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ー/ー



 おぉ、ここが。
 詩鶴は住宅街にひっそりと建つ古民家の前で、ほぉと溜息を吐いた。

 東京都文京区にある駅を降り、下町風情溢れる商店街を抜けて少し歩くと、古き良き日本家屋とモダンな一戸建の家が混在し、ひしめく住宅街が現れる。その一画に、基の家はあった。
 「古民家だー…」
 「いや。古民家風のデザインってだけでそんな由緒正しいもんじゃない。そこまで古くもないしな。築十年くらいのものだよ」
 「そうなんですか。あ、よく見たら二階もあるんですね」
 詩鶴は肩の高さまである生垣から庭を覗き込んだ。3畳分くらいのささやかな広さの庭だが、縁側もあって情緒に溢れる。
 「編集者の伝手(つて)で紹介して貰った中古物件だよ。家主が手放そうってタイミングで買い取ったんだ」
 「何となくタワマン暮らしとかしてるのかと思ってました」
 「集合住宅は性に合わない。同じ窓、同じドアがずらっと並んでるだろ。中身だって似たような間取りでさ。そのひとつひとつの部屋の中で違う人間がそれぞれ違う自意識を持って違う人生を抱えてると思うと、想像力が疲れるんだ」
 「そんなふうに考えたことなかった。作家さんって、いつもそんな事考えてるんですか?」
 半ば呆れたように詩鶴が笑うと、基も口の片端だけを上げて「どうかな」と、笑った。

 お見合いから一ヶ月半。
 何度か基と会って話し合った結果、住まいは詩鶴が基の自宅に引っ越すという話で纏まった。戸建の持家で部屋も空いているからと、基から提案されたのだ。詩鶴の住んでいた賃貸アパートはとても二人では住めない広さだったし、当然そうなるかと詩鶴もすんなり受け入れた。
 今日から詩鶴はここに住む。
 これから自分が住む家だというのに、実を言うと、今日まで外観さえ見たことがなかった。事前に訪問する約束はしていたのだが、仕事と婚姻届提出、詩鶴の両親への挨拶に引越準備と、山のようなタスクを短い期間に詰め込んだ為、結局延び延びとなって引越当日を迎えてしまったのだ。
 思ったよりも温かい雰囲気に包まれたこの家を見て、詩鶴はほっと安心した。
 「あっ」
 庭を覗いていた詩鶴が大きな声を上げたので、基は少し驚いて詩鶴を見下ろした。
 「何?」
 「庭に猫がいました。飼ってるんですか?」
 「いや、野良か、散歩中のどこかの飼い猫じゃないかな。この辺ではよく見かけるよ」
 可愛い、と詩鶴は目尻を下げた。一歩後ろに立っていた基は、目を細めて詩鶴を見下ろす。
 「機嫌がいいな」
 「そ…そうですか?」
 「いつもよりよく笑う」
 「そりゃまぁ…やらなきゃいけないことも大体片付いたし荷物も運び込んだし、ちょっと一安心というか…猫もかわいかったし」
 「ふぅん」
 基は思案深い顔で腕組みをした。
 「な…何か変でした?」
 「いや。君の機嫌はそういうことで良くなるんだなと思ってさ」
 「単純だと思ってるでしょう」
 「単純でいいじゃないか。新妻がご機嫌で不愉快になる男なんていないよ」
 「新妻…」
 どことなく生々しい響きの単語に居心地の悪さを感じて、詩鶴はもぞもぞと爪先を揺らす。
 「中に入ろうか」
 基はそう言って、詩鶴の肩を抱いて誘導した。ぐっと近付いた距離に、詩鶴の心臓が一瞬、大きく跳ねた。だが基はまったく気に留めず涼しい顔をしている。
 そう。そうなんだよ。またコレですよ。
 詩鶴はそう心の中で、居()らぬ誰かに語り掛けるように溜息を吐いた。
 何度か会って知った。
 この男、こと異性相手の振る舞いにおいて、妙にスマートというか、こなれた振る舞いをしてくるのだ。こうしてさらっと肩を抱いたり髪や頬に触れたり、さも当然のようにパーソナルスペースに侵入してくる。光稀は奥手だったから、いい歳した成人男女が手を繋ぐだけで三ヶ月近くかかった。そのペースに慣らされていた詩鶴には、刺激が強い。だがそれを指摘して改善を請うのも、どうも気が進まない。というか率直に言えば、何となく悔しい。
