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第18話:刃

ー/ー



 目を開けた。灰色の光が岩の天井を照らし、風の音が遠くで鳴っておる。身体を起こすと、肩が(きし)んだ。重い。眠ったはずだが、疲労が抜けておらぬ。

 隣を見た。【ヘク(人間)】が横たわっておる。昨夜と同じ姿勢で、動いておらぬ。胸は——動いておる。浅く。速く。

 手の甲を額に当てた。熱い。(うろこ)を通しても、火傷しそうなほど。

(——よくなっておらぬ。一晩、傍におっても)

 水袋を取り、栓を抜いて奴の唇に当てた。傾けると、水が口の端から零れ落ちた。飲み込めておらぬ。喉が——動かぬ。

 手を止めた。水袋を下ろした。残りの食料を確認した。ほとんどない。水袋も軽い。

(——水を、汲んでくる)

 奴を見下ろした。呼吸は変わらぬ。浅く。速く。外へ出た。

 * * *

 風が顔を打った。岩陰を離れ、周囲を見渡したが、脅威は見える範囲にはない。

 斜面を下った。昨日、水の音を聞いた。この先の窪地に、雪解けの細い流れがあったはずだ。枯れた低木が斜面にしがみついておる。下に降りるほど増えていく。岩を越え、振り返ると、岩陰が遠い。灰色の丘に、黒い染みのように小さく見える。

 窪地に降りた。水が光っておる。細い流れ。濁っておるが、飲めぬことはない。膝をつき、水袋を浸した。冷たさが指を刺す。一つ満たし、二つ目に手を伸ばした。

 ——キィィン——

 耳の奥で、音が鳴った。金属が軋むような。高い。鋭い。

(——【カエレン・トール(精神の侵染)】か。奴に何かが——)

 頭蓋(ずがい)の内側を、細い針で掻いておる。世界が、傾いた。膝が滑った。手が水に落ちた。冷たい。音が——やまぬ。頭の芯を、(えぐ)っておる。

 立ち上がった。よろめいた。走った。斜面を登った。足が滑る。構わぬ。音が——薄れていく。岩陰に近づくほどに。

 岩陰に滑り込んだ。息が荒い。心臓が、暴れておる。耳鳴りが、まだ残っておる。微かに。遠く。

 奴を見た。

 ——悪化しておる。

 さっきまでとは、違う。身体が丸まっておる。膝を胸に引き寄せ、(こぶし)が毛布を握り締めておる。指の関節が白い。

 ゴボ、ゴボ。

 呼吸のたびに、喉の奥で湿った音。溺れておるような。背中が、(ゆみ)なりに反った。(すじ)が浮き出た首。痙攣(けいれん)する手足。

「——ッ、ァ……」

 それから——また丸まる。膝を抱え、額を地面に押し付ける。発作の波だ。

(——我が離れた隙に——【トロ(聖蝕)】の(せき)が、崩れかけた?)

 思考が、途切れた。考えておる場合ではない。傍に膝をついた。手を伸ばした。

 ——奴の目が、開いた。

 波の合間。一瞬の(なぎ)。濁っておる。熱に侵されておる。焦点が合わぬ。だが——我を、見ておる。

(……この目は知っておる。戦場で、何度も見た)

 奴の手が動いた。震えておる。だが——意志がある。己の腰へ。ナイフを抜いた。刃が鈍い光を反射した。

 我の手首を掴んだ。弱い。だが、迷いのない力。柄を、我の(てのひら)に押し込んだ。指を、一本ずつ、柄に巻きつけさせた。

(……我に、これを求めるのか)

 目が合った。血走っておる。歯を食いしばっておる。口が、動いた。(かす)れて、割れて、ほとんど聞き取れぬ。

「……ヤッテ……クレ」

 ——熱い。掴まれた手首が、燃えておる。奴の熱が、皮膚を通して流れ込んでくる。

 手が、離れた。力が抜け、奴の目が閉じた。

 ゴボ、ゴボ。

 呼吸が——まだある。浅く。速く。溺れる音。

 我は——動かなかった。

 ゴボ、ゴボ。

 風が、外で(うな)っておる。ナイフの重みが、掌にある。

(——奴は、戻らぬのか)
(我がしておるのは——【トロ】に喰われゆく者を、引き延ばしておるだけか)

