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八話 虚実

ー/ー



 竹班が兵舎にたどり着いたのは、十ノ刻を少し過ぎた頃だった。
 辺りはすでに暗く、松明の灯りを頼りに森の中を進んでいた竹班は、まず兵舎の門にいるはずの門番が見当たらないことに異変を感じた。

美岡(みおか)大路地(おおろじ)!」

 最初に声を上げたのは、先頭にいた隊長だった。
 隊長が松明で照らした先を見て、冬馬は声を失う。
 門の前に、二人の兵士が倒れていたのだ。
 すでに絶命しており、喉を斬られ辺りの地面を赤く染めていた。

「遅かったか……!」

 隊長は遺体を確認しうめくような声を出した後、すぐさま隊員たちに指示を出す。

「死んでからまだ時間は経っていない‼ 敵は近くにいるはずだ‼ ばらけず、三人一組に固まって捜索しろ‼」

 隊員たちは即座に動き、分かれて周辺の捜索を開始した。
 嫌な胸騒ぎを感じながら、冬馬(とうま)は兵舎の中へと踏み入れる。

 目に入ってきた惨状に、冬馬は呼吸を忘れ立ち尽くした。
 玄関から廊下にかけて、兵士たちの遺体が転がっている。皆急所を斬られ、床や壁、天井までにも血しぶきが飛んでいた。

貝田(かいだ)さん、高名木(たかなぎ)さん、神子澤(みこざわ)さん、辰巳(たつみ)……‼」

 冬馬は仲間の名を呼びながら遺体を確認していく。
 誰か返事をしてくれないか、少しでも動いてくれないかと祈ったが、誰も彼も冷たくなったまま微動だにしなかった。

 冬馬の胸のざわめきが大きくなる。
 生存者がいないか必死で兵舎内を捜していると、斬り破られた障子の部屋があることに気付く。そして障子の向こうに、壁に寄りかかり力なく座っている親友の姿を見つけ息を呑んだ。

虎次郎(こじろう)‼」

 冬馬は声を上げ虎次郎のもとへ駆け寄る。しかし、虎次郎から返事はない。
 虎次郎の左手は刀の柄を握っていた。体中斬り傷だらけで、特に胸と腹からの出血が酷く、着物と畳を赤く染めている。部屋も荒らされており、ここで激しい戦闘が行われたことが分かる。

 最悪の予感が当たってしまった。冬馬の心臓が、抉られたかのように激しく痛み出す。

 冬馬は虎次郎の横に跪き、顔を覗き込んだ。血の気を失った顔は、いつもの快活な虎次郎の顔とは思えなかった。

「虎次郎……、おい、虎次郎!」

 冬馬は虎次郎の肩を揺するが、眠るように閉じられた虎次郎の瞼は開かない。

「……もう死んでいる」

 後から来た兵士が絞り出すよう言う。
 その声を振り払うように、冬馬は虎次郎の首筋に手を置き脈を測る。
 しかし、冷たくなった虎次郎の首は、一つも脈打ってくれなかった。

「嘘だろ……。なぁ、虎次郎……‼」

 それでも信じられない冬馬は、震える手で虎次郎の肩を揺さぶり起こそうとする。
 だが、「よせ、もう何をしても無駄だ……」と、兵士に静かに止められてしまった。

「だめだ、生存者はいないし、色見も見当たらない」

 他の場所を捜索していた兵士たちが、青白い顔をしながら冬馬たちの近くに寄ってくる。
「全員殺されて、色見も奪われたのか……」と、兵士の一人が茫然自失とした様子でつぶやいた。

 ふと冬馬は虎次郎の胸元に視線を落とす。
 虎次郎の右手が、なぜか懐の中に入っていた。
 左手は刀の柄を握っているというのに、右手が懐の中とは違和感がある。

 冬馬は虎次郎の胸元を開き、右手を取り出した。

「これは……?」

 冬馬は虎次郎の右手を見て戸惑う。
 墨汁がかかっていたのだ。
 懐の中にあった矢立の墨壺の蓋が外れており、そこから墨汁がこぼれ懐に黒い染みを作っていた。
 死ぬ間際、故意に蓋を開けたのだろう。

