色見を保護した梅班は、伝書鳩を使って各地にいる部隊にただちに連絡を行った。
そして|翠光《すいこう》海岸から南西にある兵舎の跡地で待機し、松班、竹班と合流する手筈となった。
現在は卯月三日で、明日中には松班と竹班が兵舎に辿り着き、全班そろった時点で出発することになっている。
|篠月《しのつき》を再び誘拐される危険を考慮し、色見部隊は三班に分かれて行動することになった。一班は篠月と|飛炎《ひえん》を護衛し最後の試練の場へ向かい、残る二班は囮となって誘拐犯をおびき寄せる計画だ。
篠月を保護したことにより、|虎次郎《こじろう》は再び色見の記録係を務めることになった。
虎次郎は篠月に対して、誘拐犯はどんな者か、どうやって試練の場に行ったかを聞き出そうとしたが、彼女は何もしゃべろうとはしなかった。それどころか、目も合わせてくれない。
不可解なことに、保護された安全な場所にいるはずなのに、彼女の顔には希望を失ったような影が漂っている。
虎次郎はなるべく篠月を刺激しないよう注意を払ったが、彼女に対して飛炎以上にどう接すればよいか分からなかった。
「|竹峰《たけみね》だ、昼食を持ってきた」
虎次郎は戸に向かって声をかけるが、返事はない。
「入るぞ」と言いゆっくり戸を開けると、部屋の中には朝と変わらない姿勢で正座している篠月がいた。彼女は視線を床に落とし、虎次郎の顔を見ようとしない。
彼女の前には盆に乗った朝食が手つかずのまま残っていた。
「……食べなかったのか。体調が悪いのか?」
虎次郎は比較的穏やかに尋ねるが、篠月から返事はない。
昏い瞳で床を見つめているだけだ。
「ここに置いておくから、食べられる分だけ食べてくれ」
虎次郎は会話を諦め、昼食の乗った盆を篠月の前に置いた。篠月の視線は一切動かない。虎次郎は朝食の乗った盆を手に持ち、静かに部屋を後にした。
小さくため息を吐き、食堂へと歩を進める。この朝食どうしようかな……と考えていると、廊下の奥から同期の兵士である|辰巳《たつみ》が歩いて来て、「虎次郎」と声をかけられた。
「どうしたんだ、その食事」
「色見の朝食だよ。一口も食べてないんだ」
「そうか……。彼女、保護してから飲まず食わずじゃないか。そろそろ倒れるぞ」
「そうだな……。これで昼も食べないんだったら、無理やりにでも食べさせないとな」
二日前の真夜中に、翠光ノ祠にいた篠月を保護したものの、それから彼女は何も口にしていない。このままでは本当に倒れてしまうだろう。
「彼女は相変わらず何もしゃべらないのか?」
「あぁ。一言も話さないし、目も合わせてくれない。正直飛炎よりやっかいだよ」
虎次郎が眉をひそめて言えば、「あいつよりもか」と辰巳は苦笑した。
物言わず、死んだ目で虚を見つめている篠月は、飛炎よりも扱いが難しかった。感情の無い傀儡のようで、必要最小限の会話しかしない飛炎の方が、まだましだったと思うほどに。
「可哀想に、よほど怖い目に遭ったんだな」
辰巳は暗い声になってつぶやく。
色見が何も話さないのは、誘拐犯に恐ろしい目に遭わされ、うまくしゃべることができないからだと皆思っていた。
急に兵士に保護されたところで、見知らぬ男たちに囲まれては警戒しても当然だ。
しかし、篠月の絶望に満ちたあの顔は、どうも警戒しているだけのように虎次郎は思えなかった。
「……家族から虐待を受けていたかもしれないと聞いていたが、本当だったようだな」
虎次郎が低い声を出せば、「あぁ」と辰巳は険しい顔で頷いた。
女子ということもあって体中確認したわけではないが、腕や脚には最近ついたものではない痣がいくつもあった。時期的に誘拐犯につけられたものではないだろう。