 こっそり窺い見る基の表情はいつも通り淡白なもので、この程度の触れ合いは庭を訪れた猫の頭を撫でるのと同じ、とでも思っていそうな雰囲気だった。自分だけがいちいちドキドキそわそわしているというだけでも充分(むな)しいのに、その上小娘のように大騒ぎして彼に鼻で笑われでもしようものなら、沽券に関わる。我ながらつまらない虚勢だった。
 「君の部屋は二階に用意した。荷物もそこに運んであるから、案内するよ」
 玄関で靴を脱ぐ基は、近付いた時と同様、ごく自然にするりと体を離した。詩鶴はほっとしつつ、二階へ続く階段を見上げた。
 二階には八畳程度の部屋が二部屋あった。家屋の広さはそこそこなのに二部屋しかないのは、二階が一階より面積が狭い為だ。表からは見えなかったが、通りの裏に面した位置に一部屋分の広いルーフバルコニーがある為だという。一部屋は寝室として使っているがもう一部屋は基本的に使っていないから詩鶴の自由にしていいと、基は言った。
 玄関も廊下も二つの部屋も、全体的にすっきりと片付いていた。詩鶴のアパートの方が狭いから管理は楽な筈なのに、それよりずっと掃除も行き届いている。一人暮らしでもしっかり細やかな生活しているんだなぁ、と、素直に感心した。
 「瀬尾さんの部屋はどこですか?」
 二階を一通り見た後、階段を下りながら詩鶴が尋ねる。基は廊下を挟んでリビングの反対側にある部屋のドアを指し示した。
 「そこ。仕事部屋。自由に入っていいけど、あんまり勧めない。見ない方がいいと思う」
 「そう言われたら覗きたくなりますよ」
 「別にいいけど。気をつけて」
 部屋を覗くのに何を気を付けるようなことがあるのかと首を傾げながら、詩鶴はそろりとドアを薄く開けた。
 そして、数秒間無言で眺めた後、足を踏み入れる事なくぱたんとドアを閉じた。
 「……魔窟」
 「だから見ない方がいいって言ったんだ」
 部屋の中央にはデスクと椅子があり、その真ん中に開きっぱなしのノートパソコンがあった。だが、周りにうず高く積み上げられた本や紙で、今にも押し潰されてしまいそうだった。そして壁面も一面の本棚。溢れんばかりに本が詰め込まれている。床には余白などない。とにかく目に付くのは本。本、本、本、ひたすら本だ。ダンボールや背の低いカラーボックスなどの収納に無造作に本と紙が詰め込まれ、床にも積み上げられている。そしてそれが雪崩を起こしている場所もあった。その上に脱ぎ捨てた服やくしゃくしゃに丸まったブランケット、飲みかけのペットボトル飲料などがトッピングのように散りばめられていた。
 入っていいと言われても、入り方がわからない。歩くスペースを見つけるのすら至難だ。
 「…どうしてこうなったんです?」
 「書斎を兼ねてるからかな」
 「そういう次元じゃないです」
 「元々掃除とか片付けは苦手なんだよ。他の部屋は定期的にハウスキーパーに入って貰ってるけど、ここだけは他人に任せられないから必然的にこうなる」
 自然の(ことわり)だとでもいうように平然とのたまう基に、詩鶴は無言で首を振った。
 「この環境で仕事できるんですか?」
 「PCか紙とペンがあれば何処でも出来る。作家の部屋なんて皆こんなもんだ」
 「嘘だ。綺麗好きな作家さんだって絶対いる筈です」
 「僕だって綺麗な状態の部屋で過ごすのは好きだよ。片付けるのが好きじゃないだけだ。だから掃除は業者に依頼してる。あぁそうだ、読みたい本とかあれば勝手に持って行っていいよ」
 「読みたい本を見つけ出す自信がないです」
 基は喉の奥で小さく笑って、詩鶴の頭にぽんと手を乗せた。
 「リビングやキッチンは綺麗だから安心しなよ。君も着いたばかりなんだから、少し休めば?」
 基ははぐらかすように詩鶴の横をすり抜けて、リビングのドアを開けた。
 まずはキッチンに入った。そこでまたしても詩鶴は呆気に取られる。基の言う通り、綺麗といえば綺麗だ。しかし──綺麗すぎる。それもその筈、散らかるほどに物がないのだ。
 「炊飯器は?食器類は?鍋とかフライパンは?」
 あれはこれはと場所を確認する詩鶴への返答は、ほとんどが「ない」だった。あるのは電子レンジと電気ケトルのみ。
