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第6話:同族の断絶

ー/ー



 意識が、闇の底から浮かび上がってきた。

 背中に、冷たく濡れた石の感触。背骨(せぼね)に沿った(うろこ)に、直接。全身の筋肉が痙攣(けいれん)した。鈍い脈動(みゃくどう)が身体を内から突き上げ、逆巻(さかま)く。

(我は……倒れておったのか……?)

 尾が勝手に跳ねた。意図せず。まだ完全には制御下にない。

 あの青い奔流(ほんりゅう)。あの衝撃。まだ頭の中で音が鳴り響いておる――

(この呪われたつながり……まだ叫んでおる……)

 ゆっくりと、痛みながら、体を起こした。片手を洞窟の壁に当てて。姿勢が低い。足元が定まらない。ぬるぬるした石にもたれかかり、頭を下げた。視界をはっきりさせようとして。まだ駄目だ。まだ揺らめいておる。すべてが二重に。歪んで。

 頭蓋(ずがい)を内側から叩き割られるような痛み。

 ドン……ドン……

 こだま。我のものではない。異質。

(【ヘク(人間)】の恐怖と病……【トロ(聖蝕)】が我が身に宿っておる)

(これは【カエレン・トール(精神の侵染)】か? だがこれはささやきではない。奔流だ。しかも【ヘク】から? 不可能だ。倒錯(とうさく)しておる)

 突然、めまいに襲われた。目を閉じたが、光景が(まぶた)の裏に焼き付いておった。空気が重い。押しつぶされそうだ。呼吸しにくい。

 鼻孔(びこう)を突き刺すような悪臭。【ヘク】の血。鋭い鉄、むかつくような甘さ。そしてすべての下に――あの青い悪臭。【グル(聖穢)】の臭気(しゅうき)

 石を通して低いうなりが響いてきた。洞窟そのものが我の周りでうめいておるようだ。粉塵(ふんじん)が降ってきた。我の肩に、我の角に冷たい砂利。天井からの(にじ)みがより速くなった。あの呪われた青い液体。

 頭をわずかに上げ、あたりを見渡した。

 松明はまだ燃えておった。それから死体。三体の【ヘク】。転がり、壊れておる。そして――奴。もう一人。意識を失っておる。近すぎる。我の思考を汚染する源。

(いつから我は意識を失っておった?)

「シャアイラ?」

 声。馴染みのある。鋭い。

(ヴァラ――)

「シャアイラ?」

(ヴァラ……戻ったのか)

 そやつが横道の影から現れた。用心深く。片手を上腕(じょうわん)にきつく押し当てておる。そこから暗い魔族の【コル()】が奴の指の間から滲み出ておった。

「【シュラク(動け)】!」ヴァラが低く、短く言い放った。声に切迫(せっぱく)した響きがあった。「この傷……手当てを要する。【グル】が【セズ(生命力)】の治りを妨げておる。……【クラッカ(氏族)】へ報告せねばなるまい」

 意識が霧に閉ざされ、その言葉の意味が、頭に入らなかった。【カエレン・トール】からもたらされる【ヘク】のこだまがまだ我の内で渦巻(うずま)いておった。わずかに頭を振った。焦点も合わぬまま、意識を失った【ヘク】に視線を漂わせた。

「シャアイラ! 正気を取り戻せ!」ヴァラが鋭く言った。「【ヘク】を殺せ、それから出るぞ」

 なぜか我は倒れた人間から目を離せなかった。呼吸は浅い。不規則。顔は残った痛みできつく歪んでおった。

(何故……? この【ヘク】を? 敵。同族殺し。弱者。病の(うつわ)。だというのに……この感覚は何だ?)

 ヴァラは「チッ」と舌打ちした。そして迷いのない足取りでこの【ヘク】に向かって歩みを進めた。「どけ、シャアイラ。この【ヘク】は私が始末する」

 ヴァラは負傷していない手で人間に手を伸ばした。

 ヴァラの影が奴を覆った瞬間――我の本能が、それを拒んだ。

(だめだ! そいつに触るな! そいつは……我の……!)

 それは己の判断ではなかった。訓練でもない。意図した思考ですらない。ただ(あらが)えぬ命令が、背骨を貫いた。熱く。鋭く。我の意志とは無関係に。

(させられぬ。させぬ)

(何故だ!? 敵であり、弱者! この惨状(さんじょう)元凶(げんきょう)!)

(……我はもはや我ではないのか?)

