表示設定
表示設定
目次 目次




四話 海の果てには

ー/ー



 深桜山(みおうざん)から北に向かって四日後、あぐりたちは鈴海(すずみ)大町(おおまち)に辿りついていた。
 鈴海大町は海に面しており、他国や大陸との貿易や船による人の行き来が頻繁に行われているため、非常に栄えている。

 人の往来に応じて店が立ち並び、あぐりはその人波に圧倒された。
 石畳の路地には海鮮の焼ける匂いが漂い、色とりどりの暖簾が揺れている。
 大通りに並ぶ店からは客を呼ぶ声が響き、大道芸人が見事な刀さばきを見せたり、大きな玉や短刀、客から渡された物を使った品玉を披露したりしていた。
 出店には大陸からの輸入品が並べられており、見たことのない意匠をこらした髪留めや櫛などが並べられている。
 行き交う人の中には大陸からやって来た異邦人もおり、あぐりは新鮮な気持ちで街並みや人々を見つめ通りを歩いていた。色とりどりの魂の色が人波に合わせて揺れ動き、あぐりは色に酔いそうになる。

「相変わらず賑やかだね、この町は」

 祢墨は深く被った笠をわずかに傾け町の様子をうかがっている。

「これほど大きな町も、たくさんの人も初めてだよ」

 あぐりは祢墨に置いて行かれないよう、必死に人波を縫ってついて行った。数百歩続く繁華街は、石畳の路地が迷路のように入り組み、祢墨とはぐれたらすぐ迷子になるだろう。こんなに大勢の人は、地元の祭りのときでも見たことがなかった。
 
 不意にぐぅとあぐりのお腹が鳴る。
 こんな喧騒の中で誰にも聞こえないと思っていたら、「お昼にしようか」と祢墨が言うものだから、あぐりは少し頬が赤くなる。

「なにが食べたい? お店がいっぱいあるから、選り取り見取りだよ」
「えっと……蕎麦で」

 あぐりは気恥ずかしさを隠しながら返事をする。
 二人は大通りで適当な蕎麦屋を見つけ中に入った。飲食店はどこも繁盛しており、二人の入った蕎麦屋も満員だった。少し待って空いた席に座り、かけ蕎麦を注文すると、あまり時間を置かずに湯気の立った蕎麦が二人の前に置かれた。

「どうしたの、食べないの?」

 すぐに蕎麦を食べ始めた祢墨は、箸に手を付けないあぐりを見て不思議そうに問いかけた。

「なんだか罪悪感がして……」

 あぐりは盗賊夫婦の苦悶の顔を思い出していた。
 蕎麦を買ったお金は、祢墨と旅を始めてすぐに盗賊夫婦を殺して奪ったお金である。ここまでの旅の路銀もそのお金なのであるが、ふとした時に盗賊夫婦の死に顔が脳裏をよぎり、良心の呵責に苛まれていった。

「悪いのは僕なんだから、ねーちゃんが気にしなくてもいいのに」
「……いや、私も共犯だから」

 人前で祢墨は自分のことを「ねーちゃん」と呼ぶが、未だに慣れず胸元がぞわぞわする。
 蕎麦に罪はないので、冷める前にあぐりは「いただきます」と言って一口すすった。
 鰹節と昆布が使われた出汁は甘じょっぱい味がして、蕎麦とよく合っていてとても美味しい。

