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第8話:火種

ー/ー



 黒い、窒息するような虚無から——痛みが俺を引きずり上げた。

 カリッ。

 音。遠い。規則的な。冷たさ。神経を侵す。骨の芯まで届く。

 ——山の寒さじゃない。もっと深い何かだ。聖蝕の痛みをねじ曲げている。

(どこだ……?)

 (まぶた)の下で砂利が擦れる。記憶が一度に押し寄せた。

(洞窟が揺れて……青い奔流(ほんりゅう)……ライラの叫び……俺の刃が、ライラに……)

(いや! 女神め——だめだ!)

 俺は起き上がり、込み上げる吐き気を喉で押し止めた。手足が制御不能に震えていた。

 カリッ。

 ぼやけた視界の中に、形が浮かび上がる。荒い岩壁。強風からの避難所。火はない。ただのしかかるような寒さがあるだけ。

 動き。

 息が鋭く詰まった。薄明かりを背景に黒々と浮かび上がる影。低くしゃがみ、火打ち石を打っている。

黒曜石(こくようせき)(うろこ)。角の曲線。)

(魔族!——洞窟のあいつだ。)

 恐怖がこみ上げた。本能的に手で剣を探る。

(ない!?)

 魔族はゆっくりと振り返った。鋭い紫の目が俺を捉えた。平坦。値踏みするよう。異質。俺は冷たい石に必死に体を押し付けた。

 魔族は火打ち石を置いた。俺の水袋を取り、(せん)を抜き、差し出した。

(なぜ……?)

 だが(かわ)きは激しかった。慎重に水袋を取った。冷たい爪が震える手に触れた時、無意識にひるむ。素早く飲んだ。

 その時、魔族の背後に気づいた。俺の背嚢。俺の剣。魔族の手の届く場所に。俺の届かない場所に。

(……賢いな)

 言葉もなく水袋を返した。まだ魔族の爪が振り下ろされるのを待っていた。だがそれは来なかった。

 魔族は火打ち石に戻った。

 カリッ。

 小さな火花が短く踊り、それから寒さに飲み込まれて消えた。

(なぜ俺は生きている?)

 見つめていた。魔族の息が空気の中で霧になっている。肩がきつい。動きに切迫感がある。

 カリッ。

(火がなければ死ぬ。それだけだ。)

 自分の手を見た。まだ震えている。だがそれは俺の手だ。ゆっくりと、無理やり体を動かした。薄い毛布の端を持ち上げ、噛むような隙間風(すきまかぜ)から火口(ほくち)を遮った。

 魔族は短く止まった。俺の弱い努力に気づいたのか。一瞬、目が合った。

 再び角度を調整し、打った。火花。かすかな輝き。消えずに残った。慎重に身を乗り出し、苔を種火(たねび)に向かって押した。二度、失敗した。それがつき、ゆっくりと安定した炎へと育っていった。

 火がついた。

 俺たちは黙ってそれを見つめた。

 * * *

 寒さが俺を起こした。火はすでに消えていた。魔族はすでに起きていた。入口近くの静止した人影。

 開口部のすぐ内側にしゃがんだ。魔族の横に。空はどす黒い容赦のない灰色だった。(はる)か下では、世界が影と霧の中に沈んでいた。

 魔族はわずかに頭を傾け、風を試した。紫の虹彩(こうさい)がとてつもなく遠い何かにすっと焦点を結ぶ。魔族の視線は峠のずっと下、西南西に固定されていた。灰色の空に、白い羽のようなものがかすかに見える。断続的(だんぞくてき)に。風に流されて消えては、また現れる。

(あれは何だ? 煙? 蒸気?)

 魔族はベルトの小袋から油布(あぶらぬの)の袋を引き出した。俺の袋だ。使い古された地図と小さな真鍮(しんちゅう)のコンパスを取り出し、コンパスの方をしばらく(にら)んでから、諦めたように俺に渡した。

(俺にこれを読めと?)

