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第12話:裸の鱗

ー/ー



 静寂。

 我はそれを受け入れた。湿った壁にもたれかかり、目を閉じる。冷えた(うろこ)に、ゆっくりと暖かさが染み込んでいく。一瞬だけ、狩人としての警戒心が薄れた。何日も続いていた肩の緊張が、わずかに和らぐ。

(……休息だ。どれほど短くとも)

 * * *

 ——その時、奥のどこかで音がした。石が転がるような。あるいは、水滴が落ちたような。

 体が凍りついた。尾が跳ね上がる。耳が音の方角を探る。

 十秒。二十秒。

 ……何もない。ただの洞窟の呼吸だ。岩が温度差で(きし)む音。それだけ。

 だが我は、その後も長い間、暗闇を(にら)んでおった。何も現れなかった。

(安全だ。今のところは)

 その時初めて、我は池の近くに落ち着くことを己に許した。奴の近くに。肩は水面の上に出したまま。湯に浸けると傷が燃える。

 奴は湯に浸かっておる。半分眠っておるようだ。震えが止まっておった。移動中は絶え間なく震えておった。我が離れると、さらにひどくなった。

 今は——静かだ。

(……暖かさのおかげか)

 それとも、別の理由か。考えても仕方がない。

 * * *

 二昼夜が過ぎた。

 俺は眠った。起きた。また眠った。あれ以来——すべてが崩壊して以来、初めての本当の休息だった。

 乳白色の池に、長時間浸かる。最初は熱すぎて不快だった。でも、すぐに慣れた。筋肉が緩んでいくのが分かる。関節の痛みが和らぐ。胸の奥で荒れ狂っていた聖蝕(せいしょく)(うず)きも、静かになっていく。熱い湯に突っ込んだ焼き鉄みたいに。じわじわと、鈍くなっていく。

 雪獅子との戦いから続いていた熱。あれは最初の一昼夜で下がった。汗でずぶ濡れになって、それから涼しくなった。呼吸も楽になった。深く吸うと、まだ肋骨(ろっこつ)が軋むけど。

 手の震えも、だいぶマシだ。

 回復している、という実感があった。何週間もの中で、最も頭がはっきりしている。

 * * *

 どれほど時が経ったのか。

 薄明(はくめい)かりの中、池から蒸気が立ち上る。鉱物の尖塔(せんとう)から水が滴り落ち、規則的な音を刻んでおった。乱れた思考をまとめるには、ちょうどいい。

(……壊れやすい。(つか)()慈悲(じひ)だ)

 己の腕を見る。雪獅子の爪痕。鱗を横切り、赤黒く腫れ上がった線。露出した暗い肉が脈打(みゃくう)っておる。鈍い痛みが、絶え間なく疼いておる。見るたびに、己の油断を(いまし)められる。

 熱せられた石の上で身じろぎし、尾を横にゆるく巻いた。暖かさが、わずかに痛みを和らげる。だが血は(にじ)み続けておった。我の血が乳白色(にゅうはくしょく)の泉に流れ込み、煙のように渦を巻いておる。

(こぼれた血。無駄になった【コル()】)

 だがここでは、【グル(聖穢)】の重さが薄い。石と蒸気が、何かを和らげておる。試す価値はある。ここでなら、あるいは。

 * * *

 目を閉じた。ゆっくりと息を吸い、己を中心に据える。

 疲弊(ひへい)(はなは)だしい。だが、この傷を放置はできぬ。我が【セズ(生命力)】は残りわずか。だが、内に【カールヴァラ(癒しの女神)】の恩寵(おんちょう)が一片でも残存(ざんそん)するなら――我が呼び声に応えよ。

 良い方の手を上げ、傷の上にかざした。そして詠唱(えいしょう)を始める。喉の奥で、低く響く音が震えた。本能のままに紡がれる古代の音節(おんせつ)。【シャールン(治癒魔法)】の神聖な韻律(いんりつ)


サ・カールヴァラ……(癒しの女神よ……)カゾ・グルシュ・キ・ラーン、(私は弱さの中にひざまずくが、)

チェク・サゾ・カーズ・キ・クルアズ(内なるあなたの力を呼ぶ)

カゾ・コル・ドエナズ、(我が血を捧げ、)カゾ・カラーズン・ツォルクアズ(我が息を明け渡す)

ドロセン・レザールン、(壊れたものを繕い、)グラーズ・サルアズ(出血を止めよ)

グレーヴ・ネクシャアズ、(痛みを退かせ、)ヴェスク・ネクタズアズ(生命を保たせよ)

