(一体いつから……いや、俺が都を出るときからと言っていたか。これほどの大男の気配に気付かんとは、俺も相当、動転していたようだ)
前を行く智深の巌のような背を眺めながらしばらく歩くうちに、林の出口が見えた。
野猪林の暗さに慣れていた目を瞬かせ、さらに三里ほど進むと、やがて小さな村に差し掛かる。
入り口のあたりに酒屋の幟を見つけた智深が嬉しそうな顔で振り返り手招くのを見れば、林冲を休ませたいのか、己が酒を飲みたいのか、判断がつきかねる。
だが、常と変わらぬ智深の様子がむしろ心地よく、林冲は思わず肩をすくめて笑い返した。
「お前に連れていかれた店には劣るが、ここもなかなかいい店だ、そうだろう?」
林冲の苦笑をどうとらえたのか、智深がどこか言い訳がましい声で言った通り、確かにこの酒店、山間の田舎の村にしては、なかなか風情のある店構えである。
駅路に臨む入り口は桃や柳の木で囲われ、垣には瑞々しい花が赤々と咲き乱れている。背後に広がる麦畑は、微風に吹かれるたびにさらさらと目にも鮮やかな緑の波をたたせ、店の外に並ぶ白磁の酒瓶から立ちのぼる上酒の香が、その明媚な光景を際立たせる。
「おや、お客様、いらっしゃい」
暖簾をあげた老店主の穏やかな笑顔の後ろでは、紅顔の少女が元気よく卓の間を行きつ戻りつしている。
決して気取らず、けれど趣深いその景色は、林冲のささくれ立った心を束の間、ほぐしてくれるには十分だった。
「この店で一番いい肉を五、六斤、一番いい酒も持ってこい。それから餅も、忘れずにな」
どかりと席に腰を下ろした智深は、矢継ぎ早に店主に注文を告げる。さっそく運ばれてきた酒壷を抱えた董超と薛覇が、震える手で智深と林冲に酌をした。
「さあ、弟よ、飲むがいい。俺がいるからには、安心して酒に酔うがいいぞ」
「兄貴、俺は罪を負った身。酔いつぶれるほどに飲んでは世間に顔向けできん」
「ふん、罪は罪でも無実の罪じゃないか。さ、遠慮は無用」
盃を打ち鳴らし、一気に酒をあおる林冲と智深を、おそるおそるといったように交互に見つめていた董超が、小さく咳ばらいをしながら揉み手した。
「あのぉ、失礼ですが、和尚様。あなた様は、どちらのお寺のご住持様でいらっしゃるので?」
「ハッ! お前、それを聞いてなんとする」
大きな笑い声に、董超の肩がかわいそうなほどびくりと跳ねる。
「この糞役人どもめ、俺の正体を聞いて、高俅に告げ口しようという魂胆だな? ほかのやつらはどうであれ、俺はあんな卑怯な野郎は怖くもなんともない。もしもあの野郎と鉢合わせることがあったら、弟や妹、それに民の分まで、この禅杖を三百発も喰らわせてやる!」
禅杖が床を打つ音が大きく響き渡り、刹那、店中の音という音が凍り付く。
「……兄貴、ほかの客が怖がるだろう」
「ん? そうか? やい、お前ら、見世物じゃないぞ。店主、肉をもっと持ってこい!」
いかにも豪傑然とした智深の物言いに気圧されたように、店主が次々と酒や肉を運んでくるのをあっという間に四人で(正しくはその大半を智深が)平らげ、酒代を払って店を出たころには、夕焼け空がすぐそこまで迫っていた。
「兄貴はこれから、どうする」
空の端が薄紫に染まっていくのを眺めていた智深は、林冲の言葉に、何を今さら、とでも言いたげに眉を跳ね上げた。
「人殺しは血を見るまで、人助けは最後まで。お前を滄州まで送り届けなければ、俺の気は休まらん」
「だが兄貴……俺を助けたと知れれば、兄貴にまで高俅の手が及んでしまう」
「林冲よ、もはやどこまでお前とともに行こうと、助けたことには変わりないだろう」
肉の厚い手が、ずしりと両肩に置かれる。
「お前と俺は、拳を突き合わせ、盃を交わした義兄弟。お前が高俅の糞野郎の罠に落ちるのを救えなかったのは口惜しいが、お前の命までみすみす奪わせはせんぞ。それに、お前を裏切った陸謙という男、あやつを成敗するまでお前は死ねん、そうなんだろう?」
己の身の内を焼く黒い炎さえ見透かして笑う荒法師の、その何の見返りも求めぬ姿に、林冲の心が久方ぶりに熱くなる。
「そうだな。だが、約束してくれ兄貴。董超と薛覇は絶対殺さぬこと、そして俺を送り終わったら、必ず高俅の手の及ばぬところに逃げると」
「守れるかどうかは気分次第だが、覚えてはおこう」
ごろごろと低い智深の唸り声に、後ろに控えていた董超たちがまたもやしがみついてくるのをいなしながら、林冲は軽く息を吐いた。
「店主の話では、ここからすぐ先に、宿があるそうだ。すまんが、そこまでまた、肩を貸してくれ」
「もちろん、もちろんでございます」
「さ、林教頭、ここに掴まって……」
その日から、林冲の旅路はすべて、智深の采配によって進められることになった。
林冲が足の痛みを訴えれば休み、己の喉が渇けば酒屋を探し、夜になれば宿屋の上等な部屋に林冲を寝かせる。
董超と薛覇は常にびくびくと智深の顔色を窺い、時に殴られ時にどやされ、たまりかねてまるで幼子のごとく林冲にすがりつく姿を笑われては涙声で許しを乞う。
二日ばかり経ったころには車を手に入れることができたので、林冲を乗せた車を二人の護送役人に引かせ、智深はその後ろから仁王のような顔でついて歩いた。
日ごろの粗野な振る舞いからは信じられないほど、智深は林冲の様子に細々と気を付け、汗を流していれば清潔な布を調達し、常に酒や肉が絶えぬよう、董超たちをせっついて買い物をさせた。
とある夜、ふと何気なく目が覚めた林冲は、董超たちが小声で智深に対して悪態をついているのを耳にした。
「あの坊主、俺たちをここまで痛めつけるとは。おまけにあんな風に見張られていたのでは、俺たち、高太尉殿の命をまっとうできぬままではないか」
「そういえば、大相国寺の菜園にやってきたという坊主、思い返せば確か魯智深という名だった。獣のような坊主だと聞いていたが、あれがそうだったとはな。もはや、帰ったら正直にすべてを打ち明けるしかあるまいよ。あの坊主が邪魔をしたので、滄州に着くまで手が出せなかったとな。悔しいがもらった十両はそっくり返し、あとは陸虞候殿に任せよう。俺たちはもうこれ以上、関わらないようにすればいい」
「そうだ、それがいい。もうこんな思いはこりごりだ」
あの悪知恵の働く陸謙や狡猾な高俅が、任務をしくじった彼らをただで許すはずはないと思ったが、林冲は彼らの言葉を聞き流し、静かに目を閉じた。
隣の寝台からは、智深の高いびきが途切れ途切れに鳴り響いていた。