 使い古された地図を広げた。風からコンパスを遮り、震える針が落ち着くのを待つ。指先が峠の高い俺たちの現在位置とおぼしき場所をたたいた。

 魔族は地図の横に素早く(ひざまず)いた。鋭い爪で湿った土に記号を引っ掻く。小さな円から上昇する波線。それから指で上向きに波打つ動きをした。

「【ゴル(????)】」

(あいつが見た羽……方角……地図の記号と一致する。熱源。温もり。避難所。)

 俺は下降する尾根を横切って西南西への道をたどり、噴気孔(ふんきこう)を示す古い記号が印された地域で指を止めた。

 魔族はそっけなくうなずいた。

 慎重に地図を折り、自分のベルトにしっかりと差し込んだ。

 * * *

 三日が過ぎた。あるいは四日か。日々の境目が曖昧(あいまい)になった。

 下降は地獄だった。緩い小石。隠れた氷。一歩ごとに違う痛みが走る。魔族は俺の遅い歩みに合わせ、ペースを落としていた。時折、より安全な足場を苛立(いらだ)った仕草で指し示しながら。

 腹の奥深くを空腹の痛みが絶え間なく(さいな)んでいた。魔族はできる時に狩りに出たが、霧の中から現れる魔族の手には何もなかった。俺は岩からこそげ取った苦い地衣類(ちいるい)を噛んでいた。砂を噛んでるようだ。

 だが俺はまだ生きていた。

 おかしい。

 普通でさえ、蝕止(しょくど)めなしじゃ四日……せいぜい五日で終わる。その上、あれだけの穢れを直接浴びた……一日で死んでもおかしくねえ。長くても……二日だ。

 知ってる。親父がそうだった。聖蝕(せいしょく)末期(まっき)を、俺はこの目で見た。今、何日目だ?

 指を折った。洞窟から出て、吹雪の中を這い、稜線(りょうせん)を越え――少なくとも四日。もしかしたら五日。

(蝕止めの最後の一服は、あの依頼を受ける前日だった)

 つまり、もう一週間以上は薬なしで生きていることになる。

 あり得ない。

 だが聖蝕は……進行を抑えられている。消えてはいない。骨の奥で、まだ燃えている。だが、あの狂ったような加速がない。

(なぜだ?)

 * * *

 日々の境目が曖昧になった。【ヘク(人間)】は風に削られた岩にもたれて休んでおった。奴の呼吸は浅い。

(奴は耐えておる。だが【トロ(聖蝕)】はどこまでも執拗(しつよう)に体を蝕む。)

 我はわずかに前を偵察した。我の【セズ(生命力)】は虚ろな痛みを伴って底をつきかけておった。だが感覚だけは研ぎ澄ませておった。

 ぴたりと足を止めた。即座に身を伏せる。下の斜面を見渡した。

 それから我はそれを見た。風に削られた岩の上のあってはならぬものを。

 足跡。ブーツの。

(この跡……【ゾルカー(魔族)】の軍靴だ。新しい。一日も経っておらぬ。)

 息が詰まった。近くの平らな岩に印。

(【トカル(痕跡)】。)

 冷たさが我の中に広がった。これはただの危険ではない。(さば)きが下されたのだ。

(ヴァラめ、生き延びたか。だが、もう我々の跡に【トカル】が? 速すぎる……!)

