第15話:森の縁へ
ー/ー 白い。
目が痛い——手で遮った。洞窟の薄暗さに慣れた目には、外の光が刃のようだった。
一歩踏み出した瞬間——風が殴りつけてきた。氷の粒子が外套を貫通し、肌を刺し、骨まで届く。膝が軋み、肩が強張った。数日間、温かい水に浸かっていた体が、悲鳴を上げている。
そして——聖蝕が、目を覚ました。骨の奥で、冷たい炎が再び燃え始める。
歯を食いしばった。
(——くそ)
蒸気の向こうに、乳白色の水面がまだ見える。
魔族が動いた。振り返ってはいない。だが、一瞬だけ——足が止まった。風を読んでいる。鼻孔がわずかに開き、耳が動く。東の稜線を、紫の目が一度だけ巡った。俺たちが来た方角。
三秒。
歩き出した。
——斜面を横切っている。直線で降りれば速い。だが、あいつは稜線を外れ、岩場を縫い、時には登る。
(……足跡を散らしてる、か)
俺も続いた。膝が痛い、肩が痛い。胸の奥が、じわじわと燃えている。振り返っても、もう蒸気しか見えないだろう。
見なかった。
* * *
氷の岩棚——一丈ほどの登り。
爪が氷を掴み、体を引き上げる。腕が重い。【セズ】が未だ戻りきっておらぬ。泉で休んだとはいえ、体は嘘をつかぬ。
縁に手をかけた。登り切る。振り返った。
【ヘク】が登ってくる。遅い。手袋をはめた手で、岩を探っておる。
(——危うい)
足場の選び方、体重のかけ方——半分まで来た。奴の目が、下を向いた。
(見るな——)
足元の氷が、割れた。奴の体が、後ろに傾ぐ。手が離れた。
——落ちる。
体が動いた。考えるより先に。岩棚の縁に腹這いになる。手を伸ばす。
掴んだ。
奴の前腕。爪が外套の袖を貫いて、肉に食い込む。
だが——重い。
腕が引っ張られる。肩から上腕が——燃えた。雪獅子の傷。未だ塞がりきっておらぬ。縫い合わされた肉が、引き裂かれるように軋んだ。
「——ッ!」
歯を食いしばった。視界が白く点滅する。
(——支えがなければ、我も引きずられる)
空いた手で岩の突起を掴んだ。爪が氷に食い込む。引き上げようとする。動かぬ。奴の体重が、腕にぶら下がっておる。片腕だけで、虚空の上。肩の傷が脈打つように痛む——熱い、裂けそうだ。
腕が震え始めた。
(重い——【ヘク】の体は、重い——)
爪が滑った。ほんの少し。
歯を剥いた。喉の奥から唸りが漏れる。全身に力を込めた。背中、腹、脚。尾を岩に巻きつけて、支点にする。
引く。肩が悲鳴を上げる。無視した。
少しずつ。筋が千切れそうだ。少しずつ。
奴の手が、縁に届いた。
(——己で登れ。そこからは——)
もう一度引いた。奴が足を蹴り上げる。肘が縁を越えた。転がり込んできた。
我は手を離した。仰向けに倒れた。岩の上、灰色の空。息が足りぬ。心臓が暴れ、肩が燃えておる。
胃が——
転がり、四つん這いになった。
ゲェッ。
熱い、苦い。ビチャ、と岩を打つ。
オェッ——また。何も出ぬ。体がガクガクと痙攣しておる。止められぬ。
視界がチカチカと明滅する。風の音が、遠い。
……
ゼェ、ゼェ、ゼェ。
呼吸が戻ってきた。いつの間にか。口の端を拭った。顔を上げた。
【ヘク】が仰向けのまま、こちらを見ておった。
目が合った。
——生きておる。
口が開いた。
「【カゾ・シャルンアズカズ・セキ】——」
息が続かぬ。区切った。
「——【サヘク・ファールアズカズ】。【ヘク】」
奴の口が動いた。
「……スマン。ナ」
人間語。意味は分からぬ。
(——謝罪か。言い訳か。どちらでもいい)
立ち上がった。膝が笑い、肩が燃えておる。だが、立った。次の岩場を見た。未だ続く。
このまま奴に任せれば、また落ちる。
(——見せるしかない)
歩いた。次の難所まで足を止め、振り返った。奴が未だ立ち上がろうとしておる。待った。奴が立った。こちらを見ておる。
岩の突起に足をかけた。手をかけた。登った。——こう行け。
振り返らなかった。だが、気配で分かる。奴が、我の足跡を辿っておる。
その後も同じだった。難所のたびに、我が先に行く。ルートを見せる。奴がそれを辿る。非効率で、遅い。
* * *
足元を見て歩いた。それだけの日々。岩、砂利、霜で固まった泥。魔族の背中を追う。難所では足を止め、あいつのルートを見て、辿る。それだけだった。
* * *
三日目——いや、四日目か。空気が変わっていた。まだ冷たい。だが、刺すような鋭さが消えている。風に乗って、別の匂いが混じり始めた——湿った土、腐った葉。地面も変わった。氷が減り、茶色い草が斜面にしがみついている。
足元を見た。俺の足は、まだ動いている。
(……なぜだ)
聖蝕は消えていない。骨の奥で、まだ燃えている。だが——あの岩棚を登った時より、楽だ。泉を出た直後の、あの抉るような痛みが、鈍くなっている。
(気のせいか?)