サカーリク・カーズ・クン(あなたの不朽の力によって)――シャールナク(小治癒)!】


 手の周りで空気がゆらめいた。淡い紫の線が皮膚と傷の間の空間に形作られる。単純で寸分(すんぶん)の狂いもない【シャールン】の紋様(もんよう)。それは優しく脈動(みゃくどう)し、我の暗い鱗に柔らかな光をそっと灯した。その下で引き裂かれた肉がピクピクと動き、端が震えながら繋ぎ合わさろうとしておる。

(……効いてはおる。だが、微弱だ。治癒と呼ぶには程遠い)

 より強く念じた。持っておらぬはずの気力を絞り出す。もう一欠片(かけら)。紋様がわずかに明るくなった。緊張で額にしわが寄る。

 遅い。浅い。

 紋様がぐらつき、ちらつく。風に(あお)られた炎のように。線が震え、脈動が乱れる。我の集中が滑った。石を通して、空気を通して、紋様を通して――抵抗が湧き上がる。微細だが、覚えのある抵抗。

 【グル】。ここでさえ。

 チッ……未だ汚染されておる……! 【グル】が祈りの流れを塞いでおる!

 紋様は霧散(むさん)した。暖かさも消えた。

 傷は変わらぬ。

 静かなシューという吐息が漏れた。鋭い苛立(いらだ)ち。手を下ろし、顎を食いしばる。肩が張り、それから沈んだ。

 ここでさえ、我は弱められておった。聖域(せいいき)でさえ、癒すことはできなかった。

 * * *

 目を開けた。

 腕の切り傷。未だ開いておる。未だ疼いておる。我が【セズ】はあまりに薄い。そして【グル】の(けが)れが、未だに我を(さいな)む。

 治癒は……叶わぬか。

(ヴァラは報告したはずだ。この山域は我らの哨戒(しょうかい)範囲内。捜索が始まれば、ここは真っ先に調べられる)

(長くはおれぬ)

 * * *

 薄暗がりの中で目を開ける。魔族の女。池の端で休んでいる。

 横たわったままなのに、体は張り詰めている。狩人のような気配。尾は横にゆるく巻かれていて、先端だけが時々、微かに動く。

(休んでるのか? いや、違う。いつでも動けるようにしてる)

 雪獅子の記憶が、頭の中で弾けた。望んでもいないのに蘇る。牙が噛み合う音。あいつの叫び。俺は地面に転がっていた。肋骨が折れて、動けなくて。あいつが一人で戦っていた。俺を(かば)いながら。

 そして——あの爪が、魔族の肩を(えぐ)った。

(俺が弱かったからだ)

 魔族は今、隠された泉の端で静かに横たわっている。蒸気で濡れた岩の上。暗い影みたいに。負傷している。俺のせいで。

(あいつは俺をここまで引きずってきた。あの洞窟から。俺を生かし続けた)

(そして今、俺はただ……ここに座ってるだけか?)

(いや)

 暖かい水から体を引き上げた。洞窟の冷気が、拳みたいに全身を殴りつける。熱でだるくなった筋肉が(きし)んだ。

 池の端。深い緑の苔が岩に張り付いている。傷薬になる。

(後回しにしている場合じゃない)

 苔を一掴み、岩から引き()がす。指に触れると冷たく、湿っていた。口に押し込む。噛み始めた。苦い。土臭い。砂利(じゃり)が歯に擦れる。じっくり噛んで、湿った緑の()り薬にした。慎重に手のひらに吐き出す。筋張っていて、暗い色。

 ……奴が動いた気がした。いや、空気の変化を感じ取ったのかもしれない。

 あいつの紫の目が開いていた。俺を、見ている。横たわったままなのに、その場の空気が張り詰めた。

 慎重に近づいた。無言で魔族の横に(ひざまず)く。片手に苔の塊。もう片手に湿った布。差し出す。ゆっくりと身振りをする。苔を示して、それからあいつの最悪の傷——肩を指す。

(理解するか。それとも、俺の喉を掻き切るか)

(どっちだろうな)

 奴の呼吸は浅い。暗い血は止まっている。引き裂かれた鱗の周りで固まっていた。でも切り傷は生々(なまなま)しい。赤黒く腫れ上がって、開いたまま。

 手が震えた。

 ……聖蝕からじゃない。

 魔族は——動かなかった。

 布を使って手を伸ばした。奴の肩の傷を清め始める。ゆっくり。慎重に。乾いた血と洞窟の汚れを洗い流していく。

 指が端に触れた。ここの鱗は硬くて、鋭い。黒曜石(こくようせき)の破片みたいだ。それから——もっと大きく開いた傷の奥。

 皮膚。

 淡い紫で、光を透かすほどに薄い。

(この感触……生身の、皮膚だ)

(温かい。生きている)

 無防備。

 苔の塊をそっと当てた。湿った塊を、肩の引き裂かれた部分に押し添える。


「クッ……!」


 魔族が、食いしばった歯の間から短く鋭い息を漏らした。

 * * *

 低い息が、喉から漏れた。尾が石を打つ。強く。冷たい泉洞の岩に。

(火だ……!)