「なぜ手に墨を……?」

 冬馬は狼狽えながら虎次郎の顔と右手を交互に見る。

「俺たちになにか書いて伝えようとしたんじゃないか? その前に力尽きたんだ……」

 隣にいた兵士が、眉を下げ今にも泣き出しそうな顔をしながらこぼした。

「……書くだけでいいなら、自分の血で書いた方が早い。でも、虎次郎は死の間際にわざわざ懐から墨汁を取り出したんだ。絶対なにか意味がある!」

 冬馬は確信を持って言う。
 わざわざ矢立の蓋を外して墨を手に付けるなんて、あまりにも不自然だ。なにか意味があるに違いない。

「なんだ、一体なにを伝えようとしたんだよ……‼」

 冬馬は黒く染まった虎次郎の右手を握りながら悲痛に叫んだ。

「まさか……」

 背後でかすかな声が聞こえ、冬馬は振り向く。
 すると、いつの間にか後ろに立っていた飛炎(ひえん)と目が合った。
 他の兵士たちも今の声で飛炎の存在に気付いたらしく、皆目を丸くして飛炎に顔を向けた。相変わらず存在感の無い少年だ。

「なにか分かったのか?」

 冬馬が問えば、飛炎の目が初めて揺らいだ。冬馬は立ち上がり飛炎と向かい合う。

「言え‼ なにが分かった‼」

 冬馬は飛炎を睨みつけ怒鳴る。虎次郎が、仲間たちが殺された中で、それでも飛炎が黙秘を続けることは許さなかった。
 飛炎は感情を宿さぬ瞳で冬馬を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。

「……森に、『祢墨(ねずみ)』という男がいる。森の中でも謎の存在で、本当に存在するかどうか分からないとまで言われている男だ」
「ねずみ……」

 ねずみ、ずみ、墨。
 虎次郎が伝えたかったのは、そいつの名前だったのか。
「どういう男なんだ」と、冬馬は厳しい口調で問いかける。

「分からない。祢墨の姿を見たやつがいないからだ。いたとしても、全員殺されている。俺も名前しか知らない。噂によれば、一夜にして百人以上殺したとも言われている」

 飛炎は真顔で信じがたいことを言う。そんな化け物、たしかに存在すると思えない。しかし、現に十五名もの兵士を皆殺しにされたことから、信じざるをえないだろう。

「お前と同じ森なんだろう。なぜ色見を攫う必要がある」
「それは……」

 飛炎は珍しく口籠る。冬馬は「知っていることを言え」とさらに問い詰めた。

「儂を殺すためだろう」

 突然深く重い男の声が廊下の奥から響く。
 その場にいる全員が声の方向を見、冬馬は目を見開いた。

 そこにいたのは、見たことのない初老の男だった。
 背が高く坊主頭をしており、黒い衣を身に纏っているからか見る者に冷厳な印象を与える。
 灰色の双眸を前に向けているが、視線がどこにあるのかは読めなかった。
 男の後ろから、隊長が苦々しい顔をして歩いて来るのが見える。

「儂は森の頭領をしている未鷹(みたか)だ」

 男は重厚感のある声で名乗った。ただそこに立っているだけで、恐ろしいほどの覇気を感じさせる男だ。これが得体の知れない森を率いる男なのかと、冬馬の心臓がドクリと鳴った。

「色見を攫った者は、祢墨で間違いないだろう。儂が森の中で行動を把握できていない者は、あの薄汚いドブネズミ一人だからな」

 未鷹は白いあごひげをなぞりながら言い捨てる。

「本当に、あの祢墨なのですか」

 飛炎が静かに口を開いた。

「あぁ。深桜山(みおうざん)に潜ませていた森から、虫声(むしせい)の音がしたと報告も上がっていたからな。それに、この兵舎周辺に潜ませていた森も全員殺されていた。闇夜にそんな真似ができるのは、あのドブネズミくらいだろう。色見を餌に儂をおびきだす気だな」

 未鷹は飛炎の方を見ずに答えた。未鷹の言っている意味が分からない冬馬は、「その祢墨とやらも森なんでしょう? なぜあなたの命を狙っているのですか?」と問いかける。

「お前は中々生き急ぎたいらしいな」

 未鷹は口元を緩めながらも、一切笑っていない目で冬馬を見据えた。
 冬馬の体が硬直し、サッと冷たくなっていく。彼に見つめられただけで、心臓に指をかけられたかのような気持ちになった。わずかでも動いたら、首と胴が離れるのではないかと思うほどに。
 冬馬が何も言えないでいると、「まぁよい。大した話でもないからな」と未鷹は薄く笑う。

