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第16話:削る音

ー/ー



 樹冠(じゅかん)の下。

 空気が変わった。重く、湿っておる。動かぬ。風が消えた。頭上の枝が、遠いところで(ささや)いておる。それだけ。

 樹冠が厚い。空からは見えぬ。

 【ツェルザーク(監視鷹)】——間に合ったか。それとも、もう遅いか。分からぬ。だが、立ち止まる理由はない。

 鼻腔(びこう)が開いた。湿った土。腐葉土(ふようど)。苔。獣の糞——種類は不明。頭がわずかに傾いた。下生(したば)えのざわめき。小型。齧歯類(げっしるい)か。右上方、枝の(きし)み——風か、重みか。遠くで鳥。

 尾が低く振れた。一度。

 後ろで、足音が止まった。振り返った。

 【ヘク(人間)】が立ち尽くしておる。目を閉じて。深く息を吸っておる。肩から力が抜けていく。

(——この土地を知っておる)

 視線を前に戻した。進んだ。

 * * *

 半日かけて、森の縁を探った。

 松葉の絨毯(じゅうたん)は厚く、湿っておった。足音を殺し、姿勢を低くして歩いた。痕跡(こんせき)を探す。足跡、糞、縄張(なわば)りの傷。何が危険で、何が安全か——判断は保留しながら。肩の傷が(うず)いた。木の根を跨ぐたびに、鈍い熱が走る。

 【ヘク】が少し後ろをついてくる。奴なりに周囲を見ておった。高台、覆い、通った跡。

 ある尾根の手前で、奴が足を止めた。指で示した先には、(くぼ)んだ地形と岩の裂け目。

 我は影に溶け込み、確認しに行った。古い(もみ)の木の密な林の間に、暗いくぼみがあった。下生えに半ば隠されておる。大きくはないが、乾燥しておって、二人なら入れる。近くには流れる水のかすかな囁き。匂いを嗅いだ。腐敗(ふはい)はない。獣の巣の跡もない。

(——悪くない)

 戻って、短くうなずいた。

「【ゴル(避難所)】。【シュラク(動け)】」

 奴の判断は正しかった。

 * * *

 無言のまま、息を合わせて作業した。

 【ヘク】が内部に取り組んだ。瓦礫(がれき)を片付け、寝るための空間を平らにする。動きには未だ硬さが残っておったが、手は止めぬ。

 我は外部に集中した。枯れ枝と繁った下草を入り口に編み込み、数歩も離れればほとんど見えぬようにした。爪が枝を裂き、尾が邪魔な(つる)を払う。それから獣道を辿り、罠を仕掛けた。奴が作った括り罠(くくりわな)を三箇所。この森の獣がどう動くかは分からぬが、罠の理屈は変わらぬ。通り道を塞ぐ。逃げ道を一つにする。待つ。

 近くの木に登り、枝の間に身を隠して接近路を見下ろせる場所を確保した。肩が燃えたが、無視した。

 日が傾いてきた頃、罠を確認した。二匹、太った森鼠。足りる。

 * * *

 洞窟に戻ると、【ヘク】が小さな火を起こしておった。乾いた枝から頼りない炎を呼び起こしておる。煙は少ない。

(——火の扱いは、知っておるようだ)

 獲物を奴の足元に放った。奴が見上げ、目が合った。何も言わなかった。

 我は入り口近くに座り、背中を岩にもたれた。(うろこ)が冷たい石に触れる。奴が肉を(さば)き始めた。手際は悪くない。それから——下生えから摘んできた何かを擦り込んでおる。細い葉。指で潰すと、青い匂いが立った。

(——無駄な労力だ)

 火が()ぜる音。やがて焼ける肉の匂いが、狭いくぼみに満ちた。泉を離れて以来の、本当の熱い食事。

 外の森が静かに息づいておる。遠い(ふくろう)の鳴き声、葉のざわめき。脅威か、ただの森の音か。未だ聞き分けられぬ。だから耳は止まらぬ。目も。

 * * *

 火がパチパチと爆ぜておった。我は入口近くの影におった。岩にもたれ、尾を緩く巻いて。見かけ上はリラックスしておる。だが身体は、ばねのように張り詰めておった。

 揺らめく光の向こうで、【ヘク】が動いた。ゆっくりと、苦痛を伴って。ぼろぼろの装備の上から立ち上がろうとしておる。石に重くもたれ、突き出た根を掴む(こぶし)が白い。手が震えておる。泉では和らいでおったが、そこを発ってから徐々に戻りつつある。

