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(一)

ー/ー



 「だ、誰だ……!」
 思わず閉じてしまった瞼をこじ開けると、董超と薛覇が、すっかり腰を抜かして座り込んでいる。
 よく見れば、幽鬼でも目の当たりにしているかのように真っ青な顔で震える彼らの背後、鬱蒼とした大樹の幹のひとつに、彼らの掲げていた水火棍が深々と突き刺さっている。
 そして虚空に向けられた彼らの視線を追う間もなく、頭上に踊った巨大な影の正体に思い至った時、情けないことに、林冲の体から、ふ、と力が抜けた。
 「糞役人どもが! こんな場所なら誰の目もないとでも思ったか! 俺はすべて見て、すべて聞いていたぞ!」
 地鳴りの如く轟く大音声とともに林冲と董超たちの間に降り立った巨躯の、その墨色の衣の裾に、舞い立った土埃が荒波のような模様を刻む。
 大樹の根元に突き立った禅杖の代わりに、腰に佩いた戒刀をぎらりと抜き放った大男は、裂帛の気合いとともにその刀を振り下ろし、
 「やめろ、智深兄貴! 殺してはならん!」
 隆々とした背から立ち上る殺気が僅かに和らぎ、大男――魯智深が、ふるりとこちらを振り返った。地獄の鬼のように歪んでいた顔が、林冲の姿を瞳に映した途端、どこか途方に暮れたような色を帯びる。
 「林冲、何を言うのだ。こんな畜生どもに、情けをかけることなどないではないか」
 「どうか聞いてくれ、兄貴。彼らはただ、高俅と陸謙に俺を殺せと命じられ、それに従ったまでのこと。彼らとて、高俅に背けば命はなく、やむを得ず俺を始末するしかなかったのだ……だからどうか、罪なき哀れな者を殺め、兄貴の名を穢すようなことはしないでほしい」
 「……お前をこんな目に遭わせたのに、何が罪なき者だ、畜生め」
 ぼそりと悪態をついた智深も、懇願するような己の目に負けたのか、董超たちから刀の切っ先を反らし、林冲を縛り上げていた荒縄を斬り解いた。
 毛むくじゃらの分厚い手に背を抱えられ、岩の上に腰を下ろした林冲は、大きく息を吸う。
 「兄貴……何故、ここに」
 「決まっている、弟の危機を救うためだ」
 東京にいるはずの男が何故こんなところにいるのかを問うた至極まっとうな林冲の言葉を、まるでそんなこともわからないのかとでも言いたげに一蹴した智深の、その短い言葉に込められた想いが、暖かな奔流となって林冲の冷え切った心にとうとうと流れ込む。
 先程まで不気味な冷たさをもって重たく立ち込めていた空気の、その淀みまでもがほんの微かに薄まったような心地がした。
 (ああ、俺は、生き抜かねばならぬのだ)
 血だらけの己の足を痛ましげに見つめる智深の、励ますように肩に回された腕が、怒りに震えているのを知った刹那、林冲は心の中でひとつ、そう呟いた。
 例え築き上げてきた己の誇りを踏みにじられ、どす黒い恨みの炎に身を焼かれても、失われないものがある。
 この不器用な義兄の剛直な姿に再会したとたん、林冲はそのことを、はっきりと思い出していた。
 「弟よ、お前が刀を買ったあの日、お前と別れてからというもの、俺はなぜか胸騒ぎがして、野良仕事もとんと手につかなかった。そうしたら、なんとお前が裁判沙汰にかかったというではないか。街の者どもの噂を聞けば、どうやらお前は高俅に嵌められたのだとわかり、なんとか助けてやろうと思ったんだが、これといったうまい手立てもなくてな。そうこうしているうちに、お前が滄州へ流刑に決まったと聞き、開封府の役所の前へ行ってみたがお前の姿はなく、野次馬どもの話では、出立前に役人どもの小屋に連れていかれ、そこで出立を待っているとか。そこでお前が出てくるまで待っていようかと近くの酒屋に入ってみれば、そこの店主がこやつら二人を呼びだして、なんだかという役人と引き合わせとるじゃねえか。どうにも俺はうさんくさく感じてな、これはこやつら、お前に危害を加えるつもりでねえかと危ぶんで、こっそりお前たちの後をつけたというわけだ」