 我は動いた。思考より速く、そやつと【ヘク】の間に滑り込んだ。立ちはだかるように。即座に低い姿勢を取った。いつでも動けるよう体重を爪先(つまさき)に集め。喉の奥で低く(うな)った。

 手を奴の擦り切れた革の上着に押し当てた。尾をゆっくりと振り、【ヘク】の後ろを掃った。黒曜石(こくようせき)の爪が石を擦った。

「待て……」

「チッ! こいつは……ただの【ヘク】……だが何かが違う! もう【トロ】だけじゃない……何か別のものが……!」

(なぜ動けぬ? なぜこの【ヘク】を……? 分からぬ! 分からぬが……守らねば……奴を?)

(心の片隅で、ヴァラの言葉に同意する己が叫んでおる。逃げろ! 生き残れ! 報告しろ! それが【ゾルカー(魔族)】の道だ!)

(だが、つながりの奥から湧き上がる異質な衝動が、この人間を見捨てることを許さなかった)

 ヴァラが【ヘク】に向かって、もう一歩踏み出した。我の決意を試しておるのだ。歯の間から鋭く息を吸った。低い、シューという音。うなりが深まった。爪が石に対してより大きく擦れた。

 魔族対魔族。

「【シャーラク・コトール(裏切り者)】!」

 ヴァラは喉の奥で低く呪った。救いようのない者に吐き捨てる決別(けつべつ)の言葉だ。

「その【ヘク】の汚物(おぶつ)と共にここで朽ち果てるがいい!」

 奴は素早く手を振り下ろした。終わったものを打ち捨てる、あの仕草。ヴァラは突然我に背を向けた。負傷した腕を掴みながら、奥のトンネルの闇に一人で逃げた。足音が急いた。不均一。薄れていく。

 消えた。

 ヴァラはもうおらなかった。

 * * *

 胸の奥が、空洞(くうどう)のように冷たかった。

 洞窟が再びうめいた。低い轟音(ごうおん)。粉塵が上から降ってきた。

 一つの道だけが残った。奴を連れて行く。

 我は(ひざまず)いた。奴の呼吸を確認した。浅い。(あご)の下の(みゃく)。弱いが確かにある。

 近くに【ヘク】の死体が横たわっておった。

(名前が浮かんだ。ボ……リ……ン。我の思考にぎこちなく響く)

(【ヘク】の名……死者への無意味な呼び名。……だというのに何故だ、この胸の痛みは?……くだらん!)

 死んだ男の上着から長い帯を引き裂いた。この【ヘク】の手首を縛った。奴の足首も。引きずりやすくするためだ。

 奴の長剣が血だまりの中に転がっておった。拾い上げ、(さや)に収めた。クロスボウも。背嚢(はいのう)に押し込み、奴の体に(くく)りつけた。

 脱出経路。ヴァラのトンネルではない。明白すぎる。【ズル(追跡者)】があの跡を追うだろう。

 感覚は消耗(しょうもう)と【カエレン・トール】の雑音で鈍ってはおったが、それでも研ぎ澄ませた。微妙な気流を感じた。岩盤(がんばん)の移動を聞いた。狩人の本能。

 そこだ。最近の岩の崩落(ほうらく)の後ろの狭い横道。主要な【グル】の(にじ)みから離れて。狭い。困難。我にさえ。一人で? この重荷と共に?

 頭上で何かが砕ける鋭い音がした。直後、背後で耳をつんざく破壊音が(とどろ)いた。ヴァラが消えた方向だ。猛烈な粉塵が我の背中を打ち、気流が止まった。

 退路(たいろ)は断たれたのだ。

 * * *

 奴はより大きかった。より重い。崩れた石床の上で奴を引きずった。力が急速に失われていく。筋肉が(きし)んだ。尾は役に立たずに引きずられた。

 通路が狭まった。奴の体が引っかかった。我の(うろこ)が擦れた。我は奴を引き抜いた。乾きかけた【グル】が鱗の隙間で引きつり、焼けるような(うず)きを残した。

 爪が石を擦った。肺が燃えた。奴の体が石に対して擦れる鈍い音が我の後ろで響いた。何度も何度も。我は動き続けた。

 立ち止まった。息苦しい通路の奥深く。滲み出る壁にもたれて。激しく震えておる。呼吸は荒い。

 我の中の何かが、とうに壊れておった。

 後戻りはできぬ。【ゾルカー】ではない。完全にではない。もはや。

 聞こえるのは我の荒い息と【ヘク】の体が石に擦れる鈍い音だけだった。

 * * *

 闇から一気に光の中へと引き出された。

 湿った土、古い血、鼻にまとわりつく【グル】の甘い臭い。それらすべてが一瞬で、白い暴風に置き換わった。狭い出口の裂け目を突き抜けた瞬間、風に打ちのめされた。ぼろぼろのマントが裂け、黒い髪が顔に叩きつけられた。目を開けておられぬ。

