五話 翠光ノ祠
ー/ー
翠光海岸の『翠光』の名は、海岸に『翠光石』と呼ばれる石が流れつくことに由来する。
翠光石は透明で翡翠色をしており、わずかな光を当てただけでキラキラと輝く特殊な石だ。
昼間は太陽光に押され翠光石の輝きは霞んでしまうが、夜になると翠光海岸の景色は一変する。
月光を受けた翠光石の光が海岸を埋め尽くし、翡翠色の煌めく幻想的な光景が視界を埋め尽くすのだ。
満月の夜は翠光石の輝きが最も強くなり、蛍火をも欺くと言われるほどである。
もう一つ翠光海岸には特徴があり、引き潮の際、海岸から海に浮かぶ小さな島へ伸びるように細い道が出現する。
満月の夜、海岸から翡翠色に輝く一本の道が現れる様は非常に神秘的だ。
いつしか翠光石には亡き人の魂が宿り、あの世へ旅立つため魂を輝かせ、満月の夜に道を渡るのだと言い伝えられるようになっていった。
やがて言い伝えは信仰となり、道の終着点にある小さな島には鳥居が建ち、翠光海岸で見つかった大きな翠光石が置かれるようになった。
その翠光石は『翠光ノ祠』と呼ばれるようになり、亡き人の魂をあの世へ送る力があると信じられている。
月光に照らされ、翡翠色に瞬く海岸と道の先に、紅の鳥居と翠光ノ祠が煌々と輝いている姿は、見る者に向こうへ渡れば彼岸があるのではないかと予感させた。
地元に住む信心深い人々は満月のたび翠光ノ祠を参拝に行くが、そうでない人も光り輝く翠光海岸を見るために訪れ、満月の夜は人で賑わう。
満月でなくとも月が出ていれば翠光石は輝くため、「淡い光の方が奥ゆかしくて風流だ」という理由で満月以外の月夜もそれなりに人が集まる。
しかし、新月の夜は別だ。
引き潮のため道は出現するものの、翠光石は輝かず翠光海岸はただの暗い海となってしまう。もちろん参拝客も観光客もおらず、静かで寂しい海だけが広がっている。
卯月の朔日である今日も新月のため、とうに日が暮れた海岸に人の気配はない。
海岸近くの防風林に身を隠し、翠光ノ祠を見張っている虎次郎は、うんざりしながら大きなあくびをした。
月光はないが雲が少なく星明りが届き、翠光石がわずかに光っているとはいえども、儚すぎて一寸先の闇すら照らしていない。
そんな海岸を見つめて早四日、さすがの虎次郎も集中力が切れていた。
色見部隊が護衛している飛炎は、四日前に滞りなく二つ目の試練を終えた。
翠光海岸に向かう途中で笹藍村から撤退した竹班と合流し、全員が揃った色見部隊は再度三班に分けられることになった。
深桜山の試練に篠月あぐりが現れた可能性がある以上、二つ目の試練の場である翠光ノ祠にも篠月と誘拐犯が現れる可能性が高い。そのため色見部隊は彼女たちを捜すべく、三班に分かれ行方を追っている。
翠光海岸に近くの村や町を探る松班、飛炎を護衛しながら第三の試練の場へ向かう竹班、そして翠光ノ祠を監視する虎次郎たち梅班だ。
色見部隊の他にも、翠光海岸に続く道の随所に兵や森が配置され、厳重な警戒態勢を敷かれることになっている。
翠光ノ祠の近くで見張っていては、現地の人に不審がられ、他国の刺客に色見の場所がばれてしまう可能性がある。そして誘拐犯も兵士を警戒して姿を現さないと踏んで、梅班の兵士たちは海岸から離れた位置にある防風林や岩陰に身を隠して祠を見張ることになった。
防風林に身を潜める虎次郎の耳には、遠くから響く波の音と、松の木が風に吹かれる音だけが聞こえている。
「なんだって俺が梅班に……」
虎次郎は顔をしかめてつぶやく。「梅班には目の良いやつが集められたからなぁ」と、虎次郎の隣にいた若い兵士が苦笑した。
「よかったじゃないか、色見と離れられて。あいつのこと気味悪がってただろ」
「お前だって気味悪がってたじゃねぇか……。まぁ、あいつと話さなくていいのは楽だけど、一日中祠見張るってのも辛ぇよ……」
人一倍目の良い虎次郎は梅班に入れられ、飛炎の記録係は一時的に別の兵士がやることになった。このまま俺に係が戻って来ないでほしいと虎次郎は切に願っている。