 爪で裂かれる、あの鋭利(えいり)な痛みとは違う。もっと深い。鱗の下で、溶けた鉄を擦り込まれておるような——

(この【ヘク(人間)】……何をしておる? 新たな毒か? 呪いか?)

 だが。

 【ヘク】の手は止まらぬ。奴の手は【トロ(聖蝕)】に震えておる。だが、作業は正確だ。矛盾だ。病に侵されながら、この作業においては熟練(じゅくれん)しておる。

 * * *

 俺は作業を続けた。最も痛む箇所を避けながら。集中して。丁寧に。

 洗浄が終わった。俺は——自分の上着から布を裂いた。

(無駄かもしれない。でも、何もしないよりはマシだ)

 包帯が肩に巻かれる。粗雑(そざつ)な出来栄えだが、きつく、確実だ。動くたびに痛みが走っているはずだ。だが奴は声を上げない。

 * * *

(……奇妙だ)

 なぜ我の手当てを? 何を得る? この弱さ。奴に触れさせておること。恥ずべきことだ。

 だが——傷は縛られた。清められた。燃えるような痛みが、鈍い疼きへと変わっていく。

 奴がようやく身を引いた。半眼(はんがん)で見つめる。湯気の向こう、火の光がちらついておる。奴は泉の反対側に戻った。我々の間に、再び距離が生まれる。


(奴は我に触れた。手当てをした。……我はそれを許した)

 なぜだ?


 * * *

 泉の反対側。

 手がまだ震えている。苔の匂いが指にこびりついている。魔族。半眼で、こちらを見ている。読めない表情。でも、さっきまでとは違う何かがあった。


(俺はあいつに触れた。手当てをした。あいつはそれを許した)

 なぜだ?