 蕎麦とは別で出された皿には野菜のかき揚げや海老の天ぷらが乗っており、どれも衣がサクサクで美味しく、あぐりは黙々と食べていく。

「天ぷら食べる?」

 祢墨はモグモグと口を動かしながら、天ぷらの乗った皿を差し出してきた。「え?」とあぐりは目を瞬かせる。

「天ぷら苦手なの?」
「ううん。ねーちゃんに食べさせたいだけ」

 予想外の言葉に、「なんで?」とあぐりは目を丸くした。

「ねーちゃんはもっと食べなきゃ駄目だよ。痩せすぎだ」
「そ、そうかな」
「そうだよ、今より体重が倍になってもいい」
「それはさすがに重いよ……」

 あぐりは思わず苦笑する。しかし、祢墨は「そんなことないよ」と至極真面目な顔で言うので、彼は本気で思っているらしい。
「だってねーちゃん、僕と背は同じくらいなのに、僕よりも明らかに軽い。せめて僕くらいになった方がいいよ」と祢墨は皿を差し出し続け、「分かったよ。ありがとう」とあぐりは皿から春菊の天ぷらを一つ取った。

 あぐりは祢墨のことを他人に一切興味のない人間だと思っていたが、一緒に旅をするうちにだんだんと印象が変わっていった。意外に世話焼きと言うか、面倒見がいいのだ。
 あぐりの体調に気を遣ってくれるし、今のように悪気なくもっと食べた方がいいと言う。
 あぐりが倒れると目的を達成できないからだと祢墨は言っていたが、それにしては気を遣い過ぎているような気がする。

 もしかしたら、彼は森に入らなければ普通に優しい青年だったのではないかと、あぐりは祢墨の言動の節々から感じていた。

「聞いたか、色見の試練は雷峰(らいほう)山脈で行われたらしいぞ」

 横の席から聞こえてきた言葉に、あぐりはピクリと肩を震わせる。
 祢墨は何事もないように蕎麦をすすっているので、あぐりも気にしないふりをして天ぷらを口に含めたが、意識を隣の席に集中させた。

「本当か? 西の方だって地元の奴らが言ってたぜ」
朝陽町(あさひまち)の方に、兵士がたくさん集まっていたらしいわ。あそこなんじゃない?」

 隣の席に座っている三人の客が、色見の試練の場所について楽しそうに話している。てんで的外れな場所だったので、あぐりは安心しながら天ぷらを飲み込んだ。

「そういや、三日前翠光(すいこう)ノ祠に向かう奴らがいたんだ。あいつらもしかして色見の一行だったんじゃないか?」

 天ぷらが変な場所に入りむせてしまった。落ち着け、落ち着けとあぐりは咳き込みながら胸を何度も叩く。
「はい」と祢墨が茶の入った湯呑みを差し出してくれたので、あぐりはそれを受け取りゆっくりと飲んだ。

「馬鹿言え、あんな何もないとこでどうやって試練をするんだよ。海に落ちるぞ」
「そうよ、何もできないじゃない」
「だよなぁ、ただの参拝客か」

 そう言って隣の客たちは別の話題に移り、あぐりの心はようやく落ち着いていった。
 色見の試練はどこで行われているか分からないため、人々の中には見つけ出そうと必死になっている人もいる。二十五年に一度の事だから皆が浮かれる気持ちも分かるが、極秘に試練の場所まで向かっているあぐりたちにとっては厄介な話である。
 あぐりは平然を装って蕎麦を食べたが、味はもう分からなくなっていた。
 蕎麦を食べ終わるまで、あぐりも祢墨も一言も発さなかった。

 蕎麦を食べ終え店を出たあと、あぐりは小さく息を吐く。
 もしかしたらこの人波の中に自分を捜す兵士がいるのではないかと思うと、あぐりの気は休まらない。常時誰かに監視されているようだ。

「美味しかったね」と祢墨は何事もなさそうに言い、「そうだね」とあぐりはなんとか返した。私も墨みたいに冷静でいられたらな、とあぐりは祢墨の無感情さが羨ましく思う。

 二人は今日の宿を探すため通りを歩いて行った。
 目の前には海が広がっており、海岸に近づくたび潮の匂いが強くなる。
 
 初めて見る海に、あぐりはただただ圧倒された。
 深い青緑色の水が、見渡せないほど先まで続いているのだ。
 水面は陽光を受けて無数の銀色の光を散らし、水平線で白い雲と溶け合っている。
 海岸に打ち寄せる波は、まるで生きているかのように次々に生じては消えるを繰り返している。
 潮の匂いが鼻腔をくすぐり、冷たい海風があぐりの頬を撫で、髪をもてあそんだ。

