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第10話:白い地獄

ー/ー



 また一日、このくそったれた斜面に縋りついている。

 追跡者の痕跡をあいつが見つけてから、たぶん二日。奴らが俺たちを狙っているのか、ただの偶然だったのか、わからない。だが風が鳴るたびに魔族の目が動く。耳が立つ。

 確かめたいとは思わなかった。

 どっちにしろ、関係ねえ。追跡者に殺されるか、この山に殺されるか。立ち止まれば死ぬ。それだけだ。

 空気が薄い。風も冷たくなった。稜線を一つ越えるたび、さらに危険な次の稜線が現れやがる。終わりが見えねえ。

 狭い峠を進んでいた。両側に巨大な転石。左のやつは小さな小屋ほどもある。右のやつも負けてない。太古の落石の名残ってやつか。峠の幅は四、五歩ってところだ。片側は切り立った崖壁。反対側は急な斜面が灰色の虚空へと落ち込んでいる。

 風が狭い隙間を吹き抜けて、耳元で唸っている。

 魔族が突然、凍りついた。即座に身を低くする。

「【クレク(????)】!」

 鋭い命令が静寂を切り裂いた。俺は立ち止まった。冷たい恐怖が背筋を這い上がる。

(今度は何だ? 追跡者か? ……あいつは【ズル(追跡者)】と呼んでいたな)

 魔族の視線を追った。前方。左の巨岩と崖壁の間。

 影が動いた。

 苔むした岩に完璧に溶け込んでいた、まだらな灰白色の毛皮。それがゆっくりと姿を現す。巨大な猫科動物だ。俺がこれまで対峙したどの山猫よりもでかい。肩の高さだけで俺の腰に届く。

(破天にかけて……雪獅子だ)

 毛皮がだらりと垂れ下がっている。肋骨が浮き出ている。琥珀色の目。ぎらついてる。

(……痩せこけてやがる)

 腹を空かせた獣は一番厄介だ。腐った肉と、古い獣の脂の臭い。


「グルルルルル……」


 低く、重い音。狭い石壁の間で反響して、逃げ場を塞いでいく。

 必死に見回した。後ろ? 来た道を戻る? 無理だ。あの斜面を駆け下りる前に追いつかれる。横? 片側は崖壁。反対側は落ちたら終わりの急斜面。足元の小石が、風に揺れるたびにカラカラと虚空へ転がり落ちていく。前? 獅子が道を塞いでいる。

 逃げ場はどこにもねえ。

 獅子の視線が動いた。魔族を一瞥する。それから、俺に戻る。じっと見ている。値踏みしている。鼻がひくひくと動いた。俺の匂いを嗅いでいる。病の匂い。弱さの匂い。琥珀色の目が細まった。


 決めやがった。


 視界の端で、魔族が崖壁に張りついた。低く。石と同じ色に溶けて。

 後ろ脚が沈む。筋肉が盛り上がる。

 来る。

(くそっ!)

 考える時間なんてない。手が動いた。太ももの革帯へ。小型のクロスボウ。ボルトは装填済み。残り五本。何百回と繰り返した動作。体が覚えている。抜く。構える。狙う。

 手が震えている。聖蝕のせいだ。照準が定まらない。視界の端がちらついている。

(くそ、今かよ……!)

 だが距離は近い。数歩。外しようがない。

 撃った。ボルトが獅子の左肩に突き刺さった。


「グラァッ!」


 獅子が咆えた。驚きと痛みの入り混じった叫び。跳躍の勢いが半歩だけ鈍る。

 だが、止まらない。

 クロスボウを放り投げた。再装填の時間はない。剣を抜いた。両手で構える。

 獅子が跳んだ。着地の衝撃が足元を揺らした。小石がバラバラと崖下へ転がり落ちていく。巨体が迫る。受け流す余裕なんてない。ただ、前に突き出した。一瞬、刃が肉を噛んだ。胸の端。浅い。


 ドゴォォン!


