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六話 色の煌めき

ー/ー



「弥生のうちに来いと言ったのに、こんなギリギリに来るとはな」

 聞き覚えのある冷静な声に、あぐりは意識を取り戻す。
 そして息を呑んだ。
 水面(みなも)に立っていたのだ。
 足の裏は土の上に立っているような感触なのだが、少し動くと足を中心に波紋が広がっていく。
 足元からは水中を見ることができ、透明な水中にはなにも泳いでおらず、遥か下に見える紺碧の水底には翠光石(すいこうせき)が敷き詰められキラキラと輝いていた。
 周囲を見渡してみるが、壁も天井もなく、晴れやかな天色がどこまでも広がっている。水天一碧(すいてんいっぺき)としており、まるで海の上に立っているかのようだ。

 不意に水面が揺れ、静かな波紋があぐりの足元に届く。
 前を見ると、一つ目の試練の場にいた子供がこちらに向かって歩いて来ていた。

「お前、まさか、泳いで来たのか……?」

 子供はあぐりの前で止まると、戸惑うような声を出した。
 白虎の面を付けているため表情は読めないが、困惑していることはなんとなく分かる。

「道はできていただろうに、なんでそんな真似を……」
「い、色々ありまして……」

 説明すると長くなるので、あぐりは揺れる声で言葉を濁す。
 冷え切った体は震えが止まらず、まともに声も出せなかった。
 
「動くな、乾かしてやる」

 そう言いながら子供はあぐりに向かって右手をかざす。その瞬間、あぐりの体が真っ白な炎に包まれた。
 燃やされると思い悲鳴を上げるが、肌が焼けることはなく、心地の良い温かさが体中を包んだ。
 服や髪の毛の水分が白い煙となって蒸発していき、白い炎が消えるころには全て乾いていた。
 あぐりは驚きながら「あ、ありがとうございます」と礼を言う。
「今の炎はなんですか?」とあぐりが尋ねると、「ただの妖術だ」と子供は平然と返してきた。

「ようじゅつ?」

 聞いたことのない言葉に、どういう意味なのか訊こうとしたが、「時間が無い。さっさと試練を始めるぞ」と発した子供の声に遮られてしまった。

「あそこに赤い鳥居の建った島が見えるだろう」

 子供はあぐりの後ろを指差す。
 あぐりが振り向くと、遠くに小さく見える赤い鳥居があった。翠光ノ祠のある島のようだ。

「あの島まで行き鳥居をくぐれ」

 思いがけない試練内容に、あぐりは「え?」と声をこぼす。
 あそこに行くだけならば、色彩感覚など必要ないはずだ。

「早く行け。時間が経つにつれて水位が下がる。水が完全に無くなったら失格だ」

 はっとして下を見ると、確かに最初よりも足元と水底の距離が短くなっているような気がした。
 試練の意図は分からないが、迷っている暇はない。
 あぐりは恐る恐る水面の上を一歩進んだ。
 踏み出した右足は水中に沈むことなく、水面の上に波紋を作っていく。
 次は左足、右足とゆっくり進み、水の上を歩く不思議な感覚を覚えながらあぐりは歩いて行った。

 これのどこが色見の試練なのだろうと考えた瞬間、右足がずるりと沈んだ。体が前のめりに傾き、冷たい水が顔を叩く。あぐりは喉が締まるような恐怖に襲われ、泳げない体で必死にもがいた。
 
 次の瞬間、気がつけば最初の水面に立っていた。
 水中に落ちたはずなのに、体は一つも濡れていない。

「言い忘れたが、間違った場所を歩けば水の中に落ち、この場所に戻される。慎重に進め」

 呆然としているあぐりに向かって、隣に立つ子供が冷静に告げてきた。

「ま、間違った場所ってなんですか?」

 あぐりは目を見張って問いかけるが、「それも自分で考えろ」と子供は冷たく返す。
 相変わらず大事なことは何一つ教えてくれない。いや、それを考えることが色見の試練なのだろう。
 あぐりは深呼吸をして心を落ち着かせる。
 これは色見の試練だ。だから、色を見極めれば進めるはず。

 あぐりは目の前の水面を見つめるが、無色透明で色は見えない。先ほどまっすぐ四歩は進めたので、四歩目と五歩目の間になにか違いがあるのかもしれない。
 あぐりは注意深く四歩目まで歩き、先ほど落ちた場所の水面を見た。

 やはり無色透明だ。

 額に嫌な汗を滲ませながら、水面の観察を続ける。
 どんどん水位は下がっており、足元と水底の距離が近くなっているのが分かった。
 水底に敷かれた翠光石は、あぐりの気持ちなど知らず玲瓏(れいろう)と輝いている。

 あぐりはふと一つ目の試練を思い出す。
 深桜山(みおうざん)の試練では桜が使用された。
 なら、翠光ノ祠での試練は、翠光石が使用されるのではないだろうか。

 あぐりは水底にある翠光石をじっと見つめた。
 よく見れば、石によって光の強さに違いがある。
 あぐりの立っている場所の下にある翠光石は、あぐりの影の中に入っていても強く輝いていた。
 
 あぐりは慎重に身を乗り出し、自分の一歩前の水底に自身の影を落とす。
 すると、あぐりの影に入った翠光石の輝きが消えた。
 今度は左側に体を傾ける。左底にある翠光石は、影に入っても輝きを失わなかった。

 確信を得たあぐりは左の水面に右足を踏み出す。
 思った通り、あぐりの体は沈まず、右足は水面の上にしっかりと立ち続けた。

(本物の翠光石のある場所が正しい道だ……!)

 あぐりは進める場所と進めない場所の翠光石を交互に見る。
 進めない場所にある翠光石は、光を反射し表面が光っているが、進める場所にある翠光石は内側からも輝いて見える。本物と偽物を見分ける基準はそれだ。

 あぐりは光を見比べながら進んで行く。
 要領を得れば速く見分けることができるようになり、あぐりは速足で水面の上を進んだ。
 千歩以上先にある鳥居が近づき、あと半分だと思った瞬間、あぐりの体は水中に落ちた。

 何が起きたか理解できないうちに、あぐりはまた子供のいる最初の地点に戻される。

「もう時間がないぞ」

 子供の冷たい声が、あぐりの焦りに拍車をかけていく。
 すでに水位はだいぶ低くなり、あぐりの身長ほどになっていた。
 もう一度落ちてしまったら、確実に間に合わなくなる。

 あぐりは駆け足で水面を進む。息が浅くなってきたが、原因は疲労だけではなかった。
 翠光石の光を比べることには慣れ、最初よりも速く進めたが、もう後がないという恐怖から踏み出すことに躊躇いが生まれてしまう。

 先ほど落ちた場所あたりまでたどり着いたあぐりは、一旦止まり息を整えながら水底を凝視した。
 一体何を間違えたのだろうかと、揺れる水面の上から翠光石の輝きを見つめる。
 水位が下がったおかげで、翠光石をよりしっかりと確認することができた。内側から輝いて見える石でも、光の色がわずかに違うものがある。

 そうだ、これは色見の試練だ。
 輝き方でなく、色を見なくてどうする。

(光っているだけじゃだめだ、光の色も見ないと……!)