 森を探っておった時のことを思い出した。奴が木の根に躓いた。ほとんど倒れかけた。頭蓋骨(ずがいこつ)を割りかねぬ、不器用な動き。

(——遅い。不安定)

 南西の廃墟(はいきょ)。あと何日かかる。この森を抜け、開けた地形を越えて——奴がこの状態で、辿り着けるか。明日、ここを発つ。走らねばならなくなれば——

 奴は死ぬ。

 尾の先が、石を打った。一度。

(弱った者は足手まといだ)

 見捨てろ。それが【ゾルカー(魔族)】の(ことわり)だ。

 ——だが。

 記憶が、不意に蘇った。獅子との戦いの後。奴の手。震えておる。苔を噛み砕いて、我の傷に——

 爪が(てのひら)に食い込んだ。

(——関係ない)

 不器用な指。包帯を巻いた。

 焼いた肉の切れ端を拾い上げた。口に運んだ。どうせ、あの草など——


(!!——美味い)


 ......

(——くっ、くだらぬ)

 もう一口、噛んだ。

 * * *

 我は立ち上がった。

(奴の弱点を補えば、足手まといが減る。それだけだ)

 洞窟から滑り出た。音もなく。

 * * *

 外は未だ薄明(はくめい)かりが残っておった。冷たい霧が古木の間をゆっくりと流れておる。

 目が幹を探り、下草を探る。脆い枝や腐って柔らかくなった枝を却下(きゃっか)しながら歩いた。未だ回復途中とはいえ、狩人の勘が働いてくれる。

 必要なものはすぐに見つかった。鉄木(てつぼく)の枝。倒れておるが無傷。太くまっすぐで、密度も高く、頑丈だ。手に取り、バランスと重さを試した。

 ——十分だ。

 爪で湿った小枝を切り裂き、小さな枝分かれを()いだ。樹皮(じゅひ)は容易く剥がれた。

 * * *

 洞窟に戻った。【ヘク】が顔を上げた。硬く、警戒的な動き。それからまた視線を落とした。

 火のそばにしゃがんだ。奴の背嚢(はいのう)の近くに置かれたナイフを拾い上げ、爪の中で回した。

 視線を感じた。奴の目が、我の手を追っておる。動かぬ。止めもせぬ。ただ——見ておる。

(——無意味な警戒だ。お前を殺すのに、こんな玩具(おもちゃ)は要らぬ)

 数秒。奴の視線が外れた。装備の修理に戻る。ゆっくりと。

 粗野(そや)な【ヘク】の道具。重く、釣り合いを欠いておる。

(——だが、切れる。ならば、用は足りる)

 作業に取りかかった。


 シャリ、シャリ、シャリ。


 ナイフが硬い木の上をゆっくりと滑る。均等な動きで、一削りごとに木屑が膝に積もっていく。手が握る上部を滑らかにする。(とげ)がないこと、奴の動きを妨げる欠陥がないことを確認しながら。


 シャリ、シャリ、シャリ。


 火が爆ぜる音。森の風の囁き。肩の傷が脈打(みゃくう)っておった。腕を動かすたびに鈍い熱が走る。止めなかった。


 シャリ。


 奴の手を思い浮かべた。震える指。(ふし)くれだった関節。我の肩に触れた、あの躊躇(ためら)い——

 手が止まった。

(——考えるな)

 ナイフを動かした。シャリ、シャリ。

 握りがしっくりくるまで作業を続けた。釣り合いが取れておる。装飾はない。だが強い。立ち上がり、己の体格に対して高さを試した。それから【ヘク】を見て、計算する。

 ——正しい。

 無言で近づいた。奴が顔を上げた。装備の修理から。完成した杖を奴のそばに置いた。鈍い音。

 奴がそれを見つめた。顔に困惑の色が浮かぶ。目が合った。短く。

 我は顎をわずかに動かした。振り返り、火のそばの己の場所に戻った。奴に背を向けて座った。尾を緩く巻き、鱗が熱を受けておる。

 * * *

 沈黙が広がっておった。火のパチパチという音。森の風の囁き。

 それから——かすかな音。擦れる音。手が木肌に触れ、指でなぞっておる。静かに。


(——受け入れた、か)