「敵討ちのためだ。儂があいつの師を殺した。あいつはもはや森ではない。謀反者だ。今までどこに潜んでいるのか分からなかったが、ようやく尻尾を出したな」

 未鷹は冬馬から視線を外し、「あいつを殺せば、ようやく儂の戦いも終わる」とつぶやいた。

「その祢墨について、何か知っていることはないのですか?」

 その場を去ろうとする未鷹に向かい、冬馬は平静を装って尋ねる。心臓は早鐘を打っていたが、引くことはしたくなかった。未鷹は動きを止めると、横目で冬馬を睨みつけた。

「なぜお前に教えねばならん」

 重い声と眼差しに冬馬は息が詰まりそうになるが、負けじと未鷹の目を見つめ返す。虎次郎たちを殺した男について、少しでも情報を引き出したかった。
 冬馬が再度口を開こうとしたら、「冬馬!」と空気が痺れるような隊長の怒声が廊下に響き渡った。
 冬馬が隊長に目をそらした隙に、未鷹は踵を返し歩き始めてしまう。

努努(ゆめゆめ)(おご)るなよ、飛炎」

 未鷹はすれ違いざま飛炎に向かって声を落とす。「はい」と、飛炎は昏い瞳で前を見つめ返事をした。
 そのまま未鷹は去っていき、冬馬は未鷹の姿が見えなくなるまでその背中をじっと見つめた。身を焼くような瞋恚(しんい)の炎だけが、冬馬の胸に渦巻いていた。

 その後空が白み始めるまで全員で周辺の捜索を行ったが、祢墨とやらの痕跡は一つも見つからなかった。朝になって合流した松班に事情を説明したあと、松班は兵士たちの遺体の対応を行い、竹班は飛炎を連れ三つ目の試練の場へ向かうことになった。

 卯月四日の昼過ぎには竹班は兵舎から出発する予定になっており、出発前冬馬は飛炎を呼ぶため彼のいる部屋を訪れた。

「冬馬だ、入るぞ」

 どうせ返事がないことを知っている冬馬は、声をかけると同時に戸を開く。
 飛炎は畳の上にあぐらをかいて座っており、冬馬が部屋に入ると静かに目を向けてくる。

「お前の記録係は俺になった」

 後ろ手に戸を閉めながら冬馬は告げる。虎次郎の後任として冬馬は名乗りを上げ、隊長も思うところがあったのか冬馬の申し出を受け入れてくれた。
「そうか」と、飛炎は興味なさげに返してきた。

「祢墨について、知っていることは本当にないのか」

 冬馬が訊くと、飛炎は視線を外し宙を見る。

「ない。あったとしても、お前に話すことはない」

 祢墨についての情報を話す気はないらしい。「だと思ったよ」と冬馬はつぶやいた。

「……虎次郎と、皆の仇だ。必ず捕まえる」

 冬馬は懐に手を置く。懐には、虎次郎の使っていた矢立が入っていた。飛炎の記録係に決まった際、虎次郎の矢立を使おうと冬馬が遺体から取ったのだ。それを咎める者は誰もいなかった。

「やめておけ、お前じゃ祢墨を殺せない。これは森の問題だ、首を突っ込むな」

 飛炎は冬馬から視線をそらしたまま言う。いつも以上に声に感情が乗っていないように感じた。まるでわざと感情を殺しているかのようだ。

「……隊長にも言われたよ。森は兵たちとは違うと。俺たち色見部隊とは違う動きをしているから、深く関わるなとな。……でも、そういう問題じゃない」

 未鷹との会話の後、冬馬は隊長から厳しく注意を受けた。
 森と深く関わってはならない。知らなくても良い情報を知り、存在を消される可能性もあるのだと。
 しかし、そんな説得で冬馬の祢墨への憎しみは一切消えなかった。