 いつにない淀みのなさで苛立ちのままに語る智深の、訛りの混じったその言葉に、林冲はわずかに眉をあげた。
 この大男に、尾行などという繊細なわざができたとは。
 「お前たちが飯を食いに店に立ち寄れば俺も同じ店に入り、宿をとれば俺も同じ所に宿をとる。そうしてしばらく見張っていれば、それ見たことか、こやつら、お前の足を熱湯につっこみやがった!」
 智深が振り下ろした拳が、みしり、と岩に食い込む。
 「すぐにでもお前を助け、こやつら、ぶち殺してやりたかったが、あの宿じゃああまりにも人が多い。邪魔が入ってはいかんとすぐには助けてやれなんだ。いよいよこやつらの魂胆が読めたので、俺もますますお前を捨て置けなくなった。宿のおやじに聞けば、滄州までの道のりは必ずこの林を通るという話だったから、俺は先回りしてこやつら畜生どもをぶち殺してやろうと思って待っていたんだが、そうしたら今度こそ、こやつら、お前を殺そうとしやがった。そこで、今こそその時と助太刀に入ったわけだ」
 地にひれ伏してただぶるぶると震えるばかりの董超と薛覇を、まるでこびりついて取れない垢でも見るかのような目で睨みつけながら、智深は再び戒刀に手をかける。
 「弟、こやつら、たとえ誰かに命じられたのだとしても、お前ほどの好漢を辱め、殺そうとしたのだぞ。ここで殺してしまわずに、どうするというのだ」
 先まであれほど威張り散らしていたのが嘘のように、言葉もなく顔を真っ白にして突っ伏す董超と薛覇の姿は、哀れだった。彼らとて、忌まわしき高俅と陸謙に良いように利用されているだけなのだと思えば、わざわざ智深の手を穢させるのは忍びない。
 「兄貴、こうして俺は兄貴に助けられ、無事なのだ。どうかこの二人のことは、殺さないでほしい」
 「……林冲、お前は人が良すぎる」
 呆れたように大きく息を吐き、戒刀の柄から外した拳を振り上げ、智深が怒鳴る。
 「やい、そこの死に損ないどもめ。弟にこう言われなきゃ、今頃は貴様ら、細切れに切り刻んで、酒の肴にしているところだ。弟の顔に免じ、今日のところは貴様らの命、助けてやる」
 「は、はい、ありがたいことで……!」
 声にならぬような声を漏らしながら、二人の護送役人が何度も地に額をこすりつける。
 「ふん、気の利かない畜生どもめ、そんなに俺にぺこぺこしてどうするというのだ。お前たちの悪事のせいで、見ろ、弟の足はひどい有様だ。さっさと弟を背負って、俺の後についてこい!」
 驚かすように彼らの横面で足を振り上げながら、智深は水火棍が突き立ったままの大樹に近づき、根元に刺さった禅杖を片手で引き抜いた。
 「ほら、さっさとせんか!」
 このうすら寒い林の中でただ一人、怒りに身を燃やした智深は、したたる汗をぞんざいに拭い、おもむろに着物をからげる。
 「ひ、ひぃ……!」
 あらわになった山脈のごとき半身の、見事な刺青を目の当たりにした董超たちは、はじかれたように立ち上がり、あべこべに林冲にしがみついた。
 「り、林教頭、あのものすごい和尚さまは、あ、あなたさまのご兄弟で?」
 「林教頭、我々、ただ命じられるままにふるまっただけなのです、どうかお許しを」
 「わかった、わかった。すまないが、肩を貸してくれないか。あの和尚のかんしゃく玉が爆ぜる前にな」
