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第14話:温もりの境界

ー/ー



 どれほど時が経っただろう。

 火を起こしたのは、たぶん一日前だ。衣服を広げ、乾かし始めた。あいつが狩ってきた雪鼠(ゆきねずみ)を分け合って食べた。眠った。起きた。また眠った。

 今——あいつは池の端で眠りに落ち、俺は眠れずにいる。

 ()き火のそばに、俺たちの衣服がまだ広げてある。石の上で、ゆっくりと乾いていく。革と布が熱を取り戻していく音が、静かな洞窟に響く。ほとんど乾いた。あと数時間か。

 池の端に、影が横たわっている。仰向けに。蒸気に半ば隠されて。火がぱちぱちと音を立てる。あいつの呼吸が聞こえる。

(……寝てるのか)

 深く、規則的。——いや。整いすぎだ。目は閉じている。だが体の強張りは抜けていない。緩められた弓弦(ゆづる)——だが、弛緩(しかん)はしていない。

 尾が動いた。脚の横に長く伸びていた先端が、ゆっくり持ち上がり——落ちた。隆起した硬い(うろこ)。あの洞窟で鞭のように振るわれた尾だ。

 膝から下を覆う暗い鱗が、火の光を鈍く弾いている。黒曜石(こくようせき)みたいだ。腕も同じ。(ひじ)から手首にかけて密に重なり、指先へ向かうにつれて薄れていく。

(——止まってるのは、初めてだ)

 蒸気が腹の上をゆっくりと這い上がって、消えた。

 ——鱗がない。

 脚や腕を覆っていたあの装甲が、胴にはない。肌だ。淡い紫の、薄い肌。肋骨(ろっこつ)の動きが見える。呼吸のたびに上がって、下がる。胸の膨らみ。小さい。呼吸に合わせて、かすかに動いている。

 ——見ていた。

(——何を見てる、俺は)

 目を逸らした。火を見た。岩を見た。

 戻った。

 爪が光っていた。片手が胸の上に置かれている。指がわずかに曲がって、爪の先端だけが火を拾った。人間より長い。暗い。鋭い。

 胃の底が冷えた。あの爪だ。エララの——

 唇が動いた。かすかに。開いて、閉じた。息が変わっただけかもしれない。

 目が、離れなくなった。

 こめかみから後ろへ曲がる角。暗く、(うね)のある表面で、俺の指より少し長い。湿った黒髪が首と顎にまとわりついている。頬骨(ほおぼね)が高い。顎が細い。あの冷たい目は閉じている。獲物を値踏みする光は、ない。火に照らされた横顔は——疲れている。ただ、疲れて、眠っている。

 人に、近い。思ったより、ずっと。

(——化け物なら、殺し方を知ってる。人間なら、読み方を知ってる。こういうものは——知らない)

 肩の曲線から蒸気が立ち上る。鱗と肌の境目を這って——境目がなかった。

(……綺麗だ)


 心臓が急に跳ねた。

(——エララを殺した爪だぞ。何を——)


 * * *

 その鼓動(こどう)の変化が——伝わったのかもしれない。

 あいつの目が開いた。大きい。紫。細い瞳孔(どうこう)(まぎ)れもなく覚醒している。


 視線が合った。


 痙攣(けいれん)もない。瞬きもない。完全な静寂。二つの心拍分。

 それから魔族は一つの流れるような動作で起き上がった。尾がほどける。肩を後ろに引く。呼吸が深まる。驚いた様子はない。ただ——準備ができた、という風に見える。休息の痕跡(こんせき)が、すべて消えた。

 あいつはわずかに頭を傾けて、俺を値踏(ねぶ)みするように見た。

 一言も発さず、立ち上がる。肌からまだ湯気が立ち上る中、火の側へ歩いた。広げて乾かしていた衣服を手に取り、一つずつ確かめる。足布(あしぬの)は乾いている。胸を巻く布も。革の胸当(むねあ)ては硬くなっているが、着られる。上着は重く、まだわずかに湿っているが、問題ない。外套は厚手の羊毛が熱を保っている。

 あいつは俺の衣服も取り上げた。こちらへ押しやる。

 時が来た。この聖域(せいいき)を離れる時が。

 * * *

 俺たちは黙って身支度を整えた。まず下着、それから防具、最後に外套。硬くなった革の胸当ては窮屈だったが、外の寒さには必要だ。

 俺は燃えさしのそばに(ひざまず)いた。油紙(あぶらがみ)の袋を開き、折りたたんだ地図を取り出す。平らな石の上に広げる。羅針盤(らしんばん)を横に置いた。針が微かに震えた。

