魔術師ギルドの塔——約1820年前
* * *
二つの血が、器の中で渦を描き始めた。
人間の深紅と、魔族の暗赤色——まだ混ざらない。
俺は息を殺した。
(頼む……)
周囲では侍祭たちが詠唱を続けている。誰も口を開かない。
創世以来、人と魔族の血は決して交わらなかった。それが世界の理だ。
我々は魔族の血を女神に捧げ、力を得る。魔族もまた、我々の血を捧げて力を得る。どちらも、相手を殺さなければ女神の恩寵に与れない。
(呪われた天秤だ。あまりに公平すぎる)
だが——もしこの儀式が成功すれば。
(融合した血があれば、俺たち自身の血もまた供物になる。二つの源から、同時に力を引き出せる)
(一方的に力を得られる)
渦がわずかに速くなった。
(頼む。混ざってくれ)
この道の大家たちは、愚行だと断じた。不可能な夢だと嘲笑った。だが、俺は諦めなかった。
渦が——収束し始めた。
二つの色が、一つに溶けていく。濁った赤が、透明な結晶へと変わっていく。
(まさか……)
完璧な水晶の球体が、器の中に浮かんでいた。
「……できた」
声が掠れた。
「できた……!」
侍祭たちの詠唱が止まった。誰もが、器の中の球体を見つめている。信じられないという顔。いや——信じたくないという顔か。
構わない。
「やったぞ!」
喉が裂けそうだった。
「術式が均衡を保っている! いけるぞ!」
両腕を上げた。
「今だ! 供物を天へ!」
侍祭たちが我に返り、詠唱を再開した。空中に青白い魔法陣が浮かび上がる。光のルーン文字が明滅する。
血の球体が静かに浮かび上がり、魔法陣の中核へと吸い寄せられた。
光の奔流が放たれた。
轟音。万物が震える。光の柱が天窓を貫き、天へと昇っていく。
いつも通りだ。供物は、正しく捧げられた。
(勝った)
侍祭たちが涙を流している。
(俺たちは、勝ったんだ——)
……ピキリ、と。
遥か上空で、音がした。
亀裂の音。
光の柱が、消えた。
静寂。
誰も動かない。
「……何が……」
声が出ない。喉が凍りついたように動かなかった。
魔法陣が、狂ったように明滅し始めた。青い光が引きつるように揺れている。ルーンが乱れ飛び、形を保てずにいる。
「制御不能だ!」
侍祭の誰かが叫んだ。声が遠い。
耳鳴りがする。甲高い共鳴音が、頭蓋の内側を引っ掻いている。
光が——膨れ上がった。
パリン。
ガラスが砕けるような音。すべての光の紋様が一度に砕け散り、夜空の塵となって消えた。
天との繋がりが、断たれた。
(まさか)
見上げた。
天に、亀裂が走っていた。
髪の毛ほどの細い線。だが、それは広がっていく。稲妻のように枝分かれしながら、空の端から端へと。
(俺が……壊した……?)
天が、砕けた。
音はなかった。
ただ、青い破片が降ってきた。幾千もの欠片が、幽玄な炎を尾に引いて落ちてくる。美しかった。神聖な硝子の彗星のようだった。
だが、その一つ一つが——
冷たい。
肌を貫いて、魂まで凍てつく。空気が変わった。鋭く、刺すような冷気。呼吸するだけで肺が凍る。
最初の破片が、遠くの山に突き刺さった。
蒼い光が、花のように咲いた。山が、凍っていく。
(俺が……これを……)
衝撃波が来た。
吹き飛ばされた。息が奪われる。背中が叩きつけられる。骨がきしんだ。
青い光の中に、何かが見えた。
顔だ。
かつては星々の光を宿していたであろう瞳。哀しみに歪む唇。
(女神……?)
視界がぼやけていく。青に呑まれていく。
最後に浮かんだのは——
妻の、微笑み。
娘の、笑い声。
(みんな……ごめん……)
冷たい。
何も感じなくなった。
* * *
かくして、女神たちは堕ちた。
その砕けた神体から漏れ出す光は、やがて世界を蝕む聖なる穢れとなった。