 「どうやってごはんを炊くんですか?」
 「炊かない。炊飯済のものが売ってるから」
 「お皿とコップくらい無いと困るでしょう?」
 「困らない。パックのまま温めるし、飲み物もペットボトルや缶に入ってる」
 箸やスプーン、フォークなどのカトラリーは使い捨てのものが買い置きしてあった。洗い物をしたくないのだろう。
 「苦手なの、片付けと掃除だけじゃないですね?」
 「一人暮らしの男の家なんてこんなもんだよ」
 「嘘だ…!絶対に嘘だ…!」
 全然、ちゃんと細やかな生活なんかしていなかった。
 やっぱり引越前に一度は訪問しておくべきだった。当然あるだろうと思っていたから、自分の家電や調理器具はあらかた処分してきてしまったのだ。炊飯器、調理器具の数々、全部そのまま持ってくればよかった。
 「…瀬尾さん。私の荷解きは後回しにします。今日は一緒にお買い物に行きましょう」
 「買い物?何か足りないものあったか?」
 「足りてるものがありますか?」
 「君がここで暮らすのに必要なものなら、好きに買えばいい。けどわざわざ買いに出るのは面倒だな。ネットで済むだろ」
 「すぐに使いたいものもあるし、私のだけじゃなくて瀬尾さんの分も買いたいんです。一緒に行きましょうよ。デザインの好みとかあるでしょう?」
 「僕の?必要ある?」
 「あります。家族になるなら食事くらいは一緒にしたいですもん」
 露骨に面倒臭そうな顔をしていた基は、詩鶴のその一言で「ふぅん」と態度を軟化させた。
 「なら行くか。妻の要望には誠意をもって応えないとな」
 上着を取ってくると言って、基はまた詩鶴の横をすり抜けていった。すれ違いざまに詩鶴の頬を手の甲で撫でていく。どこか甘い笑みを置いて、基はリビングから出て行った。その微笑みに、詩鶴は戸惑う。
 なんだろう。なんか。なんだかな。
 機嫌がいいのはそっちじゃないか。
 撫でられた箇所に集まる熱を散らすように、詩鶴は頬の横で手のひらをひらひらと振った。


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 おぉ、ここが。
 詩鶴は住宅街にひっそりと建つ古民家の前で、ほぉと溜息を吐いた。
 東京都文京区にある駅を降り、下町風情溢れる商店街を抜けて少し歩くと、古き良き日本家屋とモダンな一戸建の家が混在し、ひしめく住宅街が現れる。その一画に、基の家はあった。
 「古民家だー…」
 「いや。古民家風のデザインってだけでそんな由緒正しいもんじゃない。そこまで古くもないしな。築十年くらいのものだよ」
 「そうなんですか。あ、よく見たら二階もあるんですね」
 詩鶴は肩の高さまである生垣から庭を覗き込んだ。3畳分くらいのささやかな広さの庭だが、縁側もあって情緒に溢れる。
 「編集者の伝手《つて》で紹介して貰った中古物件だよ。家主が手放そうってタイミングで買い取ったんだ」
 「何となくタワマン暮らしとかしてるのかと思ってました」
 「集合住宅は性に合わない。同じ窓、同じドアがずらっと並んでるだろ。中身だって似たような間取りでさ。そのひとつひとつの部屋の中で違う人間がそれぞれ違う自意識を持って違う人生を抱えてると思うと、想像力が疲れるんだ」
 「そんなふうに考えたことなかった。作家さんって、いつもそんな事考えてるんですか?」
 半ば呆れたように詩鶴が笑うと、基も口の片端だけを上げて「どうかな」と、笑った。
 お見合いから一ヶ月半。
 何度か基と会って話し合った結果、住まいは詩鶴が基の自宅に引っ越すという話で纏まった。戸建の持家で部屋も空いているからと、基から提案されたのだ。詩鶴の住んでいた賃貸アパートはとても二人では住めない広さだったし、当然そうなるかと詩鶴もすんなり受け入れた。
 今日から詩鶴はここに住む。
 これから自分が住む家だというのに、実を言うと、今日まで外観さえ見たことがなかった。事前に訪問する約束はしていたのだが、仕事と婚姻届提出、詩鶴の両親への挨拶に引越準備と、山のようなタスクを短い期間に詰め込んだ為、結局延び延びとなって引越当日を迎えてしまったのだ。