 あぐりは石の色と光を見比べる。偽物の翠光石は、本物と比べて翡翠色の光が鮮やか過ぎたり、逆に暗く沈んでいたりしている。

 目下に広がる幾千もの輝きの中、本物の翠光石の光を見出しあぐりは足を踏み出す。

 もうじっくりと見ている時間はない。自分の直感を信じながら、あぐりは前へと駆けて行く。
 水位はだいぶ低くなっており、あぐりの腰ほどしかなくなっていた。
 水面を蹴るあぐりの足で水しぶきが起き、大きな波紋が周囲に広がっていく。
 そのせいで水底にある翠光石が見えにくくなったが、光だけを頼りに駆け抜けた。

 ようやく目の前に小さな島に建つ鳥居が見えてきたが、水位が下がったせいで島が盛り上がり、鳥居の位置が高くなってしまった。土壁のようになった島をよじ登らなければ鳥居にはたどりつけない。

 島まで残り数歩となったところで、あぐりは意を決して踏み切り、壁に飛びかかった。
 指と足をなんとか壁の凹凸にかける。爪が剝がれそうなほどの痛みが指に走ったが、気にしてはいられない。
 先ほどまで水の中にあったせいで壁はぬかるんでおり、力を入れるとすぐ崩れてしまうほど心許ない足場だった。冷や汗を流しながらあぐりは上を目指す。

 ここまでの旅で、祢墨と一緒に森の中を進んで来たため、壁をよじ登った経験は何度もあった。
 まさかその経験がこんな場所で活きるとは思わず、あぐりは壁の登り方を教えてくれた祢墨に感謝しながら上へ上へと進む。
 次第に腕が疲れ、手の握力がなくなってくるが、あぐりは歯を食いしばって耐えた。

 なんとか登り切り、息を整える間もなく島の中央にある鳥居へと走る。
(間に合え!)と強く祈りながら、あぐりは赤い鳥居をくぐった。

 途端、景色が変わった。
 
 先ほどまで天色が広がっていたのに、目に飛び込んできたのは紺青色の夜空だった。
 見たこともないほど大きな満月が空に輝いており、目の前に広がる濃紺の海に光を落としている。
 海岸には翠光石が煌々と輝き、辺りが暗いためその翡翠の光がより鮮明に見えた。
 目の前の海には細い道が一本まっすぐに伸びており、道の終点にある島には赤い鳥居が静かに佇んでいる。
 砂浜に寄せては引く波の音だけが海岸に響いていた。

 翠光海岸に戻されてしまったのだろうか。
 いや、今日は新月のはずだ。満月が昇っているはずがない。

 あぐりが胸を手で押さえながら満月を見つめていると、不意に右側から誰かの足音がした。

「お前は本当にいつもギリギリだな。今度こそ終わったと思ったぞ」

 どこからか現れた白虎の面を付けた子供が、あぐりの目の前で立ち止まる。
「合格ということですか?」とあぐりが躊躇いがちに問うと、「あぁ」と子供は頷いた。

「喜んでいる暇はない。試練はもう一つある」

 子供の冷たい声に、あぐりの心も冷たく落ち着いていく。

「ここは翠光海岸に似ているが、妖術で作り出した場所だ。現実にはないものがここにはある」

 子供は海と反対方向を指差し、そこには彼岸花が咲いていた。
 確かに、この時期に彼岸花が咲いているはずがない。
 よく見れば、海岸には翠光石の他に、青色に明るく輝くなにかが打ち上げられている。

「赤と青が混ざれば何色になる」

 子供は唐突に問いかけてくる。「紫です」と、あぐりは反射的に返した。

「そうだ。色は混ざりあえば違う色になる」

 子供が彼岸花の方へ歩いて行くので、あぐりは後を追う。子供は彼岸花の花弁を採ると、今度は海岸の方へと歩いて行った。そして砂浜に打ち上げられた青色に光る小さな虫のような生き物をすくい上げた。
 あぐりがこれは海に棲む虫だろうかと思っていると、子供は迷うことなくその生き物と彼岸花を握り潰した。
 ぽかんとするあぐりを他所(よそ)に、子供は両手の生き物と彼岸花を捏ね、手を開いた。
 子供の手の中のものにあぐりは目を丸くする。
 そこには生き物と彼岸花の欠片もなく、紫色に淡く輝く丸い粘土のようなものがあったのだ。

「ここにあるものは特殊でな、こうやって混ぜ合わせれば色の粘土になる。今は赤い彼岸花と青い海蛍(うみほたる)を混ぜたから紫色になったのだ」

「やり方は分かったな」と言ってくる子供に、あぐりは戸惑いながらも「は、はい」と返事をした。
 つまり次の試練は、色を混ぜ合わせて別の色を作ることなのだろう。
 
「今からここにあるものを使って、『白』を作れ」
「白⁉」

 あぐりの声が裏返る。
 色は混ざれば混ざるほど、淀んだ黒色に近づいていく。どんな色を混ぜても白色になることなどないのに。

「時間は満月が完全に沈むまでだ」

 子供はどこまでも冷静な声で満月を指差す。
 あぐりが夜空を見上げると、満月が先ほどの位置よりも下に来ていた。現実の月よりも沈む速さが明らかに速い。

「ほ、本当に白なんですか?」
「あぁ、真っ白だ」
「真っ白?」

 あぐりは瞳を揺らし動揺する。
 白に近い色ではなく、本当の白を作らなければならない。そんなの無理だ。

「無理ではない。この空間にあるものを使えば作れる」

 子供はあぐりの心を見透かすように告げる。
 
(いったい何色を混ぜれば白になるの……?)

 あぐりは辺りを見渡しながら考える。
 まず、色が濃いものは違うだろう。
 薄い色はないかと探してみるが、砂浜の砂しか見当たらない。
 あぐりは試しに砂を手に取り、子供がやってみたように泥団子を作る要領で捏ねてみた。するとサラサラだった砂が捏ねた瞬間柔らかい粘土のようになり、砂色の塊になった。

 面白い現象であるが、楽しんでいる余裕はない。
 周辺に白いものなど見当たらないのだ。
 海岸沿いには彼岸花のほかに、菊や昼顔のような花が咲いているが、白い花はどこにもない。
 色を混ぜて白色を作る試練だ、単体で白いものは無いと考えた方がいいだろう。
 
 満月の光を受け、翡翠色と青色に輝く海岸は非常に神秘的であったが、感動している暇はなかった。
 辺りが暗いため全てのものが暗い色に沈んでおり、薄い色を見つけられないでいた。
 白いもの、白いものと必死に考えるあぐりは、はっとして満月に目を向ける。

 月の色は白ではないか。
 いや、月白(げっぱく)色はわずかに青色を帯びているため、完全な白ではない。
 しかし、光り輝くその姿は、ときに金色を帯びているように見えることもある。

 月よりも光が強い太陽はどうだろう。
 夕暮れや朝焼けの時の太陽は赤色をしているが、昼間の高い位置にある太陽は白く輝いて見える。

(もしかして、光が強ければ強いほど、白色に見えるんじゃないのかな……)

 思い立ったあぐりは、砂浜にある翠光石を両手に持てるだけ持って、思い切り混ぜ合わせた。
 固い石は手の中ですぐに柔らかくなり、石同士が混ざりあって透明な翡翠色の輝きを放つ塊となる。
 綺麗ではあるが、普通の翠光石の光度と変わらない。
 もっと翠光石を手に取って混ぜてみるが、ただ塊が大きくなるだけで、あぐりが思っているように強い光にはならなかった。

(どうしよう、全然白色に近付かない……!)