 それだけだった。獅子の質量がすべてを押し潰した。刃を伝って、腕を通り抜けて、全身を叩く。

 弾き飛ばされた。背中が右の巨岩に激突する。目の前で火花が散った。肋骨から、嫌な音がした。中で何かが砕けた感触。

 剣が手から弾かれる。乾いた音を立てて、崖際に落ちた。あと数寸で虚空だ。

 地面に崩れ落ちる。息ができない。視界が明滅している。

 獅子が俺を見下ろしていた。肩からボルトが突き出ている。血が滴っている。だが気にした様子もない。口が開く。牙が並ぶ。唾液が糸を引いている。荒い息が俺の顔にかかる。腐肉の匂い。

 顔を横に向けた。牙が頬を掠めた。風圧。熱い唾液が肌に飛ぶ。

(くそ、くそ、くそっ!)

 前足が上がった。

 とどめの一撃。

 * * *

 その前足が振り下ろされる寸前——我は跳んだ。

 腹が見えておった。無防備な。獅子の注意は【ヘク(人間)】に固定されておる。今しかない。


 ズリュッ!


 爪を突き立てた。肋骨の下。柔らかい腹の肉。深く。抉りながら通り過ぎる。肉が裂ける感触。熱い血が手を濡らす。


「グラァァァハァッ!」


 獅子が絶叫した。巨体が狂ったように回転した。狭い峠の中で。右の巨岩に激突し、砕けた石片が飛び散る。前足が盲滅法に振り回される。

 着地。崖壁に背をつけた。距離を——

 遅い。

 回転の中から前足が飛んだ。狙いはない。ただの暴力。左肩に衝撃。外套を引き裂く。上着を引き裂く。鱗を砕く。その下の肉を深く裂く。


「ガァッ!」


 崖壁に叩きつけられた。左腕が動かぬ。暗い紫の血が石を伝い落ちる。

 獅子の暴走が止まった。荒い息。血走った琥珀色の目。腹から血を垂らしながら、鼻が動いた。我の血を嗅いでおる。腹を裂いた爪の持ち主。覚えた。

 獅子が向き直った。【ヘク】はもう見ておらぬ。我だけを見ておる。

 前足が上がる。

 * * *

 クロスボウ。さっき放り投げた。どこだ。視界がぼやけている。聖蝕の震えが全身を蝕んでいる。

 あった。三歩先。

 這った。肋骨が軋んでいる。構うもんか。掴んだ。

 ボルトを装填する。指が滑る。

(くそっ!)

 落とした。拾う。もう一度。

 獅子は魔族に向き直っていた。暴れ回った後の、据わった目。腹を裂かれた怒りが一点に集中している。

 入った。構えた。手が震えている。照準がぶれる。

 撃った。ボルトが獅子の後ろを掠めた。

 外れた。

(くそっ!)

 魔族の横の石に当たって跳ねた。硬く、甲高い音が響いた。近い。獅子が振り返った。音に反応したのだ。こっちを見ている。

(来るな……来るな……!)

 獅子が魔族から離れた。俺に向かって一歩、踏み出す。完全に外した。傷は増えてない。くそ。

 次は外せない。

 二歩目。崖壁に石が弾ける音がした。横から。魔族が投げた。獅子の頭がそちらへ振れた。一瞬だけ。

 ボルトを装填する。指が震えている。視界の端で、魔族が動いた。低く。獅子の背後へ。

 入らない。入れ。

 尾が振るわれた。


「グルルァッ!」


 獅子がよろめいた。

 入った。

 撃った。ボルトが獅子の後ろ脚に突き刺さった。腿の筋肉の奥深くまで。


「ギャウッ!」


 獅子が悲鳴を上げた。脚が崩れる。

 もう一発。最後の一発を装填する。指が震えている。視界が霞んでいる。

(動け、このくそったれの手……!)