 漁師たちの遠い叫び声が風に混じる。
 港には何艘もの船が停泊し、沖には漁に出ている船も見えた。
 あぐりが今まで生きてきた世界とは、全く違った景色が広がっている。

 いつの間に海岸沿いに二人は辿り着き、あぐりはゆっくりと空気を吸い込んだ。
 肌寒い海風が、独特で新鮮な香りを纏いながらあぐりの肺を満たしていく。

「海って、こんなに広いんだ」

 あぐりが感嘆しつぶやくと、「うん」と祢墨は素っ気なく頷いた。港ではちょうど船が出航したところで、港にいる人に向かって船の甲板に立った人々が手を振っている。

「あんなに大きな船、どうして浮くんだろう?」

 実家の家の何十倍もありそうな船が、人や物を載せて大海原を悠々と進んでいく姿が不思議で仕方がない。祢墨なら理由を知っているかと思ったが、彼は「分かんない」と返してきた。世の中は、自分の想像もつかないことで溢れているんだなと、小さくなっていく船を見ながらあぐりは感じていた。

「……墨は、島から出たことあるの?」
「ないよ」
「そっか。海の向こうって、どうなっているんだろうね」

 あぐりは目の前に広がる海原に思いを馳せる。
 村の狭い世界しか知らなかったあぐりにとって、海は想像を越えた存在だった。
 水平線の向こうには、一体どんな景色が広がっているのだろう。きっと、自分には想像もつかないような世界が広がっているに違いない。

「ここから北にまっすぐ行けば、天津(あまつ)(くに)があるはずだよ」

 祢墨は海の先を指差す。

「そこって、確か大陸の南端にある国だよね。どんな場所なんだろう」
「行ってみたいの?」
「……少しだけ。無理な話だけど。じきに墨に殺してもらうから」
「ふうん」

 ふと視線を感じてあぐりが右横を向くと、こちらを見ている祢墨と目が合った。
 深く大きな純黒の瞳に見据えられ、ドクリと心臓が鳴る。

「本当に僕でいいの?」

 祢墨はどこまでも静かな口調で問いかけてくる。
 彼の体から沸き立つ白銀の輝きが、感情を宿さない純黒の瞳を一層引き立てているように感じた。

 あぁ、本当に美しい人だとあぐりは思う。
 あぐりは様々な色が()い交ぜになった色彩豊かなものを見るのが好きだが、祢墨は別だ。
 たった単色がなんの色ともまざろうとせず、孤高に輝いている姿は言葉にできないほど美しい。
 祢墨の一切の混じり気のない白銀も、感情の無い純黒も、今まで見たどんな色彩より輝いて見えた。

「うん」

 あぐりは祢墨の色に見惚れながら頷く。
 
「墨のような美しい人に殺してもらえるのなら、本望だ」

 口から自然に言葉がこぼれた。
 祢墨の白銀の魂が一瞬揺らめき、純黒の瞳が海へと逸れる。
 今祢墨が何に動揺したのかあぐりには分からないし、訊く気もなかった。
 あぐりも顔を海に戻すと、先ほど出航した船がどんどんと小さくなっているのが見える。
 二人とも何も言わずに海を見つめ、波の音と港から聞こえる人々の声だけが二人の間に流れていた。
 
