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第5話:喉を裂く爪

ー/ー



 横の空気が裂けた。

 グシャリ。

 血が降ってきた。温かく、濃く、粘つく。鉄の悪臭が鼻孔(びこう)を衝く。視界が赤に染まった。

 痛みに備えた。来ない。

 背後で音がした。詰まった濁ったうめき。喉の奥から泡立つような。

「いやああああっ!」

 ライラの悲鳴。

 俺は振り向きざま、目から血糊(ちのり)を拭った。

 エララの喉が——なくなっていた。

 引き裂かれた肉。きらめく軟骨(なんこつ)。松明の光が当たった所で、椎骨(ついこつ)が湿って輝いている。紫の目の魔族。数歩先に立っていた。黒曜石(こくようせき)の爪が暗い血を滴らせている。一撃。見えなかった。

 エララの手が、もはや存在しない喉を求めて(ちゅう)を掻いていた。血が脈打つ。濃い暗い(かたまり)で洞窟の床に流れ出ていく。

 エララの目が俺を見ている。

 その光が——消えた。

 膝が崩れた。体が音もなく崩れ落ちた。

 血でぬるぬるしていない方の手が剣の柄を掴んだ。

「エララ……?」

 キールの声。か細い。エララの喉があったはずの場所に視線が吸い寄せられた時——目が変わった。

「う……あああああああああっ!」

 喉の奥から苦痛と怒りの咆哮(ほうこう)が漏れた。

「アーレン! 何とかしろ! 頼む、エララを……!」

「嘘だ……エララ! 目を開けろ! この……この化け物がっ!」

 剣を上げた。手は激しく震えている。だが彼は魔族に向かわなかった。エララの傍に崩れ落ちた。両手で何かを(すく)っている。血を。溢れ出る血を。

 それを——エララの喉に戻そうとしている。

 キールの唇が動いていた。声は聞こえなかった。

 俺の口は動かなかった。

 * * *

 視界の端で、動き。紫の目の魔族。

 鱗の尾が空気を切り裂いた。先端に黒曜石のような鋭い何か。俺を()ぐように。

 体が先に動いた。受け流し。半ば抜きかけていた長剣(ちょうけん)が信じられないほど硬い何かと衝突した。火花が散り、紫の目の顔を一瞬だけ照らし出した。腕を駆け上がった衝撃に肩まで(しび)れた。一歩よろめき下がる。

「散開しろ! 壁を背に、遮蔽(しゃへい)を使え! 的になるな!」ボーリンの怒号(どごう)が後ろから飛んできた。

「クソ野郎が!」

 キールはボーリンの命令を無視した。紫の目の魔族に真っ直ぐ突進する。

 上から。無音の落下。

 高い岩棚から影が落ちてきた。最初のより小さい。だが同じくらい速い。燃えるような橙色(だいだいいろ)の目が薄闇の中で光る。

(二体——!)

 それはキールを横から迎え撃った。回し蹴り。ドンッ、ミシッ。キールの胸に直撃した。壁に叩きつけられた。肋骨(ろっこつ)が折れる音が湿って響いた。

 キールは壁を滑り落ち、塊となって倒れた。松明がガラガラと音を立てて転がり、湿った石の上で炎が弱々しく揺らめいた。

 * * *

 前に一体。右にもう一体。挟まれた。闇から襲い、反撃が来る前に消える。壁の岩や石柱から跳ね返る。洞窟そのものを武器として使う。

 ボーリンが前に出た。戦斧(せんぷ)を構え、紫の目の者を迎え撃つ。紫の目の者がボーリンの重い一振りを軽々とかわした。細い体をわずかにひねるだけ。通り過ぎざまに黒曜石の爪がボーリンの前腕(ぜんわん)を深く切り裂いた。重い革と下の肉を引き裂いて。ボーリンがうめいた。暗い血が腕から湧き出た。

