本作は、以前公開した短編『異常です』と
同一世界・同一人物を共有しています。
ただし、前作を読んでいなくても
支障なく読めるよう構成されています。
記録が是正されたあとに残るものが、
本当に「正常」なのかどうか。
その確認として書きました。
是正は、すでに完了していた。
異常検知以降、該当区画に関する追加報告はなく、再発も確認されていない。
数値はすべて基準範囲内に収まり、対応手順にも逸脱はなかった。
私の業務は、その確認を記録することだった。
もっとも、私はもう現場の人間ではない。
施設警備員としての業務を離れてから、半年が経っている。
用事があって、久しぶりに施設を訪れた。
備品の返却と、書類の最終確認。
それだけの理由だった。
受付を通り、内部へ入る。
通路は明るく、床も張り替えられている。
以前の面影はほとんど残っていなかった。
問題のあった区画は、すでに改装されていた。
封鎖ではない。
撤去でもない。
現在は店舗として運用されている。
ガラス張りの外観。
白い照明。
商品棚が整然と並び、客が数人、買い物をしていた。
成功例だった。
是正とは、こういう形で完了する。
立ち止まる理由はなかったが、足が止まった。
以前、夜勤で何度も立っていた場所を、無意識に探していた。
床は張り替えられている。
柱の位置も変わっている。
記憶の中にある配置と一致する点は、ほとんどなかった。
「お、久しぶりだな」
背後から声をかけられた。
反射的に振り向いたが、返事が一拍遅れた。
名前を呼ばれた気がした。
そこに立っていた人物と、記憶がすぐに結びつかなかった。
「どうした。俺の顔、そんなに変わったか?」
冗談めいた口調だった。
笑っている。
その笑い方は、確かに知っているものだった。
「いえ……」
言葉を探したが、続かなかった。
「今はもう、ここじゃないんだろ」
「ええ。現場は離れました」
「だよな。あの頃は忙しかった」
“あの頃”という言い方が自然で、会話は問題なく続いた。
「改装、終わったんですね」
「ああ。すっかり変わった。
前の状態を知ってると、別の場所みたいだ」
私は頷いた。
その言葉に、引っかかりはなかった。
少し間が空く。
「……あの部屋の件は」
私がそう言った瞬間、相手は首を傾げた。
「どの部屋だ?」
「ほら、夜間に――」
「夜間?」
確認するような口調だった。
否定ではない。
思い出そうとしている顔だった。
「そんな報告、あったか?」
「……」
「少なくとも、俺は覚えてないな。
記録にも残ってなかったはずだ」
自然だった。
本当に知らない人の反応だった。
「そう、でしたか」
「何かあったのか?」
「いえ」
それ以上、言葉が続かなかった。
「まあ、対応済みってことだろ」
軽くそう言って、相手は笑った。
「問題があったなら、残ってるはずだからな」
私は何も返せず、ただ頷いた。
別れ際、「またな」と声をかけられた。
反射的に、「はい」と答えた。
そのとき、この人の顔を、以前から知っていたはずだという感覚だけが残った。
異常は、記憶として保存されていなかった。
思い出そうとすると、必ず同じところで止まる。
声は覚えている。
言い回しも、間の取り方も。
何度か一緒に夜勤を回したことも、確かにあった。
それなのに、顔だけが出てこない。
写真を思い浮かべようとすると、別の誰かになる。
記憶の中で、何度もすり替わる。
名前は残っている。
同じ名前の人が、今もそこにいる。
会話も成立する。
過去の出来事も共有している。
ただし、異常を除いて。
あの部屋のことを考えた瞬間、先輩の顔が曖昧になる。
逆に、顔を思い出そうとすると、部屋の構造が崩れる。
両方を同時に保持することができない。
どちらかを選べば、もう一方は是正される。
たぶん、先輩は消えたのではない。
異常を共有していた存在としての先輩が、記録から外された。
それだけだ。
店の前を通り過ぎたとき、視界の端に人影が映った。
反射的に足が止まる。
ガラス越しに、店内が見えた。
明るい照明の下、商品棚の間に、制服姿の警備員が立っていた。
私のよく知っている顔だった。
こちらを見ることもなく、客と同じ方向を向いて、穏やかに笑っていた。
一瞬だけ、確かに、そこにいた。
私は振り返った。
もう一度、同じ場所を見る。
そこには、商品と照明しかなかった。
警備員はいない。
立てるはずのない位置だった。
店内は静かで、客は買い物を続けている。
誰も立ち止まらない。
誰も報告しない。
この区画は、
すでに対応済みだった。
「異常が消える」ということは、
必ずしも「問題が解決する」ことではありません。
誰かと共有していたはずのものが、
共有できなくなった時点で、
それはもう記録から外れた存在になります。
本作は、
是正された側に取り残された人間の話です。