 あぐりは汗を流しながら他に光るものを探す。
 砂浜には翠光石のほかに海蛍がおり、あぐりは一か八か海蛍をすくって翠光石の塊にくっつけた。
 光が強くなるよう祈って海蛍を混ぜると、あぐりの思っていた現象とは違うことが起こる。

 翡翠色だった輝きが、明るい水色に変化したのだ。
 翡翠色と青色を混ぜたら深い青緑色になると思ったのに、明るい色になるとは思わなかった。

(もしかして、絵の具とは違って、光っている色は混ぜれば混ぜるほど明るい色に近付くの……?)

 一縷の望みが見えた気がしたあぐりは、すくえるだけ海蛍をすくって手に持った塊に混ぜていく。
 しかし、明るい水色のまま色は変化しなかった。

(同じ色を混ぜるだけじゃだめだ。今混ぜた色と全く違う色を混ぜた方がいいはず……)

 あぐりは自分の手の中で輝く水色の塊を見つめながら考える。
 今混ぜた色は翡翠色と青色だ。
 この二つと遠い色は、赤色になる。
 しかし、赤色に光るものが周囲にはない。

 赤色の光で真っ先に思い浮かんだのは、炎だった。
 なにか火をつける道具がないか見回すが、こんな海岸にそんなものはない。
 あぐりは眉間に皺を寄せながら、他に何があるか必死に考える。
 
 赤い光、炎、灯籠、提灯、蝋燭、星、太陽……。

 頭に浮かぶものは、全てここで手に入らないものばかりだ。
 でも、子供はこの空間にあるもので白色が作れると言っていた。
 必ず糸口がどこかにあるはずだ。

 すでに満月の位置は低くなっており、水平線に輪郭が接してしまっている。
 この海岸で光っているものは、翠光石と海蛍の他に満月しかない。
 海に伸びる細い道を渡って、あの満月のところまで行けないだろうか。
 そして満月の光を手に取り混ぜれば、この手の輝きが白くなるのではないだろうか。

 あぐりは藁にも縋る思いで海に伸びる道に一歩踏み出す。
 満月を手に取るなんて無理な話だと自分でも分かっていたが、焦る頭ではそれ以外思いつかないのだ。
 細い道は人一人進むのがやっとで、波がすぐ足元まで寄ってくる。
 一瞬でも波に足を取られると海の中に落ちてしまいそうだ。
 
 そういえば翠光ノ祠へ泳いで行く前、祢墨に波に足を取られないよう注意を受けたことをあぐりは思い出す。
 初めて海に行くあぐりに、どうやって泳げばいいかや、海に入る際の注意点も色々教えてくれた。
 その中に、決して触れてはいけない海の生物についての説明もあった。
 説明された何匹もの生物の中に輝くものを見つけ、あぐりは頭の中が弾けるような感覚になる。
 
「……赤星(あかぼし)海月(くらげ)……!」

 あぐりは思わずその名を口に出した。
 赤星海月は、幻日国(げんじつこく)の海に生息している海月だ。
 全身が点滅するように赤く光ることから、赤星と名が付いたと言われている。

(赤星海月は触手に毒があって、死にはしないけど全身に激痛が走るんだよ。あぐりなら四、五日はまともに動けなくなるだろうから、見つけたら絶対に近付かないで。この時期は滅多に現れないけど、一応注意おいてね)

 と、海に入る前祢墨がそんなことを言っていた。
 実際、海に入ったらそれどころではなく、周囲を見る余裕などなかったのですっかり記憶の彼方へやっていた。
 
 現実ならこの時期に滅多にいないとしても、この空間ならいる可能性がある。
 あぐりは目を凝らして濃紺の海を見つめた。
 海は翡翠色と青色の輝きがほとんどだったが、その中に一瞬だけ赤い光が瞬いた気がした。

 あぐりは考えるより先に、足を海の中へと踏み出していた。
 道から逸れればすぐに膝まで海水に沈み、一歩進むごとにどんどん体が海水に浸かっていく。
 あぐりは水色の塊を落とさぬよう左手でしっかりと待ち、右手で漂う海蛍を掻き分けながら進んでいった。

 翡翠と青の輝きに潜みながら輝く赤い光を一心に目指す。波に打たれ何度も倒れそうになったが、あぐりは足を踏ん張り体勢を整えた。
 溺れるのではないかという恐怖は常に心にあったが、翠光ノ祠まで泳いだことに比べればあまりにも小さな恐怖だった。

 海水が胸元まで来たところで、ようやくあぐりは赤色の輝きと対面する。
 目の前に泳いでいたのは、想像していたよりも五倍は大きな海月だった。
 人の顔ほどの大きさがある半月型の傘に、あぐりの身長ほどはありそうな触手が無数に伸びている。
 そして体の色は毒々しさを感じる赤色で、点滅するように輝いていた。
 ゆったりとした動作で動いているが、意志を持って泳いでいるのか、それとも波に揺られて漂っているのか判別できない。

 海月というものを初めて見たあぐりは、その得体の知れなさに足を止めてしまった。
 生き物だとは思えないほど、今まで見てきた生物と体の作りが違う。
 薄い透明な膜に細い糸がついているだけの物質のようだ。
 一見目も口もなく、どうやって動いているのかも分からなかった。

 今は怖気ついている場合ではないと自分に言い聞かせ、あぐりは海月に手を伸ばそうとする。
 しかし、祢墨に言われたことが頭をよぎり、躊躇ってしまった。
 触手に刺されたら全身に激痛が走り満足に動けなくなる。海の中でそんな事態になったら、今度こそ溺れてしまうのではないだろうか。

 いや、迷うな。
 突破口はこの海月しかないんだ。

 あぐりは腹を括り海月の傘に手を伸ばす。
 ぬるっとして柔らかすぎる触感に、一瞬にしてあぐりの体中が粟立った。
 もう成るように成れとあぐりは半ばやけくそで海月を掴み、左手に持った水色の塊に押し付ける。
 うにょうにょと手の中で動く海月に悪寒が走るが、思い切って捏ねた。
 幸い手に痛みは走らない。
 すぐに海月は粘土のような感触になり、水色の塊に混ざり合っていく。
 
(お願い……!)と祈りながら捏ね続けていると、水色の光が変化した。

 海月が完全に混ざり合った瞬間、塊が白色に輝き出したのだ。

 まばゆい光が手のひらから溢れ、あぐりの胸を熱くなる。「やった……!」と叫び、笑顔が抑えきれず頬に広がった。
 まだだ。安心するのはまだ早い。これを子供の元へ持って行かなければならない。
 子供は開始地点の砂浜に立ったままでいる。
 すでに満月は半分が海に沈んでしまっており、あぐりのことを待ってはくれなかった。

 息を整え、あぐりは輝く塊を握りしめて必死に来た道を引き返す。
 手の中で輝く白い光のおかげで周囲が照らされ、迷わずに進むことができた。
 海水に浸った体は冷え切っていたが、心が高揚しているせいかあまり寒くは感じない。
 重い体を動かし、一歩ずつ確実に前へと進んでいく。
 ようやく砂浜にたどり着き、あぐりはよろけながら子供の元へと走った。