「本当に変な奴だね」

 ぽつりとつぶやいた祢墨の声は、海風に攫われ静かに消えた。

 海岸沿いに空き部屋のある宿を見つけ、あぐりたちはそこに泊まることにした。
 板壁に海風の匂いが染みた部屋だったが、鼻が慣れたのか気にならなかった。
 大きな町なだけあって夜になっても明かりの灯っている店がいくつもあり、酔客の笑い声が遠く海風に混じる。
 部屋の窓から海が見えるはずだが、闇に沈んで輪郭を失い、波の音が響いてくるだけだ。その音がどこか心地良くて、あぐりは窓の外を見ながら耳をすませていた。
 昼間はあんなに色んな色で溢れていたのに、夜の町は暗く目が落ち着く。
 すでに時刻は十一ノ刻を過ぎ、部屋には布団が二つ敷かれていたが、あぐりも祢墨もまだ眠らず布団の上に座っていた。
 
翠光(すいこう)ノ祠に行くには、海岸から祠に繋がっている細い道を通る必要があるんだけど、潮の満ちてるときは道が無くなるんだよね」

 二人しかいない部屋の中で、祢墨は静かに話し出す。あぐりは視線を窓から祢墨に移した。
 部屋の行灯に灯した明かりが、祢墨の顔を静かに照らし出している。
 あと二日も歩けば翠光海岸に辿り着くので、それまでにどうやって兵士に見つからず翠光ノ祠に行くか考えなければならないが、未だ良い方法は見つからなかった。

「満月の日と新月の日は潮の引きが大きいから、道も歩きやすいんだけど、絶対に道で兵士たちが待ち構えていると思う。普通に道を通るのはやめた方がいいね」

 祢墨の言葉に、「そうだね」とあぐりは頷く。
 あぐりは祢墨に説明してもらうまで知らなかったが、海には潮の満ち引きというものがあるらしい。
 月の満ち欠けによって潮の満ち引きの具合が変わり、満月と新月の日が潮の引きが大きくなるらしい。
 そして潮の引きが大きいとき、海岸から翠光ノ祠へと伸びる道が出現するらしいが、あぐりはさっぱり想像できなかった。

「他に行く方法は無いの?」
「小舟で行く方法もあるけど、目立つよ」
「そっか……」

 あぐりは今日初めて海というものを見たが、確かに何もない海上に舟が浮かんでいたら目立つことは想像できる。「う~ん」と祢墨は腕を組んで声をこぼした。

「僕が陽動になって兵の気を逸らして、あぐりに道を走って行ってもらおうか」
「……私、足遅いよ?」

 たとえ祢墨が陽動になったとて、あぐりの足では鍛え上げられた兵士の足には敵わないだろう。「だよね。兵士にすぐ捕まりそう」と祢墨もすぐに返した。
 
「ん~……」

 祢墨はさらに悩ましげな声を出す。敵から逃れることを得意とする祢墨でも、誰にも気づかれず翠光ノ祠に向かうのは厳しいようだ。
 おそらく祢墨一人なら闇に潜み翠光ノ祠へ行くことは可能だろうが、なんの技術もなく体力もない私を翠光ノ祠に向かわせるのが至難の業なのだとあぐりは思う。

 深桜山のときは周りに隠れるものが多かったこともあって上手くいった。
 しかし、上手くいった一番の理由は祢墨の機転のおかげだ。私はただ、祢墨の指示通りに動いただけだ。
 このままでは、ただの足手纏いになってしまう。
 それに、祢墨に頼りきりでは試練を終えられないような気がした。
 色を見る以外取り柄がない分、せめて祢墨の手を煩わせる存在にはりたくないと、あぐりは強く思った。

「私、できることはなんでもするから」

 あぐりは祢墨の目を見ながらはっきりと言う。
 すると、祢墨は真っ黒な瞳であぐりのことを見据えた。

「言ったねあぐり」

 祢墨は抑揚なく言うが、瞳がわずかに光った気がした。ゾクリと得体の知れない恐怖が背中を震えさせる。
 それと同時に、祢墨が動き出す予感に胸が高鳴りもした。
 もしかしたら私は、とんでもない事を言ってしまったのではないかとあぐりは思ったが、前言撤回はせず「うん」と頷く。

