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ー/ー



 どっと疲れて肩を落とす詩鶴を見て、基は解せないという風に首を傾げた。
 「何だ。あんまり気乗りしないみたいだな」
 「今の話で乗り気になる人います?」
 「いるとは思うけど、君はならないんだな」
 本気で不思議そうな顔をする基に、詩鶴は呆れた。
 「なら言い方を変えよう。──正直なところ僕は今まで、相手は誰でもいいと思ってた。実際最初の結婚はそれを実行した形だ。今回も、まぁ何度も見合いをするのも面倒だし適当に話を合わせて適当な相手を見つけて、さっさと子作りに入ろうと思ってた」
 「詐欺じゃないですか」
 「詐欺ではないだろ。利害は一致してるし親や夫としての責任は果たすつもりだ。……でも、君と会って気が変わった」
 「気が変わった?」
 うん、と基は何でもなさそうに頷いた。そういえばさっきも、そんなことを言っていたような気がする。
 「結婚して家庭を持つなら、相手は君がいい。そう思ったから、君がその気になるように、今言葉を尽くしてる」
 基はそう言って、薄く微笑った。思いがけない優しげな表情に、詩鶴の胸はどきっと脈打った。
 「な…なんで?」
 「気に入ったからかな」
 「そ…それこそ、なんで」
 わからなかった。
 気に入られるような事は、何もしていない。むしろ面倒くさい奴だと、基だって言っていたじゃないか。
 「なんで?具体的にこことここって列挙しようと思えば、そりゃ出来ない事もないけど。必要あるかな。人が人に好意を持つ理由なんて、ほとんど感覚的なものじゃないか」
 詩鶴は面食らった。こうも平然と口にされると、好意というものの定義までわからなくなってくる。
 「…散々理屈っぽいこと言っといて、大事なとこでそれ…?」
 思わず心の声が漏れる。それを聞いて基は、何故か満足そうに頷いた。
 「うん。強いて言えばそういうところだ」
 「そういうところって、どういうところ?」
 詩鶴の頭はますます混乱していく。
 基はテーブルに肘をついて乗り出し、詩鶴の顔を覗き込んだ。
 「混乱してるな?でもな、深く考えなくていい。お見合いの本分じゃないか。条件の合う相手と会って話して詳細を擦り合わせフィーリングが合うのかどうかを確認し、問題ないなら結婚する。だってそれが目的で来たんだろ?君と僕の間に、何か問題があるか?」
 「……そう、ですけど…」
 「煮え切らないな。何がネックだ?離婚歴?職業?顔?人間性?」
 「いや、それは…」
 婚姻歴に関して言えば、詩鶴だって書類の提出がまだだったというだけで、心は決まっていた。戸籍上の問題以外は似たようなものだ。離婚数が右肩上がりに増加しているこのご時世、バツイチなんて珍しくもない。子供がいないならほとんど影響はないだろう。職業だって詩鶴にはイメージし難い職種ではあるけれど、真面目に取り組みしっかり生計を立てているなら何も問題ない。顔も整った顔立ちだと思うし、もうちょっと髪型をさっぱりして欲しいと思うくらいで嫌だという訳じゃない。
 ならば、後は。
 「人間性…?」
 詩鶴がぼそっと呟くと、基は「成程」と言って腕組みをした。
 「そうか。不利だな。人間性と顔の好みはなかなか変えられない」
 「あ、すみません。今のは人間性が無理って意味じゃなくて、どんな人間性なのかまだよくわからないから引っ掛かってるのかなって意味の。独り言です」
 「成程。けどわからないなりに、生理的に合わないと感じる事もあるだろう?その辺はどうだ」
 「う?うーん…遠慮がなくてそこそこ感じ悪いとは思いますけど、変にべたついたお世辞言ってくる人とかよりはいいかな」
 「絶対に無理とか、そこまでではない?」
 「そうですね。そこまでではないです」
 「そう。なら良かった。まぁこの短時間でわからないのは仕方がない。他人の人間性なんてものはそう簡単には理解出来るもんじゃないよな。自分自身でもわからないこともあるし、長年一緒にいて理解したようでいても、わかったつもりになってただけって事もある」
 ぎくりとした。
 基が何を言わんとしているのか、すぐにわかった。
 数年の時間を共有してすっかり理解したつもりでいた光稀でさえ、突然掌を返した。何年かけてわかり合った気になったって、安心なんか出来ないということだ。完全に理解しようとすることに、そこに時間を費やすことに、何の意味があるだろう。
 そう思ったから、だから詩鶴は、今ここにいる。

