゴクン。ゴクン。ゴクン」
止まらぬ。奴が飲むたびに、身体の奥で何かが——弾ける。
(——生で? 毒か? だが、【カエレン・トール】があるなら——)
汗が額を伝った。鱗の隙間を流れていく。
ハァ、ハァ、ハァ——
止められぬ。
(——生存のための——これは——計算——)
手首から血が。奴の口から溢れて、顎を伝って。
ア、ァ——
目を閉じた。閉じておらねば——何かが——身体が震えておる。痛みではない。熱い。熱すぎる。腹の奥がきつく、きつく——
「ゴクン」
(——くだらん——これは——ただ——)
頭がぐらついた。血が抜けていく。だが止められぬ。止めたくない。身体が拒んでおる。奴の喉が動く。動く。動く。
ハァッ、ハァッ、ハァッ——
速い。浅い。足りぬ。
(——我は——何を——)
視界が暗くなっていく。端から。熱い。熱い。熱い。腹の奥で何かが——背中が反った。勝手に。顔が上を向く。天井の闇。目の奥で光が散る。
ハァ——ァ——ア——
白い。何も見えぬ。何も考えられぬ。腰が動いておる。止められぬ。止めたくない。
ア——ァ、ア—— !! ——ッキィィィン——
——奴の身体が、跳ねた。
ビクンッ!
——ッ!?
目が開いた。現実に引き戻された。奴の背中が弓なりに石から浮き上がっておる。我の身体ごと持ち上げられる。口から我の血が溢れて——
手首を引いた。遅い。
ドンッ!
背中が石に叩きつけられた。我も一緒に。衝撃が骨を震わせる。
ビクン、ビクンッ!
奴の手足がばたついておる。腕が、脚が、意志を持たぬ獣のように暴れる。顎が噛み合った。ギリ、ギリ、ギリ——歯が軋む音。骨が擦れる音。唇の端から血が——舌を噛んだか。
「——奴ッ!?」
首が捻じれた。左へ。右へ。あり得ぬ角度まで。筋が浮き上がり、皮膚の下で何かが跳ねておる。
ビクンッ!
腰が跳ねた。また。我の身体が弾かれる。奴の上で必死にしがみつく。踵が石を打つ。ダン、ダン、ダン、ダン——
指が——奴の指が——曲がっておる。爪が己の掌に食い込んでおる。血が滲んでいく。鼻から血が。耳からも。赤い。濁った赤。我の血と混じって、奴の顔を染めていく。【カエレン・トール】が叫んでおる。奴の中で——何かが——戦っておる。
「ゴボッ、ゴボッ——」
喉から音が。溺れておる。また。我の血に。己の血に。熱い。我の血管も燃えておる。奴の苦痛が流れ込んでくる。裂かれる感覚。焼かれる感覚。
ビクン、ビクンッ——!
背骨が反り返った。折れそうな角度に。人の身体がこんな形になるはずがない。
ダン、ダン、ダン——
「やめろ——やめろッ!」
肩を押さえた。だが力が。血を失いすぎた。奴の目が、白く剥けた。完全に。瞳が消えて、白い球だけが残っておる。泡が口から。赤く染まった泡。ブクブクと溢れて顎を伝う。
ビクンッ、ビクンッ、ビクンッ——
(——我が、殺した——)
(——毒だった——生の血は——【カエレン・トール】があっても——)
ビクンッ——
——止まった。
* * *
動かぬ。
奴の胸が、動かぬ。
目が半開きのまま。何も映しておらぬ。白く濁っておる。口から血が——我の血と奴の血が——混じって顎を伝っておる。
脈を探った。首筋に。手首に。
——何もない。
耳を胸に当てた。
——何も聞こえぬ。
静寂。ただ、静寂。
我は——まだ奴の上に跨っておる。
(——何を、しておった)
熱が引いていく。急速に。代わりに冷たいものが。胃の底から。
(——【ヘク】相手に——我は——)
吐き気が込み上げた。さっきまでの熱が。あの声が。あの——
(——何を——何を感じて——)
だが。奴の顔。動かぬ。
(——死んだ)
恥も。嫌悪も。消えた。
(——我が——殺した)
* * *
——来た。胸の奥で。何の前触れもなく。
蹴られた。
そう感じた。内側から。肋骨が折れるほどの衝撃。息が、止まった。
(——【カエレン・トール】が——断たれた——?)