 後悔なんて、今更もう手遅れなのだと、あぐりはとうの昔に分かっていた。


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 五話 翠光ノ祠


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 |深桜山《みおうざん》から北に向かって四日後、あぐりたちは|鈴海《すずみ》|大町《おおまち》に辿りついていた。
 鈴海大町は海に面しており、他国や大陸との貿易や船による人の行き来が頻繁に行われているため、非常に栄えている。
 人の往来に応じて店が立ち並び、あぐりはその人波に圧倒された。
 石畳の路地には海鮮の焼ける匂いが漂い、色とりどりの暖簾が揺れている。
 大通りに並ぶ店からは客を呼ぶ声が響き、大道芸人が見事な刀さばきを見せたり、大きな玉や短刀、客から渡された物を使った品玉を披露したりしていた。
 出店には大陸からの輸入品が並べられており、見たことのない意匠をこらした髪留めや櫛などが並べられている。
 行き交う人の中には大陸からやって来た異邦人もおり、あぐりは新鮮な気持ちで街並みや人々を見つめ通りを歩いていた。色とりどりの魂の色が人波に合わせて揺れ動き、あぐりは色に酔いそうになる。
「相変わらず賑やかだね、この町は」
 祢墨は深く被った笠をわずかに傾け町の様子をうかがっている。
「これほど大きな町も、たくさんの人も初めてだよ」
 あぐりは祢墨に置いて行かれないよう、必死に人波を縫ってついて行った。数百歩続く繁華街は、石畳の路地が迷路のように入り組み、祢墨とはぐれたらすぐ迷子になるだろう。こんなに大勢の人は、地元の祭りのときでも見たことがなかった。
 不意にぐぅとあぐりのお腹が鳴る。
 こんな喧騒の中で誰にも聞こえないと思っていたら、「お昼にしようか」と祢墨が言うものだから、あぐりは少し頬が赤くなる。
「なにが食べたい? お店がいっぱいあるから、選り取り見取りだよ」
「えっと……蕎麦で」
 あぐりは気恥ずかしさを隠しながら返事をする。
 二人は大通りで適当な蕎麦屋を見つけ中に入った。飲食店はどこも繁盛しており、二人の入った蕎麦屋も満員だった。少し待って空いた席に座り、かけ蕎麦を注文すると、あまり時間を置かずに湯気の立った蕎麦が二人の前に置かれた。
「どうしたの、食べないの?」
 すぐに蕎麦を食べ始めた祢墨は、箸に手を付けないあぐりを見て不思議そうに問いかけた。
「なんだか罪悪感がして……」
 あぐりは盗賊夫婦の苦悶の顔を思い出していた。
 蕎麦を買ったお金は、祢墨と旅を始めてすぐに盗賊夫婦を殺して奪ったお金である。ここまでの旅の路銀もそのお金なのであるが、ふとした時に盗賊夫婦の死に顔が脳裏をよぎり、良心の呵責に苛まれていった。
「悪いのは僕なんだから、ねーちゃんが気にしなくてもいいのに」
「……いや、私も共犯だから」
 人前で祢墨は自分のことを「ねーちゃん」と呼ぶが、未だに慣れず胸元がぞわぞわする。
 蕎麦に罪はないので、冷める前にあぐりは「いただきます」と言って一口すすった。
 鰹節と昆布が使われた出汁は甘じょっぱい味がして、蕎麦とよく合っていてとても美味しい。
 蕎麦とは別で出された皿には野菜のかき揚げや海老の天ぷらが乗っており、どれも衣がサクサクで美味しく、あぐりは黙々と食べていく。
「天ぷら食べる?」
 祢墨はモグモグと口を動かしながら、天ぷらの乗った皿を差し出してきた。「え?」とあぐりは目を瞬かせる。
「天ぷら苦手なの?」