それに普通の女子より痩せ細っており、充分に食べ物を与えられていなかったことが分かる。
行方不明になった篠月を捜索していた際、笹藍村の住人たちに彼女の特徴について尋ねたところ、大人しいが虚言癖があるみすぼらしい娘という意見がほとんどだった。
その中で、家族から殴られている姿を見たことがあると証言した者が何人かおり、もしや虐待を受けていたのではないかと虎次郎たちは思っていたが、その通りのようだ。
聞いた話によると、篠月の生まれる前に実父は事故で亡くなり、実母は篠月が六歳のころに病で亡くなったらしい。
その後、実母の姉の一家に養女として引き取られたが、厄介者扱いされていたのだろう。
「家から逃げ出したのも、色見になった重圧から逃げたかったんじゃなくて、家族たちから逃げたかったんじゃないのかな」
辰巳は眉を下げて言い、「そうかもな……、逃げた先で誘拐犯に攫われるなんて、本当に不運な子だ」と虎次郎も続ける。
実際に篠月の顔を見て思ったが、なんというか幸薄そうな顔をしていた。
虐待をされていた上に、誘拐犯に攫われ利用されたのだとすれば、希望を捨ててしまう気持ちも分からなくはない。
「でも、虎次郎が彼女を見つけられたのは幸福だったよな。せめて、誘拐犯がどんなやつなのか教えてくれたらなぁ……。背丈とか、髪の色とか、そういう些細なことでもいいのに」
「もしかしたら、誘拐犯に脅されてしゃべれないのかもしれない。なんとか彼女を安心させてやれないかな……」
「恐怖で支配された子を安心させるのは中々難しいぞ。やっぱりあの子に話をするのは女性の方がいいんじゃないか? お前じゃ厳しいだろ」
「……否定はしないけど、色見部隊に女性を入れるっていうのも厳しいぞ」
暗に女性の扱いが下手だと辰巳に言われた気がするが、特に突っ込まず言葉を返す。
この色見部隊は、一般には気付かれないように行動しなければならない。
その中で、今から篠月のために女性を入れるというのは難しい。
昔、八歳の少女が色見に選ばれた際、怯える少女を落ち着かせるため少女の母が色見部隊に同行したことはあった。しかし、篠月が虐待されていた可能性を考えると、彼女の養母を呼ぶのは逆効果だろう。
今はとにかく、誘拐犯の襲撃に備えつつ彼女を三つ目の試練の場に連れて行くことを最優先に考えなければならない。
「……この朝食、食べるの手伝ってくれないか。このまま捨てるのはさすがに忍びない」
虎次郎が盆の上を見せつけて言えば、「いいよ」と辰巳は笑った。
炊事場に行き、虎次郎と辰巳はすぐさま器の中を空にして朝食を片付けた。
その後辰巳は兵舎周辺の見回りへと戻り、虎次郎は兵舎内にある書斎へと向かった。
この兵舎は訓練のために使用される施設であり、年に数回しか使われていない。そのためどの部屋も埃っぽく蜘蛛の巣が張っていたが、軽く掃除をすれば問題なく生活できた。
書斎も例に漏れず汚れてはいたが、文書を書くだけが目的の虎次郎は文机の上とその周辺だけを軽く拭き、机の上に支給された紙を広げた。
虎次郎は懐から矢立を取り出し、紙に今日の日付と篠月の様子を書いていく。
しかし、書けることは少なく、二行だけ書いて虎次郎は頬杖をついてため息を吐く。
今までに書けたことといえば、彼女の容姿ぐらいだ。
事前の情報では亜麻色の長髪だと聞いていたのだが、保護したときは肩までの短い黒髪になっていた。誘拐犯に切られ染められたのだろう。
本来は試練の内容を聞き記録しなければならないのだが、あの様子では当分なにも話してくれなさそうだ。
ちゃんと三つ目の試練を受けてくれるかも怪しい。
