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第9話:ライラ編・血染めの帰還

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 痛い。脇腹が燃えている。アーレンの刃が当たった場所。

 よろめいた。壁に激突。冷たい。ぬるぬるする。肺から空気が抜けた。

(ショック……指に伝わる……熱い……粘つく……血……!)

 霞む視界を通して、それを見た。最後の震動。天井が大きく割れる。あの青い液体。濃く光りながら、滝のように注ぎ下る。アーレンをずぶ濡れに。魔族をずぶ濡れに。

 それからアーレン——

 彼はただ——剣を落とした。崩れ落ちた。ただ——落ちた。倒れた瞬間から、もう反応がなかった。

(アーレン——だめ!)

 視界が傾いた。めまいに——飲み込まれる。脇腹が激しく脈打った。

(出ろ)
(出ろ)
(出ろ!)

 それだけが残った。他の全部を押し退けて。冷たい。硬い。

(出ろ。今すぐ)

 壁を滑り落ちた。脇腹に走る激痛に叫びを噛み殺す。温かい。血だ。上着を浸していく。汚れの下で、じっとりと広がるのを感じた。

 血に濡れた岩の上を這った。後ろに湿った跡を残していく。

 向かう先は——エララ。動かない。壊れた姿。惨状の中心近くに横たわっていた。見慣れた革の医療袋が、伸ばされた彼女の手から数歩離れた場所に落ちている。無傷だった。

(女神よ、エララ……)

 喉が——ない。松明の光が肉を照らしている。引き裂かれて濡れている。骨が見える。赤い。赤すぎる。この匂い——鉄と、甘さと——

(吐きそうだ。目をそらせ。今)
(だめ、だめ、だめ! ここにいちゃだめだ! 動け! 袋! エララなら——袋を、って言うはず!)

 恐怖が来た。はっきりと。

(この場所は屠殺場だ。今すぐ出なければ!)

 まだ動く方の腕で——今は激しく震えながら——医療袋をつかんだ。エララの顔から、無理やり目をそらす。あの虚ろな視線から。喉の惨状から。

 震える指は血と洞窟の汚れでぬるぬるしていた。なんとか医療袋の硬いバックルを外す。フラップを開けた。中の包帯と小瓶が汚れた石の上に散らばった。必死に中を探る。

 鼓動のたびに思い出す。アーレンの刃を。

(なぜ? なぜアーレンが?)

 指先が小さな赤いガラスの小瓶に触れた。エララの速効性の止血薬だ。

(これだ……エララ、あんたって奴は……! 助かった……!)

 栓を歯で引き抜いた。吐き捨てる。刺激臭のある液体を自分の脇腹の傷に注いだ。近くに落ちていたエララのマントから引き裂いた布の塊を、出血している箇所に詰め込む。


「ああああっ!」


 効き目は即座だった。耐え難い。薬が肉を焼く。絶叫にも似た痛みが走った。一つの苦痛が別の苦痛に取って代わる。痙攣した。体が壁に打ち付けられた。

(耐えろ。押さえつけろ。女神よ、燃える!)

 だが手放さなかった。より強く押した。喉まで出かかった叫びを歯を食いしばってこらえ、その激痛に意識を繋ぎ止めた。

 時間の感覚が砕け散った。

 ついに——出血が弱まった。指の下で。まだ滲んでる。でも、さっきよりは。

 震える脚でよろめきながら立ち上がった。冷たい石に重くもたれかかって。息は浅い。ぼろぼろだ。

 逃げ道を探して、洞窟を見回した。死体の光景。滴る青い液体。アーレンの動かない姿。

 重すぎた。

 アーレンに視線を移した。動かない。青白い。目が——何も映してない。


 ドゴォォン!!


 轟音が、鼓膜を打ち抜いた。短い、だが凶暴な揺れが床を跳ねさせた。天井から岩が剥がれ落ち、アーレンの足元で砕け散った。

(行かなきゃ!)

 体がよろめいた。膝がほとんど砕けそうだった。それでも——足が動いた。

 振り返った。一瞬だけ。動かないエララに。ボーリンに。さらに離れた場所でねじれたキールに。

 喉が締まった。目が熱くなった。一瞬だけ。そして消えた。全部、氷に置き換えられた。

 出血する脇腹を掴み、エララの医療袋をつかんだ。ストラップを体に掛けると、暗い狭いトンネルに向かって飛び出した。

(離れろ! この屠殺場から! 死体から! 彼から! ただ……出るんだ!)