「虎次郎は幼馴染だ。田舎から二人で出て、兵士になるため苦楽を共にした。勝てなくても、一矢報いてやる。俺が殺されても、仲間たちが祢墨とやらと捕えてくれればいい」

 抑えきれない怒りを滲ませながら冬馬は言う。
 飛炎の言う通り、祢墨は化け物じみた力量を持っているのだろう。しかし、森の問題だからといって、勝てない相手だからといって、冬馬は無関係でいることなどできなかった。

 飛炎は口を開く気配がない。会話をする気がないと察した冬馬は、「もうじき出発だ。遅れるなよ」とだけ言い部屋から出ようとする。

「……俺たちは、ただの駒だ」

 ぽつりとつぶやく声が聞こえ、冬馬は足を止め飛炎を見る。
 飛炎の視線は目の前の畳に落とされており、何を見つめているのかは分からなかった。

「祢墨は自分の意志で未鷹さんを殺そうとしているんじゃない。命令だからだ。祢墨が兵士たちを殺し色見を連れ去ったのも、命令を遂行するだけの手段に過ぎない」

 飛炎は言葉を続ける。飛炎が自分からこんなに話すのは初めてのことだったので、冬馬は呆気にとられながら彼の話を聞いた。

「祢墨は国も森も敵に回した。勝ち目はない。それでも向かってくるのは、命令だからだ。お前たちが何もしなくても祢墨は未鷹さんと森に挑み、死ぬだろう」

 飛炎の話に、冬馬の胸に渦巻いていた瞋恚(しんい)の炎が揺らぐ。
「それが森か」と問いかけると、「あぁ」と飛炎は小さく頷いた。

 その祢墨と言う男も、飛炎と同じく傀儡のような男なのだろう。
 命令のために動き、命令のために死ぬ。そこに自身の意志はない。
 そんな男に恨みを持ったところで意味はないのだと、飛炎は教えてくれているのかもしない。

 しかし、自分のことを駒だと言い切った飛炎に対し、冬馬は底知れぬ虚しさが募っていく。

「王になれ、飛炎。そして生きたいと願え」

 冬馬は飛炎を見ながら真っ直ぐに言う。飛炎は視線を畳から冬馬に向けた。深い純黒の眼差しが、冬馬の藍色の瞳を冷たく見据えている。

「森の外は広いぞ」

 冬馬は飛炎の双眸を見つめながら続ける。
 森に囚われているこの少年に、どうにかして森の外に目を向けてほしいと思った。
 死の命令など振り払って、自らの意志で人生を歩んで欲しかった。

「……行くあてなどない」

 飛炎は静かに言う。ほんのわずかに、飛炎の声が揺らいだ気がした。

「俺の故郷は『桃李村(とうりむら)』で、桃と李が名産なんだ。春には深桜山の桜にも負けないほど美しい桃李の花が咲いて、夏になれば美味い実が成る。他所からわざわざ買いに来る人がいるくらいだ」

 冬馬が話し出すと、「何の話だ?」と飛炎はわずかに眉を寄せる。「まぁ、聞け」と、冬馬は続けた。

「俺の実家も桃を作っている。採れたての桃はこれ以上ないくらい美味いぞ。村にいたときは、俺も虎次郎も親の目を盗んでこっそり食べていた」

 冬馬は昔を思い出し、温かな気持ちになる。
 桃の香が漂う果樹園の中を、虎次郎や近所の子供たちと走り回って遊んだ懐かしい記憶がよみがえってきた。
 もう二度と虎次郎と桃を食べられない事実に涙が込み上げてきたが、冬馬は歯を食いしばって耐える。

 飛炎が森を辞めさせられてすぐの頃、飛炎は自分のことを「ただの色見だ」と称していた。だが、冬馬はそうは思えない。目の前の少年は、ただの色見ではなく、飛炎という人格のあるただ一人の人間のはずなのだ。

「なぁ、ただの飛炎。全てが終わったら、俺の村へ来い。美味い桃を食わせてやる」

 冬馬は自分でも驚くほど穏やかな声で飛炎に声をかけた。なぜかは分からないが、冬馬は飛炎を村に連れて行ってやりたいと心から思った。実家の桃を食べさせたら、この少年はどんな反応をするのだろうかと、冬馬は考えずにはいられない。