 「……ちょっと、お手洗いに」

 詩鶴はがたんと椅子を鳴らして立ち上がった。基は頷いて、詩鶴を見上げる。
 「ごゆっくり。…なぁ、詩鶴さん」
 初めて名を呼ばれ、詩鶴はどきっとして動きを止めた。
 「よく言うだろ?走り回る犬は骨を見つける」
 「…初めて聞きました」
 「遠い国の、遠い民族に伝わる(ことわざ)だよ」
 「どういう意味ですか?」
 「何かを手に入れたければ、まず動かなきゃならない」
 夜の森のような色をした基の目は、どこか引力に似た類のものを宿している。
 その引力に取り込まれそうになるのを振り切るように、詩鶴は急いで席を離れた。

          ♢♢♢

 冷たい水が掌の泡を洗い流していく。
 鏡に映る自分の顔は、数ヶ月前よりほんの少し細くやつれ、くすんだ色をしていた。

 『初心に帰れ』

 基の声が、頭の中で何度も繰り返し再生され、詩鶴を急き立てる。
 詩鶴にとっての初心とは、なんだったろう。
 (進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む)
 あの味気ないドアの前で、そう自分を奮い立たせた、あの時のそれが、そうだ。

 「──よし」

 詩鶴はその時と同じ気持ちを取り戻して、トイレのドアを開けた。

 「おかえり」
 席に戻った詩鶴を、基は頬杖をついたまま出迎えた。
 詩鶴が腰を落ち着けると同時に、静かな声で言う。
 「もう一度言うよ。詩鶴さん、まずは僕と結婚しよう。夫婦に、家族になろう。子作りは、それからだ」
 詩鶴は膝の上で、ぎゅっと拳を握った。
 この気持ちを何と言うのだろう。語彙の豊富な基なら、上手な表現をすぐに見つけられるだろうか。
 部活の試合前。就活の面接。そんなのに近い、張り詰めた気持ち。
 いずれにせよ、戦いに赴くような気持ちだ。