 壁の方で、キールが体を起こした。血と歯の破片を吐き出す。

「畜生どもが!」

 再び橙色の目の魔族に身を投げた。剣が荒々しい軌道(きどう)を描きながら振り回される。一瞬、キールの剥き出しの凶暴(きょうぼう)さに橙色の目の魔族がたじろいだ。だがその一撃を、魔族は流れるようにかわす。

(遊んでやがる……)

 ライラ——どこだ。

 いた。岩柱の影。低い。ナイフは前腕に沿わせて光を殺している。目は紫の目の魔族を追っている。瞬きもせずに。

 待っている。読んでいる。

 * * *

 視界の端で、ライラが動いた。速い。低い。紫の目の魔族の(ふところ)に。

 爪が振り下ろされた。ライラの顔面へ。いない。膝を落とし、上体をひねっていた。爪が肩口(かたぐち)を通過する。髪が一房、宙に舞った。ナイフが跳ね上がる。脇腹の鱗の隙間へ——

 尾。低い。横から。

 パシッ。

 頭が横に弾けた。壁に当たり、ずり落ちた。片手が頬を押さえる。指の間から血。もう片方の手は、まだナイフを握っていた。

 魔族はライラを見もしなかった。

 洞窟が震えた。山の奥底から深く響くうめき。厚い粉塵(ふんじん)が見えない天井から降った。石が洞窟の壁を転がり落ちた。

 魔族の動きが——止まった。一瞬だけ。

(今だ!)

 俺は突進した。長剣が閃いた。(はがね)(だいだい)の鱗の上腕に当たった。深く食い込んだ。黒い血が飛び散った。だが一撃は分厚い鱗に勢いを殺され、弾かれた。

 魔族がシューと鳴いた。よろめき下がった。

 紫の目の魔族が天井を見た。それから負傷した者を。壁の裂け目から青い液体がより速く(にじ)んでいた。喉の奥から鋭い命令の声。出口トンネルに向かって頭を振った。

 橙色の目の魔族は離脱した。負傷した上腕を押さえながら、トンネルの闇に消えた。

 紫の目の魔族が続こうと振り返った——

 俺は踏み込んだ。剣を振り上げ、その背中に迫る。あと一歩——

 世界が裂けた。

 * * *

 上で、何かが砕けた。見えない天井が割れた。青い光の亀裂。石の粉塵が空気を詰まらせた。ブーツの下の石が座屈(ざくつ)した。俺を横に投げた。

 それから圧力。頭蓋(ずがい)に叩き込まれた。氷の(とげ)

 頭が裂けそうだ。

 それが落ちた。青い液体の奔流(ほんりゅう)。凍りつき、粘りつく。俺をずぶ濡れにした。皮膚が焼けた。火ではない。氷。骨の芯まで侵されるような冷たさ。

 息が奪われた。

 それから——点火。

 俺の中の聖蝕(せいしょく)が爆発した。

 * * *

 引き裂かれた。押しつぶされた。氷と火が同時に。

 紫の目の魔族が俺の横で痙攣(けいれん)した。あいつの声なき絶叫が、俺の意識を内側から引き裂いた。紫の虹彩(こうさい)が黒に飲み込まれた。

 あの呪われた青い液体。俺の意識。あいつの意識。無理やり一つに叩き潰された。

 俺のものではない思考が流れ込んできた。鋭く、冷たく、黒曜石のような。俺の燃え盛る恐怖の中へ、あいつの氷のような恐怖が流れ込んでくる。境界が溶けていく。俺のものではない記憶の断片。

 世界が砕けた。洞窟の壁がのたうった。石が生きもののようにうねった。砕け散った光と痛みの破片。

 俺のものではない手足。爪が石を掻く。異質な神経を衝撃が駆け巡る。

(俺のじゃない! 俺の体じゃない!)