分からない。歩いた。
* * *
水が尽きかけていた。
峡谷の底で、細い流れを見つけた。雪解け水が岩の間を縫って、音もなく流れている。俺は先に降りた。滑りやすく、足場を選びながら。川床に膝をついた。水袋を浸した。冷たさが指を刺す。一つ目を満たす。二つ目。三つ目——あいつの分。
魔族が川岸に立っていた。上流の方を見ている。敵の痕跡か、獲物か。
立ち上がり、登り返した。水袋を持ち上げて、示した。
「——水」
あいつの目が、俺に向いた。差し出した。あいつが受け取る。
その時——指が触れた。俺の指先と、あいつの爪の付け根。ほんの一瞬。
——和らいだ。
頭の奥の圧迫感が、ふっと軽くなる。胸の底の冷たい炎が、一瞬だけ、遠のいた。
手が止まった。あいつの紫の瞳。俺を見返している。
(……気づいた? あいつも、何か——)
沈黙が、一秒だけ長かった。
あいつが水袋を軽く持ち上げた。俺を見ている。
「——【キシュ】」
……水。敵の言葉で。
俺は黙ってうなずいた。あいつは何も言わなかった。歩き出した。俺は黙ってついていった。
* * *
朝靄の向こうに、それが見えた。斜面にしがみつく、暗い緑の帯。
森。
(……覆い。あの風から、ようやく——)
足が速まった。
空気が変わっていた。もう何日も前から。だが、今朝は違う。松の匂い、湿った土、腐葉土の甘い腐敗。風も弱まっている。稜線を越える頃には、あの刺すような刃が鳴りを潜めていた。
あと少し。森の縁まで、もう——
魔族が、足を止めた。頭が上がり、空を見ている。
俺も見上げた。灰色の雲、流れる霧、薄い光。何も見えない。あいつの横顔を見た。耳が動いている。目が細くなっている。何かを、捉えているのか。
——キィン。
耳の奥で、金属が軋むような——冷たい波が、胸を貫いた。
「——【ツェルザーク】」
魔族が呟いた。低い声、ほとんど吐息。意味は分からない。だが——恐怖だ。俺の神経に直接、流れ込んでいく。
(——俺のじゃない)
(また——)
腕を掴まれた。
走った。森の縁へ。速い。足が追いつかない。引きずられるように。木々の下に飛び込んだ。枝が顔を打った。葉が視界を塞ぐ。さらに奥へ。樹冠が厚くなるまで。
足が止まった。
幹にもたれて、息を整えた。心臓が暴れている。魔族は空を見上げていた。木々の隙間から覗く、灰色の断片を。
十秒。二十秒。
やがて——肩から力が抜けた。ほんの少しだけ。見間違いだったのか。間に合ったのか。分からない。
俺は息を吐いた。
風が、ない。
何週間ぶりだ。あの音がない。頭上で枝が揺れている。高いところで、かすかに囁いている。だが、ここまでは届かない。空気が重く、湿っている。松葉と腐葉土、土の匂い。下生えの中で何かが動く、柔らかなざわめき。遠い鳥の声。
俺は深く息を吸った。光が傾いてきた。寝床、火、水場——まだ休めない。
目が痛い——手で遮った。洞窟の薄暗さに慣れた目には、外の光が刃のようだった。
一歩踏み出した瞬間——風が殴りつけてきた。氷の粒子が外套を貫通し、肌を刺し、骨まで届く。膝が軋み、肩が強張った。数日間、温かい水に浸かっていた体が、悲鳴を上げている。
そして——聖蝕が、目を覚ました。骨の奥で、冷たい炎が再び燃え始める。
歯を食いしばった。
(——くそ)
蒸気の向こうに、乳白色の水面がまだ見える。
魔族が動いた。振り返ってはいない。だが、一瞬だけ——足が止まった。風を読んでいる。鼻孔がわずかに開き、耳が動く。東の稜線を、紫の目が一度だけ巡った。俺たちが来た方角。
三秒。
歩き出した。
——斜面を横切っている。直線で降りれば速い。だが、あいつは稜線を外れ、岩場を縫い、時には登る。
(……足跡を散らしてる、か)
俺も続いた。膝が痛い、肩が痛い。胸の奥が、じわじわと燃えている。振り返っても、もう蒸気しか見えないだろう。