「……不毛なことを言うな」

 飛炎は無表情に返してきたが、声にいつものような冷たさが無いような気がした。
「そうか」と冬馬は苦笑し、飛炎と共に部屋を後にした。



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 竹班が兵舎にたどり着いたのは、十ノ刻を少し過ぎた頃だった。
 辺りはすでに暗く、松明の灯りを頼りに森の中を進んでいた竹班は、まず兵舎の門にいるはずの門番が見当たらないことに異変を感じた。
「|美岡《みおか》、|大路地《おおろじ》!」
 最初に声を上げたのは、先頭にいた隊長だった。
 隊長が松明で照らした先を見て、冬馬は声を失う。
 門の前に、二人の兵士が倒れていたのだ。
 すでに絶命しており、喉を斬られ辺りの地面を赤く染めていた。
「遅かったか……!」
 隊長は遺体を確認しうめくような声を出した後、すぐさま隊員たちに指示を出す。
「死んでからまだ時間は経っていない‼ 敵は近くにいるはずだ‼ ばらけず、三人一組に固まって捜索しろ‼」
 隊員たちは即座に動き、分かれて周辺の捜索を開始した。
 嫌な胸騒ぎを感じながら、|冬馬《とうま》は兵舎の中へと踏み入れる。
 目に入ってきた惨状に、冬馬は呼吸を忘れ立ち尽くした。
 玄関から廊下にかけて、兵士たちの遺体が転がっている。皆急所を斬られ、床や壁、天井までにも血しぶきが飛んでいた。
「|貝田《かいだ》さん、|高名木《たかなぎ》さん、|神子澤《みこざわ》さん、|辰巳《たつみ》……‼」
 冬馬は仲間の名を呼びながら遺体を確認していく。
 誰か返事をしてくれないか、少しでも動いてくれないかと祈ったが、誰も彼も冷たくなったまま微動だにしなかった。
 冬馬の胸のざわめきが大きくなる。
 生存者がいないか必死で兵舎内を捜していると、斬り破られた障子の部屋があることに気付く。そして障子の向こうに、壁に寄りかかり力なく座っている親友の姿を見つけ息を呑んだ。
「|虎次郎《こじろう》‼」
 冬馬は声を上げ虎次郎のもとへ駆け寄る。しかし、虎次郎から返事はない。
 虎次郎の左手は刀の柄を握っていた。体中斬り傷だらけで、特に胸と腹からの出血が酷く、着物と畳を赤く染めている。部屋も荒らされており、ここで激しい戦闘が行われたことが分かる。
 最悪の予感が当たってしまった。冬馬の心臓が、抉られたかのように激しく痛み出す。
 冬馬は虎次郎の横に跪き、顔を覗き込んだ。血の気を失った顔は、いつもの快活な虎次郎の顔とは思えなかった。
「虎次郎……、おい、虎次郎!」
 冬馬は虎次郎の肩を揺するが、眠るように閉じられた虎次郎の瞼は開かない。
「……もう死んでいる」
 後から来た兵士が絞り出すよう言う。
 その声を振り払うように、冬馬は虎次郎の首筋に手を置き脈を測る。
 しかし、冷たくなった虎次郎の首は、一つも脈打ってくれなかった。
「嘘だろ……。なぁ、虎次郎……‼」
 それでも信じられない冬馬は、震える手で虎次郎の肩を揺さぶり起こそうとする。
 だが、「よせ、もう何をしても無駄だ……」と、兵士に静かに止められてしまった。
「だめだ、生存者はいないし、色見も見当たらない」
 他の場所を捜索していた兵士たちが、青白い顔をしながら冬馬たちの近くに寄ってくる。
「全員殺されて、色見も奪われたのか……」と、兵士の一人が茫然自失とした様子でつぶやいた。
 ふと冬馬は虎次郎の胸元に視線を落とす。
 虎次郎の右手が、なぜか懐の中に入っていた。
 左手は刀の柄を握っているというのに、右手が懐の中とは違和感がある。
 冬馬は虎次郎の胸元を開き、右手を取り出した。
「これは……?」
 冬馬は虎次郎の右手を見て戸惑う。
 墨汁がかかっていたのだ。
 懐の中にあった矢立の墨壺の蓋が外れており、そこから墨汁がこぼれ懐に黒い染みを作っていた。