 露出(ろしゅつ)した鱗に、氷の粒子が千の小さな針となって突き刺さった。尾が一度しなった。それからかろうじて体勢を保つために低く収められた。

 死の温度が、鱗を貫いた。一瞬で体温が奪われていく――

 足元から、山が奈落(ならく)へと崩れ落ちていく。灰色の風に削られた岩と、渦巻く霧。生きものの気配は何一つなかった。

 一歩進むごとに戦いだった。太ももが重く燃えておった。

(【ゴル(避難所)】。今すぐ。【ゴル】を見つけねば)

 目が重い。視界がまだ鈍っておるが、新たな切迫感(せっぱくかん)で危険な岩壁(がんぺき)を見渡した。緩い小石が動いた。擦り切れたブーツが危うく足元をさらった。息をするたびに胸が燃えた。薄い空気が、冷たく、生々しい。

 そこだ。

 (しも)で砕けた岩塊(がんかい)の下の暗い切れ目。かろうじて(くぼ)みと呼べる程度。空間というより影。だが容赦ない風から、どんなにわずかでも遮られておる。

 膝を曲げ、【ヘク】の重みをより強く掴んだ。ザリ……ザリ……と、奴を引きずる音が風に混じる。肩が(きし)む中、斜面(しゃめん)を横切って奴を引きずった。緩い氷の小石に爪を立て、支えを探りながら。奴を無造作にわずかなくぼみに転がした。奴の体はぐったりと後ろの壁に倒れかかった。

 我は奴の横に崩れ落ちた。

 肺が裂けるように(あえ)いだ。

 だがすぐに身を低く構えた。浅い張り出しの低い入口から、荒涼(こうりょう)とした風に打たれた岩肌を見渡した。

 風は開口部を通り過ぎてうなり、氷と【グル】のかすかな甘さを運んできた。

 背後で【ヘク】は岩に寄りかかり、動かなかった。

(まだ呼吸しておるのか? 胸がかすかに動く……この風の中では確認もできぬ)