「誘拐犯の特徴を少しでも話してくれればな……」
虎次郎はほぼ白紙の紙を見つめながらつぶやく。
|深桜山《みおうざん》や|翠光海岸《すいこうかいがん》での監視を潜り抜け、篠月を試練の場へと連れていった奴だ。
相当な手練れに違いない。
一体何者なのか、何を目的に色見を攫い試練を受けさせたのか分からず、気味が悪い。
「……このまま何も書かなかったら、隊長から雷落ちそうだな……」
虎次郎は紙を見つめ、鬱々とした気持ちになる。
まさか飛炎を恋しく思う日が来ようとは、虎次郎も予想外だった。
◆◆◆◆ ◆◆◆◆ ◆◆◆◆
兵舎の門の前には、常に二人の兵士がおり見張っていた。
兵舎は人里から離れた森の中にひっそりと建っているため、風が木々を揺らす音か動物の鳴き声しか聞こえてこない。
すでに日は暮れ、兵士たちが持つ松明の灯りだけが周囲を照らしている。
「早ければ、竹班は今日の夕方くらいに着くかもしれないと言っていましたが、まだ来そうにないですね」
若い兵士が門の前に伸びる道の奥を見つめながら、隣に立つ壮年の兵士に向かって声をかける。
「さすがに夕方は早すぎるだろう。せめて今日の夜だ」と、壮年の兵士は苦笑して返した。
「……誘拐犯は、篠月を取り戻しに来ますかね」
若い兵士は神妙な顔で問いかける。
「俺は来ると思っている。どんな奴かは分からんが、ただ者じゃないことは確かだ。すでにこの兵舎の場所もばれているだろうな」
壮年の兵士は厳しい口調で言い、若い兵士はごくりと唾を呑み込む。
得体の知れない何者かがすでに近くにいるのではないかという緊張感が、常に兵士たちの間に流れていた。
不意に冷たい風が吹き、壮年の兵士はぶるりと体を震わせる。
「悪い、ちょっとそこらで用を足してくる」
壮年の兵士は松明を差し出し、若い兵士は「分かりました。早く戻って来てくださいね」と言いながらその松明を受け取った。
壮年の兵士はそそくさと近くの茂みの中に入り、袴を下げて用を足したあと、すぐに門の前へと戻った。
場を離れたのは、ほんの寸刻の間。
それなのに、門の前の様子は変わっていた。
松明の灯りが消えており、若い兵士の姿も見当たらない。
薄暗闇の中目を凝らすと、門の近くで若い兵士がうつ伏せで倒れているのが分かった。
彼の横には火の消えた松明が二本転がっている。
壮年の兵士は急いで若い兵士に近寄り、「どうした!」と声をかけるが、返事はない。
体を仰向けにさせた瞬間、壮年の兵士は息を呑んだ。
若い兵士はすでにこと切れており、喉笛を斬り裂かれ自身を赤く染め上げていた。
よく見れば、周辺の地面にも血がまき散らされている。
この短時間、声を上げる間もなく殺されたのか。
間違いない、誘拐犯がここにいる。
「敵しゅ……」
壮年の兵士は声を張り上げ危機を知らせようとしたが、音も無く背後から迫って来た影に喉を斬り裂かれ、声は闇に消えた。
◆◆◆◆ ◆◆◆◆ ◆◆◆◆
薄暗い書斎の中、文机に向かっている虎次郎は何度目かのため息を吐いた。
先ほど篠月に晩御飯を持って行ったのだが、やはり篠月は昼食を一つも口にしてはいなかった。
それどころか明らかに顔色が悪く、フラフラと体を揺らし今にも倒れそうな有様だった。「せめて水だけでも飲んでくれ」と虎次郎は強く言い、なんとか水は飲んでくれたが、これでは彼女が倒れるのも時間の問題だ。
虎次郎は本当に篠月が何を考えているのか分からない。
このままでは本気で餓死してしまいそうだ。
もしや死ぬ気じゃないだろうなと虎次郎は頭を悩ませる。
「早く来いよ冬馬……」
虎次郎はため息交じりにつぶやく。