 死ぬ間際、故意に蓋を開けたのだろう。
「なぜ手に墨を……?」
 冬馬は狼狽えながら虎次郎の顔と右手を交互に見る。
「俺たちになにか書いて伝えようとしたんじゃないか? その前に力尽きたんだ……」
 隣にいた兵士が、眉を下げ今にも泣き出しそうな顔をしながらこぼした。
「……書くだけでいいなら、自分の血で書いた方が早い。でも、虎次郎は死の間際にわざわざ懐から墨汁を取り出したんだ。絶対なにか意味がある!」
 冬馬は確信を持って言う。
 わざわざ矢立の蓋を外して墨を手に付けるなんて、あまりにも不自然だ。なにか意味があるに違いない。
「なんだ、一体なにを伝えようとしたんだよ……‼」
 冬馬は黒く染まった虎次郎の右手を握りながら悲痛に叫んだ。
「まさか……」
 背後でかすかな声が聞こえ、冬馬は振り向く。
 すると、いつの間にか後ろに立っていた|飛炎《ひえん》と目が合った。
 他の兵士たちも今の声で飛炎の存在に気付いたらしく、皆目を丸くして飛炎に顔を向けた。相変わらず存在感の無い少年だ。
「なにか分かったのか?」
 冬馬が問えば、飛炎の目が初めて揺らいだ。冬馬は立ち上がり飛炎と向かい合う。
「言え‼ なにが分かった‼」
 冬馬は飛炎を睨みつけ怒鳴る。虎次郎が、仲間たちが殺された中で、それでも飛炎が黙秘を続けることは許さなかった。
 飛炎は感情を宿さぬ瞳で冬馬を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「……森に、『|祢墨《ねずみ》』という男がいる。森の中でも謎の存在で、本当に存在するかどうか分からないとまで言われている男だ」
「ねずみ……」
 ねずみ、ずみ、墨。
 虎次郎が伝えたかったのは、そいつの名前だったのか。
「どういう男なんだ」と、冬馬は厳しい口調で問いかける。
「分からない。祢墨の姿を見たやつがいないからだ。いたとしても、全員殺されている。俺も名前しか知らない。噂によれば、一夜にして百人以上殺したとも言われている」
 飛炎は真顔で信じがたいことを言う。そんな化け物、たしかに存在すると思えない。しかし、現に十五名もの兵士を皆殺しにされたことから、信じざるをえないだろう。
「お前と同じ森なんだろう。なぜ色見を攫う必要がある」
「それは……」
 飛炎は珍しく口籠る。冬馬は「知っていることを言え」とさらに問い詰めた。
「儂を殺すためだろう」
 突然深く重い男の声が廊下の奥から響く。
 その場にいる全員が声の方向を見、冬馬は目を見開いた。
 そこにいたのは、見たことのない初老の男だった。
 背が高く坊主頭をしており、黒い衣を身に纏っているからか見る者に冷厳な印象を与える。
 灰色の双眸を前に向けているが、視線がどこにあるのかは読めなかった。
 男の後ろから、隊長が苦々しい顔をして歩いて来るのが見える。
「儂は森の頭領をしている|未鷹《みたか》だ」
 男は重厚感のある声で名乗った。ただそこに立っているだけで、恐ろしいほどの覇気を感じさせる男だ。これが得体の知れない森を率いる男なのかと、冬馬の心臓がドクリと鳴った。
「色見を攫った者は、祢墨で間違いないだろう。儂が森の中で行動を把握できていない者は、あの薄汚いドブネズミ一人だからな」
 未鷹は白いあごひげをなぞりながら言い捨てる。
「本当に、あの祢墨なのですか」
 飛炎が静かに口を開いた。
「あぁ。|深桜山《みおうざん》に潜ませていた森から、|虫声《むしせい》の音がしたと報告も上がっていたからな。それに、この兵舎周辺に潜ませていた森も全員殺されていた。闇夜にそんな真似ができるのは、あのドブネズミくらいだろう。色見を餌に儂をおびきだす気だな」
 未鷹は飛炎の方を見ずに答えた。未鷹の言っている意味が分からない冬馬は、「その祢墨とやらも森なんでしょう? なぜあなたの命を狙っているのですか?」と問いかける。