 それでも我は、奴の隣から動かなかった。


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次のエピソードへ進む 第7話:ヴァラ編・報告の重み


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 意識が、闇の底から浮かび上がってきた。
 背中に、冷たく濡れた石の感触。|背骨《せぼね》に沿った|鱗《うろこ》に、直接。全身の筋肉が|痙攣《けいれん》した。鈍い|脈動《みゃくどう》が身体を内から突き上げ、|逆巻《さかま》く。
(我は……倒れておったのか……?)
 尾が勝手に跳ねた。意図せず。まだ完全には制御下にない。
 あの青い|奔流《ほんりゅう》。あの衝撃。まだ頭の中で音が鳴り響いておる――
(この呪われたつながり……まだ叫んでおる……)
 ゆっくりと、痛みながら、体を起こした。片手を洞窟の壁に当てて。姿勢が低い。足元が定まらない。ぬるぬるした石にもたれかかり、頭を下げた。視界をはっきりさせようとして。まだ駄目だ。まだ揺らめいておる。すべてが二重に。歪んで。
 |頭蓋《ずがい》を内側から叩き割られるような痛み。
 ドン……ドン……
 こだま。我のものではない。異質。
(【|ヘク《人間》】の恐怖と病……【|トロ《聖蝕》】が我が身に宿っておる)
(これは【|カエレン・トール《精神の侵染》】か? だがこれはささやきではない。奔流だ。しかも【ヘク】から? 不可能だ。|倒錯《とうさく》しておる)
 突然、めまいに襲われた。目を閉じたが、光景が|瞼《まぶた》の裏に焼き付いておった。空気が重い。押しつぶされそうだ。呼吸しにくい。
 |鼻孔《びこう》を突き刺すような悪臭。【ヘク】の血。鋭い鉄、むかつくような甘さ。そしてすべての下に――あの青い悪臭。【|グル《聖穢》】の|臭気《しゅうき》。
 石を通して低いうなりが響いてきた。洞窟そのものが我の周りでうめいておるようだ。|粉塵《ふんじん》が降ってきた。我の肩に、我の角に冷たい砂利。天井からの|滲《にじ》みがより速くなった。あの呪われた青い液体。
 頭をわずかに上げ、あたりを見渡した。
 松明はまだ燃えておった。それから死体。三体の【ヘク】。転がり、壊れておる。そして――奴。もう一人。意識を失っておる。近すぎる。我の思考を汚染する源。
(いつから我は意識を失っておった?)
「シャアイラ?」
 声。馴染みのある。鋭い。
(ヴァラ――)
「シャアイラ?」
(ヴァラ……戻ったのか)
 そやつが横道の影から現れた。用心深く。片手を|上腕《じょうわん》にきつく押し当てておる。そこから暗い魔族の【|コル《血》】が奴の指の間から滲み出ておった。
「【|シュラク《動け》】!」ヴァラが低く、短く言い放った。声に|切迫《せっぱく》した響きがあった。「この傷……手当てを要する。【グル】が【|セズ《生命力》】の治りを妨げておる。……【|クラッカ《氏族》】へ報告せねばなるまい」
 意識が霧に閉ざされ、その言葉の意味が、頭に入らなかった。【カエレン・トール】からもたらされる【ヘク】のこだまがまだ我の内で|渦巻《うずま》いておった。わずかに頭を振った。焦点も合わぬまま、意識を失った【ヘク】に視線を漂わせた。
「シャアイラ! 正気を取り戻せ!」ヴァラが鋭く言った。「【ヘク】を殺せ、それから出るぞ」
 なぜか我は倒れた人間から目を離せなかった。呼吸は浅い。不規則。顔は残った痛みできつく歪んでおった。
(何故……? この【ヘク】を? 敵。同族殺し。弱者。病の|器《うつわ》。だというのに……この感覚は何だ?)
 ヴァラは「チッ」と舌打ちした。そして迷いのない足取りでこの【ヘク】に向かって歩みを進めた。「どけ、シャアイラ。この【ヘク】は私が始末する」
 ヴァラは負傷していない手で人間に手を伸ばした。
 ヴァラの影が奴を覆った瞬間――我の本能が、それを拒んだ。
(だめだ! そいつに触るな! そいつは……我の……!)
 それは己の判断ではなかった。訓練でもない。意図した思考ですらない。ただ|抗《あらが》えぬ命令が、背骨を貫いた。熱く。鋭く。我の意志とは無関係に。
(させられぬ。させぬ)
(何故だ!? 敵であり、弱者! この|惨状《さんじょう》の|元凶《げんきょう》!)
(……我はもはや我ではないのか?)
 我は動いた。思考より速く、そやつと【ヘク】の間に滑り込んだ。立ちはだかるように。即座に低い姿勢を取った。いつでも動けるよう体重を|爪先《つまさき》に集め。喉の奥で低く|唸《うな》った。
 手を奴の擦り切れた革の上着に押し当てた。尾をゆっくりと振り、【ヘク】の後ろを掃った。|黒曜石《こくようせき》の爪が石を擦った。
「待て……」
「チッ! こいつは……ただの【ヘク】……だが何かが違う! もう【トロ】だけじゃない……何か別のものが……!」
(なぜ動けぬ? なぜこの【ヘク】を……? 分からぬ! 分からぬが……守らねば……奴を?)
(心の片隅で、ヴァラの言葉に同意する己が叫んでおる。逃げろ! 生き残れ! 報告しろ! それが【|ゾルカー《魔族》】の道だ!)
(だが、つながりの奥から湧き上がる異質な衝動が、この人間を見捨てることを許さなかった)
