第17話:途絶
ー/ー 朝、魔族が空を見上げた。長く。動かずに。
それから振り返った。紫の目が俺を捉える。
「【シュラク】」
今すぐ、という意味だと分かった。
* * *
木々の下から踏み出した瞬間、風が全身を殴りつけた。外套にまとわりついていた松と湿った土の匂いが、一瞬で剥ぎ取られていく。代わりに湿った岩と、何もない荒野の匂い。
灰色の丘陵地帯が広がっていた。うねり、風に削られた骨のような地形がどこまでも続いている。丘と丘の間の、深い窪地だけが暗い。木が残っているのだろう。だが、あいつは迷わず尾根を選んだ。
杖を握り直した。あいつが削ってくれた、あの杖。木の感触が掌に馴染む。
(これがあるから、まだ立ってられる)
一歩。また一歩。杖が地面を噛む。体重を預ける。次の足を出す。繰り返した。
* * *
悪くなかった。
聖蝕は戻ってきていた。だが、まだ遠い。泉で眠った獣が寝返りを打った程度。夕暮れ前に岩陰を見つけた。火を起こし、干し肉を分けた。眠った。
* * *
目が覚めた時、霧雨が降り始めていた。
頁岩の斜面が続いた。滑りやすい。足を取られるたびに杖が支えになる。これがなければ三度は転んでいた。外套が重くなっていく。細かい雨粒が、冷たく、執拗に染み込んでくる。
聖蝕が、少し近づいた。骨の奥で、獣が目を開けた気がした。まだ動かない。だが、こっちを見ている。
* * *
また眠った。また目が覚めた。手が震えていた。杖を握ると、木の感触がまだ掌に馴染む。
(大丈夫だ。まだ動ける)
立ち上がった。魔族が俺を見ていた。紫の目。何を考えているのか、読めない。俺は歩き出した。
* * *
咳が出た。一度。二度。
喉の奥に、鉄の味がした。
* * *
また眠った。また——
いつからだ。昨日か。一昨日か。もう分からない。空が灰色で、地面も灰色で、俺の視界も端から灰色に侵食されていく。杖を突いた。足を引きずった。繰り返した。
咳が出た。胸の奥で石が転がるような音がする。痰を吐いた。
赤い。
風が顔を打つ。冷たい——だが体の芯はもっと冷たい。血管の中を、聖蝕が脈打ちながら流れている。獣が、完全に目を覚ましていた。
(蝕止め……何週間だ……?)
(今頃、とっくに死んでるはずだ)
体が震えた。止まらない。意志とは無関係に、筋肉が痙攣している。肋骨の奥で、骨が髄から溶けていく感覚。
杖を握る手が滑った。木の感触が掌から消えていく。指に力が——入らない。
(くそ——)
よろめいた。杖が手から落ちた。乾いた音。膝が折れかけた。
何かが俺を支えた。硬い。冷たい。鱗の感触が、腕に食い込む。
顔を上げようとした。首が重い。視界がぼやける。あいつの顔が見えた。紫の目。口が引き結ばれている。
(何だ……その顔……)
分からない。考える力が残っていない。
* * *
奴の体重が腕にかかった。
崩れていく——その速さに、息が詰まった。呼吸が浅く不規則で、風を越えても聞こえる。顔は青白く窶れ、唇は青みがかっておる。
見捨てろ。それが【ゾルカー】の理だ。脚は動く。何も縛ってはおらぬ。
——動かなかった。
爪が掌に食い込んだ。
(なぜだ)
答えはなかった。
* * *
奴の腕を肩にかけた。引き起こす。歩いた。奴の足は動いておる——かろうじて。体重の半分は我が支えておる。霧雨が顔を打つ。地面は泥濘、足が泥に沈むたびに引き抜く力がいる。奴の重さで、一歩一歩が倍になった。
* * *
滑りやすい頁岩の斜面。奴の脚が、完全に崩れた。
体重が全てのしかかった。支えきれぬ。二人とも膝をつく。奴は起き上がろうとしておる。脚が滑る。また崩れる。