 がくがくと頷き、智深が背中越しに投げ返した水火棍をあたふたと拾い上げ、林冲の分の荷物も背負った董超たちに両側から支えられ、林冲はゆっくりと歩き始める。
 「次に店を見つけたら、そこで休むからな。それまでちゃんと、弟を支えて歩くんだぞ。わかったな!」
 「はい……」
 蚊の鳴くような声で返事をした董超たちが、大人しく己の命に従っていることに満足した様子の智深は、大股に、しかし林冲の歩みが厳しくならないようにゆっくりと、一行を先導し始めた。


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 「だ、誰だ……!」 思わず閉じてしまった瞼をこじ開けると、董超と薛覇が、すっかり腰を抜かして座り込んでいる。
 よく見れば、幽鬼でも目の当たりにしているかのように真っ青な顔で震える彼らの背後、鬱蒼とした大樹の幹のひとつに、彼らの掲げていた水火棍が深々と突き刺さっている。
 そして虚空に向けられた彼らの視線を追う間もなく、頭上に踊った巨大な影の正体に思い至った時、情けないことに、林冲の体から、ふ、と力が抜けた。
 「糞役人どもが! こんな場所なら誰の目もないとでも思ったか! 俺はすべて見て、すべて聞いていたぞ!」
 地鳴りの如く轟く大音声とともに林冲と董超たちの間に降り立った巨躯の、その墨色の衣の裾に、舞い立った土埃が荒波のような模様を刻む。
 大樹の根元に突き立った禅杖の代わりに、腰に佩いた戒刀をぎらりと抜き放った大男は、裂帛の気合いとともにその刀を振り下ろし、
 「やめろ、智深兄貴! 殺してはならん!」
 隆々とした背から立ち上る殺気が僅かに和らぎ、大男――魯智深が、ふるりとこちらを振り返った。地獄の鬼のように歪んでいた顔が、林冲の姿を瞳に映した途端、どこか途方に暮れたような色を帯びる。
 「林冲、何を言うのだ。こんな畜生どもに、情けをかけることなどないではないか」
 「どうか聞いてくれ、兄貴。彼らはただ、高俅と陸謙に俺を殺せと命じられ、それに従ったまでのこと。彼らとて、高俅に背けば命はなく、やむを得ず俺を始末するしかなかったのだ……だからどうか、罪なき哀れな者を殺め、兄貴の名を穢すようなことはしないでほしい」
 「……お前をこんな目に遭わせたのに、何が罪なき者だ、畜生め」
 ぼそりと悪態をついた智深も、懇願するような己の目に負けたのか、董超たちから刀の切っ先を反らし、林冲を縛り上げていた荒縄を斬り解いた。
 毛むくじゃらの分厚い手に背を抱えられ、岩の上に腰を下ろした林冲は、大きく息を吸う。
 「兄貴……何故、ここに」
 「決まっている、弟の危機を救うためだ」
 東京にいるはずの男が何故こんなところにいるのかを問うた至極まっとうな林冲の言葉を、まるでそんなこともわからないのかとでも言いたげに一蹴した智深の、その短い言葉に込められた想いが、暖かな奔流となって林冲の冷え切った心にとうとうと流れ込む。
 先程まで不気味な冷たさをもって重たく立ち込めていた空気の、その淀みまでもがほんの微かに薄まったような心地がした。
 (ああ、俺は、生き抜かねばならぬのだ)
 血だらけの己の足を痛ましげに見つめる智深の、励ますように肩に回された腕が、怒りに震えているのを知った刹那、林冲は心の中でひとつ、そう呟いた。
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 いつにない淀みのなさで苛立ちのままに語る智深の、訛りの混じったその言葉に、林冲はわずかに眉をあげた。
 この大男に、尾行などという繊細なわざができたとは。