 思ったよりも温かい雰囲気に包まれたこの家を見て、詩鶴はほっと安心した。
 「あっ」
 庭を覗いていた詩鶴が大きな声を上げたので、基は少し驚いて詩鶴を見下ろした。
 「何?」
 「庭に猫がいました。飼ってるんですか?」
 「いや、野良か、散歩中のどこかの飼い猫じゃないかな。この辺ではよく見かけるよ」
 可愛い、と詩鶴は目尻を下げた。一歩後ろに立っていた基は、目を細めて詩鶴を見下ろす。
 「機嫌がいいな」
 「そ…そうですか?」
 「いつもよりよく笑う」
 「そりゃまぁ…やらなきゃいけないことも大体片付いたし荷物も運び込んだし、ちょっと一安心というか…猫もかわいかったし」
 「ふぅん」
 基は思案深い顔で腕組みをした。
 「な…何か変でした?」
 「いや。君の機嫌はそういうことで良くなるんだなと思ってさ」
 「単純だと思ってるでしょう」
 「単純でいいじゃないか。新妻がご機嫌で不愉快になる男なんていないよ」
 「新妻…」
 どことなく生々しい響きの単語に居心地の悪さを感じて、詩鶴はもぞもぞと爪先を揺らす。
 「中に入ろうか」
 基はそう言って、詩鶴の肩を抱いて誘導した。ぐっと近付いた距離に、詩鶴の心臓が一瞬、大きく跳ねた。だが基はまったく気に留めず涼しい顔をしている。
 そう。そうなんだよ。またコレですよ。
 詩鶴はそう心の中で、居《お》らぬ誰かに語り掛けるように溜息を吐いた。
 何度か会って知った。
 この男、こと異性相手の振る舞いにおいて、妙にスマートというか、こなれた振る舞いをしてくるのだ。こうしてさらっと肩を抱いたり髪や頬に触れたり、さも当然のようにパーソナルスペースに侵入してくる。光稀は奥手だったから、いい歳した成人男女が手を繋ぐだけで三ヶ月近くかかった。そのペースに慣らされていた詩鶴には、刺激が強い。だがそれを指摘して改善を請うのも、どうも気が進まない。というか率直に言えば、何となく悔しい。
 こっそり窺い見る基の表情はいつも通り淡白なもので、この程度の触れ合いは庭を訪れた猫の頭を撫でるのと同じ、とでも思っていそうな雰囲気だった。自分だけがいちいちドキドキそわそわしているというだけでも充分|空《むな》しいのに、その上小娘のように大騒ぎして彼に鼻で笑われでもしようものなら、沽券に関わる。我ながらつまらない虚勢だった。
 「君の部屋は二階に用意した。荷物もそこに運んであるから、案内するよ」
 玄関で靴を脱ぐ基は、近付いた時と同様、ごく自然にするりと体を離した。詩鶴はほっとしつつ、二階へ続く階段を見上げた。
 二階には八畳程度の部屋が二部屋あった。家屋の広さはそこそこなのに二部屋しかないのは、二階が一階より面積が狭い為だ。表からは見えなかったが、通りの裏に面した位置に一部屋分の広いルーフバルコニーがある為だという。一部屋は寝室として使っているがもう一部屋は基本的に使っていないから詩鶴の自由にしていいと、基は言った。
 玄関も廊下も二つの部屋も、全体的にすっきりと片付いていた。詩鶴のアパートの方が狭いから管理は楽な筈なのに、それよりずっと掃除も行き届いている。一人暮らしでもしっかり細やかな生活しているんだなぁ、と、素直に感心した。
 「瀬尾さんの部屋はどこですか?」
 二階を一通り見た後、階段を下りながら詩鶴が尋ねる。基は廊下を挟んでリビングの反対側にある部屋のドアを指し示した。
 「そこ。仕事部屋。自由に入っていいけど、あんまり勧めない。見ない方がいいと思う」
 「そう言われたら覗きたくなりますよ」
 「別にいいけど。気をつけて」
 部屋を覗くのに何を気を付けるようなことがあるのかと首を傾げながら、詩鶴はそろりとドアを薄く開けた。
 そして、数秒間無言で眺めた後、足を踏み入れる事なくぱたんとドアを閉じた。
 「……魔窟」
 「だから見ない方がいいって言ったんだ」