「お前は中々生き急ぎたいらしいな」
 未鷹は口元を緩めながらも、一切笑っていない目で冬馬を見据えた。
 冬馬の体が硬直し、サッと冷たくなっていく。彼に見つめられただけで、心臓に指をかけられたかのような気持ちになった。わずかでも動いたら、首と胴が離れるのではないかと思うほどに。
 冬馬が何も言えないでいると、「まぁよい。大した話でもないからな」と未鷹は薄く笑う。
「敵討ちのためだ。儂があいつの師を殺した。あいつはもはや森ではない。謀反者だ。今までどこに潜んでいるのか分からなかったが、ようやく尻尾を出したな」
 未鷹は冬馬から視線を外し、「あいつを殺せば、ようやく儂の戦いも終わる」とつぶやいた。
「その祢墨について、何か知っていることはないのですか?」
 その場を去ろうとする未鷹に向かい、冬馬は平静を装って尋ねる。心臓は早鐘を打っていたが、引くことはしたくなかった。未鷹は動きを止めると、横目で冬馬を睨みつけた。
「なぜお前に教えねばならん」
 重い声と眼差しに冬馬は息が詰まりそうになるが、負けじと未鷹の目を見つめ返す。虎次郎たちを殺した男について、少しでも情報を引き出したかった。
 冬馬が再度口を開こうとしたら、「冬馬!」と空気が痺れるような隊長の怒声が廊下に響き渡った。
 冬馬が隊長に目をそらした隙に、未鷹は踵を返し歩き始めてしまう。
「|努努《ゆめゆめ》|驕《おご》るなよ、飛炎」
 未鷹はすれ違いざま飛炎に向かって声を落とす。「はい」と、飛炎は昏い瞳で前を見つめ返事をした。
 そのまま未鷹は去っていき、冬馬は未鷹の姿が見えなくなるまでその背中をじっと見つめた。身を焼くような|瞋恚《しんい》の炎だけが、冬馬の胸に渦巻いていた。
 その後空が白み始めるまで全員で周辺の捜索を行ったが、祢墨とやらの痕跡は一つも見つからなかった。朝になって合流した松班に事情を説明したあと、松班は兵士たちの遺体の対応を行い、竹班は飛炎を連れ三つ目の試練の場へ向かうことになった。
 卯月四日の昼過ぎには竹班は兵舎から出発する予定になっており、出発前冬馬は飛炎を呼ぶため彼のいる部屋を訪れた。
「冬馬だ、入るぞ」
 どうせ返事がないことを知っている冬馬は、声をかけると同時に戸を開く。
 飛炎は畳の上にあぐらをかいて座っており、冬馬が部屋に入ると静かに目を向けてくる。
「お前の記録係は俺になった」
 後ろ手に戸を閉めながら冬馬は告げる。虎次郎の後任として冬馬は名乗りを上げ、隊長も思うところがあったのか冬馬の申し出を受け入れてくれた。
「そうか」と、飛炎は興味なさげに返してきた。
「祢墨について、知っていることは本当にないのか」
 冬馬が訊くと、飛炎は視線を外し宙を見る。
「ない。あったとしても、お前に話すことはない」
 祢墨についての情報を話す気はないらしい。「だと思ったよ」と冬馬はつぶやいた。
「……虎次郎と、皆の仇だ。必ず捕まえる」
 冬馬は懐に手を置く。懐には、虎次郎の使っていた矢立が入っていた。飛炎の記録係に決まった際、虎次郎の矢立を使おうと冬馬が遺体から取ったのだ。それを咎める者は誰もいなかった。
「やめておけ、お前じゃ祢墨を殺せない。これは森の問題だ、首を突っ込むな」
 飛炎は冬馬から視線をそらしたまま言う。いつも以上に声に感情が乗っていないように感じた。まるでわざと感情を殺しているかのようだ。
「……隊長にも言われたよ。森は兵たちとは違うと。俺たち色見部隊とは違う動きをしているから、深く関わるなとな。……でも、そういう問題じゃない」
 未鷹との会話の後、冬馬は隊長から厳しく注意を受けた。
 森と深く関わってはならない。知らなくても良い情報を知り、存在を消される可能性もあるのだと。
 しかし、そんな説得で冬馬の祢墨への憎しみは一切消えなかった。