——気づいた時には、背負い上げておった。
いつ決めた。分からぬ。
奴の重さが背中にのしかかる。肩に食い込む腕。雪獅子の傷が裂けるように痛んだ。熱い。裂けそうだ。
奴の頭が首の横にもたれかかった。息が耳を掠める。肌に直接——熱い。燃えておる。
何かをつぶやいた。言葉は風に散った。それから——体が重くなった。力が抜けていく。頭がずり落ちかけて、首にのしかかる。意識が落ちたのだと、分かった。だが胸はまだ動いておる。背中に伝わる、浅く速い呼吸。
空が暗くなった頃、遠い斜面に石の露頭が見えた。最大のものへ向かった。影が風を遮るはずだ。露頭の風下側は狭かった。石と斜面の間のわずかな空洞。だがそれで足りる。
しゃがみ込んだ。膝が震えておる。奴を滑り落とし、最も乾いた地面に下ろした。浅い呼吸以外、動かぬ。肩が燃えておる。腕が震えておる。
すぐに火の準備を始めた。
* * *
——熱い。
額が燃えてる。何かが触れた。硬い。冷たい。鱗の感触。
父の顔が見えた。やつれて、目を見開いて。寝台の上で、骨と皮だけになって。手が伸びてきた。骨ばった指。爪が黒ずんでいる。
振り払おうとした。体が動かない。顔が歪んだ。溶けた。
闇。
——喉が冷たい。水が流れ込んでくる。飲み込もうとして、喉が痙攣した。
青い光。洞窟。血の匂い。
エララの喉がなかった。引き裂かれた肉。白い骨。彼女の目が俺を見ている。なぜ、と。キールの首が折れていた。口が動いた。声は出ない。ボーリンの目。喉に刺さった俺のボルトの向こうから、俺を見ている。
(違う——俺じゃ——)
——背中が冷たい。地面の硬さ。石が背骨に食い込んでいる。
剣を握っていた。誰かが目の前にいる。小さい。震えている。
俺の腕が動いた。勝手に。
止めろ。止まれ。俺の——
血が飛んだ。
十三歳のライラだった。脇腹を押さえている。指の間から血が滲む。背後で荷馬車が燃えていた。隊商の残骸。煙の匂いが鼻を焼く。
だが剣を握っているのは今の俺だ。
少女が俺を見上げた。顔が揺らいだ。二十八歳のライラに重なった。同じ傷。同じ目。
現実が砕けた。
* * *
火を絶やさなかった。夜通し、薪を足した。炎を守った。顔に熱が当たる。背中は冷える。
奴の額に手を当てた。掌に、直接——熱い。触れるのが辛いほど。触れても、震えは和らがぬ。
時折、体が跳ねた。何かに打たれたように筋肉が収縮し、手足がばたつく。それから、また静かになる。
呼吸を数えた。浅い。速い。時々、止まる。長い一瞬。
一。二。三。
——また始まる。
奴は時折うめいた。体が跳ね、意味のない言葉を吐いた。同じ音が、何度も。
「ライラ……ライラ……」
名前だろうか。【ヘク】の言葉。意味は分からぬ。
何もできぬ。
獣なら殺せる。敵なら戦える。毒なら切り落とせる。だがこれは——奴の内側におる。我の爪は届かぬ。
火に薪を足した。
外で風が唸っておる。【ヘク】の地。どこまでも続く灰色の丘。我が【クラッカ】はもうおらぬ。戻る場所もない。
奴が目を覚ませば、南西へ。廃墟へ。そこで——
——そこで、何だ。
奴が目を覚まさなければ。
思考が、途切れた。
火に薪を足した。
何もできぬ。
——いや。
泉で。森で。我が近くにおれば、奴の震えは和らいだ。なぜかは知らぬ。だが、そうだった。
それしか、ない。
奴の背嚢から毛布を引き出した。一枚しかない。広げた。奴の上に。
火が弱まっておった。薪を足す余裕はもうない。
横になった。毛布の下に滑り込んだ。地面が硬い。冷たい。肩の傷が、横たわる重さで疼いた。
奴の体は熱い。熱すぎる。だが震えておる。
目を閉じた。
