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おやすみ、Wi-Fi

ー/ー



 深夜二時のアパートは、深い静寂に包まれている。

手元のスマホを点けると、画面の隅で小さな通知が瞬いた。



​『Wi-Fiに接続しました』


​しかし、それはいつもの回線ではなかった。


スピーカーから漏れ出す音は、古い短波ラジオのように微かなノイズを帯びている。


​「……こんばんは、ラジオ・アステリア。今夜もあなたの夢の続きをお届けします」


スマホの画面に目を落とすと、ブラウザが勝手に立ち上がっている。見たこともない街の風景。


空には、大小二つの月。青白い月光が降り注ぐ石畳の街路。

小さなカフェのテラスでは、風変わりな服を着た人々が楽しげに笑い、しっぽの長い猫たちがチェスの駒の間を縫うように跳ね回っている。

​「今日のテーマは、『忘れられた約束』です」


​パーソナリティの女性は、ゆったりとした調子で語り始める。



「幼い頃、引き出しの奥に隠したビー玉の行方。雨上がりの水たまりを飛び越えたら、どこまでも行ける気がしたあの日の熱。私たちは、たくさんの小さな約束を置き去りにして大人になります。でも、安心してください。この街では、あなたの忘れた約束たちが、今も大切に育てられています」

​一分、いや、一時間だっただろうか。


聴き続けるうちに、昼間の仕事で溜まった苛立ちや、SNSのタイムラインに並ぶ棘のある言葉たちが、音を立てて剥がれ落ちていく感覚があった。肺の奥まで澄んだ空気が入り込み、呼吸が驚くほど軽くなる。



画面の向こう、テラスに座っていた一人の老人が、ふとこちらを向いて帽子を軽く持ち上げた。まるですべてを見透かしているような、穏やかな微笑み。遠くの笑い声が風に混ざって、私の六畳間のカーテンを揺らした気がした。



​「……それでは、また。二つの月が重なる夜に」


​午前二時十五分。

不意に電波が静かに途切れ、画面の扇マークはいつもの自宅Wi-Fiへと戻った。


指先を滑らせれば、いつもの無機質なニュースサイトや広告が立ち上がる。

​「また明日ね」

​小さく呟いてスマホを置くと、深夜の部屋には自分の声の震えだけが残った。


胸の奥には、どこかで誰かが確かに私の存在を知っていてくれるような、不思議な温もりが灯っている。


​翌朝、目が覚めて履歴を確認しても、昨夜のサイトも番組も、何一つ残っていなかった。


それでも、カーテンを開けてベランダの植物に水をやると、見慣れたはずの街並みが、昨日より少しだけ鮮やかで、優しく見えた。






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 深夜二時のアパートは、深い静寂に包まれている。
手元のスマホを点けると、画面の隅で小さな通知が瞬いた。
​『Wi-Fiに接続しました』
​しかし、それはいつもの回線ではなかった。
スピーカーから漏れ出す音は、古い短波ラジオのように微かなノイズを帯びている。
​「……こんばんは、ラジオ・アステリア。今夜もあなたの夢の続きをお届けします」
スマホの画面に目を落とすと、ブラウザが勝手に立ち上がっている。見たこともない街の風景。
空には、大小二つの月。青白い月光が降り注ぐ石畳の街路。
小さなカフェのテラスでは、風変わりな服を着た人々が楽しげに笑い、しっぽの長い猫たちがチェスの駒の間を縫うように跳ね回っている。
​「今日のテーマは、『忘れられた約束』です」
​パーソナリティの女性は、ゆったりとした調子で語り始める。
「幼い頃、引き出しの奥に隠したビー玉の行方。雨上がりの水たまりを飛び越えたら、どこまでも行ける気がしたあの日の熱。私たちは、たくさんの小さな約束を置き去りにして大人になります。でも、安心してください。この街では、あなたの忘れた約束たちが、今も大切に育てられています」
​一分、いや、一時間だっただろうか。
聴き続けるうちに、昼間の仕事で溜まった苛立ちや、SNSのタイムラインに並ぶ棘のある言葉たちが、音を立てて剥がれ落ちていく感覚があった。肺の奥まで澄んだ空気が入り込み、呼吸が驚くほど軽くなる。
画面の向こう、テラスに座っていた一人の老人が、ふとこちらを向いて帽子を軽く持ち上げた。まるですべてを見透かしているような、穏やかな微笑み。遠くの笑い声が風に混ざって、私の六畳間のカーテンを揺らした気がした。
​「……それでは、また。二つの月が重なる夜に」
​午前二時十五分。
不意に電波が静かに途切れ、画面の扇マークはいつもの自宅Wi-Fiへと戻った。
指先を滑らせれば、いつもの無機質なニュースサイトや広告が立ち上がる。
​「また明日ね」
​小さく呟いてスマホを置くと、深夜の部屋には自分の声の震えだけが残った。
胸の奥には、どこかで誰かが確かに私の存在を知っていてくれるような、不思議な温もりが灯っている。
​翌朝、目が覚めて履歴を確認しても、昨夜のサイトも番組も、何一つ残っていなかった。
それでも、カーテンを開けてベランダの植物に水をやると、見慣れたはずの街並みが、昨日より少しだけ鮮やかで、優しく見えた。