 * * *

 荒い呼吸のたびに鋭い痛みが走った。息の詰まる闇の中をつまずきながら進んだ。

 間に合わせの止血薬が肉を焼く。酸のように熱い。だが十分ではなかった。血が冷たく湿った聖穢と共に、指の下に広がっていく。

(エララ……彼女の手……素早かった。確かだった。今はもうない)

 吐き気がせり上がった。

(アーレンは魔族を狙っていた……混乱の中で……外れたんだ……)

 頭が——拒否した。体が勝手に後ずさる。アーレンの顔。灰色の目、鋼の輝き。

(そうだ……彼はあたしたちを守ろうとしていた……あの液体が……目を眩ませたんだ……)

 同じ考えが、頭の中でぐるぐる回り続けた。トンネルの口から飛び出すまで。

 * * *

 凍る風が露出した肌を引き裂いた。峠の頂で、風が叫んでいた。

 洞窟。病的な魔族の血。失われた仲間たち。エララの虚ろな視線。キール、壊れて。アーレン、青い輝きにねじれて。

 塵渓。

 煙があたしの目を焼く。隊商。母の叫び。父の立ち向かい。アーレンがあたしを地獄から引きずり出す。

「何か固いものにつかまれ、ライラ」

 あの時、川の石を手のひらに握らされた。今も上着の下で冷たく重い。

(無駄だ。あの時と同じ……無力……燃えるのを見ているだけ……)

 裏切り——もしそうだったとして。鋭い。近い。知っている痛みだ。

(十五年……そしてこの結末?)

 泣きたい。立ち止まりたい。——足を止めたら、崩れる。だから歩いた。

 * * *

 日がぼやけた。痛み。寒さ。雪に埋もれた峠をつまずきながら進む。一歩一歩が勝利。

(歩き続けろ。ただ……歩き続けろ)

 それから渦巻く雪を通して、見慣れた厳しい光景。粗い材木。灰色の石。東門。冒険者の砦。泥。絶望。安いエール。

(聖域? それとも別の地獄か?)

 よろめき入った。荒削りの木にもたれる。警備員の目は鈍く、こちらを一瞥しただけだった。

(また一人、背骨を砕かれて戻ってきた哀れな魂か。奴らは気にしない)

 泥への二歩。腐敗の匂い、古い煙が——吐き気がせり上がる。

 記憶。エララが笑っている。ボーリンが彼の斧を掃除している。キールの冗談。アーレン、ただあたしを見ている。灰色の疲労。

 地面に当たるのさえ感じなかった。

 * * *

 ぼんやりと目覚めた。薄暗い。薬草の香りが立ち込めている。消毒薬の鋭い匂いが古い寝具のかび臭さに混じっていた。

 荒いウールが頬を擦った。しぶしぶと身を起こす。意識がゆっくりとはっきりしてきた。低い光に瞬きをする。

(どこ……?)

 見慣れた天井。染みだらけの梁。

(医務室……ギルドの医務室か?)

 厳しい顔をした女がいた。治癒師だ。彼女の手は胼胝ができていたが、驚くほど優しく傷を清め、縫合していく。

 脇腹が鈍く痛んだ。その奥深くには、熱い鉄の杭を打ち込まれたような芯のある痛みが疼いている。

(耐えられる)

 もう一つの痛み。映像。

(耐えられない)

 溢れ返ってくる。鮮明に。残酷に。


 エララの目。


 ショックで大きく開いた。混乱したまま、彼女自身の喉の惨状を見下ろしている。

(女神よ、エララ……あの表情……)


 ボーリンの顔。


 アーレンのボルトが——

 体が跳ねた。縫合の途中だった治癒師が舌打ちする。

(混乱の中だった……アーレンは魔族を狙っていた……そうに決まってる)


 キール。


 怒りの最後の叫び。勇敢に最後まで戦った。首があり得ない方向に折れている。

 頬を何かが伝った。涙だ。汚れを筋のように伝っていく。

 最初は静かに。

 それから——体が震えた。止まらない。声が漏れた。——これ、あたしの声か? 喉が痛い。獣みたいな音。止められない。

 狭いでこぼこの粗末な寝台の上で、きつく体を丸めた。震えはどうしても止まらなかった。

 彼らの名前をつぶやいた。

(エララ。ボーリン。キール)

 時々、毒のようなささやきで魔族を呪った。

(汚物。化け物)

 時々、アーレンの名前をささやいた。

(アーレン……お前に何が起こった?)