「できました!」

 あぐりは子供の目の前で立ち止まり、息を切らしながら白く輝く塊を掲げた。
 白虎の面のせいで子供の視線は見えないが、塊を見つめている気配がする。

「……合格だ」

 子供が告げた瞬間、塊があぐりの手から独りでに離れ、空に上ると弾け飛んだ。
 白い輝きが上空から降り注ぎ、キラキラと光りながら粉雪のように消えていった。
 緊張が解けたあぐりは、ほっとして体中の力が抜ける。
 やった、合格できたんだと、あぐりは胸が内側から熱くなるような感覚を覚えた。
 
「動くなよ、また乾かしてやる」
 
 そう言って子供はあぐりに向かって手をかざし、また白色の炎を出した。
 白い炎はあぐりの全身を包み込み、あっという間に体を乾かしていく。
 炎が消えたところで、あぐりは「ありがとうございます」と頭を下げた。

「光って、色んな色を集めると白くなるんだ……」

 あぐりはぽつりとこぼす。
 絵の具だと様々な色を混ぜると黒になるというのに、光だと逆に白くなるということは知らなかった。
 よく気付くことができたなと、あぐりは今更になって胸が震えてくる。

「お前、もしや過去の色見の試練の内容を知らないのか?」

 唐突に子供は問いかけてくる。「知らないですけど……」と、あぐりは返した。
 過去の色見の試練なんて、ただの農民だった私が知るわけない。どうしてそんなことを聞くんだろうと、あぐりは不思議に思う。

「まさかお前、単独で色見の試練に挑んでいるのか?」
「……いえ、独りではありません。相棒がいます」

 自然とあぐりは言葉が出た。
 出た後で、『相棒』という単語に胸が鳴る。
 自分と祢墨の関係性は一体なんなのだろう。
 もはや他人ではない。しかし、友人でもない。
 彼は色見である私を利用し、森の頭領を殺そうとしている暗殺者だ。
 行く先が同じで協力して向かっているという点では、相棒と言って差し支えないのかもしれない。
「そうか……」と、子供はつぶやいた。

「まあいい、お前に宝玉を渡す」

 子供はどこからか翡翠色に輝く珠を取り出した。
 それと同時に、あぐりが懐に入れていた通行証が勝手に出てきて、目の前に浮いた。
 珠は前回と同じように子供の手から静かに離れ、通行証の中央の窪みに嵌る。
 通行証は徐々に降りてきて、あぐりは両手でそれを受け止めた。
 珠から発せられる紅と翡翠の光が、黒い通行証を煌々と照らしている。

「これで二つ目だ。あと一つ集めれば虚色の王への道が開かれる」

 子供の言葉に、心が波立つような感覚がした。
 到底無理だと思っていた虚色の王への道が、いつの間にかだいぶ近くまで来ているような予感がする。
 あともう一つ宝玉が嵌ればいいのだと、あぐりはドキドキと心臓を鳴らせながら通行証を見つめた。

「次の試練の場所はここだ」

 子供が言うと同時に、頭の中に景色が流れ込んでくる。

 最初に見えたのは、切り立った山だった。
 背の低い木々が生え、はるか上空にあるはずの雲がすぐ近くに見える。
 雲は薄っすらと虹色を帯びており、悠々と空を泳ぎ山肌を撫でている。
 次第に視界が山の一点に近付いていき、そこには一目で見通せないほどの大きな湖があった。

 湖の中央には、半透明な冥色の楼閣がゆらゆらと揺れて建っている。
 楼閣の周りには淡い虹色の霞がかかっていた。
 まるで湖の上に現れた幻のようだ。

 現実味のない光景にあぐりが呆然としていると、視界は海岸へと戻ってきていた。

「場所は蜃龍山(しんりゅうざん)泡影湖(ほうようこ)にある虹楼閣(こうろうかく)だ。期限は卯月の十五日まで。今度は遅れるんじゃないぞ」
「蜃龍山の虹楼閣……⁉」

 あぐりでもその名は知っている。
 蜃龍山は幻日国の南端にあり、虚色の王の土地と隣接している山だ。
 そして虹楼閣とは、かつて夢見の王が住んでいたとされる伝説上の楼閣のはずだ。
 今、頭の中に流れた景色の中にあった楼閣が、その伝説の建物だというのか。にわかには信じられない気持ちだった。
 「ほ、本当に虹楼閣があるのですか?」とあぐりが尋ねると、「行けば分かる」と子供は淡々と返してきた。
 
「虚色の王の望むものはなんだと思う」

 急な子供の問いに、あぐりは「え?」と声が出る。

「虚色を見ることではないんですか?」
「……少し違う、見たことのない色を我が主は示して欲しいのだ」

 子供の意図が分からず、「それが虚色では?」とあぐりは困惑する。
 
「……今までの色見もそう思っていた。そして様々な珍しい色をした植物やら石やらを持ってきたが、どれも主を満足させられなかった」

 子供の声はわずかに低くなる。
 
「主が色見に試練を与えるのは、『色』とはなにかを色見に深く考えて欲しいからだ。事前情報もなく試練を突破しているお前は、他の色見よりも多く考え、己の力を発揮しているのだろう」

 子供は話を続ける。いつも必要以上の会話をしない子供が、こんなに話すなんて珍しい。それになんだか褒められているような気がする。

「相棒とたった二人だけで我が主の元へ行こうとするお前に、特別に良い事を教えてやる」

 子供は一呼吸置いて言葉を継いだ。

「他の三人の王の望みはすぐに叶えられた。しかし、我が主の望みだけ未だ誰も叶えられていない。その意味を考えろ」
「他の、三人の王……」

 夢見の王、美食の王、奏音の王の願い叶えられ、虚色の王の願いか叶えられていない意味を考えろということか。
 掴みどころが無い子供の言葉だけでは、一体なにを伝えたいのか分からなかった。
 
「常人よりも優れた色彩感覚を持ち、多くの色を見分ける色見だからこそ、常人には気付かぬことに気付けるだろう」

 子供は毅然とした声で言葉を続ける。
 子供がとても大事なことを伝えてくれていると理解したあぐりは、黙って耳を傾けた。
 
「相棒だけと行動しているお前は、他の色見よりも他者の意見に惑わされることが少ないはずだ。己の感覚を信じて進むがよい」

 面の奥で、子供の目が光ったような気がした。


。oOo。.:*:.。oOo。.:*:.。oOo。

 
 気が付けば、あぐりは翠光ノ祠の前に立っていた。
 すぐ目の前に人影があり、一瞬祢墨だと思ったが、身長が全く違っている。

「うわぁ⁉」

 目の前に立っていた焦茶色の短髪の青年は、あぐりの姿を見るなり大声を上げた。
 あぐりも喉から短い叫びがもれる。

「い、色見だ! 色見が祠から出てきた!」

 青年は手に持った松明であぐりを照らしながら声を張り上げる。
 気付けば、祠までの道にも何人か男性が立っており、翠光海岸にも灯りを持った男性が何人も見えた。
「なんだって⁉」、「本当だ、女の子がいる!」、「虎次郎(こじろう)が色見を見つけたぞ!」と男性たちから次々に声が上がり出す。
 心臓の鼓動が速くなり、指先が震え出してきた。
 
「君が篠月(しのつき)あぐりか?」

 青年の声に、あぐりの体が凍りついた。目を見開き後ずさるが、背中が冷たい祠にぶつかる。
 逃げ場がない。心臓が喉元で暴れ、指先が冷たく震えた。
 祢墨はどこに行ってしまったのだろう。
 混乱する頭で暗い海を見渡すが、波の音だけが虚しく響いている。
 彼は逃げたのか。笹藍村からずっと一緒だったのに、こんな時にいないなんて。