 俺自身の顔。すぐ近く。あいつの目に映っている。苦悶(くもん)にゆがんだ俺の顔が、あいつの恐怖の中から見つめ返す。

 現実が消えた。

 * * *

 苦痛が目の奥で爆発した。石の床に叩きつけられた。涙でぼやけた視界。急速に薄れていく。

 魔族。紫の目の。まだ地面で痙攣している。俺と同じだ。俺と同じように壊れている。

 闇。

 * * *

 耳の中で轟音。薄れゆく雑音の中から、声。

「今だ! 押さえつけろ!」

 ライラの声か。

 地面にいた。冷たい石。濡れている。手足が重い。だが見えた。ぼやけた形。松明の光。ボーリンが誰かを押さえている。魔族だ。ライラが立ち上がっている。頬から血を流しながら。ナイフを抜いて。

 奥の方で、キールがひざまずいている。エララの血まみれのぐったりとした体を抱きしめている。

「ごめん……エララ……ごめん……」

「俺が……俺がもっと強かったら……。お前を守れたはずなのに……」

 * * *

 あいつの恐怖が俺の神経を直接叩いた。

(殺される——!)

 俺の思考ではなかった。だが俺の体が反応した。心臓が跳ね上がった。筋肉が硬直した。

 押さえつけられている。重い体が上に。動けない——俺の体は自由なはずだ。なのに息ができない。あいつが押さえつけられているのに、俺の肺が潰れる。

 視界がぐらつく。天井が見える。歪んだ顔が見下ろしている。ナイフが迫ってくる。ライラのナイフだ。

「こいつ……! 八つ裂きにしてやる!」ライラが叫んだ。

「待て!」

 言葉が喉から飛び出した。無意識に。俺自身も驚いた。

「やめろ! ただ……待て!」

「正気か、アーレン?!」ライラが吐き捨てた。ナイフをより高く上げて。「こいつがエララを殺したんだ!」

「ライラ、奴はあの液体にやられたんだ! 下がれ!」ボーリンがうめいた。

「これは違う!」俺は叫んだ。よろよろと立ち上がって。手を半ば上げて。震えている。

「どけ、アーレン!」ライラが吠えた。俺を突き飛ばした。

 背中が岩に当たる。震動が石を通って走った。()きごてのような痛みが頭蓋(ずがい)を貫いた。

 * * *

 霞の中から見た。

 ライラ。ナイフを上げている。魔族の上に。ボーリンが押さえつけている。刃が松明の光を反射した。振り下ろされる——

 俺の首筋が総毛立(そけだ)った。あいつの喉ではなかった。俺のだった。冷たい鋼が自分の首の上に構えられた。重さ。意図。逃げ場がない。

 熱いものに触れた手が勝手に引くように。考える隙もなかった。

 俺の腕が動いた。速すぎる。俺が命じたのではない。だが俺の腕だ。俺の筋肉だ。壁から跳ねるように前へ。長剣。振り抜かれた。

 シュッ。

 何かを切った。肉の感触。骨に当たる擦れる音。

「ああああっ!」

 ライラの悲鳴。ナイフがガラガラと石に落ちた。片手を傷に当てて。血が上着を浸した。広がる。速く。

 ライラの目は俺に釘付(くぎづ)けになった。

(俺が……切った……?)

 振り返った。トンネルの方へよろめいた。壁に沿って。暗い跡を後ろに残して。

 視界が明滅した。ライラの姿が闇に溶けていく。ボーリンの形が動いた。こちらを向いている。

「アーレン! てめえ、何してやがる!」

 魔族の腕を離し、戦斧の刃先を魔族の喉元(のどもと)に突きつけた。膝があいつの胸を押さえつけた。

「キール! 奴を拘束しろ!」

「奴はまともじゃない! 俺はこの悪魔を片付ける!」

 怒りを帯びた声が、意識の(ふち)で響いた。

 * * *

 喉に冷たい刃。

 俺の喉じゃない。あいつの喉だ。だが——俺の喉だった。鋼の冷たさが首筋に食い込む。皮膚が切れる寸前の圧力。ボーリンの戦斧があいつの喉を押さえているのに、俺の首が痛い。息が詰まった。あいつの気道(きどう)が圧迫されているのに、俺が窒息する。