竹班に入った冬馬は、今も飛炎に心を開かせようと頑張っているのだろうか。
「あいつら今頃どの辺にいるのかな……」と、虎次郎はぼんやりと考えた。
「竹班のことか? なんでも伍頭山で土砂崩れが起きたらしいから、足止め食ってるんじゃないかな。まだ十束町ぐらいだろ」
「そこなら明日の朝出発すりゃぁ二、三日で追いつけそうだな」
六日前この辺りは大雨となり、海が荒れたため翠光ノ祠に行くことができず、二日足止めを食った。四日前に雨は止んだが、竹班が向かった伍頭山付近は未だ雨が降り続いており、順調に進むことはできていないだろう。
小さく会話をしながらも、虎次郎は海岸から視線を外さない。変わり映えしない暗い景色に、虎次郎はまたあくびをもらした。
「こんな闇の中のこのこ来ないだろ。灯りになるもん持ってたって、心許なさすぎる。あんな人一人歩くのがやっとの細い道を歩こうなんて思わねぇよ。薄暗い中、波に足を取られて海にドボンだ」
翠光石の光でかすかに見える道を見ながら虎次郎は言う。新月の夜に、海にできた道を歩こうなんて正気の沙汰じゃない。ただでさえぬかるんで歩きにくい砂の道だというのに、暗闇の中歩くなんて無謀すぎる。
「そうだな。そろそろ十二ノ刻も過ぎる。誰も来る気配がないし、もう色見は来ないんじゃないか? まさかこんな闇の中、灯りも持たずに道を渡るなんてことしないだろ」
「それこそ自殺行為だ。それに、いくら闇に忍んだって、道を渡ってりゃさすがに俺たちも気付くさ」
色見の二つ目の試練の期限は今日の十二ノ刻までだ。さすがにこの時間まで姿を現さないのなら、もう来ることはないだろう。さっさと撤収したいものである。
「結局、誘拐犯の目的はなんなんだろうな」と虎次郎はつぶやく。
試練の場に来なかったということは、色見を虚色の王にする気はないということか。それとも、兵士が見張っていることに気付き、捕まる事を恐れ諦めて撤退したのだろうか。
「さあな……。ただの人攫いに攫われたんじゃないか? 色見の娘だって言って好色家に売りつけられたんだろ」
「どうやってその娘が色見だって証明するんだよ。それに、人攫いの連中をあらかた締め上げたけど、色見の娘らしき女子はいなかったらしいじゃんか」
虎次郎はあくびを噛み殺しながら返す。「やっぱり、獣に食われたのかねぇ……」と、兵士はあくびをしながら間延びした口調で言った。
深桜山の乱闘騒ぎは、ただの酔っ払いたちの喧嘩で、色見は関係なかったのか。それなら、笹藍村の死体を偽装したのは何のためだったのだろう。そもそも、誘拐犯は存在しているのか。
篠月あぐりは、どこに消えてしまったというのか。
虎次郎は海岸を見ながら考える。
重たい瞼を上げるため、あと少しの辛抱だと虎次郎は自分に言い聞かせ目を開き、翠光ノ祠を凝視した。
子供の背丈ほどの大きさの祠は、星明りを受けかすかに光っているため、遠目に薄っすらと輪郭が見える。傍目には海の上に佇む亡霊のようだ。目の悪い者には、そもそも輪郭すら見ることができないほど小さな光である。そこに祠があることを知らないなら、不知火が現れたとでも思うかもしれない。
「ん?」
虎次郎は思わず声をこぼす。
祠の輪郭に、一瞬影が差したような気がしたのだ。
「どうした、虎次郎?」と、兵士は怪訝そうな声を出す。
「今、一瞬だけ翠光ノ祠に人影が見えた……」
虎次郎は祠から目をそらさずに答える。
「はぁ?」と兵士は眉を寄せて祠の方を見つめたが、「なにもないぞ」と困惑した声色で返してきた。
。oOo。.:*:.。oOo。.:*:.。oOo。
海のことなどなにも知らなかったあぐりは、海の水が冷たくてしょっぱいこと、海の中では体が思うように動かず苦しいということを、この短時間で嫌というほど味わった。
祢墨に抱えられる形で暗い海の中を泳ぎ切ったあぐりは、たどり着いた翠光ノ祠の島に這いつくばる。
待ち望んだ陸地だ。
ようやく満足に息ができて、あぐりはむせ込みながら呼吸を繰り返した。