 あいつは一歩近づき、黙って見下ろした。地図には目を向けている。だが、羅針盤には——戸惑(とまど)っているように見える。

 ……そうか。奴らには、北という概念がないのかもしれない。

 あいつの表情は何も明かさなかった。両方を石の向こうへ、俺に向かって滑らせる。

 前かがみになる。まだ硬く、まだ痛むが、今はより安定している。羅針盤は手の中で馴染(なじ)み深く感じた。確かで、正しい。それを置いた。地図の向きを定める。北、それから西。線と印が元の位置に収まった。

 まず、指でギザギザの線を引いた。山脈——今いる場所。指先で軽く叩く。次に、その線から短い一本を伸ばす。森——北縁の森。森の印を指さし、水袋を持ち上げる。軽く振る。次に、()し肉の包みを指で示す。

 ——止まる。

 あいつの目が、その一連の動きを追っていた。

 俺は少し間を置き、頭をわずかに傾ける。目を閉じる仕草。すぐに開く。地図の上に、短い()を描く。低い位置から高く、また落とす。一晩。

 だが——近すぎる。

 山の後ろ側に、素早く三つの印を描いた。角のある頭。爪。あいつを見る。印を指さす。

「……【ズル(追跡者)】」

 声がぎこちない。喉から絞り出すような音。発音が正しいかも分からない。

 あいつは、動きを止めた。

 紫の(ひとみ)が俺を捉え、ほんのわずかに見開かれる——そして、すぐに地図へと戻った。

 俺は視線を地図に戻した。その印から、森へ向かって線を引く。線は——森で止めた。俺は森の印の上に指を置いたまま、首を横に振る。危険だ。

 そして、森のさらに向こうへ。もう一本、長い線を引いた。人の領域の奥へ。線の先に、四角い石積みを描く。崩れた塔。周囲には、何も描かない。静かで、安全だ。

 俺はその四角を、二度叩いた。

「【ゴル(避難所)】」

 あいつの視線が、地図の上を辿る。塔。

 一瞬の沈黙。

 魔族は四角——塔——を指さした。短く、はっきりとうなずく。

「【ゴル】」

 それで十分だ。


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 どれほど時が経っただろう。
 火を起こしたのは、たぶん一日前だ。衣服を広げ、乾かし始めた。あいつが狩ってきた|雪鼠《ゆきねずみ》を分け合って食べた。眠った。起きた。また眠った。
 今——あいつは池の端で眠りに落ち、俺は眠れずにいる。
 |焚《た》き火のそばに、俺たちの衣服がまだ広げてある。石の上で、ゆっくりと乾いていく。革と布が熱を取り戻していく音が、静かな洞窟に響く。ほとんど乾いた。あと数時間か。
 池の端に、影が横たわっている。仰向けに。蒸気に半ば隠されて。火がぱちぱちと音を立てる。あいつの呼吸が聞こえる。
(……寝てるのか)
 深く、規則的。——いや。整いすぎだ。目は閉じている。だが体の強張りは抜けていない。緩められた|弓弦《ゆづる》——だが、|弛緩《しかん》はしていない。
 尾が動いた。脚の横に長く伸びていた先端が、ゆっくり持ち上がり——落ちた。隆起した硬い|鱗《うろこ》。あの洞窟で鞭のように振るわれた尾だ。
 膝から下を覆う暗い鱗が、火の光を鈍く弾いている。|黒曜石《こくようせき》みたいだ。腕も同じ。|肘《ひじ》から手首にかけて密に重なり、指先へ向かうにつれて薄れていく。
(——止まってるのは、初めてだ)
 蒸気が腹の上をゆっくりと這い上がって、消えた。
 ——鱗がない。
 脚や腕を覆っていたあの装甲が、胴にはない。肌だ。淡い紫の、薄い肌。|肋骨《ろっこつ》の動きが見える。呼吸のたびに上がって、下がる。胸の膨らみ。小さい。呼吸に合わせて、かすかに動いている。
 ——見ていた。
(——何を見てる、俺は)
 目を逸らした。火を見た。岩を見た。
 戻った。
 爪が光っていた。片手が胸の上に置かれている。指がわずかに曲がって、爪の先端だけが火を拾った。人間より長い。暗い。鋭い。
 胃の底が冷えた。あの爪だ。エララの——
 唇が動いた。かすかに。開いて、閉じた。息が変わっただけかもしれない。
 目が、離れなくなった。