膝が崩れた。奴の身体から転がり落ちる。石の上に。胃が潰された。握り締められて、捻じられて、引き千切られて。口が開いた。声は出ぬ。
——痛い。違う。痛いのではない。
——抉られた。
胸の真ん中から、何かが。引き摺り出された。見えぬ。血も出ておらぬ。傷もない。だが——ない。さっきまであったものが。ない。
(——何が——)
分からぬ。何がなくなったのか。だが確かに——
空洞。
胸の奥に、穴が開いておる。冷たい。暗い。底がない。手を当てた。胸に。爪が鱗を掻いた。——ない。何も触れぬ。何も埋められぬ。
(——何だ、これは——)
息が浅くなっていく。速くなっていく。だが足りぬ。肺が動いておるのに、空気が入ってこぬ。空洞が広がっていく。胸から。腹へ。喉へ。全身が空になっていく。
(——嫌だ——)
声にならぬ。喉が詰まっておる。
(——嫌だ——こんな——)
奴の顔が視界の端に。動かぬ。白い目。開いた口。血に濡れた顎。
——もう、おらぬ。
(——ッ——)
何かが喉の奥で詰まった。嗚咽か。悲鳴か。分からぬ。出てこぬ。ただ身体が震えておる。止まらぬ。寒い。火はまだ燃えておる。だが寒い。骨の芯から。魂の底から。凍えていく。
(——独りだ)
……パパ。……ラシュカ。
(——何もない)
空洞が脈打った。痛みではない。もっと悪い。存在そのものが拒否されておる。
(——無理だ)
(——こんなもの——抱えて——)
(——生きられぬ)
手が動いた。爪が己の喉に。押し当てた。冷たい。硬い。鋭い。一瞬で終わる。
(——終わらせる)
この空洞ごと。この寒さごと。この——何も名前のない——これごと。
(——今すぐ——)
ドクン。
(——?)
聞こえた。奴の胸から。
ドクン。ドクン。ドクン——
鼓動。弱い。だが確かに。奴の胸が——動いた。浅い。かすかに。だが——
——呼吸しておる。
(——生きて——)
空洞が消えた。一瞬で。【カエレン・トール】が——戻った。代わりに——息ができる。
手が喉から離れた。力が抜けて。膝が崩れた。奴の傍に。腕を奴の胸に。頭をその上に。
ドクン。ドクン。ドクン——
聞いておった。ただ聞いておった。奴の心臓の音を。生きておる証を。震えが止まらぬ。だがさっきとは違う。寒さではない。
奴の鼓動が耳に響いておる。頬に伝わっておる。動けぬ。身体に力が入らぬ。血を失いすぎた。腕が重い。瞼が重い。だが——それだけではない。動きたくない。ここから離れたらまた——あの空洞が。あの寒さが。戻ってくる。
離れられぬ。
* * *
(——さっきまで、我は——)
喉に爪を当てておった。【ヘク】が死んだから。それだけで。
(——あの空洞が——答えだ)
【カエレン・トール】が——我に——何をした。分からぬ。だが——一つだけ、確かなことがある。
あの空洞だけは——二度と——
奴なしでは、我は——在れぬ。
吐き気がまた込み上げた。さっきまでの記憶が。奴の上で——
(——【ヘク】相手に——)
(——何を感じて——何を——)
顔が熱い。恥か。嫌悪か。
だが離れられぬ。奴の胸から頭を上げられぬ。
ドクン。ドクン。ドクン——
この音が止まったら。また、あの空洞が——
(——くだらん)
吐き捨てた。己に。
(——我は【ゾルカー】だ)
(——戦士だ)
(——こんな——【ヘク】ごときに——)
言葉が続かぬ。何を言っても嘘になる。
奴の鼓動を聞いておる。離れられずに。それが答えだ。
(——何に、なった)
(——我は——何に——)
血が、【セズ】が、溢れておる。熱い筋が、腕の内側を伝う。
「ゴボ……ッ、ゴボ」
——身体が、動いた。這った。跨いだ。手首を、奴の口へ押し付けた。血が、流れ込んでいく。
「ゴクン」
奴の喉が動いた。
——ッ。
声が漏れた。痛みでは——ない。熱い。手首が。胸が。背骨を何かが這い上がっていく。奴の唇が傷口を吸った。
——ァ
息が詰まった。腹の奥で何かが——締まる。尾が跳ねた。石を打った。ガリッ、と爪が削れる音。
「ゴクン。ゴクン」
奴が飲んでおる。我の血を。熱い。頭が。目の奥が。息が荒くなっていく。——なぜだ。なぜ、こんな——思考が浮かんだ。断片的に。
(——近くにおれば、奴の【トロ】は和らいだ——)