 獅子が立ち直ろうとしている。こっちを向いている。

 入った。

 撃った。ボルトが獅子の顔面に突き刺さった。目じゃない。頬の肉。浅い。だが、顔だ。


「ギャアァァッ!」


 獅子が絶叫した。これまでと違う声。甲高い。悲痛な。頭を振り乱す。血が目に流れ込んでいる。

 獅子が後退した。後ろ脚が崩れた。石の上に膝をついた。立ち上がろうとして、また崩れた。腹から血が垂れ落ちている。顔から。後ろ脚から。もう体を支えきれない。

 それでも——琥珀色の目が俺たちを睨んでいる。低い、引き裂かれたような唸り。もう威嚇の力もない。

 三本の脚で、引きずるように。岩にぶつかりながら、来た方向へ消えていった。

 * * *

 静寂。風の音だけが残っている。

 俺は地面に這いつくばったまま、獅子が消えた方向を見ていた。戻ってこない。たぶん。

 クロスボウを下ろした。腕が震えている。肋骨が燃えるように痛い。息を吸うたびに、刃物を突き立てられるみたいだ。口の中に血の味がする。

 俺たちの血の匂いが混じっている。鉄と、何か違う匂いと。人間じゃない血の匂い。

 七、八歩先で、魔族が倒れていた。肩から血を流している。暗い紫の血。人間とは違う色だ。だが、目は開いている。こっちを見ている。

 目が合った。

 言葉は出てこなかった。

 魔族が動いた。左腕をかばいながら、無理やり体を起こす。顔が痛みに歪む。だが、止まらない。こっちへ這ってくる。

「【シュラク(????)】」

 声がかすれている。俺の腕を掴んだ。引き起こそうとしている。

(動けってか。今すぐ)