 【ドロセンファール(砕けし者の落命)】。

 慈悲の刃。苦痛を終わらせる、最後の(ほどこ)し。【ゾルカー(魔族)】の戦士は、こうする。苦しむ者を、長引かせぬ。敵であれ、獣であれ。何度もやった。戦場で。狩りで。躊躇(ためら)ったことなど、一度もない。

 終わらせる。それが、正しいのだ。

 刃を、奴の喉に当てた。

 ——グッ。

 我の喉が、締まった。

(……押せッ!)

 力を込める。だが、刃が髪一筋ほども沈まぬ。腕が震えておる。自分の筋肉が、逆方向へ引っぱり合っておるような感覚。

(——また、か。あの洞窟と同じ——【カエレン・トール】が——)

「ぐ、ァァッ——」

(何をしておる! 早く終わらせろ!)

 ギリ、ギリ、と奥歯が鳴る。己の腕に命じる。殺せ。切り裂け。容易いことだ。何度もやった。だが、指が強張って動かぬ。まるで、他者の腕を無理やり動かそうとしておるかのように。

(——奴が死ねば——我は何だ)
(——くだらん! これは我の意志だ! 呪いに従っておるのではない!)

「ンガ——ッ」

(押せッ!!)

 ヒュッ、ヒュッ——喉が鳴っておる。何かがせり上がって——塞いで——足りぬ。

(——何のために生きる)
(——黙れ!)

「ウ——ゥゥゥッ」

(押せ!)

 胃の底が、抜けた。冷たい。空洞が広がっていく。胸の下に。酸っぱい——喉の奥で——せり上がる——

(——どこへ)
(——関係ない!)

「ヒ——ッ、ア、アァァッ——」

(押せ!)

 ドクン、ドクン、ドクン——心臓が肋骨(ろっこつ)を叩いておる。内側から。

 ——キィィン——

 耳の奥。高い音。【カエレン・トール】が、悲鳴を上げておる。背が——冷たい——汗が——爪が掌に——食い込んで——痛みが——遠い——

(——一人——)
(——やめろ!)
(押せ!)
(——分からぬ)

 ——だめだ。

 身体が、拒んでおる。血が。骨が。【カエレン・トール】が。名も知らぬ何かが。一つではない。全部だ。だめだ、と。

 力が、指先から抜けた。

 カラン。

 ナイフが石を打った。遠い音。

「グ——ガァァァッ」

 奴が、まだ苦しんでおる。我が——終わらせられなかったから。

 視界が、白く——

 ゴッ。

 膝が折れた。頬が地面を打った。角が石に当たった。世界が、回っておる。胃が、裏返った。

 オェッ——ビチャ。
 黄色い——苦い——喉が燃え——
 オェッ——ビチャ。
 オェッ——何も出ぬ。
 オェッ——オェッ——身体が勝手に痙攣しておる。止まらぬ。止められぬ。

 涎が垂れておる。口の端から。糸を引いて。喉が裂けそうだ。もう何も——

 * * *

 殺せぬ。

 【カエレン・トール】のせいか。それとも——

 分からぬ。ただ——嫌だ。

 顔を上げた。奴が、そこにおる。目は閉じたまま。眉間(みけん)に、(しわ)が寄っておる。口が開いておる。

 ゴボ、ゴボ。

 まだ、溺れておる。まだ、苦しんでおる。

(……何もできぬ)

 胸が、圧されておる。

 ヒュッ——ヒュッ——吸えぬ。浅く。浅く。足りぬ。震えが、止まらぬ。歯が鳴っておる。尾が石を打っておる。

「ァ——……ァ——……」

 胸の奥で——何かが、軋んでおる。喉が、開いた。

 ——ァ、アアアアアアアッ!