「ゴクン」
ンッ——
声が止められぬ。喉の奥から勝手に。
(——触れれば、もっと——)
奴の舌が傷口を舐めた。無意識に。視界が白く飛んだ。一瞬。腰が勝手に動いた。前に。押し付けるように。息が——足りぬ。肺が追いつかぬ。
(——【ヘク】は、魔族の血を、【トロ】の薬に——)
「ゴクン。ゴクン。ゴクン」
止まらぬ。奴が飲むたびに、身体の奥で何かが——弾ける。
(——生で? 毒か? だが、【カエレン・トール】があるなら——)
汗が額を伝った。鱗の隙間を流れていく。
ハァ、ハァ、ハァ——
止められぬ。
(——生存のための——これは——計算——)
手首から血が。奴の口から溢れて、顎を伝って。
ア、ァ——
目を閉じた。閉じておらねば——何かが——身体が震えておる。痛みではない。熱い。熱すぎる。腹の奥がきつく、きつく——
「ゴクン」
(——くだらん——これは——ただ——)
頭がぐらついた。血が抜けていく。だが止められぬ。止めたくない。身体が拒んでおる。奴の喉が動く。動く。動く。
ハァッ、ハァッ、ハァッ——
速い。浅い。足りぬ。
(——我は——何を——)
視界が暗くなっていく。端から。熱い。熱い。熱い。腹の奥で何かが——背中が反った。勝手に。顔が上を向く。天井の闇。目の奥で光が散る。
ハァ——ァ——ア——
白い。何も見えぬ。何も考えられぬ。腰が動いておる。止められぬ。止めたくない。
ア——ァ、ア—— !! ——ッキィィィン——
——奴の身体が、跳ねた。
ビクンッ!
——ッ!?
目が開いた。現実に引き戻された。奴の背中が弓なりに石から浮き上がっておる。我の身体ごと持ち上げられる。口から我の血が溢れて——
手首を引いた。遅い。
ドンッ!
背中が石に叩きつけられた。我も一緒に。衝撃が骨を震わせる。
ビクン、ビクンッ!
奴の手足がばたついておる。腕が、脚が、意志を持たぬ獣のように暴れる。顎が噛み合った。ギリ、ギリ、ギリ——歯が軋む音。骨が擦れる音。唇の端から血が——舌を噛んだか。
「——奴ッ!?」
首が捻じれた。左へ。右へ。あり得ぬ角度まで。筋が浮き上がり、皮膚の下で何かが跳ねておる。
ビクンッ!
腰が跳ねた。また。我の身体が弾かれる。奴の上で必死にしがみつく。踵が石を打つ。ダン、ダン、ダン、ダン——
指が——奴の指が——曲がっておる。爪が己の掌に食い込んでおる。血が滲んでいく。鼻から血が。耳からも。赤い。濁った赤。我の血と混じって、奴の顔を染めていく。【カエレン・トール】が叫んでおる。奴の中で——何かが——戦っておる。
「ゴボッ、ゴボッ——」
喉から音が。溺れておる。また。我の血に。己の血に。熱い。我の血管も燃えておる。奴の苦痛が流れ込んでくる。裂かれる感覚。焼かれる感覚。
ビクン、ビクンッ——!
背骨が反り返った。折れそうな角度に。人の身体がこんな形になるはずがない。
ダン、ダン、ダン——
「やめろ——やめろッ!」
肩を押さえた。だが力が。血を失いすぎた。奴の目が、白く剥けた。完全に。瞳が消えて、白い球だけが残っておる。泡が口から。赤く染まった泡。ブクブクと溢れて顎を伝う。
ビクンッ、ビクンッ、ビクンッ——
(——我が、殺した——)
(——毒だった——生の血は——【カエレン・トール】があっても——)
ビクンッ——
——止まった。
* * *
動かぬ。
奴の胸が、動かぬ。
目が半開きのまま。何も映しておらぬ。白く濁っておる。口から血が——我の血と奴の血が——混じって顎を伝っておる。
脈を探った。首筋に。手首に。
——何もない。
耳を胸に当てた。
——何も聞こえぬ。
静寂。ただ、静寂。
我は——まだ奴の上に跨っておる。
(——何を、しておった)
熱が引いていく。急速に。代わりに冷たいものが。胃の底から。
(——【ヘク】相手に——我は——)
吐き気が込み上げた。さっきまでの熱が。あの声が。あの——
(——何を——何を感じて——)
だが。奴の顔。動かぬ。
(——死んだ)
恥も。嫌悪も。消えた。
(——我が——殺した)
* * *
——来た。胸の奥で。何の前触れもなく。
蹴られた。
そう感じた。内側から。肋骨が折れるほどの衝撃。息が、止まった。
(——【カエレン・トール】が——断たれた——?)