 こめかみから後ろへ曲がる角。暗く、|畝《うね》のある表面で、俺の指より少し長い。湿った黒髪が首と顎にまとわりついている。|頬骨《ほおぼね》が高い。顎が細い。あの冷たい目は閉じている。獲物を値踏みする光は、ない。火に照らされた横顔は——疲れている。ただ、疲れて、眠っている。
 人に、近い。思ったより、ずっと。
(——化け物なら、殺し方を知ってる。人間なら、読み方を知ってる。こういうものは——知らない)
 肩の曲線から蒸気が立ち上る。鱗と肌の境目を這って——境目がなかった。
(……綺麗だ)
 心臓が急に跳ねた。
(——エララを殺した爪だぞ。何を——)
 * * *
 その|鼓動《こどう》の変化が——伝わったのかもしれない。
 あいつの目が開いた。大きい。紫。細い|瞳孔《どうこう》。|紛《まぎ》れもなく覚醒している。
 視線が合った。
 |痙攣《けいれん》もない。瞬きもない。完全な静寂。二つの心拍分。
 それから魔族は一つの流れるような動作で起き上がった。尾がほどける。肩を後ろに引く。呼吸が深まる。驚いた様子はない。ただ——準備ができた、という風に見える。休息の|痕跡《こんせき》が、すべて消えた。
 あいつはわずかに頭を傾けて、俺を|値踏《ねぶ》みするように見た。
 一言も発さず、立ち上がる。肌からまだ湯気が立ち上る中、火の側へ歩いた。広げて乾かしていた衣服を手に取り、一つずつ確かめる。|足布《あしぬの》は乾いている。胸を巻く布も。革の|胸当《むねあ》ては硬くなっているが、着られる。上着は重く、まだわずかに湿っているが、問題ない。外套は厚手の羊毛が熱を保っている。
 あいつは俺の衣服も取り上げた。こちらへ押しやる。
 時が来た。この|聖域《せいいき》を離れる時が。
 * * *
 俺たちは黙って身支度を整えた。まず下着、それから防具、最後に外套。硬くなった革の胸当ては窮屈だったが、外の寒さには必要だ。
 俺は燃えさしのそばに|跪《ひざまず》いた。|油紙《あぶらがみ》の袋を開き、折りたたんだ地図を取り出す。平らな石の上に広げる。|羅針盤《らしんばん》を横に置いた。針が微かに震えた。
 あいつは一歩近づき、黙って見下ろした。地図には目を向けている。だが、羅針盤には——|戸惑《とまど》っているように見える。
 ……そうか。奴らには、北という概念がないのかもしれない。
 あいつの表情は何も明かさなかった。両方を石の向こうへ、俺に向かって滑らせる。
 前かがみになる。まだ硬く、まだ痛むが、今はより安定している。羅針盤は手の中で|馴染《なじ》み深く感じた。確かで、正しい。それを置いた。地図の向きを定める。北、それから西。線と印が元の位置に収まった。
 まず、指でギザギザの線を引いた。山脈——今いる場所。指先で軽く叩く。次に、その線から短い一本を伸ばす。森——北縁の森。森の印を指さし、水袋を持ち上げる。軽く振る。次に、|干《ほ》し肉の包みを指で示す。
 ——止まる。
 あいつの目が、その一連の動きを追っていた。
 俺は少し間を置き、頭をわずかに傾ける。目を閉じる仕草。すぐに開く。地図の上に、短い|弧《こ》を描く。低い位置から高く、また落とす。一晩。
 だが——近すぎる。
 山の後ろ側に、素早く三つの印を描いた。角のある頭。爪。あいつを見る。印を指さす。
「……【|ズル《追跡者》】」
 声がぎこちない。喉から絞り出すような音。発音が正しいかも分からない。
 あいつは、動きを止めた。
 紫の|瞳《ひとみ》が俺を捉え、ほんのわずかに見開かれる——そして、すぐに地図へと戻った。
 俺は視線を地図に戻した。その印から、森へ向かって線を引く。線は——森で止めた。俺は森の印の上に指を置いたまま、首を横に振る。危険だ。
 そして、森のさらに向こうへ。もう一本、長い線を引いた。人の領域の奥へ。線の先に、四角い石積みを描く。崩れた塔。周囲には、何も描かない。静かで、安全だ。
 俺はその四角を、二度叩いた。
「【|ゴル《避難所》】」
 あいつの視線が、地図の上を辿る。塔。
 一瞬の沈黙。
 魔族は四角——塔——を指さした。短く、はっきりとうなずく。
「【ゴル】」
 それで十分だ。