 あいつが窒息すれば俺も窒息する。あいつが死ねば——俺の体がそれを「死」として感じる。

 思考が消えた。残ったのは、熱いものに触れた手が勝手に引っ込むような、それだけだった。

 手が動いた。太ももの革帯(かわおび)。小型のクロスボウを掴んだ。指がボルトを装填(そうてん)した。(つる)を引いた。狙いを定めた。

 俺は見ていた。自分の手を。止められなかった。

 発射された。

 ドスッ。

 ボーリンが後ろにのけぞった。戦斧が手から滑り落ちた。よろめき、手が喉に——矢が刺さっている。俺のボルトだ。

「グ……ォ……ヒュッ……」

 血が泡となって口から噴き出した。暗い深紅(しんく)の血が筋になって髭を伝い流れ落ちた。目が俺に釘付けになっている。なぜ?と聞こうとして。

 膝をついた。手が弱々しく傷を掻いた。

 横に崩れた。一度痙攣した。動かなくなった。

 * * *

 俺は凍りついて立っていた。

 クロスボウが重い。ボーリンの喉——赤い。広がっていく。

(俺が撃った……?)

「いや……」

「違う……俺じゃない……俺がやったんじゃない……!」

 だがボルト。血。あの目。

 キールの目がこっちを向いている。ボーリンの死体と俺の手のクロスボウの間を行き来する。

「この……裏切り者がぁあああっ!」

 声が割れていた。涙が血まみれの顔を伝って。折れた肋骨のことなど、もう気にしていないようだった。キールが来る。剣を振り上げて。

 * * *

 刃が落ち始めるのを見た。

 あいつの恐怖が、また来た。喉の奥から腹の底まで。

 横で空気が動いた。紫の目の魔族。あいつの体がぴくりと動いた。痙攣するように。意志のない四肢が、勝手に跳ねた。瞳孔は開いたままで焦点が合わない。

 あいつの鱗の尾が打った。低く、速く。俺の脚が同時に震えた——動いたのはあいつの尾なのに、俺の筋肉が収縮した。

 骨が砕ける音。キールの体が跳ね上がった。

 あいつがひねった。俺の腰も引き()った——動いていないのに、動いた感覚だけがある。かかとが何かに当たった。衝撃が俺の(かかと)を駆け上がった。あいつの踵なのに。

 バキッ。

 キールが落ちた。糸が切れた人形のように。首が曲がっていた。おかしな角度に。顔が天井を見つめた。口が最後の空のガラガラ音で痙攣した。

 消えた。

 * * *

 息ができなかった。

 あいつの腰のひねり。尾の鞭打(むちう)ち。あいつのかかとの衝撃。全部、俺の体を通って再生された。俺は動いていない。なのに、動いた。

 魔族はキールだったものの上に立っていた。揺れて、体勢を崩して。尾が一度はじいた。不規則に。震えがあいつの頬を通った。鈍い曇った紫の目が俺の方へ漂った。

 エララ。ボーリン。キール。

 自分の手を見下ろした。一つは剣を握っていた。ライラを切った剣だ。もう一つはクロスボウを持っていた。ボーリンを殺した。

 ライラ——

(逃げ出せたか? それともどこかで——)