見なかった。
* * *
氷の岩棚——一丈ほどの登り。
爪が氷を掴み、体を引き上げる。腕が重い。【セズ】が未だ戻りきっておらぬ。泉で休んだとはいえ、体は嘘をつかぬ。
縁に手をかけた。登り切る。振り返った。
【ヘク】が登ってくる。遅い。手袋をはめた手で、岩を探っておる。
(——危うい)
足場の選び方、体重のかけ方——半分まで来た。奴の目が、下を向いた。
(見るな——)
足元の氷が、割れた。奴の体が、後ろに傾ぐ。手が離れた。
——落ちる。
体が動いた。考えるより先に。岩棚の縁に腹這いになる。手を伸ばす。
掴んだ。
奴の前腕。爪が外套の袖を貫いて、肉に食い込む。
だが——重い。
腕が引っ張られる。肩から上腕が——燃えた。雪獅子の傷。未だ塞がりきっておらぬ。縫い合わされた肉が、引き裂かれるように軋んだ。
「——ッ!」
歯を食いしばった。視界が白く点滅する。
(——支えがなければ、我も引きずられる)
空いた手で岩の突起を掴んだ。爪が氷に食い込む。引き上げようとする。動かぬ。奴の体重が、腕にぶら下がっておる。片腕だけで、虚空の上。肩の傷が脈打つように痛む——熱い、裂けそうだ。
腕が震え始めた。
(重い——【ヘク】の体は、重い——)
爪が滑った。ほんの少し。
歯を剥いた。喉の奥から唸りが漏れる。全身に力を込めた。背中、腹、脚。尾を岩に巻きつけて、支点にする。
引く。肩が悲鳴を上げる。無視した。
少しずつ。筋が千切れそうだ。少しずつ。
奴の手が、縁に届いた。
(——己で登れ。そこからは——)
もう一度引いた。奴が足を蹴り上げる。肘が縁を越えた。転がり込んできた。
我は手を離した。仰向けに倒れた。岩の上、灰色の空。息が足りぬ。心臓が暴れ、肩が燃えておる。
胃が——
転がり、四つん這いになった。
ゲェッ。
熱い、苦い。ビチャ、と岩を打つ。
オェッ——また。何も出ぬ。体がガクガクと痙攣しておる。止められぬ。
視界がチカチカと明滅する。風の音が、遠い。
……
ゼェ、ゼェ、ゼェ。
呼吸が戻ってきた。いつの間にか。口の端を拭った。顔を上げた。
【ヘク】が仰向けのまま、こちらを見ておった。
目が合った。
——生きておる。
口が開いた。
「【カゾ・シャルンアズカズ・セキ】——」
息が続かぬ。区切った。
「——【サヘク・ファールアズカズ】。【ヘク】」
奴の口が動いた。
「……スマン。ナ」
人間語。意味は分からぬ。
(——謝罪か。言い訳か。どちらでもいい)
立ち上がった。膝が笑い、肩が燃えておる。だが、立った。次の岩場を見た。未だ続く。
このまま奴に任せれば、また落ちる。
(——見せるしかない)
歩いた。次の難所まで足を止め、振り返った。奴が未だ立ち上がろうとしておる。待った。奴が立った。こちらを見ておる。
岩の突起に足をかけた。手をかけた。登った。——こう行け。
振り返らなかった。だが、気配で分かる。奴が、我の足跡を辿っておる。
その後も同じだった。難所のたびに、我が先に行く。ルートを見せる。奴がそれを辿る。非効率で、遅い。
* * *
足元を見て歩いた。それだけの日々。岩、砂利、霜で固まった泥。魔族の背中を追う。難所では足を止め、あいつのルートを見て、辿る。それだけだった。
* * *
三日目——いや、四日目か。空気が変わっていた。まだ冷たい。だが、刺すような鋭さが消えている。風に乗って、別の匂いが混じり始めた——湿った土、腐った葉。地面も変わった。氷が減り、茶色い草が斜面にしがみついている。
足元を見た。俺の足は、まだ動いている。
(……なぜだ)
聖蝕は消えていない。骨の奥で、まだ燃えている。だが——あの岩棚を登った時より、楽だ。泉を出た直後の、あの抉るような痛みが、鈍くなっている。
(気のせいか?)