 ぎゅっと目を閉じて、詩鶴は深々と頭を下げた。

 「…不束者ですが、よろしくお願いします」

 出会ってから、僅か数時間。

 詩鶴は結婚を決意した。



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 どっと疲れて肩を落とす詩鶴を見て、基は解せないという風に首を傾げた。
 「何だ。あんまり気乗りしないみたいだな」
 「今の話で乗り気になる人います?」
 「いるとは思うけど、君はならないんだな」
 本気で不思議そうな顔をする基に、詩鶴は呆れた。
 「なら言い方を変えよう。──正直なところ僕は今まで、相手は誰でもいいと思ってた。実際最初の結婚はそれを実行した形だ。今回も、まぁ何度も見合いをするのも面倒だし適当に話を合わせて適当な相手を見つけて、さっさと子作りに入ろうと思ってた」
 「詐欺じゃないですか」
 「詐欺ではないだろ。利害は一致してるし親や夫としての責任は果たすつもりだ。……でも、君と会って気が変わった」
 「気が変わった?」
 うん、と基は何でもなさそうに頷いた。そういえばさっきも、そんなことを言っていたような気がする。
 「結婚して家庭を持つなら、相手は君がいい。そう思ったから、君がその気になるように、今言葉を尽くしてる」
 基はそう言って、薄く微笑った。思いがけない優しげな表情に、詩鶴の胸はどきっと脈打った。
 「な…なんで?」
 「気に入ったからかな」
 「そ…それこそ、なんで」
 わからなかった。
 気に入られるような事は、何もしていない。むしろ面倒くさい奴だと、基だって言っていたじゃないか。
 「なんで?具体的にこことここって列挙しようと思えば、そりゃ出来ない事もないけど。必要あるかな。人が人に好意を持つ理由なんて、ほとんど感覚的なものじゃないか」
 詩鶴は面食らった。こうも平然と口にされると、好意というものの定義までわからなくなってくる。
 「…散々理屈っぽいこと言っといて、大事なとこでそれ…?」
 思わず心の声が漏れる。それを聞いて基は、何故か満足そうに頷いた。
 「うん。強いて言えばそういうところだ」
 「そういうところって、どういうところ?」
 詩鶴の頭はますます混乱していく。
 基はテーブルに肘をついて乗り出し、詩鶴の顔を覗き込んだ。
 「混乱してるな?でもな、深く考えなくていい。お見合いの本分じゃないか。条件の合う相手と会って話して詳細を擦り合わせフィーリングが合うのかどうかを確認し、問題ないなら結婚する。だってそれが目的で来たんだろ?君と僕の間に、何か問題があるか?」
 「……そう、ですけど…」
 「煮え切らないな。何がネックだ?離婚歴?職業?顔?人間性?」
 「いや、それは…」
 婚姻歴に関して言えば、詩鶴だって書類の提出がまだだったというだけで、心は決まっていた。戸籍上の問題以外は似たようなものだ。離婚数が右肩上がりに増加しているこのご時世、バツイチなんて珍しくもない。子供がいないならほとんど影響はないだろう。職業だって詩鶴にはイメージし難い職種ではあるけれど、真面目に取り組みしっかり生計を立てているなら何も問題ない。顔も整った顔立ちだと思うし、もうちょっと髪型をさっぱりして欲しいと思うくらいで嫌だという訳じゃない。
 ならば、後は。
 「人間性…?」
 詩鶴がぼそっと呟くと、基は「成程」と言って腕組みをした。
 「そうか。不利だな。人間性と顔の好みはなかなか変えられない」
 「あ、すみません。今のは人間性が無理って意味じゃなくて、どんな人間性なのかまだよくわからないから引っ掛かってるのかなって意味の。独り言です」
 「成程。けどわからないなりに、生理的に合わないと感じる事もあるだろう?その辺はどうだ」
 「う?うーん…遠慮がなくてそこそこ感じ悪いとは思いますけど、変にべたついたお世辞言ってくる人とかよりはいいかな」
 「絶対に無理とか、そこまでではない?」
 「そうですね。そこまでではないです」
 「そう。なら良かった。まぁこの短時間でわからないのは仕方がない。他人の人間性なんてものはそう簡単には理解出来るもんじゃないよな。自分自身でもわからないこともあるし、長年一緒にいて理解したようでいても、わかったつもりになってただけって事もある」
 ぎくりとした。
 基が何を言わんとしているのか、すぐにわかった。
 数年の時間を共有してすっかり理解したつもりでいた光稀でさえ、突然掌を返した。何年かけてわかり合った気になったって、安心なんか出来ないということだ。完全に理解しようとすることに、そこに時間を費やすことに、何の意味があるだろう。
 そう思ったから、だから詩鶴は、今ここにいる。
 「……ちょっと、お手洗いに」
 詩鶴はがたんと椅子を鳴らして立ち上がった。基は頷いて、詩鶴を見上げる。
 「ごゆっくり。…なぁ、詩鶴さん」
 初めて名を呼ばれ、詩鶴はどきっとして動きを止めた。
 「よく言うだろ?走り回る犬は骨を見つける」
 「…初めて聞きました」
 「遠い国の、遠い民族に伝わる諺《ことわざ》だよ」
 「どういう意味ですか?」
 「何かを手に入れたければ、まず動かなきゃならない」
 夜の森のような色をした基の目は、どこか引力に似た類のものを宿している。
 その引力に取り込まれそうになるのを振り切るように、詩鶴は急いで席を離れた。
          ♢♢♢
 冷たい水が掌の泡を洗い流していく。
 鏡に映る自分の顔は、数ヶ月前よりほんの少し細くやつれ、くすんだ色をしていた。
 『初心に帰れ』
 基の声が、頭の中で何度も繰り返し再生され、詩鶴を急き立てる。
 詩鶴にとっての初心とは、なんだったろう。
 (進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む)
 あの味気ないドアの前で、そう自分を奮い立たせた、あの時のそれが、そうだ。
 「──よし」
 詩鶴はその時と同じ気持ちを取り戻して、トイレのドアを開けた。
 「おかえり」
 席に戻った詩鶴を、基は頬杖をついたまま出迎えた。
 詩鶴が腰を落ち着けると同時に、静かな声で言う。
 「もう一度言うよ。詩鶴さん、まずは僕と結婚しよう。夫婦に、家族になろう。子作りは、それからだ」
 詩鶴は膝の上で、ぎゅっと拳を握った。
 この気持ちを何と言うのだろう。語彙の豊富な基なら、上手な表現をすぐに見つけられるだろうか。
 部活の試合前。就活の面接。そんなのに近い、張り詰めた気持ち。
 いずれにせよ、戦いに赴くような気持ちだ。
 ぎゅっと目を閉じて、詩鶴は深々と頭を下げた。
 「…不束者ですが、よろしくお願いします」
 出会ってから、僅か数時間。
 詩鶴は結婚を決意した。