 * * *

 最後の震動が走った。天井が頭上で大きく割れた。青い(にじ)みが厚い粘性(ねんせい)のある滴で注ぎ下った。

 剣を落とした。ガランという音が響いた。

 世界が傾いた。あいつが見えた。紫の目の魔族。膝が崩れ、壁から滑り落ちていく。

 石の床が近づいてくる。

 闇。


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次のエピソードへ進む 第6話:同族の断絶


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 横の空気が裂けた。
 グシャリ。
 血が降ってきた。温かく、濃く、粘つく。鉄の悪臭が|鼻孔《びこう》を衝く。視界が赤に染まった。
 痛みに備えた。来ない。
 背後で音がした。詰まった濁ったうめき。喉の奥から泡立つような。
「いやああああっ!」
 ライラの悲鳴。
 俺は振り向きざま、目から|血糊《ちのり》を拭った。
 エララの喉が——なくなっていた。
 引き裂かれた肉。きらめく|軟骨《なんこつ》。松明の光が当たった所で、|椎骨《ついこつ》が湿って輝いている。紫の目の魔族。数歩先に立っていた。|黒曜石《こくようせき》の爪が暗い血を滴らせている。一撃。見えなかった。
 エララの手が、もはや存在しない喉を求めて|宙《ちゅう》を掻いていた。血が脈打つ。濃い暗い|塊《かたまり》で洞窟の床に流れ出ていく。
 エララの目が俺を見ている。
 その光が——消えた。
 膝が崩れた。体が音もなく崩れ落ちた。
 血でぬるぬるしていない方の手が剣の柄を掴んだ。
「エララ……?」
 キールの声。か細い。エララの喉があったはずの場所に視線が吸い寄せられた時——目が変わった。
「う……あああああああああっ!」
 喉の奥から苦痛と怒りの|咆哮《ほうこう》が漏れた。
「アーレン! 何とかしろ! 頼む、エララを……!」
「嘘だ……エララ! 目を開けろ! この……この化け物がっ!」
 剣を上げた。手は激しく震えている。だが彼は魔族に向かわなかった。エララの傍に崩れ落ちた。両手で何かを|掬《すく》っている。血を。溢れ出る血を。
 それを——エララの喉に戻そうとしている。
 キールの唇が動いていた。声は聞こえなかった。
 俺の口は動かなかった。
 * * *
 視界の端で、動き。紫の目の魔族。
 鱗の尾が空気を切り裂いた。先端に黒曜石のような鋭い何か。俺を|薙《な》ぐように。
 体が先に動いた。受け流し。半ば抜きかけていた|長剣《ちょうけん》が信じられないほど硬い何かと衝突した。火花が散り、紫の目の顔を一瞬だけ照らし出した。腕を駆け上がった衝撃に肩まで|痺《しび》れた。一歩よろめき下がる。
「散開しろ! 壁を背に、|遮蔽《しゃへい》を使え! 的になるな!」ボーリンの|怒号《どごう》が後ろから飛んできた。
「クソ野郎が!」
 キールはボーリンの命令を無視した。紫の目の魔族に真っ直ぐ突進する。
 上から。無音の落下。
 高い岩棚から影が落ちてきた。最初のより小さい。だが同じくらい速い。燃えるような|橙色《だいだいいろ》の目が薄闇の中で光る。
(二体——!)
 それはキールを横から迎え撃った。回し蹴り。ドンッ、ミシッ。キールの胸に直撃した。壁に叩きつけられた。|肋骨《ろっこつ》が折れる音が湿って響いた。
 キールは壁を滑り落ち、塊となって倒れた。松明がガラガラと音を立てて転がり、湿った石の上で炎が弱々しく揺らめいた。
 * * *
 前に一体。右にもう一体。挟まれた。闇から襲い、反撃が来る前に消える。壁の岩や石柱から跳ね返る。洞窟そのものを武器として使う。