 ザシュッ。

 腕が、動いた。重い感触。爪が、肉を。

 血の匂いが、狭い闇を満たした。


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 目を開けた。灰色の光が岩の天井を照らし、風の音が遠くで鳴っておる。身体を起こすと、肩が|軋《きし》んだ。重い。眠ったはずだが、疲労が抜けておらぬ。
 隣を見た。【|ヘク《人間》】が横たわっておる。昨夜と同じ姿勢で、動いておらぬ。胸は——動いておる。浅く。速く。
 手の甲を額に当てた。熱い。|鱗《うろこ》を通しても、火傷しそうなほど。
(——よくなっておらぬ。一晩、傍におっても)
 水袋を取り、栓を抜いて奴の唇に当てた。傾けると、水が口の端から零れ落ちた。飲み込めておらぬ。喉が——動かぬ。
 手を止めた。水袋を下ろした。残りの食料を確認した。ほとんどない。水袋も軽い。
(——水を、汲んでくる)
 奴を見下ろした。呼吸は変わらぬ。浅く。速く。外へ出た。
 * * *
 風が顔を打った。岩陰を離れ、周囲を見渡したが、脅威は見える範囲にはない。
 斜面を下った。昨日、水の音を聞いた。この先の窪地に、雪解けの細い流れがあったはずだ。枯れた低木が斜面にしがみついておる。下に降りるほど増えていく。岩を越え、振り返ると、岩陰が遠い。灰色の丘に、黒い染みのように小さく見える。
 窪地に降りた。水が光っておる。細い流れ。濁っておるが、飲めぬことはない。膝をつき、水袋を浸した。冷たさが指を刺す。一つ満たし、二つ目に手を伸ばした。
 ——キィィン——
 耳の奥で、音が鳴った。金属が軋むような。高い。鋭い。
(——【|カエレン・トール《精神の侵染》】か。奴に何かが——)
 |頭蓋《ずがい》の内側を、細い針で掻いておる。世界が、傾いた。膝が滑った。手が水に落ちた。冷たい。音が——やまぬ。頭の芯を、|抉《えぐ》っておる。
 立ち上がった。よろめいた。走った。斜面を登った。足が滑る。構わぬ。音が——薄れていく。岩陰に近づくほどに。
 岩陰に滑り込んだ。息が荒い。心臓が、暴れておる。耳鳴りが、まだ残っておる。微かに。遠く。
 奴を見た。
 ——悪化しておる。
 さっきまでとは、違う。身体が丸まっておる。膝を胸に引き寄せ、|拳《こぶし》が毛布を握り締めておる。指の関節が白い。
 ゴボ、ゴボ。
 呼吸のたびに、喉の奥で湿った音。溺れておるような。背中が、|弓《ゆみ》なりに反った。|筋《すじ》が浮き出た首。|痙攣《けいれん》する手足。
「——ッ、ァ……」
 それから——また丸まる。膝を抱え、額を地面に押し付ける。発作の波だ。
(——我が離れた隙に——【|トロ《聖蝕》】の|堰《せき》が、崩れかけた?)
 思考が、途切れた。考えておる場合ではない。傍に膝をついた。手を伸ばした。
 ——奴の目が、開いた。
 波の合間。一瞬の|凪《なぎ》。濁っておる。熱に侵されておる。焦点が合わぬ。だが——我を、見ておる。
(……この目は知っておる。戦場で、何度も見た)
 奴の手が動いた。震えておる。だが——意志がある。己の腰へ。ナイフを抜いた。刃が鈍い光を反射した。
 我の手首を掴んだ。弱い。だが、迷いのない力。柄を、我の|掌《てのひら》に押し込んだ。指を、一本ずつ、柄に巻きつけさせた。
(……我に、これを求めるのか)
 目が合った。血走っておる。歯を食いしばっておる。口が、動いた。|掠《かす》れて、割れて、ほとんど聞き取れぬ。
「……ヤッテ……クレ」
 ——熱い。掴まれた手首が、燃えておる。奴の熱が、皮膚を通して流れ込んでくる。
 手が、離れた。力が抜け、奴の目が閉じた。