海水に濡れて全身が重い。
慣れない遊泳で何度も海水を飲み込んでしまったため、肺やら気道やらが痛かった。
「大丈夫、ゆっくり息をして」
祢墨はあぐりの背中を撫でながら言う。
あぐりを抱えて泳いだというのに、祢墨の顔に疲労の色はなかった。
返事をしたいのに、海水で冷えた体がガタガタと震えてまともに声を出せない。
試練の期限ギリギリにはなるが、決行は月光のない卯月の朔日に行うことになった。
わずかな星明りしか届かず、かすかにしか翠光石が光らなくても、その光さえあれば祢墨は迷わずに翠光ノ祠を目指すことができる。
暗闇が味方してあぐりたちの姿を闇夜に隠してくれるため、新月の夜は最も動きやすい時間だった。
だが、翠光海岸近くには兵士が潜んでいたため、新月の夜といえども迂闊に海岸に近づいたらすぐに捕まってしまう。
そこで祢墨が考えたのは、翠光海岸から離れており兵士が監視していない場所から海に入り、泳いで祠まで行くという作戦だった。
泳げないあぐりはその作戦を聞いたとき不安しか感じなかった。
しかし、祢墨が「大丈夫だよ、僕が支えていくから。それにあぐり、なんでもするって言ったよね?」と言うものだから、あぐりは彼を信じて作戦に乗った。
簡単に「分かった」と承諾した自分に少し恨みを覚えたが、結果として兵士に捕まらずに祠まで来られたのでよしとしよう。
「ここで待ってる。頑張って」
祢墨に背中を押され、あぐりは「うん」と頷きなんとか立ち上がった。
あぐりは引き寄せられるようにして翠光ノ祠へと近づいていく。海岸に転がっている翠光石とは比べ物にならないほど大きな祠は、あぐりが一歩近づくたびに輝きを増しているように見える。
重い足を引きずって祠のすぐ近くまで行き、静かに両手を祠に添えると、なんの脈絡もなくあぐりの視界は暗転した。
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|翠光《すいこう》海岸の『翠光』の名は、海岸に『|翠光石《すいこうせき》』と呼ばれる石が流れつくことに由来する。
翠光石は透明で翡翠色をしており、わずかな光を当てただけでキラキラと輝く特殊な石だ。
昼間は太陽光に押され翠光石の輝きは霞んでしまうが、夜になると翠光海岸の景色は一変する。
月光を受けた翠光石の光が海岸を埋め尽くし、翡翠色の煌めく幻想的な光景が視界を埋め尽くすのだ。
満月の夜は翠光石の輝きが最も強くなり、蛍火をも欺くと言われるほどである。
もう一つ翠光海岸には特徴があり、引き潮の際、海岸から海に浮かぶ小さな島へ伸びるように細い道が出現する。
満月の夜、海岸から翡翠色に輝く一本の道が現れる様は非常に神秘的だ。
いつしか翠光石には亡き人の魂が宿り、あの世へ旅立つため魂を輝かせ、満月の夜に道を渡るのだと言い伝えられるようになっていった。
やがて言い伝えは信仰となり、道の終着点にある小さな島には鳥居が建ち、翠光海岸で見つかった大きな翠光石が置かれるようになった。
その翠光石は『翠光ノ祠』と呼ばれるようになり、亡き人の魂をあの世へ送る力があると信じられている。
月光に照らされ、翡翠色に瞬く海岸と道の先に、紅の鳥居と翠光ノ祠が煌々と輝いている姿は、見る者に向こうへ渡れば彼岸があるのではないかと予感させた。
地元に住む信心深い人々は満月のたび翠光ノ祠を参拝に行くが、そうでない人も光り輝く翠光海岸を見るために訪れ、満月の夜は人で賑わう。
満月でなくとも月が出ていれば翠光石は輝くため、「淡い光の方が奥ゆかしくて風流だ」という理由で満月以外の月夜もそれなりに人が集まる。
しかし、新月の夜は別だ。
引き潮のため道は出現するものの、翠光石は輝かず翠光海岸はただの暗い海となってしまう。もちろん参拝客も観光客もおらず、静かで寂しい海だけが広がっている。
卯月の朔日である今日も新月のため、とうに日が暮れた海岸に人の気配はない。