「落ち着いてくれ、俺たちは兵士だ。君を保護するために来た」

 青年は穏やかな口調で語りかけ、あぐりの心に絶望が広がっていく。
 最悪の展開だ。兵士に見つかってしまった。
 どうにか逃げられないか必死に考えるが、小さな島には逃げ場などなく、海に身を投げても意味をなさない。
 頭が真っ白になり、足が地面に縫い付けられたように動かなくなる。
 体は濡れていないのに、骨の芯から冷え切っていくようだった。

「もう大丈夫だよ」

 青年は安心させるように優しい声をかけてくれる。
 青年の柔和な瞳を見つめながら、あぐりは揺らぐ頭の中で祢墨は無事だろうかと考えていた。


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 服や髪の毛の水分が白い煙となって蒸発していき、白い炎が消えるころには全て乾いていた。
 あぐりは驚きながら「あ、ありがとうございます」と礼を言う。
「今の炎はなんですか?」とあぐりが尋ねると、「ただの妖術だ」と子供は平然と返してきた。
「ようじゅつ?」
 聞いたことのない言葉に、どういう意味なのか訊こうとしたが、「時間が無い。さっさと試練を始めるぞ」と発した子供の声に遮られてしまった。
「あそこに赤い鳥居の建った島が見えるだろう」
 子供はあぐりの後ろを指差す。
 あぐりが振り向くと、遠くに小さく見える赤い鳥居があった。翠光ノ祠のある島のようだ。
「あの島まで行き鳥居をくぐれ」
 思いがけない試練内容に、あぐりは「え?」と声をこぼす。
 あそこに行くだけならば、色彩感覚など必要ないはずだ。
「早く行け。時間が経つにつれて水位が下がる。水が完全に無くなったら失格だ」
 はっとして下を見ると、確かに最初よりも足元と水底の距離が短くなっているような気がした。
 試練の意図は分からないが、迷っている暇はない。
 あぐりは恐る恐る水面の上を一歩進んだ。
 踏み出した右足は水中に沈むことなく、水面の上に波紋を作っていく。
 次は左足、右足とゆっくり進み、水の上を歩く不思議な感覚を覚えながらあぐりは歩いて行った。
 これのどこが色見の試練なのだろうと考えた瞬間、右足がずるりと沈んだ。体が前のめりに傾き、冷たい水が顔を叩く。あぐりは喉が締まるような恐怖に襲われ、泳げない体で必死にもがいた。
 次の瞬間、気がつけば最初の水面に立っていた。
 水中に落ちたはずなのに、体は一つも濡れていない。
「言い忘れたが、間違った場所を歩けば水の中に落ち、この場所に戻される。慎重に進め」
 呆然としているあぐりに向かって、隣に立つ子供が冷静に告げてきた。
「ま、間違った場所ってなんですか?」
 あぐりは目を見張って問いかけるが、「それも自分で考えろ」と子供は冷たく返す。
 相変わらず大事なことは何一つ教えてくれない。いや、それを考えることが色見の試練なのだろう。
 あぐりは深呼吸をして心を落ち着かせる。
 これは色見の試練だ。だから、色を見極めれば進めるはず。
 あぐりは目の前の水面を見つめるが、無色透明で色は見えない。先ほどまっすぐ四歩は進めたので、四歩目と五歩目の間になにか違いがあるのかもしれない。
 あぐりは注意深く四歩目まで歩き、先ほど落ちた場所の水面を見た。
 やはり無色透明だ。
 額に嫌な汗を滲ませながら、水面の観察を続ける。
 どんどん水位は下がっており、足元と水底の距離が近くなっているのが分かった。
 水底に敷かれた翠光石は、あぐりの気持ちなど知らず|玲瓏《れいろう》と輝いている。
 あぐりはふと一つ目の試練を思い出す。
 |深桜山《みおうざん》の試練では桜が使用された。
 なら、翠光ノ祠での試練は、翠光石が使用されるのではないだろうか。
 あぐりは水底にある翠光石をじっと見つめた。
 よく見れば、石によって光の強さに違いがある。
 あぐりの立っている場所の下にある翠光石は、あぐりの影の中に入っていても強く輝いていた。
 あぐりは慎重に身を乗り出し、自分の一歩前の水底に自身の影を落とす。
 すると、あぐりの影に入った翠光石の輝きが消えた。
 今度は左側に体を傾ける。左底にある翠光石は、影に入っても輝きを失わなかった。
 確信を得たあぐりは左の水面に右足を踏み出す。
 思った通り、あぐりの体は沈まず、右足は水面の上にしっかりと立ち続けた。
(本物の翠光石のある場所が正しい道だ……!)
 あぐりは進める場所と進めない場所の翠光石を交互に見る。
 進めない場所にある翠光石は、光を反射し表面が光っているが、進める場所にある翠光石は内側からも輝いて見える。本物と偽物を見分ける基準はそれだ。
 あぐりは光を見比べながら進んで行く。
 要領を得れば速く見分けることができるようになり、あぐりは速足で水面の上を進んだ。
 千歩以上先にある鳥居が近づき、あと半分だと思った瞬間、あぐりの体は水中に落ちた。
 何が起きたか理解できないうちに、あぐりはまた子供のいる最初の地点に戻される。
「もう時間がないぞ」
 子供の冷たい声が、あぐりの焦りに拍車をかけていく。
 すでに水位はだいぶ低くなり、あぐりの身長ほどになっていた。
 もう一度落ちてしまったら、確実に間に合わなくなる。
 あぐりは駆け足で水面を進む。息が浅くなってきたが、原因は疲労だけではなかった。
 翠光石の光を比べることには慣れ、最初よりも速く進めたが、もう後がないという恐怖から踏み出すことに躊躇いが生まれてしまう。
 先ほど落ちた場所あたりまでたどり着いたあぐりは、一旦止まり息を整えながら水底を凝視した。
 一体何を間違えたのだろうかと、揺れる水面の上から翠光石の輝きを見つめる。
 水位が下がったおかげで、翠光石をよりしっかりと確認することができた。内側から輝いて見える石でも、光の色がわずかに違うものがある。
 そうだ、これは色見の試練だ。
 輝き方でなく、色を見なくてどうする。
(光っているだけじゃだめだ、光の色も見ないと……!)
 あぐりは石の色と光を見比べる。偽物の翠光石は、本物と比べて翡翠色の光が鮮やか過ぎたり、逆に暗く沈んでいたりしている。
 目下に広がる幾千もの輝きの中、本物の翠光石の光を見出しあぐりは足を踏み出す。
 もうじっくりと見ている時間はない。自分の直感を信じながら、あぐりは前へと駆けて行く。
 水位はだいぶ低くなっており、あぐりの腰ほどしかなくなっていた。
 水面を蹴るあぐりの足で水しぶきが起き、大きな波紋が周囲に広がっていく。
 そのせいで水底にある翠光石が見えにくくなったが、光だけを頼りに駆け抜けた。
 ようやく目の前に小さな島に建つ鳥居が見えてきたが、水位が下がったせいで島が盛り上がり、鳥居の位置が高くなってしまった。土壁のようになった島をよじ登らなければ鳥居にはたどりつけない。
 島まで残り数歩となったところで、あぐりは意を決して踏み切り、壁に飛びかかった。