「ううん。ねーちゃんに食べさせたいだけ」
 予想外の言葉に、「なんで?」とあぐりは目を丸くした。
「ねーちゃんはもっと食べなきゃ駄目だよ。痩せすぎだ」
「そ、そうかな」
「そうだよ、今より体重が倍になってもいい」
「それはさすがに重いよ……」
 あぐりは思わず苦笑する。しかし、祢墨は「そんなことないよ」と至極真面目な顔で言うので、彼は本気で思っているらしい。
「だってねーちゃん、僕と背は同じくらいなのに、僕よりも明らかに軽い。せめて僕くらいになった方がいいよ」と祢墨は皿を差し出し続け、「分かったよ。ありがとう」とあぐりは皿から春菊の天ぷらを一つ取った。
 あぐりは祢墨のことを他人に一切興味のない人間だと思っていたが、一緒に旅をするうちにだんだんと印象が変わっていった。意外に世話焼きと言うか、面倒見がいいのだ。
 あぐりの体調に気を遣ってくれるし、今のように悪気なくもっと食べた方がいいと言う。
 あぐりが倒れると目的を達成できないからだと祢墨は言っていたが、それにしては気を遣い過ぎているような気がする。
 もしかしたら、彼は森に入らなければ普通に優しい青年だったのではないかと、あぐりは祢墨の言動の節々から感じていた。
「聞いたか、色見の試練は|雷峰《らいほう》山脈で行われたらしいぞ」
 横の席から聞こえてきた言葉に、あぐりはピクリと肩を震わせる。
 祢墨は何事もないように蕎麦をすすっているので、あぐりも気にしないふりをして天ぷらを口に含めたが、意識を隣の席に集中させた。
「本当か? 西の方だって地元の奴らが言ってたぜ」
「|朝陽町《あさひまち》の方に、兵士がたくさん集まっていたらしいわ。あそこなんじゃない?」
 隣の席に座っている三人の客が、色見の試練の場所について楽しそうに話している。てんで的外れな場所だったので、あぐりは安心しながら天ぷらを飲み込んだ。
「そういや、三日前|翠光《すいこう》ノ祠に向かう奴らがいたんだ。あいつらもしかして色見の一行だったんじゃないか?」
 天ぷらが変な場所に入りむせてしまった。落ち着け、落ち着けとあぐりは咳き込みながら胸を何度も叩く。
「はい」と祢墨が茶の入った湯呑みを差し出してくれたので、あぐりはそれを受け取りゆっくりと飲んだ。
「馬鹿言え、あんな何もないとこでどうやって試練をするんだよ。海に落ちるぞ」
「そうよ、何もできないじゃない」
「だよなぁ、ただの参拝客か」
 そう言って隣の客たちは別の話題に移り、あぐりの心はようやく落ち着いていった。
 色見の試練はどこで行われているか分からないため、人々の中には見つけ出そうと必死になっている人もいる。二十五年に一度の事だから皆が浮かれる気持ちも分かるが、極秘に試練の場所まで向かっているあぐりたちにとっては厄介な話である。
 あぐりは平然を装って蕎麦を食べたが、味はもう分からなくなっていた。
 蕎麦を食べ終わるまで、あぐりも祢墨も一言も発さなかった。
 蕎麦を食べ終え店を出たあと、あぐりは小さく息を吐く。
 もしかしたらこの人波の中に自分を捜す兵士がいるのではないかと思うと、あぐりの気は休まらない。常時誰かに監視されているようだ。
「美味しかったね」と祢墨は何事もなさそうに言い、「そうだね」とあぐりはなんとか返した。私も墨みたいに冷静でいられたらな、とあぐりは祢墨の無感情さが羨ましく思う。
 二人は今日の宿を探すため通りを歩いて行った。
 目の前には海が広がっており、海岸に近づくたび潮の匂いが強くなる。
 初めて見る海に、あぐりはただただ圧倒された。
 深い青緑色の水が、見渡せないほど先まで続いているのだ。