海岸近くの防風林に身を隠し、翠光ノ祠を見張っている|虎次郎《こじろう》は、うんざりしながら大きなあくびをした。
月光はないが雲が少なく星明りが届き、翠光石がわずかに光っているとはいえども、儚すぎて一寸先の闇すら照らしていない。
そんな海岸を見つめて早四日、さすがの虎次郎も集中力が切れていた。
色見部隊が護衛している|飛炎《ひえん》は、四日前に滞りなく二つ目の試練を終えた。
翠光海岸に向かう途中で|笹藍村《ささあいむら》から撤退した竹班と合流し、全員が揃った色見部隊は再度三班に分けられることになった。
|深桜山《みおうざん》の試練に|篠月《しのつき》あぐりが現れた可能性がある以上、二つ目の試練の場である翠光ノ祠にも篠月と誘拐犯が現れる可能性が高い。そのため色見部隊は彼女たちを捜すべく、三班に分かれ行方を追っている。
翠光海岸に近くの村や町を探る松班、飛炎を護衛しながら第三の試練の場へ向かう竹班、そして翠光ノ祠を監視する虎次郎たち梅班だ。
色見部隊の他にも、翠光海岸に続く道の随所に兵や森が配置され、厳重な警戒態勢を敷かれることになっている。
翠光ノ祠の近くで見張っていては、現地の人に不審がられ、他国の刺客に色見の場所がばれてしまう可能性がある。そして誘拐犯も兵士を警戒して姿を現さないと踏んで、梅班の兵士たちは海岸から離れた位置にある防風林や岩陰に身を隠して祠を見張ることになった。
防風林に身を潜める虎次郎の耳には、遠くから響く波の音と、松の木が風に吹かれる音だけが聞こえている。
「なんだって俺が梅班に……」
虎次郎は顔をしかめてつぶやく。「梅班には目の良いやつが集められたからなぁ」と、虎次郎の隣にいた若い兵士が苦笑した。
「よかったじゃないか、色見と離れられて。あいつのこと気味悪がってただろ」
「お前だって気味悪がってたじゃねぇか……。まぁ、あいつと話さなくていいのは楽だけど、一日中祠見張るってのも辛ぇよ……」
人一倍目の良い虎次郎は梅班に入れられ、飛炎の記録係は一時的に別の兵士がやることになった。このまま俺に係が戻って来ないでほしいと虎次郎は切に願っている。
竹班に入った|冬馬《とうま》は、今も飛炎に心を開かせようと頑張っているのだろうか。
「あいつら今頃どの辺にいるのかな……」と、虎次郎はぼんやりと考えた。
「竹班のことか? なんでも|伍頭山《ごずざん》で土砂崩れが起きたらしいから、足止め食ってるんじゃないかな。まだ|十束《とつか》|町《まち》ぐらいだろ」
「そこなら明日の朝出発すりゃぁ二、三日で追いつけそうだな」
六日前この辺りは大雨となり、海が荒れたため翠光ノ祠に行くことができず、二日足止めを食った。四日前に雨は止んだが、竹班が向かった伍頭山付近は未だ雨が降り続いており、順調に進むことはできていないだろう。
小さく会話をしながらも、虎次郎は海岸から視線を外さない。変わり映えしない暗い景色に、虎次郎はまたあくびをもらした。
「こんな闇の中のこのこ来ないだろ。灯りになるもん持ってたって、心許なさすぎる。あんな人一人歩くのがやっとの細い道を歩こうなんて思わねぇよ。薄暗い中、波に足を取られて海にドボンだ」
翠光石の光でかすかに見える道を見ながら虎次郎は言う。新月の夜に、海にできた道を歩こうなんて正気の沙汰じゃない。ただでさえぬかるんで歩きにくい砂の道だというのに、暗闇の中歩くなんて無謀すぎる。
「そうだな。そろそろ十二ノ刻も過ぎる。誰も来る気配がないし、もう色見は来ないんじゃないか? まさかこんな闇の中、灯りも持たずに道を渡るなんてことしないだろ」
「それこそ自殺行為だ。それに、いくら闇に忍んだって、道を渡ってりゃさすがに俺たちも気付くさ」
色見の二つ目の試練の期限は今日の十二ノ刻までだ。さすがにこの時間まで姿を現さないのなら、もう来ることはないだろう。さっさと撤収したいものである。
「結局、誘拐犯の目的はなんなんだろうな」と虎次郎はつぶやく。