 ボーリンが前に出た。|戦斧《せんぷ》を構え、紫の目の者を迎え撃つ。紫の目の者がボーリンの重い一振りを軽々とかわした。細い体をわずかにひねるだけ。通り過ぎざまに黒曜石の爪がボーリンの|前腕《ぜんわん》を深く切り裂いた。重い革と下の肉を引き裂いて。ボーリンがうめいた。暗い血が腕から湧き出た。
 壁の方で、キールが体を起こした。血と歯の破片を吐き出す。
「畜生どもが!」
 再び橙色の目の魔族に身を投げた。剣が荒々しい|軌道《きどう》を描きながら振り回される。一瞬、キールの剥き出しの|凶暴《きょうぼう》さに橙色の目の魔族がたじろいだ。だがその一撃を、魔族は流れるようにかわす。
(遊んでやがる……)
 ライラ——どこだ。
 いた。岩柱の影。低い。ナイフは前腕に沿わせて光を殺している。目は紫の目の魔族を追っている。瞬きもせずに。
 待っている。読んでいる。
 * * *
 視界の端で、ライラが動いた。速い。低い。紫の目の魔族の|懐《ふところ》に。
 爪が振り下ろされた。ライラの顔面へ。いない。膝を落とし、上体をひねっていた。爪が|肩口《かたぐち》を通過する。髪が一房、宙に舞った。ナイフが跳ね上がる。脇腹の鱗の隙間へ——
 尾。低い。横から。
 パシッ。
 頭が横に弾けた。壁に当たり、ずり落ちた。片手が頬を押さえる。指の間から血。もう片方の手は、まだナイフを握っていた。
 魔族はライラを見もしなかった。
 洞窟が震えた。山の奥底から深く響くうめき。厚い|粉塵《ふんじん》が見えない天井から降った。石が洞窟の壁を転がり落ちた。
 魔族の動きが——止まった。一瞬だけ。
(今だ!)
 俺は突進した。長剣が閃いた。|鋼《はがね》が|橙《だいだい》の鱗の上腕に当たった。深く食い込んだ。黒い血が飛び散った。だが一撃は分厚い鱗に勢いを殺され、弾かれた。
 魔族がシューと鳴いた。よろめき下がった。
 紫の目の魔族が天井を見た。それから負傷した者を。壁の裂け目から青い液体がより速く|滲《にじ》んでいた。喉の奥から鋭い命令の声。出口トンネルに向かって頭を振った。
 橙色の目の魔族は離脱した。負傷した上腕を押さえながら、トンネルの闇に消えた。
 紫の目の魔族が続こうと振り返った——
 俺は踏み込んだ。剣を振り上げ、その背中に迫る。あと一歩——
 世界が裂けた。
 * * *
 上で、何かが砕けた。見えない天井が割れた。青い光の亀裂。石の粉塵が空気を詰まらせた。ブーツの下の石が|座屈《ざくつ》した。俺を横に投げた。
 それから圧力。|頭蓋《ずがい》に叩き込まれた。氷の|棘《とげ》。
 頭が裂けそうだ。
 それが落ちた。青い液体の|奔流《ほんりゅう》。凍りつき、粘りつく。俺をずぶ濡れにした。皮膚が焼けた。火ではない。氷。骨の芯まで侵されるような冷たさ。
 息が奪われた。
 それから——点火。
 俺の中の|聖蝕《せいしょく》が爆発した。
 * * *
 引き裂かれた。押しつぶされた。氷と火が同時に。
 紫の目の魔族が俺の横で|痙攣《けいれん》した。あいつの声なき絶叫が、俺の意識を内側から引き裂いた。紫の|虹彩《こうさい》が黒に飲み込まれた。
 あの呪われた青い液体。俺の意識。あいつの意識。無理やり一つに叩き潰された。
 俺のものではない思考が流れ込んできた。鋭く、冷たく、黒曜石のような。俺の燃え盛る恐怖の中へ、あいつの氷のような恐怖が流れ込んでくる。境界が溶けていく。俺のものではない記憶の断片。
 世界が砕けた。洞窟の壁がのたうった。石が生きもののようにうねった。砕け散った光と痛みの破片。