「虎次郎は幼馴染だ。田舎から二人で出て、兵士になるため苦楽を共にした。勝てなくても、一矢報いてやる。俺が殺されても、仲間たちが祢墨とやらと捕えてくれればいい」
 抑えきれない怒りを滲ませながら冬馬は言う。
 飛炎の言う通り、祢墨は化け物じみた力量を持っているのだろう。しかし、森の問題だからといって、勝てない相手だからといって、冬馬は無関係でいることなどできなかった。
 飛炎は口を開く気配がない。会話をする気がないと察した冬馬は、「もうじき出発だ。遅れるなよ」とだけ言い部屋から出ようとする。
「……俺たちは、ただの駒だ」
 ぽつりとつぶやく声が聞こえ、冬馬は足を止め飛炎を見る。
 飛炎の視線は目の前の畳に落とされており、何を見つめているのかは分からなかった。
「祢墨は自分の意志で未鷹さんを殺そうとしているんじゃない。命令だからだ。祢墨が兵士たちを殺し色見を連れ去ったのも、命令を遂行するだけの手段に過ぎない」
 飛炎は言葉を続ける。飛炎が自分からこんなに話すのは初めてのことだったので、冬馬は呆気にとられながら彼の話を聞いた。
「祢墨は国も森も敵に回した。勝ち目はない。それでも向かってくるのは、命令だからだ。お前たちが何もしなくても祢墨は未鷹さんと森に挑み、死ぬだろう」
 飛炎の話に、冬馬の胸に渦巻いていた|瞋恚《しんい》の炎が揺らぐ。
「それが森か」と問いかけると、「あぁ」と飛炎は小さく頷いた。
 その祢墨と言う男も、飛炎と同じく傀儡のような男なのだろう。
 命令のために動き、命令のために死ぬ。そこに自身の意志はない。
 そんな男に恨みを持ったところで意味はないのだと、飛炎は教えてくれているのかもしない。
 しかし、自分のことを駒だと言い切った飛炎に対し、冬馬は底知れぬ虚しさが募っていく。
「王になれ、飛炎。そして生きたいと願え」
 冬馬は飛炎を見ながら真っ直ぐに言う。飛炎は視線を畳から冬馬に向けた。深い純黒の眼差しが、冬馬の藍色の瞳を冷たく見据えている。
「森の外は広いぞ」
 冬馬は飛炎の双眸を見つめながら続ける。
 森に囚われているこの少年に、どうにかして森の外に目を向けてほしいと思った。
 死の命令など振り払って、自らの意志で人生を歩んで欲しかった。
「……行くあてなどない」
 飛炎は静かに言う。ほんのわずかに、飛炎の声が揺らいだ気がした。
「俺の故郷は『|桃李村《とうりむら》』で、桃と李が名産なんだ。春には深桜山の桜にも負けないほど美しい桃李の花が咲いて、夏になれば美味い実が成る。他所からわざわざ買いに来る人がいるくらいだ」
 冬馬が話し出すと、「何の話だ?」と飛炎はわずかに眉を寄せる。「まぁ、聞け」と、冬馬は続けた。
「俺の実家も桃を作っている。採れたての桃はこれ以上ないくらい美味いぞ。村にいたときは、俺も虎次郎も親の目を盗んでこっそり食べていた」
 冬馬は昔を思い出し、温かな気持ちになる。
 桃の香が漂う果樹園の中を、虎次郎や近所の子供たちと走り回って遊んだ懐かしい記憶がよみがえってきた。
 もう二度と虎次郎と桃を食べられない事実に涙が込み上げてきたが、冬馬は歯を食いしばって耐える。
 飛炎が森を辞めさせられてすぐの頃、飛炎は自分のことを「ただの色見だ」と称していた。だが、冬馬はそうは思えない。目の前の少年は、ただの色見ではなく、飛炎という人格のあるただ一人の人間のはずなのだ。
「なぁ、ただの飛炎。全てが終わったら、俺の村へ来い。美味い桃を食わせてやる」
 冬馬は自分でも驚くほど穏やかな声で飛炎に声をかけた。なぜかは分からないが、冬馬は飛炎を村に連れて行ってやりたいと心から思った。実家の桃を食べさせたら、この少年はどんな反応をするのだろうかと、冬馬は考えずにはいられない。
「……不毛なことを言うな」
 飛炎は無表情に返してきたが、声にいつものような冷たさが無いような気がした。
「そうか」と冬馬は苦笑し、飛炎と共に部屋を後にした。