 振り返らなかった。


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 |樹冠《じゅかん》の下。
 空気が変わった。重く、湿っておる。動かぬ。風が消えた。頭上の枝が、遠いところで|囁《ささや》いておる。それだけ。
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 尾が低く振れた。一度。
 後ろで、足音が止まった。振り返った。
 【|ヘク《人間》】が立ち尽くしておる。目を閉じて。深く息を吸っておる。肩から力が抜けていく。
(——この土地を知っておる)
 視線を前に戻した。進んだ。
 * * *
 半日かけて、森の縁を探った。
 松葉の|絨毯《じゅうたん》は厚く、湿っておった。足音を殺し、姿勢を低くして歩いた。|痕跡《こんせき》を探す。足跡、糞、|縄張《なわば》りの傷。何が危険で、何が安全か——判断は保留しながら。肩の傷が|疼《うず》いた。木の根を跨ぐたびに、鈍い熱が走る。
 【ヘク】が少し後ろをついてくる。奴なりに周囲を見ておった。高台、覆い、通った跡。
 ある尾根の手前で、奴が足を止めた。指で示した先には、|窪《くぼ》んだ地形と岩の裂け目。
 我は影に溶け込み、確認しに行った。古い|樅《もみ》の木の密な林の間に、暗いくぼみがあった。下生えに半ば隠されておる。大きくはないが、乾燥しておって、二人なら入れる。近くには流れる水のかすかな囁き。匂いを嗅いだ。|腐敗《ふはい》はない。獣の巣の跡もない。
(——悪くない)
 戻って、短くうなずいた。
「【|ゴル《避難所》】。【|シュラク《動け》】」
 奴の判断は正しかった。
 * * *
 無言のまま、息を合わせて作業した。
 【ヘク】が内部に取り組んだ。|瓦礫《がれき》を片付け、寝るための空間を平らにする。動きには未だ硬さが残っておったが、手は止めぬ。
 我は外部に集中した。枯れ枝と繁った下草を入り口に編み込み、数歩も離れればほとんど見えぬようにした。爪が枝を裂き、尾が邪魔な|蔓《つる》を払う。それから獣道を辿り、罠を仕掛けた。奴が作った|括り罠《くくりわな》を三箇所。この森の獣がどう動くかは分からぬが、罠の理屈は変わらぬ。通り道を塞ぐ。逃げ道を一つにする。待つ。
 近くの木に登り、枝の間に身を隠して接近路を見下ろせる場所を確保した。肩が燃えたが、無視した。
 日が傾いてきた頃、罠を確認した。二匹、太った森鼠。足りる。
 * * *
 洞窟に戻ると、【ヘク】が小さな火を起こしておった。乾いた枝から頼りない炎を呼び起こしておる。煙は少ない。
(——火の扱いは、知っておるようだ)
 獲物を奴の足元に放った。奴が見上げ、目が合った。何も言わなかった。
 我は入り口近くに座り、背中を岩にもたれた。|鱗《うろこ》が冷たい石に触れる。奴が肉を|捌《さば》き始めた。手際は悪くない。それから——下生えから摘んできた何かを擦り込んでおる。細い葉。指で潰すと、青い匂いが立った。
(——無駄な労力だ)
 火が|爆《は》ぜる音。やがて焼ける肉の匂いが、狭いくぼみに満ちた。泉を離れて以来の、本当の熱い食事。
 外の森が静かに息づいておる。遠い|梟《ふくろう》の鳴き声、葉のざわめき。脅威か、ただの森の音か。未だ聞き分けられぬ。だから耳は止まらぬ。目も。
 * * *
 火がパチパチと爆ぜておった。我は入口近くの影におった。岩にもたれ、尾を緩く巻いて。見かけ上はリラックスしておる。だが身体は、ばねのように張り詰めておった。
 揺らめく光の向こうで、【ヘク】が動いた。ゆっくりと、苦痛を伴って。ぼろぼろの装備の上から立ち上がろうとしておる。石に重くもたれ、突き出た根を掴む|拳《こぶし》が白い。手が震えておる。泉では和らいでおったが、そこを発ってから徐々に戻りつつある。