 声に出しては——言えなかった。

(十五年……彼に縛られて。このチームと二年。もろい安らぎ。見つけた家族)

(消えた)

(すべて消えた)


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 痛い。脇腹が燃えている。アーレンの刃が当たった場所。
 よろめいた。壁に激突。冷たい。ぬるぬるする。肺から空気が抜けた。
(ショック……指に伝わる……熱い……粘つく……血……!)
 霞む視界を通して、それを見た。最後の震動。天井が大きく割れる。あの青い液体。濃く光りながら、滝のように注ぎ下る。アーレンをずぶ濡れに。魔族をずぶ濡れに。
 それからアーレン——
 彼はただ——剣を落とした。崩れ落ちた。ただ——落ちた。倒れた瞬間から、もう反応がなかった。
(アーレン——だめ!)
 視界が傾いた。めまいに——飲み込まれる。脇腹が激しく脈打った。
(出ろ)
(出ろ)
(出ろ!)
 それだけが残った。他の全部を押し退けて。冷たい。硬い。
(出ろ。今すぐ)
 壁を滑り落ちた。脇腹に走る激痛に叫びを噛み殺す。温かい。血だ。上着を浸していく。汚れの下で、じっとりと広がるのを感じた。
 血に濡れた岩の上を這った。後ろに湿った跡を残していく。
 向かう先は——エララ。動かない。壊れた姿。惨状の中心近くに横たわっていた。見慣れた革の医療袋が、伸ばされた彼女の手から数歩離れた場所に落ちている。無傷だった。
(女神よ、エララ……)
 喉が——ない。松明の光が肉を照らしている。引き裂かれて濡れている。骨が見える。赤い。赤すぎる。この匂い——鉄と、甘さと——
(吐きそうだ。目をそらせ。今)
(だめ、だめ、だめ! ここにいちゃだめだ! 動け! 袋! エララなら——袋を、って言うはず!)
 恐怖が来た。はっきりと。
(この場所は屠殺場だ。今すぐ出なければ!)
 まだ動く方の腕で——今は激しく震えながら——医療袋をつかんだ。エララの顔から、無理やり目をそらす。あの虚ろな視線から。喉の惨状から。
 震える指は血と洞窟の汚れでぬるぬるしていた。なんとか医療袋の硬いバックルを外す。フラップを開けた。中の包帯と小瓶が汚れた石の上に散らばった。必死に中を探る。
 鼓動のたびに思い出す。アーレンの刃を。
(なぜ? なぜアーレンが?)
 指先が小さな赤いガラスの小瓶に触れた。エララの速効性の止血薬だ。
(これだ……エララ、あんたって奴は……! 助かった……!)
 栓を歯で引き抜いた。吐き捨てる。刺激臭のある液体を自分の脇腹の傷に注いだ。近くに落ちていたエララのマントから引き裂いた布の塊を、出血している箇所に詰め込む。
「ああああっ!」
 効き目は即座だった。耐え難い。薬が肉を焼く。絶叫にも似た痛みが走った。一つの苦痛が別の苦痛に取って代わる。痙攣した。体が壁に打ち付けられた。
(耐えろ。押さえつけろ。女神よ、燃える!)
 だが手放さなかった。より強く押した。喉まで出かかった叫びを歯を食いしばってこらえ、その激痛に意識を繋ぎ止めた。
 時間の感覚が砕け散った。
 ついに——出血が弱まった。指の下で。まだ滲んでる。でも、さっきよりは。
 震える脚でよろめきながら立ち上がった。冷たい石に重くもたれかかって。息は浅い。ぼろぼろだ。
 逃げ道を探して、洞窟を見回した。死体の光景。滴る青い液体。アーレンの動かない姿。
 重すぎた。
 アーレンに視線を移した。動かない。青白い。目が——何も映してない。
 ドゴォォン!!
 轟音が、鼓膜を打ち抜いた。短い、だが凶暴な揺れが床を跳ねさせた。天井から岩が剥がれ落ち、アーレンの足元で砕け散った。
(行かなきゃ!)
 体がよろめいた。膝がほとんど砕けそうだった。それでも——足が動いた。
 振り返った。一瞬だけ。動かないエララに。ボーリンに。さらに離れた場所でねじれたキールに。
 喉が締まった。目が熱くなった。一瞬だけ。そして消えた。全部、氷に置き換えられた。
 出血する脇腹を掴み、エララの医療袋をつかんだ。ストラップを体に掛けると、暗い狭いトンネルに向かって飛び出した。
(離れろ! この屠殺場から! 死体から! 彼から! ただ……出るんだ!)
 * * *