 水面は陽光を受けて無数の銀色の光を散らし、水平線で白い雲と溶け合っている。
 海岸に打ち寄せる波は、まるで生きているかのように次々に生じては消えるを繰り返している。
 潮の匂いが鼻腔をくすぐり、冷たい海風があぐりの頬を撫で、髪をもてあそんだ。
 漁師たちの遠い叫び声が風に混じる。
 港には何艘もの船が停泊し、沖には漁に出ている船も見えた。
 あぐりが今まで生きてきた世界とは、全く違った景色が広がっている。
 いつの間に海岸沿いに二人は辿り着き、あぐりはゆっくりと空気を吸い込んだ。
 肌寒い海風が、独特で新鮮な香りを纏いながらあぐりの肺を満たしていく。
「海って、こんなに広いんだ」
 あぐりが感嘆しつぶやくと、「うん」と祢墨は素っ気なく頷いた。港ではちょうど船が出航したところで、港にいる人に向かって船の甲板に立った人々が手を振っている。
「あんなに大きな船、どうして浮くんだろう?」
 実家の家の何十倍もありそうな船が、人や物を載せて大海原を悠々と進んでいく姿が不思議で仕方がない。祢墨なら理由を知っているかと思ったが、彼は「分かんない」と返してきた。世の中は、自分の想像もつかないことで溢れているんだなと、小さくなっていく船を見ながらあぐりは感じていた。
「……墨は、島から出たことあるの?」
「ないよ」
「そっか。海の向こうって、どうなっているんだろうね」
 あぐりは目の前に広がる海原に思いを馳せる。
 村の狭い世界しか知らなかったあぐりにとって、海は想像を越えた存在だった。
 水平線の向こうには、一体どんな景色が広がっているのだろう。きっと、自分には想像もつかないような世界が広がっているに違いない。
「ここから北にまっすぐ行けば、|天津《あまつ》ノ|国《くに》があるはずだよ」
 祢墨は海の先を指差す。
「そこって、確か大陸の南端にある国だよね。どんな場所なんだろう」
「行ってみたいの?」
「……少しだけ。無理な話だけど。じきに墨に殺してもらうから」
「ふうん」
 ふと視線を感じてあぐりが右横を向くと、こちらを見ている祢墨と目が合った。
 深く大きな純黒の瞳に見据えられ、ドクリと心臓が鳴る。
「本当に僕でいいの?」
 祢墨はどこまでも静かな口調で問いかけてくる。
 彼の体から沸き立つ白銀の輝きが、感情を宿さない純黒の瞳を一層引き立てているように感じた。
 あぁ、本当に美しい人だとあぐりは思う。
 あぐりは様々な色が|綯《な》い交ぜになった色彩豊かなものを見るのが好きだが、祢墨は別だ。
 たった単色がなんの色ともまざろうとせず、孤高に輝いている姿は言葉にできないほど美しい。
 祢墨の一切の混じり気のない白銀も、感情の無い純黒も、今まで見たどんな色彩より輝いて見えた。
「うん」
 あぐりは祢墨の色に見惚れながら頷く。
「墨のような美しい人に殺してもらえるのなら、本望だ」
 口から自然に言葉がこぼれた。
 祢墨の白銀の魂が一瞬揺らめき、純黒の瞳が海へと逸れる。
 今祢墨が何に動揺したのかあぐりには分からないし、訊く気もなかった。
 あぐりも顔を海に戻すと、先ほど出航した船がどんどんと小さくなっているのが見える。
 二人とも何も言わずに海を見つめ、波の音と港から聞こえる人々の声だけが二人の間に流れていた。
「本当に変な奴だね」
 ぽつりとつぶやいた祢墨の声は、海風に攫われ静かに消えた。
 海岸沿いに空き部屋のある宿を見つけ、あぐりたちはそこに泊まることにした。
 板壁に海風の匂いが染みた部屋だったが、鼻が慣れたのか気にならなかった。