 露頭(ろとう)から滑り戻り、【ヘク】に戻った。奴と視線を合わせた。表情は消したが、紫の目はより鋭く燃えた。

 近くの湿った土に己のブーツを深く押し付けた。明確な【ゾルカー】の軍靴跡。それを指差し、次に己の胸を指して、それから追跡の印を見た斜面を指差した。三本の指を立てた。

「【ズル(追跡者)】」

 それから首を横切る動きをした。素早く。明確に。

(追跡者。三体。殺しに来た。理解しろ。)


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 黒い、窒息するような虚無から——痛みが俺を引きずり上げた。
 カリッ。
 音。遠い。規則的な。冷たさ。神経を侵す。骨の芯まで届く。
 ——山の寒さじゃない。もっと深い何かだ。聖蝕の痛みをねじ曲げている。
(どこだ……?)
 |瞼《まぶた》の下で砂利が擦れる。記憶が一度に押し寄せた。
(洞窟が揺れて……青い|奔流《ほんりゅう》……ライラの叫び……俺の刃が、ライラに……)
(いや! 女神め——だめだ!)
 俺は起き上がり、込み上げる吐き気を喉で押し止めた。手足が制御不能に震えていた。
 カリッ。
 ぼやけた視界の中に、形が浮かび上がる。荒い岩壁。強風からの避難所。火はない。ただのしかかるような寒さがあるだけ。
 動き。
 息が鋭く詰まった。薄明かりを背景に黒々と浮かび上がる影。低くしゃがみ、火打ち石を打っている。
(|黒曜石《こくようせき》の|鱗《うろこ》。角の曲線。)
(魔族!——洞窟のあいつだ。)
 恐怖がこみ上げた。本能的に手で剣を探る。
(ない!?)
 魔族はゆっくりと振り返った。鋭い紫の目が俺を捉えた。平坦。値踏みするよう。異質。俺は冷たい石に必死に体を押し付けた。
 魔族は火打ち石を置いた。俺の水袋を取り、|栓《せん》を抜き、差し出した。
(なぜ……?)
 だが|渇《かわ》きは激しかった。慎重に水袋を取った。冷たい爪が震える手に触れた時、無意識にひるむ。素早く飲んだ。
 その時、魔族の背後に気づいた。俺の背嚢。俺の剣。魔族の手の届く場所に。俺の届かない場所に。
(……賢いな)
 言葉もなく水袋を返した。まだ魔族の爪が振り下ろされるのを待っていた。だがそれは来なかった。
 魔族は火打ち石に戻った。
 カリッ。
 小さな火花が短く踊り、それから寒さに飲み込まれて消えた。
(なぜ俺は生きている?)
 見つめていた。魔族の息が空気の中で霧になっている。肩がきつい。動きに切迫感がある。
 カリッ。
(火がなければ死ぬ。それだけだ。)
 自分の手を見た。まだ震えている。だがそれは俺の手だ。ゆっくりと、無理やり体を動かした。薄い毛布の端を持ち上げ、噛むような|隙間風《すきまかぜ》から|火口《ほくち》を遮った。
 魔族は短く止まった。俺の弱い努力に気づいたのか。一瞬、目が合った。
 再び角度を調整し、打った。火花。かすかな輝き。消えずに残った。慎重に身を乗り出し、苔を|種火《たねび》に向かって押した。二度、失敗した。それがつき、ゆっくりと安定した炎へと育っていった。
 火がついた。
 俺たちは黙ってそれを見つめた。
 * * *
 寒さが俺を起こした。火はすでに消えていた。魔族はすでに起きていた。入口近くの静止した人影。
 開口部のすぐ内側にしゃがんだ。魔族の横に。空はどす黒い容赦のない灰色だった。|遥《はる》か下では、世界が影と霧の中に沈んでいた。
 魔族はわずかに頭を傾け、風を試した。紫の|虹彩《こうさい》がとてつもなく遠い何かにすっと焦点を結ぶ。魔族の視線は峠のずっと下、西南西に固定されていた。灰色の空に、白い羽のようなものがかすかに見える。|断続的《だんぞくてき》に。風に流されて消えては、また現れる。
(あれは何だ? 煙? 蒸気?)