 指と足をなんとか壁の凹凸にかける。爪が剝がれそうなほどの痛みが指に走ったが、気にしてはいられない。
 先ほどまで水の中にあったせいで壁はぬかるんでおり、力を入れるとすぐ崩れてしまうほど心許ない足場だった。冷や汗を流しながらあぐりは上を目指す。
 ここまでの旅で、祢墨と一緒に森の中を進んで来たため、壁をよじ登った経験は何度もあった。
 まさかその経験がこんな場所で活きるとは思わず、あぐりは壁の登り方を教えてくれた祢墨に感謝しながら上へ上へと進む。
 次第に腕が疲れ、手の握力がなくなってくるが、あぐりは歯を食いしばって耐えた。
 なんとか登り切り、息を整える間もなく島の中央にある鳥居へと走る。
(間に合え!)と強く祈りながら、あぐりは赤い鳥居をくぐった。
 途端、景色が変わった。
 先ほどまで天色が広がっていたのに、目に飛び込んできたのは紺青色の夜空だった。
 見たこともないほど大きな満月が空に輝いており、目の前に広がる濃紺の海に光を落としている。
 海岸には翠光石が煌々と輝き、辺りが暗いためその翡翠の光がより鮮明に見えた。
 目の前の海には細い道が一本まっすぐに伸びており、道の終点にある島には赤い鳥居が静かに佇んでいる。
 砂浜に寄せては引く波の音だけが海岸に響いていた。
 翠光海岸に戻されてしまったのだろうか。
 いや、今日は新月のはずだ。満月が昇っているはずがない。
 あぐりが胸を手で押さえながら満月を見つめていると、不意に右側から誰かの足音がした。
「お前は本当にいつもギリギリだな。今度こそ終わったと思ったぞ」
 どこからか現れた白虎の面を付けた子供が、あぐりの目の前で立ち止まる。
「合格ということですか?」とあぐりが躊躇いがちに問うと、「あぁ」と子供は頷いた。
「喜んでいる暇はない。試練はもう一つある」
 子供の冷たい声に、あぐりの心も冷たく落ち着いていく。
「ここは翠光海岸に似ているが、妖術で作り出した場所だ。現実にはないものがここにはある」
 子供は海と反対方向を指差し、そこには彼岸花が咲いていた。
 確かに、この時期に彼岸花が咲いているはずがない。
 よく見れば、海岸には翠光石の他に、青色に明るく輝くなにかが打ち上げられている。
「赤と青が混ざれば何色になる」
 子供は唐突に問いかけてくる。「紫です」と、あぐりは反射的に返した。
「そうだ。色は混ざりあえば違う色になる」
 子供が彼岸花の方へ歩いて行くので、あぐりは後を追う。子供は彼岸花の花弁を採ると、今度は海岸の方へと歩いて行った。そして砂浜に打ち上げられた青色に光る小さな虫のような生き物をすくい上げた。
 あぐりがこれは海に棲む虫だろうかと思っていると、子供は迷うことなくその生き物と彼岸花を握り潰した。
 ぽかんとするあぐりを|他所《よそ》に、子供は両手の生き物と彼岸花を捏ね、手を開いた。
 子供の手の中のものにあぐりは目を丸くする。
 そこには生き物と彼岸花の欠片もなく、紫色に淡く輝く丸い粘土のようなものがあったのだ。
「ここにあるものは特殊でな、こうやって混ぜ合わせれば色の粘土になる。今は赤い彼岸花と青い|海蛍《うみほたる》を混ぜたから紫色になったのだ」
「やり方は分かったな」と言ってくる子供に、あぐりは戸惑いながらも「は、はい」と返事をした。
 つまり次の試練は、色を混ぜ合わせて別の色を作ることなのだろう。
「今からここにあるものを使って、『白』を作れ」
「白⁉」
 あぐりの声が裏返る。
 色は混ざれば混ざるほど、淀んだ黒色に近づいていく。どんな色を混ぜても白色になることなどないのに。
「時間は満月が完全に沈むまでだ」
 子供はどこまでも冷静な声で満月を指差す。
 あぐりが夜空を見上げると、満月が先ほどの位置よりも下に来ていた。現実の月よりも沈む速さが明らかに速い。
「ほ、本当に白なんですか?」
「あぁ、真っ白だ」
「真っ白?」
 あぐりは瞳を揺らし動揺する。
 白に近い色ではなく、本当の白を作らなければならない。そんなの無理だ。
「無理ではない。この空間にあるものを使えば作れる」
 子供はあぐりの心を見透かすように告げる。
(いったい何色を混ぜれば白になるの……?)
 あぐりは辺りを見渡しながら考える。
 まず、色が濃いものは違うだろう。
 薄い色はないかと探してみるが、砂浜の砂しか見当たらない。
 あぐりは試しに砂を手に取り、子供がやってみたように泥団子を作る要領で捏ねてみた。するとサラサラだった砂が捏ねた瞬間柔らかい粘土のようになり、砂色の塊になった。
 面白い現象であるが、楽しんでいる余裕はない。
 周辺に白いものなど見当たらないのだ。
 海岸沿いには彼岸花のほかに、菊や昼顔のような花が咲いているが、白い花はどこにもない。
 色を混ぜて白色を作る試練だ、単体で白いものは無いと考えた方がいいだろう。
 満月の光を受け、翡翠色と青色に輝く海岸は非常に神秘的であったが、感動している暇はなかった。
 辺りが暗いため全てのものが暗い色に沈んでおり、薄い色を見つけられないでいた。
 白いもの、白いものと必死に考えるあぐりは、はっとして満月に目を向ける。
 月の色は白ではないか。
 いや、|月白《げっぱく》色はわずかに青色を帯びているため、完全な白ではない。
 しかし、光り輝くその姿は、ときに金色を帯びているように見えることもある。
 月よりも光が強い太陽はどうだろう。
 夕暮れや朝焼けの時の太陽は赤色をしているが、昼間の高い位置にある太陽は白く輝いて見える。
(もしかして、光が強ければ強いほど、白色に見えるんじゃないのかな……)
 思い立ったあぐりは、砂浜にある翠光石を両手に持てるだけ持って、思い切り混ぜ合わせた。
 固い石は手の中ですぐに柔らかくなり、石同士が混ざりあって透明な翡翠色の輝きを放つ塊となる。
 綺麗ではあるが、普通の翠光石の光度と変わらない。
 もっと翠光石を手に取って混ぜてみるが、ただ塊が大きくなるだけで、あぐりが思っているように強い光にはならなかった。
(どうしよう、全然白色に近付かない……!)
 あぐりは汗を流しながら他に光るものを探す。
 砂浜には翠光石のほかに海蛍がおり、あぐりは一か八か海蛍をすくって翠光石の塊にくっつけた。
 光が強くなるよう祈って海蛍を混ぜると、あぐりの思っていた現象とは違うことが起こる。
 翡翠色だった輝きが、明るい水色に変化したのだ。
 翡翠色と青色を混ぜたら深い青緑色になると思ったのに、明るい色になるとは思わなかった。
(もしかして、絵の具とは違って、光っている色は混ぜれば混ぜるほど明るい色に近付くの……?)
 一縷の望みが見えた気がしたあぐりは、すくえるだけ海蛍をすくって手に持った塊に混ぜていく。
 しかし、明るい水色のまま色は変化しなかった。
(同じ色を混ぜるだけじゃだめだ。今混ぜた色と全く違う色を混ぜた方がいいはず……)