 俺のものではない手足。爪が石を掻く。異質な神経を衝撃が駆け巡る。
(俺のじゃない! 俺の体じゃない!)
 俺自身の顔。すぐ近く。あいつの目に映っている。|苦悶《くもん》にゆがんだ俺の顔が、あいつの恐怖の中から見つめ返す。
 現実が消えた。
 * * *
 苦痛が目の奥で爆発した。石の床に叩きつけられた。涙でぼやけた視界。急速に薄れていく。
 魔族。紫の目の。まだ地面で痙攣している。俺と同じだ。俺と同じように壊れている。
 闇。
 * * *
 耳の中で轟音。薄れゆく雑音の中から、声。
「今だ! 押さえつけろ!」
 ライラの声か。
 地面にいた。冷たい石。濡れている。手足が重い。だが見えた。ぼやけた形。松明の光。ボーリンが誰かを押さえている。魔族だ。ライラが立ち上がっている。頬から血を流しながら。ナイフを抜いて。
 奥の方で、キールがひざまずいている。エララの血まみれのぐったりとした体を抱きしめている。
「ごめん……エララ……ごめん……」
「俺が……俺がもっと強かったら……。お前を守れたはずなのに……」
 * * *
 あいつの恐怖が俺の神経を直接叩いた。
(殺される——!)
 俺の思考ではなかった。だが俺の体が反応した。心臓が跳ね上がった。筋肉が硬直した。
 押さえつけられている。重い体が上に。動けない——俺の体は自由なはずだ。なのに息ができない。あいつが押さえつけられているのに、俺の肺が潰れる。
 視界がぐらつく。天井が見える。歪んだ顔が見下ろしている。ナイフが迫ってくる。ライラのナイフだ。
「こいつ……! 八つ裂きにしてやる!」ライラが叫んだ。
「待て!」
 言葉が喉から飛び出した。無意識に。俺自身も驚いた。
「やめろ! ただ……待て!」
「正気か、アーレン?!」ライラが吐き捨てた。ナイフをより高く上げて。「こいつがエララを殺したんだ!」
「ライラ、奴はあの液体にやられたんだ! 下がれ!」ボーリンがうめいた。
「これは違う!」俺は叫んだ。よろよろと立ち上がって。手を半ば上げて。震えている。
「どけ、アーレン!」ライラが吠えた。俺を突き飛ばした。
 背中が岩に当たる。震動が石を通って走った。|焼《や》きごてのような痛みが|頭蓋《ずがい》を貫いた。
 * * *
 霞の中から見た。
 ライラ。ナイフを上げている。魔族の上に。ボーリンが押さえつけている。刃が松明の光を反射した。振り下ろされる——
 俺の首筋が|総毛立《そけだ》った。あいつの喉ではなかった。俺のだった。冷たい鋼が自分の首の上に構えられた。重さ。意図。逃げ場がない。
 熱いものに触れた手が勝手に引くように。考える隙もなかった。
 俺の腕が動いた。速すぎる。俺が命じたのではない。だが俺の腕だ。俺の筋肉だ。壁から跳ねるように前へ。長剣。振り抜かれた。
 シュッ。
 何かを切った。肉の感触。骨に当たる擦れる音。
「ああああっ!」
 ライラの悲鳴。ナイフがガラガラと石に落ちた。片手を傷に当てて。血が上着を浸した。広がる。速く。
 ライラの目は俺に|釘付《くぎづ》けになった。
(俺が……切った……?)
 振り返った。トンネルの方へよろめいた。壁に沿って。暗い跡を後ろに残して。
 視界が明滅した。ライラの姿が闇に溶けていく。ボーリンの形が動いた。こちらを向いている。
「アーレン! てめえ、何してやがる!」
 魔族の腕を離し、戦斧の刃先を魔族の|喉元《のどもと》に突きつけた。膝があいつの胸を押さえつけた。
「キール! 奴を拘束しろ!」
「奴はまともじゃない! 俺はこの悪魔を片付ける!」
 怒りを帯びた声が、意識の|淵《ふち》で響いた。