分からない。歩いた。
* * *
水が尽きかけていた。
峡谷の底で、細い流れを見つけた。雪解け水が岩の間を縫って、音もなく流れている。俺は先に降りた。滑りやすく、足場を選びながら。川床に膝をついた。水袋を浸した。冷たさが指を刺す。一つ目を満たす。二つ目。三つ目——あいつの分。
魔族が川岸に立っていた。上流の方を見ている。敵の痕跡か、獲物か。
立ち上がり、登り返した。水袋を持ち上げて、示した。
「——水」
あいつの目が、俺に向いた。差し出した。あいつが受け取る。
その時——指が触れた。俺の指先と、あいつの爪の付け根。ほんの一瞬。
——和らいだ。
頭の奥の圧迫感が、ふっと軽くなる。胸の底の冷たい炎が、一瞬だけ、遠のいた。
手が止まった。あいつの紫の瞳。俺を見返している。
(……気づいた? あいつも、何か——)
沈黙が、一秒だけ長かった。
あいつが水袋を軽く持ち上げた。俺を見ている。
「——【キシュ】」
……水。敵の言葉で。
俺は黙ってうなずいた。あいつは何も言わなかった。歩き出した。俺は黙ってついていった。
* * *
朝靄の向こうに、それが見えた。斜面にしがみつく、暗い緑の帯。
森。
(……覆い。あの風から、ようやく——)
足が速まった。
空気が変わっていた。もう何日も前から。だが、今朝は違う。松の匂い、湿った土、腐葉土の甘い腐敗。風も弱まっている。稜線を越える頃には、あの刺すような刃が鳴りを潜めていた。
あと少し。森の縁まで、もう——
魔族が、足を止めた。頭が上がり、空を見ている。
俺も見上げた。灰色の雲、流れる霧、薄い光。何も見えない。あいつの横顔を見た。耳が動いている。目が細くなっている。何かを、捉えているのか。
——キィン。
耳の奥で、金属が軋むような——冷たい波が、胸を貫いた。
「——【ツェルザーク】」
魔族が呟いた。低い声、ほとんど吐息。意味は分からない。だが——恐怖だ。俺の神経に直接、流れ込んでいく。
(——俺のじゃない)
(また——)
腕を掴まれた。
走った。森の縁へ。速い。足が追いつかない。引きずられるように。木々の下に飛び込んだ。枝が顔を打った。葉が視界を塞ぐ。さらに奥へ。樹冠が厚くなるまで。
足が止まった。
幹にもたれて、息を整えた。心臓が暴れている。魔族は空を見上げていた。木々の隙間から覗く、灰色の断片を。
十秒。二十秒。
やがて——肩から力が抜けた。ほんの少しだけ。見間違いだったのか。間に合ったのか。分からない。
俺は息を吐いた。
風が、ない。
何週間ぶりだ。あの音がない。頭上で枝が揺れている。高いところで、かすかに囁いている。だが、ここまでは届かない。空気が重く、湿っている。松葉と腐葉土、土の匂い。下生えの中で何かが動く、柔らかなざわめき。遠い鳥の声。
俺は深く息を吸った。光が傾いてきた。寝床、火、水場——まだ休めない。
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