早く竹班と合流して、彼女のことを冬馬に相談したかった。
人当たりのいいあいつならば、少しは彼女も心を開いてくれるのではないかと虎次郎は思う。
「あ~でも、竹班が来たら飛炎も来るのか……。まさかあいつの記録係も俺がやるんじゃないだろうな。無理だぞ、あんな扱いにくい色見二人の面倒を見るなんて……。マジで誰か代わってくれよ……」
虎次郎は愚痴を言いながら文机の上に突っ伏す。
なぜこんな貧乏くじを自分が引かなければならないのか。
第一、字が上手いという理由で記録係をやらせるなんて横暴だろう。
字なんて読めればいいじゃないか。
もっとこう、几帳面だとか、細かなところまで気付くとか、対話するのが上手いとか、そういう能力の方が記録係に必要な気がする。
「敵襲!」
突然廊下の奥からかすかに聞こえてきた声に、虎次郎はがばりと上体を起こす。
耳を澄ませば、何人もが廊下を走る音と、かすかに金属同士がぶつかる音もする。
(敵だ、それも入り口の方から……‼)
虎次郎はすぐさま頭を切り替え、書斎を出て兵舎の入り口の方へ走る。
書斎は兵舎の入り口から最も遠い場所にあるため、辿り着くまでに時間がかかる。
廊下を進むたびに、刃が交わる音やうめき声が大きくなり、虎次郎は力の限り走り抜けた。
何度目かの突き当りを曲がった虎次郎は、飛び込んできた惨状に息を吞み目を見開く。
急所を斬られた兵士たちが倒れており、彼らから流れ出た血で廊下が赤く染まっていた。
先ほどまで聞こえていた交戦の音は無く、誰の声も聞こえてこない。
こんなわずかな時間で、全員やられてしまったというのか。
動かなくなった同僚たちを呆然と見つめていた虎次郎は、廊下の奥で人影が動いたのに気づき、そちらに目を遣った。
そして、さらに瞠目する。
そこに立っていたのは、あどけなさの残る少年だった。
両手に一本ずつ血に濡れた短刀を握っており、この少年が兵士たちを殺したのだと知らせている。
小柄な十三、四歳ほどの男子で、黒い短髪に地味な紺鼠色の着物を纏っているため、暗闇に忍んでいるかのように見えた。
どこにでもいそうな農村の子といった風体で、威圧感はまるでない。
しかし、彼の深く大きな純黒の瞳に捉えられ、ゾクリと戦慄が走った。
「何者だ」
少年は答えない。
感情の抜け落ちた顔で、静かに虎次郎を見つめるだけだ。
その顔と瞳に、虎次郎はとある既視感を覚えた。
まるで感情の無い傀儡のようなその眼差しが、どこか飛炎と似ているのだ。
「お前、まさか『森』か?」
虎次郎の問いかけに、少年は微動だにしない。
その冷静さも、感情の無さも、元森である飛炎とあまりにも似通っていた。
「墨⁉」
篠月の声が虎次郎の背後の廊下の奥からかすかに響く。一瞬だけ少年の瞳が声の方向を見た気がした。
「すみ? それがお前の名か?」
虎次郎は問うが、少年は口を開く気配を見せず短刀を構える。
「話すことはないってかよ……!」
虎次郎が抜刀した瞬間、少年が動いた。まるで影が滑るように、少年の体は音もなく間合いを詰めてくる。
虎次郎の持つ打ち刀より、少年の短刀の方が間合いは短い。少年は虎次郎の胸元に飛び込み、虎次郎は少年の頭目掛けて刀を振るう。
しかし、少年は直前で進路を変え、廊下の壁を軽く蹴って跳んだ。
虎次郎の刀は空を斬り、少年の右手の短刀が虎次郎の胸元を狙う。虎次郎は刀を構え直し、少年の頭を斬ろうとした。
だが、少年は身を沈めて刃をかわし、左手の短刀が閃き虎次郎の脇腹を狙う。
虎次郎はとっさに後ろへと退き、わずかにかすった短刀が着物を裂いた。
額に嫌な汗が浮かぶ。
(速い……! この歳でなんて力量だ……!)