 * * *
 喉に冷たい刃。
 俺の喉じゃない。あいつの喉だ。だが——俺の喉だった。鋼の冷たさが首筋に食い込む。皮膚が切れる寸前の圧力。ボーリンの戦斧があいつの喉を押さえているのに、俺の首が痛い。息が詰まった。あいつの|気道《きどう》が圧迫されているのに、俺が窒息する。
 あいつが窒息すれば俺も窒息する。あいつが死ねば——俺の体がそれを「死」として感じる。
 思考が消えた。残ったのは、熱いものに触れた手が勝手に引っ込むような、それだけだった。
 手が動いた。太ももの|革帯《かわおび》。小型のクロスボウを掴んだ。指がボルトを|装填《そうてん》した。|弦《つる》を引いた。狙いを定めた。
 俺は見ていた。自分の手を。止められなかった。
 発射された。
 ドスッ。
 ボーリンが後ろにのけぞった。戦斧が手から滑り落ちた。よろめき、手が喉に——矢が刺さっている。俺のボルトだ。
「グ……ォ……ヒュッ……」
 血が泡となって口から噴き出した。暗い|深紅《しんく》の血が筋になって髭を伝い流れ落ちた。目が俺に釘付けになっている。なぜ?と聞こうとして。
 膝をついた。手が弱々しく傷を掻いた。
 横に崩れた。一度痙攣した。動かなくなった。
 * * *
 俺は凍りついて立っていた。
 クロスボウが重い。ボーリンの喉——赤い。広がっていく。
(俺が撃った……?)
「いや……」
「違う……俺じゃない……俺がやったんじゃない……!」
 だがボルト。血。あの目。
 キールの目がこっちを向いている。ボーリンの死体と俺の手のクロスボウの間を行き来する。
「この……裏切り者がぁあああっ!」
 声が割れていた。涙が血まみれの顔を伝って。折れた肋骨のことなど、もう気にしていないようだった。キールが来る。剣を振り上げて。
 * * *
 刃が落ち始めるのを見た。
 あいつの恐怖が、また来た。喉の奥から腹の底まで。
 横で空気が動いた。紫の目の魔族。あいつの体がぴくりと動いた。痙攣するように。意志のない四肢が、勝手に跳ねた。瞳孔は開いたままで焦点が合わない。
 あいつの鱗の尾が打った。低く、速く。俺の脚が同時に震えた——動いたのはあいつの尾なのに、俺の筋肉が収縮した。
 骨が砕ける音。キールの体が跳ね上がった。
 あいつがひねった。俺の腰も引き|攣《つ》った——動いていないのに、動いた感覚だけがある。かかとが何かに当たった。衝撃が俺の|踵《かかと》を駆け上がった。あいつの踵なのに。
 バキッ。
 キールが落ちた。糸が切れた人形のように。首が曲がっていた。おかしな角度に。顔が天井を見つめた。口が最後の空のガラガラ音で痙攣した。
 消えた。
 * * *
 息ができなかった。
 あいつの腰のひねり。尾の|鞭打《むちう》ち。あいつのかかとの衝撃。全部、俺の体を通って再生された。俺は動いていない。なのに、動いた。
 魔族はキールだったものの上に立っていた。揺れて、体勢を崩して。尾が一度はじいた。不規則に。震えがあいつの頬を通った。鈍い曇った紫の目が俺の方へ漂った。
 エララ。ボーリン。キール。
 自分の手を見下ろした。一つは剣を握っていた。ライラを切った剣だ。もう一つはクロスボウを持っていた。ボーリンを殺した。
 ライラ——
(逃げ出せたか? それともどこかで——)
 * * *
 最後の震動が走った。天井が頭上で大きく割れた。青い|滲《にじ》みが厚い|粘性《ねんせい》のある滴で注ぎ下った。
 剣を落とした。ガランという音が響いた。
 世界が傾いた。あいつが見えた。紫の目の魔族。膝が崩れ、壁から滑り落ちていく。
 石の床が近づいてくる。
 闇。