 分からない。


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 静寂。
 我はそれを受け入れた。湿った壁にもたれかかり、目を閉じる。冷えた|鱗《うろこ》に、ゆっくりと暖かさが染み込んでいく。一瞬だけ、狩人としての警戒心が薄れた。何日も続いていた肩の緊張が、わずかに和らぐ。
(……休息だ。どれほど短くとも)
 * * *
 ——その時、奥のどこかで音がした。石が転がるような。あるいは、水滴が落ちたような。
 体が凍りついた。尾が跳ね上がる。耳が音の方角を探る。
 十秒。二十秒。
 ……何もない。ただの洞窟の呼吸だ。岩が温度差で|軋《きし》む音。それだけ。
 だが我は、その後も長い間、暗闇を|睨《にら》んでおった。何も現れなかった。
(安全だ。今のところは)
 その時初めて、我は池の近くに落ち着くことを己に許した。奴の近くに。肩は水面の上に出したまま。湯に浸けると傷が燃える。
 奴は湯に浸かっておる。半分眠っておるようだ。震えが止まっておった。移動中は絶え間なく震えておった。我が離れると、さらにひどくなった。
 今は——静かだ。
(……暖かさのおかげか)
 それとも、別の理由か。考えても仕方がない。
 * * *
 二昼夜が過ぎた。
 俺は眠った。起きた。また眠った。あれ以来——すべてが崩壊して以来、初めての本当の休息だった。
 乳白色の池に、長時間浸かる。最初は熱すぎて不快だった。でも、すぐに慣れた。筋肉が緩んでいくのが分かる。関節の痛みが和らぐ。胸の奥で荒れ狂っていた|聖蝕《せいしょく》の|疼《うず》きも、静かになっていく。熱い湯に突っ込んだ焼き鉄みたいに。じわじわと、鈍くなっていく。
 雪獅子との戦いから続いていた熱。あれは最初の一昼夜で下がった。汗でずぶ濡れになって、それから涼しくなった。呼吸も楽になった。深く吸うと、まだ|肋骨《ろっこつ》が軋むけど。
 手の震えも、だいぶマシだ。
 回復している、という実感があった。何週間もの中で、最も頭がはっきりしている。
 * * *
 どれほど時が経ったのか。
 |薄明《はくめい》かりの中、池から蒸気が立ち上る。鉱物の|尖塔《せんとう》から水が滴り落ち、規則的な音を刻んでおった。乱れた思考をまとめるには、ちょうどいい。
(……壊れやすい。|束《つか》の|間《ま》の|慈悲《じひ》だ)
 己の腕を見る。雪獅子の爪痕。鱗を横切り、赤黒く腫れ上がった線。露出した暗い肉が|脈打《みゃくう》っておる。鈍い痛みが、絶え間なく疼いておる。見るたびに、己の油断を|戒《いまし》められる。
 熱せられた石の上で身じろぎし、尾を横にゆるく巻いた。暖かさが、わずかに痛みを和らげる。だが血は|滲《にじ》み続けておった。我の血が|乳白色《にゅうはくしょく》の泉に流れ込み、煙のように渦を巻いておる。
(こぼれた血。無駄になった【|コル《血》】)
 だがここでは、【|グル《聖穢》】の重さが薄い。石と蒸気が、何かを和らげておる。試す価値はある。ここでなら、あるいは。
 * * *
 目を閉じた。ゆっくりと息を吸い、己を中心に据える。
 |疲弊《ひへい》は|甚《はなは》だしい。だが、この傷を放置はできぬ。我が【|セズ《生命力》】は残りわずか。だが、内に【|カールヴァラ《癒しの女神》】の|恩寵《おんちょう》が一片でも|残存《ざんそん》するなら――我が呼び声に応えよ。
 良い方の手を上げ、傷の上にかざした。そして|詠唱《えいしょう》を始める。喉の奥で、低く響く音が震えた。本能のままに紡がれる古代の|音節《おんせつ》。【|シャールン《治癒魔法》】の神聖な|韻律《いんりつ》。
【|サ・カールヴァラ……《癒しの女神よ……》|カゾ・グルシュ・キ・ラーン、《私は弱さの中にひざまずくが、》】
【|チェク・サゾ・カーズ・キ・クルアズ《内なるあなたの力を呼ぶ》】
【|カゾ・コル・ドエナズ、《我が血を捧げ、》|カゾ・カラーズン・ツォルクアズ《我が息を明け渡す》】
【|ドロセン・レザールン、《壊れたものを繕い、》|グラーズ・サルアズ《出血を止めよ》】
【|グレーヴ・ネクシャアズ、《痛みを退かせ、》|ヴェスク・ネクタズアズ《生命を保たせよ》】
【|サカーリク・カーズ・クン《あなたの不朽の力によって》――|シャールナク《小治癒》!】
 手の周りで空気がゆらめいた。淡い紫の線が皮膚と傷の間の空間に形作られる。単純で|寸分《すんぶん》の狂いもない【シャールン】の|紋様《もんよう》。それは優しく|脈動《みゃくどう》し、我の暗い鱗に柔らかな光をそっと灯した。その下で引き裂かれた肉がピクピクと動き、端が震えながら繋ぎ合わさろうとしておる。
(……効いてはおる。だが、微弱だ。治癒と呼ぶには程遠い)
 より強く念じた。持っておらぬはずの気力を絞り出す。もう一|欠片《かけら》。紋様がわずかに明るくなった。緊張で額にしわが寄る。
 遅い。浅い。
 紋様がぐらつき、ちらつく。風に|煽《あお》られた炎のように。線が震え、脈動が乱れる。我の集中が滑った。石を通して、空気を通して、紋様を通して――抵抗が湧き上がる。微細だが、覚えのある抵抗。
 【グル】。ここでさえ。