膝が崩れた。奴の身体から転がり落ちる。石の上に。胃が潰された。握り締められて、捻じられて、引き千切られて。口が開いた。声は出ぬ。
——痛い。違う。痛いのではない。
——抉られた。
胸の真ん中から、何かが。引き摺り出された。見えぬ。血も出ておらぬ。傷もない。だが——ない。さっきまであったものが。ない。
(——何が——)
分からぬ。何がなくなったのか。だが確かに——
空洞。
胸の奥に、穴が開いておる。冷たい。暗い。底がない。手を当てた。胸に。爪が鱗を掻いた。——ない。何も触れぬ。何も埋められぬ。
(——何だ、これは——)
息が浅くなっていく。速くなっていく。だが足りぬ。肺が動いておるのに、空気が入ってこぬ。空洞が広がっていく。胸から。腹へ。喉へ。全身が空になっていく。
(——嫌だ——)
声にならぬ。喉が詰まっておる。
(——嫌だ——こんな——)
奴の顔が視界の端に。動かぬ。白い目。開いた口。血に濡れた顎。
——もう、おらぬ。
(——ッ——)
何かが喉の奥で詰まった。嗚咽か。悲鳴か。分からぬ。出てこぬ。ただ身体が震えておる。止まらぬ。寒い。火はまだ燃えておる。だが寒い。骨の芯から。魂の底から。凍えていく。
(——独りだ)
……パパ。……ラシュカ。
(——何もない)
空洞が脈打った。痛みではない。もっと悪い。存在そのものが拒否されておる。
(——無理だ)
(——こんなもの——抱えて——)
(——生きられぬ)
手が動いた。爪が己の喉に。押し当てた。冷たい。硬い。鋭い。一瞬で終わる。
(——終わらせる)
この空洞ごと。この寒さごと。この——何も名前のない——これごと。
(——今すぐ——)
ドクン。
(——?)
聞こえた。奴の胸から。
ドクン。ドクン。ドクン——
鼓動。弱い。だが確かに。奴の胸が——動いた。浅い。かすかに。だが——
——呼吸しておる。
(——生きて——)
空洞が消えた。一瞬で。【カエレン・トール】が——戻った。代わりに——息ができる。
手が喉から離れた。力が抜けて。膝が崩れた。奴の傍に。腕を奴の胸に。頭をその上に。
ドクン。ドクン。ドクン——
聞いておった。ただ聞いておった。奴の心臓の音を。生きておる証を。震えが止まらぬ。だがさっきとは違う。寒さではない。
奴の鼓動が耳に響いておる。頬に伝わっておる。動けぬ。身体に力が入らぬ。血を失いすぎた。腕が重い。瞼が重い。だが——それだけではない。動きたくない。ここから離れたらまた——あの空洞が。あの寒さが。戻ってくる。
離れられぬ。
* * *
(——さっきまで、我は——)
喉に爪を当てておった。【ヘク】が死んだから。それだけで。
(——あの空洞が——答えだ)
【カエレン・トール】が——我に——何をした。分からぬ。だが——一つだけ、確かなことがある。
あの空洞だけは——二度と——
奴なしでは、我は——在れぬ。
吐き気がまた込み上げた。さっきまでの記憶が。奴の上で——
(——【ヘク】相手に——)
(——何を感じて——何を——)
顔が熱い。恥か。嫌悪か。
だが離れられぬ。奴の胸から頭を上げられぬ。
ドクン。ドクン。ドクン——
この音が止まったら。また、あの空洞が——
(——くだらん)
吐き捨てた。己に。
(——我は【ゾルカー】だ)
(——戦士だ)
(——こんな——【ヘク】ごときに——)
言葉が続かぬ。何を言っても嘘になる。
奴の鼓動を聞いておる。離れられずに。それが答えだ。
(——何に、なった)
(——我は——何に——)
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