 部屋の中央にはデスクと椅子があり、その真ん中に開きっぱなしのノートパソコンがあった。だが、周りにうず高く積み上げられた本や紙で、今にも押し潰されてしまいそうだった。そして壁面も一面の本棚。溢れんばかりに本が詰め込まれている。床には余白などない。とにかく目に付くのは本。本、本、本、ひたすら本だ。ダンボールや背の低いカラーボックスなどの収納に無造作に本と紙が詰め込まれ、床にも積み上げられている。そしてそれが雪崩を起こしている場所もあった。その上に脱ぎ捨てた服やくしゃくしゃに丸まったブランケット、飲みかけのペットボトル飲料などがトッピングのように散りばめられていた。
 入っていいと言われても、入り方がわからない。歩くスペースを見つけるのすら至難だ。
 「…どうしてこうなったんです?」
 「書斎を兼ねてるからかな」
 「そういう次元じゃないです」
 「元々掃除とか片付けは苦手なんだよ。他の部屋は定期的にハウスキーパーに入って貰ってるけど、ここだけは他人に任せられないから必然的にこうなる」
 自然の理《ことわり》だとでもいうように平然とのたまう基に、詩鶴は無言で首を振った。
 「この環境で仕事できるんですか?」
 「PCか紙とペンがあれば何処でも出来る。作家の部屋なんて皆こんなもんだ」
 「嘘だ。綺麗好きな作家さんだって絶対いる筈です」
 「僕だって綺麗な状態の部屋で過ごすのは好きだよ。片付けるのが好きじゃないだけだ。だから掃除は業者に依頼してる。あぁそうだ、読みたい本とかあれば勝手に持って行っていいよ」
 「読みたい本を見つけ出す自信がないです」
 基は喉の奥で小さく笑って、詩鶴の頭にぽんと手を乗せた。
 「リビングやキッチンは綺麗だから安心しなよ。君も着いたばかりなんだから、少し休めば?」
 基ははぐらかすように詩鶴の横をすり抜けて、リビングのドアを開けた。
 まずはキッチンに入った。そこでまたしても詩鶴は呆気に取られる。基の言う通り、綺麗といえば綺麗だ。しかし──綺麗すぎる。それもその筈、散らかるほどに物がないのだ。
 「炊飯器は?食器類は?鍋とかフライパンは?」
 あれはこれはと場所を確認する詩鶴への返答は、ほとんどが「ない」だった。あるのは電子レンジと電気ケトルのみ。
 「どうやってごはんを炊くんですか?」
 「炊かない。炊飯済のものが売ってるから」
 「お皿とコップくらい無いと困るでしょう?」
 「困らない。パックのまま温めるし、飲み物もペットボトルや缶に入ってる」
 箸やスプーン、フォークなどのカトラリーは使い捨てのものが買い置きしてあった。洗い物をしたくないのだろう。
 「苦手なの、片付けと掃除だけじゃないですね?」
 「一人暮らしの男の家なんてこんなもんだよ」
 「嘘だ…!絶対に嘘だ…!」
 全然、ちゃんと細やかな生活なんかしていなかった。
 やっぱり引越前に一度は訪問しておくべきだった。当然あるだろうと思っていたから、自分の家電や調理器具はあらかた処分してきてしまったのだ。炊飯器、調理器具の数々、全部そのまま持ってくればよかった。
 「…瀬尾さん。私の荷解きは後回しにします。今日は一緒にお買い物に行きましょう」
 「買い物?何か足りないものあったか?」
 「足りてるものがありますか?」
 「君がここで暮らすのに必要なものなら、好きに買えばいい。けどわざわざ買いに出るのは面倒だな。ネットで済むだろ」
 「すぐに使いたいものもあるし、私のだけじゃなくて瀬尾さんの分も買いたいんです。一緒に行きましょうよ。デザインの好みとかあるでしょう?」
 「僕の?必要ある?」
 「あります。家族になるなら食事くらいは一緒にしたいですもん」
 露骨に面倒臭そうな顔をしていた基は、詩鶴のその一言で「ふぅん」と態度を軟化させた。
 「なら行くか。妻の要望には誠意をもって応えないとな」
 上着を取ってくると言って、基はまた詩鶴の横をすり抜けていった。すれ違いざまに詩鶴の頬を手の甲で撫でていく。どこか甘い笑みを置いて、基はリビングから出て行った。その微笑みに、詩鶴は戸惑う。
 なんだろう。なんか。なんだかな。
 機嫌がいいのはそっちじゃないか。
 撫でられた箇所に集まる熱を散らすように、詩鶴は頬の横で手のひらをひらひらと振った。