それから振り返った。紫の目が俺を捉える。
「【シュラク】」
今すぐ、という意味だと分かった。
* * *
木々の下から踏み出した瞬間、風が全身を殴りつけた。外套にまとわりついていた松と湿った土の匂いが、一瞬で剥ぎ取られていく。代わりに湿った岩と、何もない荒野の匂い。
灰色の丘陵地帯が広がっていた。うねり、風に削られた骨のような地形がどこまでも続いている。丘と丘の間の、深い窪地だけが暗い。木が残っているのだろう。だが、あいつは迷わず尾根を選んだ。
杖を握り直した。あいつが削ってくれた、あの杖。木の感触が掌に馴染む。
(これがあるから、まだ立ってられる)
一歩。また一歩。杖が地面を噛む。体重を預ける。次の足を出す。繰り返した。
* * *
悪くなかった。
聖蝕は戻ってきていた。だが、まだ遠い。泉で眠った獣が寝返りを打った程度。夕暮れ前に岩陰を見つけた。火を起こし、干し肉を分けた。眠った。
* * *
目が覚めた時、霧雨が降り始めていた。
頁岩の斜面が続いた。滑りやすい。足を取られるたびに杖が支えになる。これがなければ三度は転んでいた。外套が重くなっていく。細かい雨粒が、冷たく、執拗に染み込んでくる。
聖蝕が、少し近づいた。骨の奥で、獣が目を開けた気がした。まだ動かない。だが、こっちを見ている。
* * *
また眠った。また目が覚めた。手が震えていた。杖を握ると、木の感触がまだ掌に馴染む。
(大丈夫だ。まだ動ける)
立ち上がった。魔族が俺を見ていた。紫の目。何を考えているのか、読めない。俺は歩き出した。
* * *
咳が出た。一度。二度。
喉の奥に、鉄の味がした。
* * *
また眠った。また——
いつからだ。昨日か。一昨日か。もう分からない。空が灰色で、地面も灰色で、俺の視界も端から灰色に侵食されていく。杖を突いた。足を引きずった。繰り返した。
咳が出た。胸の奥で石が転がるような音がする。痰を吐いた。
赤い。
風が顔を打つ。冷たい——だが体の芯はもっと冷たい。血管の中を、聖蝕が脈打ちながら流れている。獣が、完全に目を覚ましていた。
(蝕止め……何週間だ……?)
(今頃、とっくに死んでるはずだ)
体が震えた。止まらない。意志とは無関係に、筋肉が痙攣している。肋骨の奥で、骨が髄から溶けていく感覚。
杖を握る手が滑った。木の感触が掌から消えていく。指に力が——入らない。
(くそ——)
よろめいた。杖が手から落ちた。乾いた音。膝が折れかけた。
何かが俺を支えた。硬い。冷たい。鱗の感触が、腕に食い込む。
顔を上げようとした。首が重い。視界がぼやける。あいつの顔が見えた。紫の目。口が引き結ばれている。
(何だ……その顔……)
分からない。考える力が残っていない。
* * *
奴の体重が腕にかかった。
崩れていく——その速さに、息が詰まった。呼吸が浅く不規則で、風を越えても聞こえる。顔は青白く窶れ、唇は青みがかっておる。
見捨てろ。それが【ゾルカー】の理だ。脚は動く。何も縛ってはおらぬ。
——動かなかった。
爪が掌に食い込んだ。
(なぜだ)
答えはなかった。
* * *
奴の腕を肩にかけた。引き起こす。歩いた。奴の足は動いておる——かろうじて。体重の半分は我が支えておる。霧雨が顔を打つ。地面は泥濘、足が泥に沈むたびに引き抜く力がいる。奴の重さで、一歩一歩が倍になった。
* * *
滑りやすい頁岩の斜面。奴の脚が、完全に崩れた。
体重が全てのしかかった。支えきれぬ。二人とも膝をつく。奴は起き上がろうとしておる。脚が滑る。また崩れる。
——気づいた時には、背負い上げておった。
いつ決めた。分からぬ。