 荒い呼吸のたびに鋭い痛みが走った。息の詰まる闇の中をつまずきながら進んだ。
 間に合わせの止血薬が肉を焼く。酸のように熱い。だが十分ではなかった。血が冷たく湿った聖穢と共に、指の下に広がっていく。
(エララ……彼女の手……素早かった。確かだった。今はもうない)
 吐き気がせり上がった。
(アーレンは魔族を狙っていた……混乱の中で……外れたんだ……)
 頭が——拒否した。体が勝手に後ずさる。アーレンの顔。灰色の目、鋼の輝き。
(そうだ……彼はあたしたちを守ろうとしていた……あの液体が……目を眩ませたんだ……)
 同じ考えが、頭の中でぐるぐる回り続けた。トンネルの口から飛び出すまで。
 * * *
 凍る風が露出した肌を引き裂いた。峠の頂で、風が叫んでいた。
 洞窟。病的な魔族の血。失われた仲間たち。エララの虚ろな視線。キール、壊れて。アーレン、青い輝きにねじれて。
 塵渓。
 煙があたしの目を焼く。隊商。母の叫び。父の立ち向かい。アーレンがあたしを地獄から引きずり出す。
「何か固いものにつかまれ、ライラ」
 あの時、川の石を手のひらに握らされた。今も上着の下で冷たく重い。
(無駄だ。あの時と同じ……無力……燃えるのを見ているだけ……)
 裏切り——もしそうだったとして。鋭い。近い。知っている痛みだ。
(十五年……そしてこの結末?)
 泣きたい。立ち止まりたい。——足を止めたら、崩れる。だから歩いた。
 * * *
 日がぼやけた。痛み。寒さ。雪に埋もれた峠をつまずきながら進む。一歩一歩が勝利。
(歩き続けろ。ただ……歩き続けろ)
 それから渦巻く雪を通して、見慣れた厳しい光景。粗い材木。灰色の石。東門。冒険者の砦。泥。絶望。安いエール。
(聖域? それとも別の地獄か?)
 よろめき入った。荒削りの木にもたれる。警備員の目は鈍く、こちらを一瞥しただけだった。
(また一人、背骨を砕かれて戻ってきた哀れな魂か。奴らは気にしない)
 泥への二歩。腐敗の匂い、古い煙が——吐き気がせり上がる。
 記憶。エララが笑っている。ボーリンが彼の斧を掃除している。キールの冗談。アーレン、ただあたしを見ている。灰色の疲労。
 地面に当たるのさえ感じなかった。
 * * *
 ぼんやりと目覚めた。薄暗い。薬草の香りが立ち込めている。消毒薬の鋭い匂いが古い寝具のかび臭さに混じっていた。
 荒いウールが頬を擦った。しぶしぶと身を起こす。意識がゆっくりとはっきりしてきた。低い光に瞬きをする。
(どこ……?)
 見慣れた天井。染みだらけの梁。
(医務室……ギルドの医務室か?)
 厳しい顔をした女がいた。治癒師だ。彼女の手は胼胝ができていたが、驚くほど優しく傷を清め、縫合していく。
 脇腹が鈍く痛んだ。その奥深くには、熱い鉄の杭を打ち込まれたような芯のある痛みが疼いている。
(耐えられる)
 もう一つの痛み。映像。
(耐えられない)
 溢れ返ってくる。鮮明に。残酷に。
 エララの目。
 ショックで大きく開いた。混乱したまま、彼女自身の喉の惨状を見下ろしている。
(女神よ、エララ……あの表情……)
 ボーリンの顔。
 アーレンのボルトが——
 体が跳ねた。縫合の途中だった治癒師が舌打ちする。
(混乱の中だった……アーレンは魔族を狙っていた……そうに決まってる)
 キール。
 怒りの最後の叫び。勇敢に最後まで戦った。首があり得ない方向に折れている。
 頬を何かが伝った。涙だ。汚れを筋のように伝っていく。
 最初は静かに。
 それから——体が震えた。止まらない。声が漏れた。——これ、あたしの声か? 喉が痛い。獣みたいな音。止められない。
 狭いでこぼこの粗末な寝台の上で、きつく体を丸めた。震えはどうしても止まらなかった。
 彼らの名前をつぶやいた。
(エララ。ボーリン。キール)
 時々、毒のようなささやきで魔族を呪った。
(汚物。化け物)
 時々、アーレンの名前をささやいた。
(アーレン……お前に何が起こった?)
 声に出しては——言えなかった。
(十五年……彼に縛られて。このチームと二年。もろい安らぎ。見つけた家族)
(消えた)
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