 森を探っておった時のことを思い出した。奴が木の根に躓いた。ほとんど倒れかけた。|頭蓋骨《ずがいこつ》を割りかねぬ、不器用な動き。
(——遅い。不安定)
 南西の|廃墟《はいきょ》。あと何日かかる。この森を抜け、開けた地形を越えて——奴がこの状態で、辿り着けるか。明日、ここを発つ。走らねばならなくなれば——
 奴は死ぬ。
 尾の先が、石を打った。一度。
(弱った者は足手まといだ)
 見捨てろ。それが【|ゾルカー《魔族》】の|理《ことわり》だ。
 ——だが。
 記憶が、不意に蘇った。獅子との戦いの後。奴の手。震えておる。苔を噛み砕いて、我の傷に——
 爪が|掌《てのひら》に食い込んだ。
(——関係ない)
 不器用な指。包帯を巻いた。
 焼いた肉の切れ端を拾い上げた。口に運んだ。どうせ、あの草など——
(!!——美味い)
 ......
(——くっ、くだらぬ)
 もう一口、噛んだ。
 * * *
 我は立ち上がった。
(奴の弱点を補えば、足手まといが減る。それだけだ)
 洞窟から滑り出た。音もなく。
 * * *
 外は未だ|薄明《はくめい》かりが残っておった。冷たい霧が古木の間をゆっくりと流れておる。
 目が幹を探り、下草を探る。脆い枝や腐って柔らかくなった枝を|却下《きゃっか》しながら歩いた。未だ回復途中とはいえ、狩人の勘が働いてくれる。
 必要なものはすぐに見つかった。|鉄木《てつぼく》の枝。倒れておるが無傷。太くまっすぐで、密度も高く、頑丈だ。手に取り、バランスと重さを試した。
 ——十分だ。
 爪で湿った小枝を切り裂き、小さな枝分かれを|剥《は》いだ。|樹皮《じゅひ》は容易く剥がれた。
 * * *
 洞窟に戻った。【ヘク】が顔を上げた。硬く、警戒的な動き。それからまた視線を落とした。
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 視線を感じた。奴の目が、我の手を追っておる。動かぬ。止めもせぬ。ただ——見ておる。
(——無意味な警戒だ。お前を殺すのに、こんな|玩具《おもちゃ》は要らぬ)
 数秒。奴の視線が外れた。装備の修理に戻る。ゆっくりと。
 |粗野《そや》な【ヘク】の道具。重く、釣り合いを欠いておる。
(——だが、切れる。ならば、用は足りる)
 作業に取りかかった。
 シャリ、シャリ、シャリ。
 ナイフが硬い木の上をゆっくりと滑る。均等な動きで、一削りごとに木屑が膝に積もっていく。手が握る上部を滑らかにする。|棘《とげ》がないこと、奴の動きを妨げる欠陥がないことを確認しながら。
 シャリ、シャリ、シャリ。
 火が爆ぜる音。森の風の囁き。肩の傷が|脈打《みゃくう》っておった。腕を動かすたびに鈍い熱が走る。止めなかった。
 シャリ。
 奴の手を思い浮かべた。震える指。|節《ふし》くれだった関節。我の肩に触れた、あの|躊躇《ためら》い——
 手が止まった。
(——考えるな)
 ナイフを動かした。シャリ、シャリ。
 握りがしっくりくるまで作業を続けた。釣り合いが取れておる。装飾はない。だが強い。立ち上がり、己の体格に対して高さを試した。それから【ヘク】を見て、計算する。
 ——正しい。
 無言で近づいた。奴が顔を上げた。装備の修理から。完成した杖を奴のそばに置いた。鈍い音。
 奴がそれを見つめた。顔に困惑の色が浮かぶ。目が合った。短く。
 我は顎をわずかに動かした。振り返り、火のそばの己の場所に戻った。奴に背を向けて座った。尾を緩く巻き、鱗が熱を受けておる。
 * * *
 沈黙が広がっておった。火のパチパチという音。森の風の囁き。
 それから——かすかな音。擦れる音。手が木肌に触れ、指でなぞっておる。静かに。
(——受け入れた、か)
 振り返らなかった。