 大きな町なだけあって夜になっても明かりの灯っている店がいくつもあり、酔客の笑い声が遠く海風に混じる。
 部屋の窓から海が見えるはずだが、闇に沈んで輪郭を失い、波の音が響いてくるだけだ。その音がどこか心地良くて、あぐりは窓の外を見ながら耳をすませていた。
 昼間はあんなに色んな色で溢れていたのに、夜の町は暗く目が落ち着く。
 すでに時刻は十一ノ刻を過ぎ、部屋には布団が二つ敷かれていたが、あぐりも祢墨もまだ眠らず布団の上に座っていた。
「|翠光《すいこう》ノ祠に行くには、海岸から祠に繋がっている細い道を通る必要があるんだけど、潮の満ちてるときは道が無くなるんだよね」
 二人しかいない部屋の中で、祢墨は静かに話し出す。あぐりは視線を窓から祢墨に移した。
 部屋の行灯に灯した明かりが、祢墨の顔を静かに照らし出している。
 あと二日も歩けば翠光海岸に辿り着くので、それまでにどうやって兵士に見つからず翠光ノ祠に行くか考えなければならないが、未だ良い方法は見つからなかった。
「満月の日と新月の日は潮の引きが大きいから、道も歩きやすいんだけど、絶対に道で兵士たちが待ち構えていると思う。普通に道を通るのはやめた方がいいね」
 祢墨の言葉に、「そうだね」とあぐりは頷く。
 あぐりは祢墨に説明してもらうまで知らなかったが、海には潮の満ち引きというものがあるらしい。
 月の満ち欠けによって潮の満ち引きの具合が変わり、満月と新月の日が潮の引きが大きくなるらしい。
 そして潮の引きが大きいとき、海岸から翠光ノ祠へと伸びる道が出現するらしいが、あぐりはさっぱり想像できなかった。
「他に行く方法は無いの?」
「小舟で行く方法もあるけど、目立つよ」
「そっか……」
 あぐりは今日初めて海というものを見たが、確かに何もない海上に舟が浮かんでいたら目立つことは想像できる。「う~ん」と祢墨は腕を組んで声をこぼした。
「僕が陽動になって兵の気を逸らして、あぐりに道を走って行ってもらおうか」
「……私、足遅いよ?」
 たとえ祢墨が陽動になったとて、あぐりの足では鍛え上げられた兵士の足には敵わないだろう。「だよね。兵士にすぐ捕まりそう」と祢墨もすぐに返した。
「ん~……」
 祢墨はさらに悩ましげな声を出す。敵から逃れることを得意とする祢墨でも、誰にも気づかれず翠光ノ祠に向かうのは厳しいようだ。
 おそらく祢墨一人なら闇に潜み翠光ノ祠へ行くことは可能だろうが、なんの技術もなく体力もない私を翠光ノ祠に向かわせるのが至難の業なのだとあぐりは思う。
 深桜山のときは周りに隠れるものが多かったこともあって上手くいった。
 しかし、上手くいった一番の理由は祢墨の機転のおかげだ。私はただ、祢墨の指示通りに動いただけだ。
 このままでは、ただの足手纏いになってしまう。
 それに、祢墨に頼りきりでは試練を終えられないような気がした。
 色を見る以外取り柄がない分、せめて祢墨の手を煩わせる存在にはりたくないと、あぐりは強く思った。
「私、できることはなんでもするから」
 あぐりは祢墨の目を見ながらはっきりと言う。
 すると、祢墨は真っ黒な瞳であぐりのことを見据えた。
「言ったねあぐり」
 祢墨は抑揚なく言うが、瞳がわずかに光った気がした。ゾクリと得体の知れない恐怖が背中を震えさせる。
 それと同時に、祢墨が動き出す予感に胸が高鳴りもした。
 もしかしたら私は、とんでもない事を言ってしまったのではないかとあぐりは思ったが、前言撤回はせず「うん」と頷く。
 後悔なんて、今更もう手遅れなのだと、あぐりはとうの昔に分かっていた。