奴の重さが背中にのしかかる。肩に食い込む腕。雪獅子の傷が裂けるように痛んだ。熱い。裂けそうだ。
奴の頭が首の横にもたれかかった。息が耳を掠める。肌に直接——熱い。燃えておる。
何かをつぶやいた。言葉は風に散った。それから——体が重くなった。力が抜けていく。頭がずり落ちかけて、首にのしかかる。意識が落ちたのだと、分かった。だが胸はまだ動いておる。背中に伝わる、浅く速い呼吸。
空が暗くなった頃、遠い斜面に石の露頭が見えた。最大のものへ向かった。影が風を遮るはずだ。露頭の風下側は狭かった。石と斜面の間のわずかな空洞。だがそれで足りる。
しゃがみ込んだ。膝が震えておる。奴を滑り落とし、最も乾いた地面に下ろした。浅い呼吸以外、動かぬ。肩が燃えておる。腕が震えておる。
すぐに火の準備を始めた。
* * *
——熱い。
額が燃えてる。何かが触れた。硬い。冷たい。鱗の感触。
父の顔が見えた。やつれて、目を見開いて。寝台の上で、骨と皮だけになって。手が伸びてきた。骨ばった指。爪が黒ずんでいる。
振り払おうとした。体が動かない。顔が歪んだ。溶けた。
闇。
——喉が冷たい。水が流れ込んでくる。飲み込もうとして、喉が痙攣した。
青い光。洞窟。血の匂い。
エララの喉がなかった。引き裂かれた肉。白い骨。彼女の目が俺を見ている。なぜ、と。キールの首が折れていた。口が動いた。声は出ない。ボーリンの目。喉に刺さった俺のボルトの向こうから、俺を見ている。
(違う——俺じゃ——)
——背中が冷たい。地面の硬さ。石が背骨に食い込んでいる。
剣を握っていた。誰かが目の前にいる。小さい。震えている。
俺の腕が動いた。勝手に。
止めろ。止まれ。俺の——
血が飛んだ。
十三歳のライラだった。脇腹を押さえている。指の間から血が滲む。背後で荷馬車が燃えていた。隊商の残骸。煙の匂いが鼻を焼く。
だが剣を握っているのは今の俺だ。
少女が俺を見上げた。顔が揺らいだ。二十八歳のライラに重なった。同じ傷。同じ目。
現実が砕けた。
* * *
火を絶やさなかった。夜通し、薪を足した。炎を守った。顔に熱が当たる。背中は冷える。
奴の額に手を当てた。掌に、直接——熱い。触れるのが辛いほど。触れても、震えは和らがぬ。
時折、体が跳ねた。何かに打たれたように筋肉が収縮し、手足がばたつく。それから、また静かになる。
呼吸を数えた。浅い。速い。時々、止まる。長い一瞬。
一。二。三。
——また始まる。
奴は時折うめいた。体が跳ね、意味のない言葉を吐いた。同じ音が、何度も。
「ライラ……ライラ……」
名前だろうか。【ヘク】の言葉。意味は分からぬ。
何もできぬ。
獣なら殺せる。敵なら戦える。毒なら切り落とせる。だがこれは——奴の内側におる。我の爪は届かぬ。
火に薪を足した。
外で風が唸っておる。【ヘク】の地。どこまでも続く灰色の丘。我が【クラッカ】はもうおらぬ。戻る場所もない。
奴が目を覚ませば、南西へ。廃墟へ。そこで——
——そこで、何だ。
奴が目を覚まさなければ。
思考が、途切れた。
火に薪を足した。
何もできぬ。
——いや。
泉で。森で。我が近くにおれば、奴の震えは和らいだ。なぜかは知らぬ。だが、そうだった。
それしか、ない。
奴の背嚢から毛布を引き出した。一枚しかない。広げた。奴の上に。
火が弱まっておった。薪を足す余裕はもうない。
横になった。毛布の下に滑り込んだ。地面が硬い。冷たい。肩の傷が、横たわる重さで疼いた。
奴の体は熱い。熱すぎる。だが震えておる。
目を閉じた。
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