 ヴァラが【ヘク】に向かって、もう一歩踏み出した。我の決意を試しておるのだ。歯の間から鋭く息を吸った。低い、シューという音。うなりが深まった。爪が石に対してより大きく擦れた。
 魔族対魔族。
「【|シャーラク・コトール《裏切り者》】!」
 ヴァラは喉の奥で低く呪った。救いようのない者に吐き捨てる|決別《けつべつ》の言葉だ。
「その【ヘク】の|汚物《おぶつ》と共にここで朽ち果てるがいい!」
 奴は素早く手を振り下ろした。終わったものを打ち捨てる、あの仕草。ヴァラは突然我に背を向けた。負傷した腕を掴みながら、奥のトンネルの闇に一人で逃げた。足音が急いた。不均一。薄れていく。
 消えた。
 ヴァラはもうおらなかった。
 * * *
 胸の奥が、|空洞《くうどう》のように冷たかった。
 洞窟が再びうめいた。低い|轟音《ごうおん》。粉塵が上から降ってきた。
 一つの道だけが残った。奴を連れて行く。
 我は|跪《ひざまず》いた。奴の呼吸を確認した。浅い。|顎《あご》の下の|脈《みゃく》。弱いが確かにある。
 近くに【ヘク】の死体が横たわっておった。
(名前が浮かんだ。ボ……リ……ン。我の思考にぎこちなく響く)
(【ヘク】の名……死者への無意味な呼び名。……だというのに何故だ、この胸の痛みは?……くだらん!)
 死んだ男の上着から長い帯を引き裂いた。この【ヘク】の手首を縛った。奴の足首も。引きずりやすくするためだ。
 奴の長剣が血だまりの中に転がっておった。拾い上げ、|鞘《さや》に収めた。クロスボウも。|背嚢《はいのう》に押し込み、奴の体に|括《くく》りつけた。
 脱出経路。ヴァラのトンネルではない。明白すぎる。【|ズル《追跡者》】があの跡を追うだろう。
 感覚は|消耗《しょうもう》と【カエレン・トール】の雑音で鈍ってはおったが、それでも研ぎ澄ませた。微妙な気流を感じた。|岩盤《がんばん》の移動を聞いた。狩人の本能。
 そこだ。最近の岩の|崩落《ほうらく》の後ろの狭い横道。主要な【グル】の|滲《にじ》みから離れて。狭い。困難。我にさえ。一人で? この重荷と共に?
 頭上で何かが砕ける鋭い音がした。直後、背後で耳をつんざく破壊音が|轟《とどろ》いた。ヴァラが消えた方向だ。猛烈な粉塵が我の背中を打ち、気流が止まった。
 |退路《たいろ》は断たれたのだ。
 * * *
 奴はより大きかった。より重い。崩れた石床の上で奴を引きずった。力が急速に失われていく。筋肉が|軋《きし》んだ。尾は役に立たずに引きずられた。
 通路が狭まった。奴の体が引っかかった。我の|鱗《うろこ》が擦れた。我は奴を引き抜いた。乾きかけた【グル】が鱗の隙間で引きつり、焼けるような|疼《うず》きを残した。
 爪が石を擦った。肺が燃えた。奴の体が石に対して擦れる鈍い音が我の後ろで響いた。何度も何度も。我は動き続けた。
 立ち止まった。息苦しい通路の奥深く。滲み出る壁にもたれて。激しく震えておる。呼吸は荒い。
 我の中の何かが、とうに壊れておった。
 後戻りはできぬ。【ゾルカー】ではない。完全にではない。もはや。
 聞こえるのは我の荒い息と【ヘク】の体が石に擦れる鈍い音だけだった。
 * * *
 闇から一気に光の中へと引き出された。
 湿った土、古い血、鼻にまとわりつく【グル】の甘い臭い。それらすべてが一瞬で、白い暴風に置き換わった。狭い出口の裂け目を突き抜けた瞬間、風に打ちのめされた。ぼろぼろのマントが裂け、黒い髪が顔に叩きつけられた。目を開けておられぬ。
 |露出《ろしゅつ》した鱗に、氷の粒子が千の小さな針となって突き刺さった。尾が一度しなった。それからかろうじて体勢を保つために低く収められた。
 死の温度が、鱗を貫いた。一瞬で体温が奪われていく――
 足元から、山が|奈落《ならく》へと崩れ落ちていく。灰色の風に削られた岩と、渦巻く霧。生きものの気配は何一つなかった。
 一歩進むごとに戦いだった。太ももが重く燃えておった。
(【|ゴル《避難所》】。今すぐ。【ゴル】を見つけねば)
 目が重い。視界がまだ鈍っておるが、新たな|切迫感《せっぱくかん》で危険な|岩壁《がんぺき》を見渡した。緩い小石が動いた。擦り切れたブーツが危うく足元をさらった。息をするたびに胸が燃えた。薄い空気が、冷たく、生々しい。
 そこだ。
 |霜《しも》で砕けた|岩塊《がんかい》の下の暗い切れ目。かろうじて|窪《くぼ》みと呼べる程度。空間というより影。だが容赦ない風から、どんなにわずかでも遮られておる。
 膝を曲げ、【ヘク】の重みをより強く掴んだ。ザリ……ザリ……と、奴を引きずる音が風に混じる。肩が|軋《きし》む中、|斜面《しゃめん》を横切って奴を引きずった。緩い氷の小石に爪を立て、支えを探りながら。奴を無造作にわずかなくぼみに転がした。奴の体はぐったりと後ろの壁に倒れかかった。
 我は奴の横に崩れ落ちた。
 肺が裂けるように|喘《あえ》いだ。
 だがすぐに身を低く構えた。浅い張り出しの低い入口から、|荒涼《こうりょう》とした風に打たれた岩肌を見渡した。
 風は開口部を通り過ぎてうなり、氷と【グル】のかすかな甘さを運んできた。
 背後で【ヘク】は岩に寄りかかり、動かなかった。
(まだ呼吸しておるのか? 胸がかすかに動く……この風の中では確認もできぬ)
 それでも我は、奴の隣から動かなかった。