 あぐりは自分の手の中で輝く水色の塊を見つめながら考える。
 今混ぜた色は翡翠色と青色だ。
 この二つと遠い色は、赤色になる。
 しかし、赤色に光るものが周囲にはない。
 赤色の光で真っ先に思い浮かんだのは、炎だった。
 なにか火をつける道具がないか見回すが、こんな海岸にそんなものはない。
 あぐりは眉間に皺を寄せながら、他に何があるか必死に考える。
 赤い光、炎、灯籠、提灯、蝋燭、星、太陽……。
 頭に浮かぶものは、全てここで手に入らないものばかりだ。
 でも、子供はこの空間にあるもので白色が作れると言っていた。
 必ず糸口がどこかにあるはずだ。
 すでに満月の位置は低くなっており、水平線に輪郭が接してしまっている。
 この海岸で光っているものは、翠光石と海蛍の他に満月しかない。
 海に伸びる細い道を渡って、あの満月のところまで行けないだろうか。
 そして満月の光を手に取り混ぜれば、この手の輝きが白くなるのではないだろうか。
 あぐりは藁にも縋る思いで海に伸びる道に一歩踏み出す。
 満月を手に取るなんて無理な話だと自分でも分かっていたが、焦る頭ではそれ以外思いつかないのだ。
 細い道は人一人進むのがやっとで、波がすぐ足元まで寄ってくる。
 一瞬でも波に足を取られると海の中に落ちてしまいそうだ。
 そういえば翠光ノ祠へ泳いで行く前、祢墨に波に足を取られないよう注意を受けたことをあぐりは思い出す。
 初めて海に行くあぐりに、どうやって泳げばいいかや、海に入る際の注意点も色々教えてくれた。
 その中に、決して触れてはいけない海の生物についての説明もあった。
 説明された何匹もの生物の中に輝くものを見つけ、あぐりは頭の中が弾けるような感覚になる。
「……|赤星《あかぼし》|海月《くらげ》……!」
 あぐりは思わずその名を口に出した。
 赤星海月は、|幻日国《げんじつこく》の海に生息している海月だ。
 全身が点滅するように赤く光ることから、赤星と名が付いたと言われている。
(赤星海月は触手に毒があって、死にはしないけど全身に激痛が走るんだよ。あぐりなら四、五日はまともに動けなくなるだろうから、見つけたら絶対に近付かないで。この時期は滅多に現れないけど、一応注意おいてね)
 と、海に入る前祢墨がそんなことを言っていた。
 実際、海に入ったらそれどころではなく、周囲を見る余裕などなかったのですっかり記憶の彼方へやっていた。
 現実ならこの時期に滅多にいないとしても、この空間ならいる可能性がある。
 あぐりは目を凝らして濃紺の海を見つめた。
 海は翡翠色と青色の輝きがほとんどだったが、その中に一瞬だけ赤い光が瞬いた気がした。
 あぐりは考えるより先に、足を海の中へと踏み出していた。
 道から逸れればすぐに膝まで海水に沈み、一歩進むごとにどんどん体が海水に浸かっていく。
 あぐりは水色の塊を落とさぬよう左手でしっかりと待ち、右手で漂う海蛍を掻き分けながら進んでいった。
 翡翠と青の輝きに潜みながら輝く赤い光を一心に目指す。波に打たれ何度も倒れそうになったが、あぐりは足を踏ん張り体勢を整えた。
 溺れるのではないかという恐怖は常に心にあったが、翠光ノ祠まで泳いだことに比べればあまりにも小さな恐怖だった。
 海水が胸元まで来たところで、ようやくあぐりは赤色の輝きと対面する。
 目の前に泳いでいたのは、想像していたよりも五倍は大きな海月だった。
 人の顔ほどの大きさがある半月型の傘に、あぐりの身長ほどはありそうな触手が無数に伸びている。
 そして体の色は毒々しさを感じる赤色で、点滅するように輝いていた。
 ゆったりとした動作で動いているが、意志を持って泳いでいるのか、それとも波に揺られて漂っているのか判別できない。
 海月というものを初めて見たあぐりは、その得体の知れなさに足を止めてしまった。
 生き物だとは思えないほど、今まで見てきた生物と体の作りが違う。
 薄い透明な膜に細い糸がついているだけの物質のようだ。
 一見目も口もなく、どうやって動いているのかも分からなかった。
 今は怖気ついている場合ではないと自分に言い聞かせ、あぐりは海月に手を伸ばそうとする。
 しかし、祢墨に言われたことが頭をよぎり、躊躇ってしまった。
 触手に刺されたら全身に激痛が走り満足に動けなくなる。海の中でそんな事態になったら、今度こそ溺れてしまうのではないだろうか。
 いや、迷うな。
 突破口はこの海月しかないんだ。
 あぐりは腹を括り海月の傘に手を伸ばす。
 ぬるっとして柔らかすぎる触感に、一瞬にしてあぐりの体中が粟立った。
 もう成るように成れとあぐりは半ばやけくそで海月を掴み、左手に持った水色の塊に押し付ける。
 うにょうにょと手の中で動く海月に悪寒が走るが、思い切って捏ねた。
 幸い手に痛みは走らない。
 すぐに海月は粘土のような感触になり、水色の塊に混ざり合っていく。
(お願い……!)と祈りながら捏ね続けていると、水色の光が変化した。
 海月が完全に混ざり合った瞬間、塊が白色に輝き出したのだ。
 まばゆい光が手のひらから溢れ、あぐりの胸を熱くなる。「やった……!」と叫び、笑顔が抑えきれず頬に広がった。
 まだだ。安心するのはまだ早い。これを子供の元へ持って行かなければならない。
 子供は開始地点の砂浜に立ったままでいる。
 すでに満月は半分が海に沈んでしまっており、あぐりのことを待ってはくれなかった。
 息を整え、あぐりは輝く塊を握りしめて必死に来た道を引き返す。
 手の中で輝く白い光のおかげで周囲が照らされ、迷わずに進むことができた。
 海水に浸った体は冷え切っていたが、心が高揚しているせいかあまり寒くは感じない。
 重い体を動かし、一歩ずつ確実に前へと進んでいく。
 ようやく砂浜にたどり着き、あぐりはよろけながら子供の元へと走った。
「できました!」
 あぐりは子供の目の前で立ち止まり、息を切らしながら白く輝く塊を掲げた。
 白虎の面のせいで子供の視線は見えないが、塊を見つめている気配がする。
「……合格だ」
 子供が告げた瞬間、塊があぐりの手から独りでに離れ、空に上ると弾け飛んだ。
 白い輝きが上空から降り注ぎ、キラキラと光りながら粉雪のように消えていった。
 緊張が解けたあぐりは、ほっとして体中の力が抜ける。
 やった、合格できたんだと、あぐりは胸が内側から熱くなるような感覚を覚えた。
「動くなよ、また乾かしてやる」
 そう言って子供はあぐりに向かって手をかざし、また白色の炎を出した。
 白い炎はあぐりの全身を包み込み、あっという間に体を乾かしていく。
 炎が消えたところで、あぐりは「ありがとうございます」と頭を下げた。
「光って、色んな色を集めると白くなるんだ……」
 あぐりはぽつりとこぼす。
 絵の具だと様々な色を混ぜると黒になるというのに、光だと逆に白くなるということは知らなかった。