 ゴボ、ゴボ。
 呼吸が——まだある。浅く。速く。溺れる音。
 我は——動かなかった。
 ゴボ、ゴボ。
 風が、外で|唸《うな》っておる。ナイフの重みが、掌にある。
(——奴は、戻らぬのか)
(我がしておるのは——【トロ】に喰われゆく者を、引き延ばしておるだけか)
 【|ドロセンファール《砕けし者の落命》】。
 慈悲の刃。苦痛を終わらせる、最後の|施《ほどこ》し。【|ゾルカー《魔族》】の戦士は、こうする。苦しむ者を、長引かせぬ。敵であれ、獣であれ。何度もやった。戦場で。狩りで。|躊躇《ためら》ったことなど、一度もない。
 終わらせる。それが、正しいのだ。
 刃を、奴の喉に当てた。
 ——グッ。
 我の喉が、締まった。
(……押せッ!)
 力を込める。だが、刃が髪一筋ほども沈まぬ。腕が震えておる。自分の筋肉が、逆方向へ引っぱり合っておるような感覚。
(——また、か。あの洞窟と同じ——【カエレン・トール】が——)
「ぐ、ァァッ——」
(何をしておる! 早く終わらせろ!)
 ギリ、ギリ、と奥歯が鳴る。己の腕に命じる。殺せ。切り裂け。容易いことだ。何度もやった。だが、指が強張って動かぬ。まるで、他者の腕を無理やり動かそうとしておるかのように。
(——奴が死ねば——我は何だ)
(——くだらん! これは我の意志だ! 呪いに従っておるのではない!)
「ンガ——ッ」
(押せッ!!)
 ヒュッ、ヒュッ——喉が鳴っておる。何かがせり上がって——塞いで——足りぬ。
(——何のために生きる)
(——黙れ!)
「ウ——ゥゥゥッ」
(押せ!)
 胃の底が、抜けた。冷たい。空洞が広がっていく。胸の下に。酸っぱい——喉の奥で——せり上がる——
(——どこへ)
(——関係ない!)
「ヒ——ッ、ア、アァァッ——」
(押せ!)
 ドクン、ドクン、ドクン——心臓が|肋骨《ろっこつ》を叩いておる。内側から。
 ——キィィン——
 耳の奥。高い音。【カエレン・トール】が、悲鳴を上げておる。背が——冷たい——汗が——爪が掌に——食い込んで——痛みが——遠い——
(——一人——)
(——やめろ!)
(押せ!)
(——分からぬ)
 ——だめだ。
 身体が、拒んでおる。血が。骨が。【カエレン・トール】が。名も知らぬ何かが。一つではない。全部だ。だめだ、と。
 力が、指先から抜けた。
 カラン。
 ナイフが石を打った。遠い音。
「グ——ガァァァッ」
 奴が、まだ苦しんでおる。我が——終わらせられなかったから。
 視界が、白く——
 ゴッ。
 膝が折れた。頬が地面を打った。角が石に当たった。世界が、回っておる。胃が、裏返った。
 オェッ——ビチャ。
 黄色い——苦い——喉が燃え——
 オェッ——ビチャ。
 オェッ——何も出ぬ。
 オェッ——オェッ——身体が勝手に痙攣しておる。止まらぬ。止められぬ。
 涎が垂れておる。口の端から。糸を引いて。喉が裂けそうだ。もう何も——
 * * *
 殺せぬ。
 【カエレン・トール】のせいか。それとも——
 分からぬ。ただ——嫌だ。
 顔を上げた。奴が、そこにおる。目は閉じたまま。|眉間《みけん》に、|皺《しわ》が寄っておる。口が開いておる。
 ゴボ、ゴボ。
 まだ、溺れておる。まだ、苦しんでおる。
(……何もできぬ)
 胸が、圧されておる。
 ヒュッ——ヒュッ——吸えぬ。浅く。浅く。足りぬ。震えが、止まらぬ。歯が鳴っておる。尾が石を打っておる。
「ァ——……ァ——……」
 胸の奥で——何かが、軋んでおる。喉が、開いた。
 ——ァ、アアアアアアアッ!
 ザシュッ。
 腕が、動いた。重い感触。爪が、肉を。
 血の匂いが、狭い闇を満たした。