 この血の匂いは厄介だ。

 歯を食いしばった。肋骨が燃えている。視界が明滅する。吐き気がこみ上げる。聖蝕の震えが止まらない。

 それでも、立った。

 魔族に支えられながら。

 剣が崖際に転がっている。這って取りに行った。柄を掴む。危うく蹴落とすところだった。鞘に戻す余裕はない。

 一歩。また一歩。噴気孔へ。蒸気の匂いがする方向へ。

 俺たちの血が、石の上に跡を残していく。


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 また一日、このくそったれた斜面に縋りついている。
 追跡者の痕跡をあいつが見つけてから、たぶん二日。奴らが俺たちを狙っているのか、ただの偶然だったのか、わからない。だが風が鳴るたびに魔族の目が動く。耳が立つ。
 確かめたいとは思わなかった。
 どっちにしろ、関係ねえ。追跡者に殺されるか、この山に殺されるか。立ち止まれば死ぬ。それだけだ。
 空気が薄い。風も冷たくなった。稜線を一つ越えるたび、さらに危険な次の稜線が現れやがる。終わりが見えねえ。
 狭い峠を進んでいた。両側に巨大な転石。左のやつは小さな小屋ほどもある。右のやつも負けてない。太古の落石の名残ってやつか。峠の幅は四、五歩ってところだ。片側は切り立った崖壁。反対側は急な斜面が灰色の虚空へと落ち込んでいる。
 風が狭い隙間を吹き抜けて、耳元で唸っている。
 魔族が突然、凍りついた。即座に身を低くする。
「【|クレク《????》】!」
 鋭い命令が静寂を切り裂いた。俺は立ち止まった。冷たい恐怖が背筋を這い上がる。
(今度は何だ? 追跡者か? ……あいつは【|ズル《追跡者》】と呼んでいたな)
 魔族の視線を追った。前方。左の巨岩と崖壁の間。
 影が動いた。
 苔むした岩に完璧に溶け込んでいた、まだらな灰白色の毛皮。それがゆっくりと姿を現す。巨大な猫科動物だ。俺がこれまで対峙したどの山猫よりもでかい。肩の高さだけで俺の腰に届く。
(破天にかけて……雪獅子だ)
 毛皮がだらりと垂れ下がっている。肋骨が浮き出ている。琥珀色の目。ぎらついてる。
(……痩せこけてやがる)
 腹を空かせた獣は一番厄介だ。腐った肉と、古い獣の脂の臭い。
「グルルルルル……」
 低く、重い音。狭い石壁の間で反響して、逃げ場を塞いでいく。
 必死に見回した。後ろ? 来た道を戻る? 無理だ。あの斜面を駆け下りる前に追いつかれる。横? 片側は崖壁。反対側は落ちたら終わりの急斜面。足元の小石が、風に揺れるたびにカラカラと虚空へ転がり落ちていく。前? 獅子が道を塞いでいる。
 逃げ場はどこにもねえ。
 獅子の視線が動いた。魔族を一瞥する。それから、俺に戻る。じっと見ている。値踏みしている。鼻がひくひくと動いた。俺の匂いを嗅いでいる。病の匂い。弱さの匂い。琥珀色の目が細まった。
 決めやがった。
 視界の端で、魔族が崖壁に張りついた。低く。石と同じ色に溶けて。
 後ろ脚が沈む。筋肉が盛り上がる。
 来る。
(くそっ!)
 考える時間なんてない。手が動いた。太ももの革帯へ。小型のクロスボウ。ボルトは装填済み。残り五本。何百回と繰り返した動作。体が覚えている。抜く。構える。狙う。
 手が震えている。聖蝕のせいだ。照準が定まらない。視界の端がちらついている。
(くそ、今かよ……!)
 だが距離は近い。数歩。外しようがない。
 撃った。ボルトが獅子の左肩に突き刺さった。
「グラァッ!」
 獅子が咆えた。驚きと痛みの入り混じった叫び。跳躍の勢いが半歩だけ鈍る。
 だが、止まらない。
 クロスボウを放り投げた。再装填の時間はない。剣を抜いた。両手で構える。
 獅子が跳んだ。着地の衝撃が足元を揺らした。小石がバラバラと崖下へ転がり落ちていく。巨体が迫る。受け流す余裕なんてない。ただ、前に突き出した。一瞬、刃が肉を噛んだ。胸の端。浅い。
 ドゴォォン!
 それだけだった。獅子の質量がすべてを押し潰した。刃を伝って、腕を通り抜けて、全身を叩く。
 弾き飛ばされた。背中が右の巨岩に激突する。目の前で火花が散った。肋骨から、嫌な音がした。中で何かが砕けた感触。
 剣が手から弾かれる。乾いた音を立てて、崖際に落ちた。あと数寸で虚空だ。
 地面に崩れ落ちる。息ができない。視界が明滅している。
 獅子が俺を見下ろしていた。肩からボルトが突き出ている。血が滴っている。だが気にした様子もない。口が開く。牙が並ぶ。唾液が糸を引いている。荒い息が俺の顔にかかる。腐肉の匂い。
 顔を横に向けた。牙が頬を掠めた。風圧。熱い唾液が肌に飛ぶ。
(くそ、くそ、くそっ!)