 「お前たちが飯を食いに店に立ち寄れば俺も同じ店に入り、宿をとれば俺も同じ所に宿をとる。そうしてしばらく見張っていれば、それ見たことか、こやつら、お前の足を熱湯につっこみやがった!」
 智深が振り下ろした拳が、みしり、と岩に食い込む。
 「すぐにでもお前を助け、こやつら、ぶち殺してやりたかったが、あの宿じゃああまりにも人が多い。邪魔が入ってはいかんとすぐには助けてやれなんだ。いよいよこやつらの魂胆が読めたので、俺もますますお前を捨て置けなくなった。宿のおやじに聞けば、滄州までの道のりは必ずこの林を通るという話だったから、俺は先回りしてこやつら畜生どもをぶち殺してやろうと思って待っていたんだが、そうしたら今度こそ、こやつら、お前を殺そうとしやがった。そこで、今こそその時と助太刀に入ったわけだ」
 地にひれ伏してただぶるぶると震えるばかりの董超と薛覇を、まるでこびりついて取れない垢でも見るかのような目で睨みつけながら、智深は再び戒刀に手をかける。
 「弟、こやつら、たとえ誰かに命じられたのだとしても、お前ほどの好漢を辱め、殺そうとしたのだぞ。ここで殺してしまわずに、どうするというのだ」
 先まであれほど威張り散らしていたのが嘘のように、言葉もなく顔を真っ白にして突っ伏す董超と薛覇の姿は、哀れだった。彼らとて、忌まわしき高俅と陸謙に良いように利用されているだけなのだと思えば、わざわざ智深の手を穢させるのは忍びない。
 「兄貴、こうして俺は兄貴に助けられ、無事なのだ。どうかこの二人のことは、殺さないでほしい」
 「……林冲、お前は人が良すぎる」
 呆れたように大きく息を吐き、戒刀の柄から外した拳を振り上げ、智深が怒鳴る。
 「やい、そこの死に損ないどもめ。弟にこう言われなきゃ、今頃は貴様ら、細切れに切り刻んで、酒の肴にしているところだ。弟の顔に免じ、今日のところは貴様らの命、助けてやる」
 「は、はい、ありがたいことで……!」
 声にならぬような声を漏らしながら、二人の護送役人が何度も地に額をこすりつける。
 「ふん、気の利かない畜生どもめ、そんなに俺にぺこぺこしてどうするというのだ。お前たちの悪事のせいで、見ろ、弟の足はひどい有様だ。さっさと弟を背負って、俺の後についてこい!」
 驚かすように彼らの横面で足を振り上げながら、智深は水火棍が突き立ったままの大樹に近づき、根元に刺さった禅杖を片手で引き抜いた。
 「ほら、さっさとせんか!」
 このうすら寒い林の中でただ一人、怒りに身を燃やした智深は、したたる汗をぞんざいに拭い、おもむろに着物をからげる。
 「ひ、ひぃ……!」
 あらわになった山脈のごとき半身の、見事な刺青を目の当たりにした董超たちは、はじかれたように立ち上がり、あべこべに林冲にしがみついた。
 「り、林教頭、あのものすごい和尚さまは、あ、あなたさまのご兄弟で?」
 「林教頭、我々、ただ命じられるままにふるまっただけなのです、どうかお許しを」
 「わかった、わかった。すまないが、肩を貸してくれないか。あの和尚のかんしゃく玉が爆ぜる前にな」
 がくがくと頷き、智深が背中越しに投げ返した水火棍をあたふたと拾い上げ、林冲の分の荷物も背負った董超たちに両側から支えられ、林冲はゆっくりと歩き始める。
 「次に店を見つけたら、そこで休むからな。それまでちゃんと、弟を支えて歩くんだぞ。わかったな!」
 「はい……」
 蚊の鳴くような声で返事をした董超たちが、大人しく己の命に従っていることに満足した様子の智深は、大股に、しかし林冲の歩みが厳しくならないようにゆっくりと、一行を先導し始めた。