 よく気付くことができたなと、あぐりは今更になって胸が震えてくる。
「お前、もしや過去の色見の試練の内容を知らないのか?」
 唐突に子供は問いかけてくる。「知らないですけど……」と、あぐりは返した。
 過去の色見の試練なんて、ただの農民だった私が知るわけない。どうしてそんなことを聞くんだろうと、あぐりは不思議に思う。
「まさかお前、単独で色見の試練に挑んでいるのか?」
「……いえ、独りではありません。相棒がいます」
 自然とあぐりは言葉が出た。
 出た後で、『相棒』という単語に胸が鳴る。
 自分と祢墨の関係性は一体なんなのだろう。
 もはや他人ではない。しかし、友人でもない。
 彼は色見である私を利用し、森の頭領を殺そうとしている暗殺者だ。
 行く先が同じで協力して向かっているという点では、相棒と言って差し支えないのかもしれない。
「そうか……」と、子供はつぶやいた。
「まあいい、お前に宝玉を渡す」
 子供はどこからか翡翠色に輝く珠を取り出した。
 それと同時に、あぐりが懐に入れていた通行証が勝手に出てきて、目の前に浮いた。
 珠は前回と同じように子供の手から静かに離れ、通行証の中央の窪みに嵌る。
 通行証は徐々に降りてきて、あぐりは両手でそれを受け止めた。
 珠から発せられる紅と翡翠の光が、黒い通行証を煌々と照らしている。
「これで二つ目だ。あと一つ集めれば虚色の王への道が開かれる」
 子供の言葉に、心が波立つような感覚がした。
 到底無理だと思っていた虚色の王への道が、いつの間にかだいぶ近くまで来ているような予感がする。
 あともう一つ宝玉が嵌ればいいのだと、あぐりはドキドキと心臓を鳴らせながら通行証を見つめた。
「次の試練の場所はここだ」
 子供が言うと同時に、頭の中に景色が流れ込んでくる。
 最初に見えたのは、切り立った山だった。
 背の低い木々が生え、はるか上空にあるはずの雲がすぐ近くに見える。
 雲は薄っすらと虹色を帯びており、悠々と空を泳ぎ山肌を撫でている。
 次第に視界が山の一点に近付いていき、そこには一目で見通せないほどの大きな湖があった。
 湖の中央には、半透明な冥色の楼閣がゆらゆらと揺れて建っている。
 楼閣の周りには淡い虹色の霞がかかっていた。
 まるで湖の上に現れた幻のようだ。
 現実味のない光景にあぐりが呆然としていると、視界は海岸へと戻ってきていた。
「場所は|蜃龍山《しんりゅうざん》、|泡影湖《ほうようこ》にある|虹楼閣《こうろうかく》だ。期限は卯月の十五日まで。今度は遅れるんじゃないぞ」
「蜃龍山の虹楼閣……⁉」
 あぐりでもその名は知っている。
 蜃龍山は幻日国の南端にあり、虚色の王の土地と隣接している山だ。
 そして虹楼閣とは、かつて夢見の王が住んでいたとされる伝説上の楼閣のはずだ。
 今、頭の中に流れた景色の中にあった楼閣が、その伝説の建物だというのか。にわかには信じられない気持ちだった。
 「ほ、本当に虹楼閣があるのですか?」とあぐりが尋ねると、「行けば分かる」と子供は淡々と返してきた。
「虚色の王の望むものはなんだと思う」
 急な子供の問いに、あぐりは「え?」と声が出る。
「虚色を見ることではないんですか?」
「……少し違う、見たことのない色を我が主は示して欲しいのだ」
 子供の意図が分からず、「それが虚色では?」とあぐりは困惑する。
「……今までの色見もそう思っていた。そして様々な珍しい色をした植物やら石やらを持ってきたが、どれも主を満足させられなかった」
 子供の声はわずかに低くなる。
「主が色見に試練を与えるのは、『色』とはなにかを色見に深く考えて欲しいからだ。事前情報もなく試練を突破しているお前は、他の色見よりも多く考え、己の力を発揮しているのだろう」
 子供は話を続ける。いつも必要以上の会話をしない子供が、こんなに話すなんて珍しい。それになんだか褒められているような気がする。
「相棒とたった二人だけで我が主の元へ行こうとするお前に、特別に良い事を教えてやる」
 子供は一呼吸置いて言葉を継いだ。
「他の三人の王の望みはすぐに叶えられた。しかし、我が主の望みだけ未だ誰も叶えられていない。その意味を考えろ」
「他の、三人の王……」
 夢見の王、美食の王、奏音の王の願い叶えられ、虚色の王の願いか叶えられていない意味を考えろということか。
 掴みどころが無い子供の言葉だけでは、一体なにを伝えたいのか分からなかった。
「常人よりも優れた色彩感覚を持ち、多くの色を見分ける色見だからこそ、常人には気付かぬことに気付けるだろう」
 子供は毅然とした声で言葉を続ける。
 子供がとても大事なことを伝えてくれていると理解したあぐりは、黙って耳を傾けた。
「相棒だけと行動しているお前は、他の色見よりも他者の意見に惑わされることが少ないはずだ。己の感覚を信じて進むがよい」
 面の奥で、子供の目が光ったような気がした。
。oOo。.:*:.。oOo。.:*:.。oOo。
 気が付けば、あぐりは翠光ノ祠の前に立っていた。
 すぐ目の前に人影があり、一瞬祢墨だと思ったが、身長が全く違っている。
「うわぁ⁉」
 目の前に立っていた焦茶色の短髪の青年は、あぐりの姿を見るなり大声を上げた。
 あぐりも喉から短い叫びがもれる。
「い、色見だ! 色見が祠から出てきた!」
 青年は手に持った松明であぐりを照らしながら声を張り上げる。
 気付けば、祠までの道にも何人か男性が立っており、翠光海岸にも灯りを持った男性が何人も見えた。
「なんだって⁉」、「本当だ、女の子がいる!」、「|虎次郎《こじろう》が色見を見つけたぞ!」と男性たちから次々に声が上がり出す。
 心臓の鼓動が速くなり、指先が震え出してきた。
「君が|篠月《しのつき》あぐりか?」
 青年の声に、あぐりの体が凍りついた。目を見開き後ずさるが、背中が冷たい祠にぶつかる。
 逃げ場がない。心臓が喉元で暴れ、指先が冷たく震えた。
 祢墨はどこに行ってしまったのだろう。
 混乱する頭で暗い海を見渡すが、波の音だけが虚しく響いている。
 彼は逃げたのか。笹藍村からずっと一緒だったのに、こんな時にいないなんて。
「落ち着いてくれ、俺たちは兵士だ。君を保護するために来た」
 青年は穏やかな口調で語りかけ、あぐりの心に絶望が広がっていく。
 最悪の展開だ。兵士に見つかってしまった。
 どうにか逃げられないか必死に考えるが、小さな島には逃げ場などなく、海に身を投げても意味をなさない。
 頭が真っ白になり、足が地面に縫い付けられたように動かなくなる。
 体は濡れていないのに、骨の芯から冷え切っていくようだった。
「もう大丈夫だよ」
 青年は安心させるように優しい声をかけてくれる。
 青年の柔和な瞳を見つめながら、あぐりは揺らぐ頭の中で祢墨は無事だろうかと考えていた。