 魔族はベルトの小袋から|油布《あぶらぬの》の袋を引き出した。俺の袋だ。使い古された地図と小さな|真鍮《しんちゅう》のコンパスを取り出し、コンパスの方をしばらく|睨《にら》んでから、諦めたように俺に渡した。
(俺にこれを読めと?)
 使い古された地図を広げた。風からコンパスを遮り、震える針が落ち着くのを待つ。指先が峠の高い俺たちの現在位置とおぼしき場所をたたいた。
 魔族は地図の横に素早く|跪《ひざまず》いた。鋭い爪で湿った土に記号を引っ掻く。小さな円から上昇する波線。それから指で上向きに波打つ動きをした。
「【|ゴル《????》】」
(あいつが見た羽……方角……地図の記号と一致する。熱源。温もり。避難所。)
 俺は下降する尾根を横切って西南西への道をたどり、|噴気孔《ふんきこう》を示す古い記号が印された地域で指を止めた。
 魔族はそっけなくうなずいた。
 慎重に地図を折り、自分のベルトにしっかりと差し込んだ。
 * * *
 三日が過ぎた。あるいは四日か。日々の境目が|曖昧《あいまい》になった。
 下降は地獄だった。緩い小石。隠れた氷。一歩ごとに違う痛みが走る。魔族は俺の遅い歩みに合わせ、ペースを落としていた。時折、より安全な足場を|苛立《いらだ》った仕草で指し示しながら。
 腹の奥深くを空腹の痛みが絶え間なく|苛《さいな》んでいた。魔族はできる時に狩りに出たが、霧の中から現れる魔族の手には何もなかった。俺は岩からこそげ取った苦い|地衣類《ちいるい》を噛んでいた。砂を噛んでるようだ。
 だが俺はまだ生きていた。
 おかしい。
 普通でさえ、|蝕止《しょくど》めなしじゃ四日……せいぜい五日で終わる。その上、あれだけの穢れを直接浴びた……一日で死んでもおかしくねえ。長くても……二日だ。
 知ってる。親父がそうだった。|聖蝕《せいしょく》の|末期《まっき》を、俺はこの目で見た。今、何日目だ?
 指を折った。洞窟から出て、吹雪の中を這い、|稜線《りょうせん》を越え――少なくとも四日。もしかしたら五日。
(蝕止めの最後の一服は、あの依頼を受ける前日だった)
 つまり、もう一週間以上は薬なしで生きていることになる。
 あり得ない。
 だが聖蝕は……進行を抑えられている。消えてはいない。骨の奥で、まだ燃えている。だが、あの狂ったような加速がない。
(なぜだ?)
 * * *
 日々の境目が曖昧になった。【|ヘク《人間》】は風に削られた岩にもたれて休んでおった。奴の呼吸は浅い。
(奴は耐えておる。だが【|トロ《聖蝕》】はどこまでも|執拗《しつよう》に体を蝕む。)
 我はわずかに前を偵察した。我の【|セズ《生命力》】は虚ろな痛みを伴って底をつきかけておった。だが感覚だけは研ぎ澄ませておった。
 ぴたりと足を止めた。即座に身を伏せる。下の斜面を見渡した。
 それから我はそれを見た。風に削られた岩の上のあってはならぬものを。
 足跡。ブーツの。
(この跡……【|ゾルカー《魔族》】の軍靴だ。新しい。一日も経っておらぬ。)
 息が詰まった。近くの平らな岩に印。
(【|トカル《痕跡》】。)
 冷たさが我の中に広がった。これはただの危険ではない。|裁《さば》きが下されたのだ。
(ヴァラめ、生き延びたか。だが、もう我々の跡に【トカル】が? 速すぎる……!)
 |露頭《ろとう》から滑り戻り、【ヘク】に戻った。奴と視線を合わせた。表情は消したが、紫の目はより鋭く燃えた。
 近くの湿った土に己のブーツを深く押し付けた。明確な【ゾルカー】の軍靴跡。それを指差し、次に己の胸を指して、それから追跡の印を見た斜面を指差した。三本の指を立てた。
「【|ズル《追跡者》】」
 それから首を横切る動きをした。素早く。明確に。
(追跡者。三体。殺しに来た。理解しろ。)