 前足が上がった。
 とどめの一撃。
 * * *
 その前足が振り下ろされる寸前——我は跳んだ。
 腹が見えておった。無防備な。獅子の注意は【|ヘク《人間》】に固定されておる。今しかない。
 ズリュッ!
 爪を突き立てた。肋骨の下。柔らかい腹の肉。深く。抉りながら通り過ぎる。肉が裂ける感触。熱い血が手を濡らす。
「グラァァァハァッ!」
 獅子が絶叫した。巨体が狂ったように回転した。狭い峠の中で。右の巨岩に激突し、砕けた石片が飛び散る。前足が盲滅法に振り回される。
 着地。崖壁に背をつけた。距離を——
 遅い。
 回転の中から前足が飛んだ。狙いはない。ただの暴力。左肩に衝撃。外套を引き裂く。上着を引き裂く。鱗を砕く。その下の肉を深く裂く。
「ガァッ!」
 崖壁に叩きつけられた。左腕が動かぬ。暗い紫の血が石を伝い落ちる。
 獅子の暴走が止まった。荒い息。血走った琥珀色の目。腹から血を垂らしながら、鼻が動いた。我の血を嗅いでおる。腹を裂いた爪の持ち主。覚えた。
 獅子が向き直った。【ヘク】はもう見ておらぬ。我だけを見ておる。
 前足が上がる。
 * * *
 クロスボウ。さっき放り投げた。どこだ。視界がぼやけている。聖蝕の震えが全身を蝕んでいる。
 あった。三歩先。
 這った。肋骨が軋んでいる。構うもんか。掴んだ。
 ボルトを装填する。指が滑る。
(くそっ!)
 落とした。拾う。もう一度。
 獅子は魔族に向き直っていた。暴れ回った後の、据わった目。腹を裂かれた怒りが一点に集中している。
 入った。構えた。手が震えている。照準がぶれる。
 撃った。ボルトが獅子の後ろを掠めた。
 外れた。
(くそっ!)
 魔族の横の石に当たって跳ねた。硬く、甲高い音が響いた。近い。獅子が振り返った。音に反応したのだ。こっちを見ている。
(来るな……来るな……!)
 獅子が魔族から離れた。俺に向かって一歩、踏み出す。完全に外した。傷は増えてない。くそ。
 次は外せない。
 二歩目。崖壁に石が弾ける音がした。横から。魔族が投げた。獅子の頭がそちらへ振れた。一瞬だけ。
 ボルトを装填する。指が震えている。視界の端で、魔族が動いた。低く。獅子の背後へ。
 入らない。入れ。
 尾が振るわれた。
「グルルァッ!」
 獅子がよろめいた。
 入った。
 撃った。ボルトが獅子の後ろ脚に突き刺さった。腿の筋肉の奥深くまで。
「ギャウッ!」
 獅子が悲鳴を上げた。脚が崩れる。
 もう一発。最後の一発を装填する。指が震えている。視界が霞んでいる。
(動け、このくそったれの手……!)
 獅子が立ち直ろうとしている。こっちを向いている。
 入った。
 撃った。ボルトが獅子の顔面に突き刺さった。目じゃない。頬の肉。浅い。だが、顔だ。
「ギャアァァッ!」
 獅子が絶叫した。これまでと違う声。甲高い。悲痛な。頭を振り乱す。血が目に流れ込んでいる。
 獅子が後退した。後ろ脚が崩れた。石の上に膝をついた。立ち上がろうとして、また崩れた。腹から血が垂れ落ちている。顔から。後ろ脚から。もう体を支えきれない。
 それでも——琥珀色の目が俺たちを睨んでいる。低い、引き裂かれたような唸り。もう威嚇の力もない。
 三本の脚で、引きずるように。岩にぶつかりながら、来た方向へ消えていった。
 * * *
 静寂。風の音だけが残っている。
 俺は地面に這いつくばったまま、獅子が消えた方向を見ていた。戻ってこない。たぶん。
 クロスボウを下ろした。腕が震えている。肋骨が燃えるように痛い。息を吸うたびに、刃物を突き立てられるみたいだ。口の中に血の味がする。
 俺たちの血の匂いが混じっている。鉄と、何か違う匂いと。人間じゃない血の匂い。
 七、八歩先で、魔族が倒れていた。肩から血を流している。暗い紫の血。人間とは違う色だ。だが、目は開いている。こっちを見ている。
 目が合った。
 言葉は出てこなかった。
 魔族が動いた。左腕をかばいながら、無理やり体を起こす。顔が痛みに歪む。だが、止まらない。こっちへ這ってくる。
「【|シュラク《????》】」
 声がかすれている。俺の腕を掴んだ。引き起こそうとしている。
(動けってか。今すぐ)
 この血の匂いは厄介だ。
 歯を食いしばった。肋骨が燃えている。視界が明滅する。吐き気がこみ上げる。聖蝕の震えが止まらない。
 それでも、立った。
 魔族に支えられながら。
 剣が崖際に転がっている。這って取りに行った。柄を掴む。危うく蹴落とすところだった。鞘に戻す余裕はない。
 一歩。また一歩。噴気孔へ。蒸気の匂いがする方向へ。
 俺たちの血が、石の上に跡を残していく。