 チッ……未だ汚染されておる……! 【グル】が祈りの流れを塞いでおる!
 紋様は|霧散《むさん》した。暖かさも消えた。
 傷は変わらぬ。
 静かなシューという吐息が漏れた。鋭い|苛立《いらだ》ち。手を下ろし、顎を食いしばる。肩が張り、それから沈んだ。
 ここでさえ、我は弱められておった。|聖域《せいいき》でさえ、癒すことはできなかった。
 * * *
 目を開けた。
 腕の切り傷。未だ開いておる。未だ疼いておる。我が【セズ】はあまりに薄い。そして【グル】の|穢《けが》れが、未だに我を|苛《さいな》む。
 治癒は……叶わぬか。
(ヴァラは報告したはずだ。この山域は我らの|哨戒《しょうかい》範囲内。捜索が始まれば、ここは真っ先に調べられる)
(長くはおれぬ)
 * * *
 薄暗がりの中で目を開ける。魔族の女。池の端で休んでいる。
 横たわったままなのに、体は張り詰めている。狩人のような気配。尾は横にゆるく巻かれていて、先端だけが時々、微かに動く。
(休んでるのか? いや、違う。いつでも動けるようにしてる)
 雪獅子の記憶が、頭の中で弾けた。望んでもいないのに蘇る。牙が噛み合う音。あいつの叫び。俺は地面に転がっていた。肋骨が折れて、動けなくて。あいつが一人で戦っていた。俺を|庇《かば》いながら。
 そして——あの爪が、魔族の肩を|抉《えぐ》った。
(俺が弱かったからだ)
 魔族は今、隠された泉の端で静かに横たわっている。蒸気で濡れた岩の上。暗い影みたいに。負傷している。俺のせいで。
(あいつは俺をここまで引きずってきた。あの洞窟から。俺を生かし続けた)
(そして今、俺はただ……ここに座ってるだけか?)
(いや)
 暖かい水から体を引き上げた。洞窟の冷気が、拳みたいに全身を殴りつける。熱でだるくなった筋肉が|軋《きし》んだ。
 池の端。深い緑の苔が岩に張り付いている。傷薬になる。
(後回しにしている場合じゃない)
 苔を一掴み、岩から引き|剥《は》がす。指に触れると冷たく、湿っていた。口に押し込む。噛み始めた。苦い。土臭い。|砂利《じゃり》が歯に擦れる。じっくり噛んで、湿った緑の|練《ね》り薬にした。慎重に手のひらに吐き出す。筋張っていて、暗い色。
 ……奴が動いた気がした。いや、空気の変化を感じ取ったのかもしれない。
 あいつの紫の目が開いていた。俺を、見ている。横たわったままなのに、その場の空気が張り詰めた。
 慎重に近づいた。無言で魔族の横に|跪《ひざまず》く。片手に苔の塊。もう片手に湿った布。差し出す。ゆっくりと身振りをする。苔を示して、それからあいつの最悪の傷——肩を指す。
(理解するか。それとも、俺の喉を掻き切るか)
(どっちだろうな)
 奴の呼吸は浅い。暗い血は止まっている。引き裂かれた鱗の周りで固まっていた。でも切り傷は|生々《なまなま》しい。赤黒く腫れ上がって、開いたまま。
 手が震えた。
 ……聖蝕からじゃない。
 魔族は——動かなかった。
 布を使って手を伸ばした。奴の肩の傷を清め始める。ゆっくり。慎重に。乾いた血と洞窟の汚れを洗い流していく。
 指が端に触れた。ここの鱗は硬くて、鋭い。|黒曜石《こくようせき》の破片みたいだ。それから——もっと大きく開いた傷の奥。
 皮膚。
 淡い紫で、光を透かすほどに薄い。
(この感触……生身の、皮膚だ)
(温かい。生きている)
 無防備。
 苔の塊をそっと当てた。湿った塊を、肩の引き裂かれた部分に押し添える。
「クッ……!」
 魔族が、食いしばった歯の間から短く鋭い息を漏らした。
 * * *
 低い息が、喉から漏れた。尾が石を打つ。強く。冷たい泉洞の岩に。
(火だ……!)
 爪で裂かれる、あの|鋭利《えいり》な痛みとは違う。もっと深い。鱗の下で、溶けた鉄を擦り込まれておるような——
(この【|ヘク《人間》】……何をしておる? 新たな毒か? 呪いか?)
 だが。
 【ヘク】の手は止まらぬ。奴の手は【|トロ《聖蝕》】に震えておる。だが、作業は正確だ。矛盾だ。病に侵されながら、この作業においては|熟練《じゅくれん》しておる。
 * * *
 俺は作業を続けた。最も痛む箇所を避けながら。集中して。丁寧に。
 洗浄が終わった。俺は——自分の上着から布を裂いた。
(無駄かもしれない。でも、何もしないよりはマシだ)
 包帯が肩に巻かれる。|粗雑《そざつ》な出来栄えだが、きつく、確実だ。動くたびに痛みが走っているはずだ。だが奴は声を上げない。
 * * *
(……奇妙だ)
 なぜ我の手当てを? 何を得る? この弱さ。奴に触れさせておること。恥ずべきことだ。
 だが——傷は縛られた。清められた。燃えるような痛みが、鈍い疼きへと変わっていく。
 奴がようやく身を引いた。|半眼《はんがん》で見つめる。湯気の向こう、火の光がちらついておる。奴は泉の反対側に戻った。我々の間に、再び距離が生まれる。
(奴は我に触れた。手当てをした。……我はそれを許した)
 なぜだ?
 * * *
 泉の反対側。
 手がまだ震えている。苔の匂いが指にこびりついている。魔族。半眼で、こちらを見ている。読めない表情。でも、さっきまでとは違う何かがあった。
(俺はあいつに触れた。手当てをした。あいつはそれを許した)
 なぜだ?
 分からない。