試練の場に来なかったということは、色見を虚色の王にする気はないということか。それとも、兵士が見張っていることに気付き、捕まる事を恐れ諦めて撤退したのだろうか。
「さあな……。ただの人攫いに攫われたんじゃないか? 色見の娘だって言って好色家に売りつけられたんだろ」
「どうやってその娘が色見だって証明するんだよ。それに、人攫いの連中をあらかた締め上げたけど、色見の娘らしき女子はいなかったらしいじゃんか」
虎次郎はあくびを噛み殺しながら返す。「やっぱり、獣に食われたのかねぇ……」と、兵士はあくびをしながら間延びした口調で言った。
深桜山の乱闘騒ぎは、ただの酔っ払いたちの喧嘩で、色見は関係なかったのか。それなら、笹藍村の死体を偽装したのは何のためだったのだろう。そもそも、誘拐犯は存在しているのか。
篠月あぐりは、どこに消えてしまったというのか。
虎次郎は海岸を見ながら考える。
重たい瞼を上げるため、あと少しの辛抱だと虎次郎は自分に言い聞かせ目を開き、翠光ノ祠を凝視した。
子供の背丈ほどの大きさの祠は、星明りを受けかすかに光っているため、遠目に薄っすらと輪郭が見える。傍目には海の上に佇む亡霊のようだ。目の悪い者には、そもそも輪郭すら見ることができないほど小さな光である。そこに祠があることを知らないなら、|不知火《しらぬい》が現れたとでも思うかもしれない。
「ん?」
虎次郎は思わず声をこぼす。
祠の輪郭に、一瞬影が差したような気がしたのだ。
「どうした、虎次郎?」と、兵士は怪訝そうな声を出す。
「今、一瞬だけ翠光ノ祠に人影が見えた……」
虎次郎は祠から目をそらさずに答える。
「はぁ?」と兵士は眉を寄せて祠の方を見つめたが、「なにもないぞ」と困惑した声色で返してきた。
。oOo。.:*:.。oOo。.:*:.。oOo。
海のことなどなにも知らなかったあぐりは、海の水が冷たくてしょっぱいこと、海の中では体が思うように動かず苦しいということを、この短時間で嫌というほど味わった。
|祢墨《ねずみ》に抱えられる形で暗い海の中を泳ぎ切ったあぐりは、たどり着いた翠光ノ祠の島に這いつくばる。
待ち望んだ陸地だ。
ようやく満足に息ができて、あぐりはむせ込みながら呼吸を繰り返した。
海水に濡れて全身が重い。
慣れない遊泳で何度も海水を飲み込んでしまったため、肺やら気道やらが痛かった。
「大丈夫、ゆっくり息をして」
祢墨はあぐりの背中を撫でながら言う。
あぐりを抱えて泳いだというのに、祢墨の顔に疲労の色はなかった。
返事をしたいのに、海水で冷えた体がガタガタと震えてまともに声を出せない。
試練の期限ギリギリにはなるが、決行は月光のない卯月の朔日に行うことになった。
わずかな星明りしか届かず、かすかにしか翠光石が光らなくても、その光さえあれば祢墨は迷わずに翠光ノ祠を目指すことができる。
暗闇が味方してあぐりたちの姿を闇夜に隠してくれるため、新月の夜は最も動きやすい時間だった。
だが、翠光海岸近くには兵士が潜んでいたため、新月の夜といえども迂闊に海岸に近づいたらすぐに捕まってしまう。
そこで祢墨が考えたのは、翠光海岸から離れており兵士が監視していない場所から海に入り、泳いで祠まで行くという作戦だった。
泳げないあぐりはその作戦を聞いたとき不安しか感じなかった。
しかし、祢墨が「大丈夫だよ、僕が支えていくから。それにあぐり、なんでもするって言ったよね?」と言うものだから、あぐりは彼を信じて作戦に乗った。
簡単に「分かった」と承諾した自分に少し恨みを覚えたが、結果として兵士に捕まらずに祠まで来られたのでよしとしよう。
「ここで待ってる。頑張って」
祢墨に背中を押され、あぐりは「うん」と頷きなんとか立ち上がった。
あぐりは引き寄せられるようにして翠光ノ祠へと近づいていく。海岸に転がっている翠光石とは比べ物にならないほど大きな祠は、あぐりが一歩近づくたびに輝きを増しているように見える。
重い足を引きずって祠のすぐ近くまで行き、静かに両手を祠に添えると、なんの脈絡もなくあぐりの視界は暗転した。