虎次郎は息を整えながら間合いを取った。
見た目からは想像もつかないほどの強さだ。
ほんの少しでも気を抜けば命を奪われるだろう。
緊迫する命のやり取りの中で、殺気もなく無表情にこちらを見つめる少年に、気味の悪さを感じざるをえない。
少年はまた間合いを詰めてくる。虎次郎は少年を凝視し、身を構え攻撃に備えた。
少年が右手を振り上げたのを見て、虎次郎は右脇腹を狙って刀を振るう。
しかし、少年は左側に跳んで斬撃を避けたあと、壁を蹴りひらりと舞うと軽業師の身のこなしで虎次郎を跳び越え背後に回った。右手は囮だったのだ。
(身軽すぎだろ……‼)
虎次郎はすぐさま振り向き、首筋を狙った少年の短刀を紙一重で避けた。
速い上に予備動作が見えず、さらに表情も全く読めないため攻撃が予測できない。
右の短刀が虎次郎の肩を掠め、息つく間もなく左の短刀が喉元に迫る。
なんとか短刀を刀で弾くと、一瞬火花が散り、刀身が擦れる衝撃が腕に響いた。
「墨!」
不意に廊下の奥から篠月が姿を現した。
そんな大声出せるんじゃねぇかと、虎次郎は内心舌打ちをする。
「来るなあぐり! 戻ってろ!」
少年は虎次郎から目を離さずに叫ぶ。思ったよりも低い声だった。
すぐさま篠月は「分かった!」と返事をし、廊下を戻っていく足音が響く。
篠月とこの少年が声を発したのも衝撃だったが、それ以上の衝撃が虎次郎に走った。
(こいつら、もしかして協力してんのか⁉)
九分九厘、この少年が篠月を攫った犯人のはずだ。
それなのに、今の短い会話だけで、二人の仲に信頼関係があることが分かった。
それに、篠月の声には、どことなく希望が乗っていたようにも感じる。
(まさか、こいつが篠月を攫ったんじゃなくて、篠月がこいつに協力を仰いだのか? それとも、なにか利害が一致して協力を? いや、今は余計なことを考えている場合じゃない……!)
虎次郎は少年の連撃を凌いでいたが、床に広がる血に足をすべらせ、背後にあった仲間の死体を踏み体勢を崩す。
しまったと思ったときには、少年の短刀が目前に迫って来ていた。
顔を傾けて短刀を避け、虎次郎は飛び込んで来た少年の腹を思い切り蹴り上げる。
しかし、少年は足が当たる直前で背後に飛び退いた。
虎次郎は体勢を戻しながら慎重に相手の出方を窺う。
ふと自分の左頬から血が流れ、輪郭をつたい床にポタリと落ちた。
先ほど避けたと思ったが、わずかにかすったらしい。
少年の動きは、狭い場所での戦い方を熟知した動きだった。
狭い廊下では、虎次郎の持つ打ち刀よりも、少年の短刀の方が小回りが利き扱いやすい。
壁すらも身軽な少年は足場として利用している。
篠月が兵舎を発った後ではなく、兵舎にいるうちに奇襲をかけてきたのは、その方が地の利があると考えたのだろう。
(やっぱ、ただ者じゃねぇな……)
虎次郎は小さく息を吐くと、床を蹴り勢いをつけて前に飛び出した。
狭い廊下を逆手に取り、少年を壁際に追い詰めようと試みる。
正面から斬りかかると、少年は両手の短刀で虎次郎の刀を受け止めた。刀身がぶつかり合う甲高い音が廊下に響く。
虎次郎が刀を押し込むと、少年は後退する。小柄なぶん、少年に力はそれほど無いようだ。
そのまま少年を壁際に押し逃げ場を無くそうとするが、少年はいきなり力を抜き短刀をすべらせた。
力を入れ続けていた虎次郎は少しだけ体勢を崩して前のめりになる。
その隙を逃さず、少年の左の短刀が虎次郎の目を鋭く突いた。
とっさに虎次郎は刀を横に薙ぎ、短刀を弾き飛ばす。
勢いをつけた刀はそのまま横にあった障子を突き破り、裂けた紙の隙間から部屋の中から行灯の光が漏れ、少年の顔を照らした。
少年は一瞬目を細め、残った右手の短刀で虎次郎に斬りかかる。
虎次郎は間合いを取り、隙の見えた少年の左腹目掛けて刀を振るった。
しかし、手が痺れて狙いが外れ、刀は少年に届くことなく空を斬った。
大振りになり次の動きへ瞬時に対応することができず、少年の短刀が迫る。
虎次郎は身をよじって避けるが、右腕を斬られ鋭い痛みが走った。
虎次郎は一旦突き破った障子から室内に入り、少年から距離を取る。
息を整えながら、虎次郎は自分の身に起きていることに動揺していた。
手の痺れはだんだんと大きくなり、足にも広がってきていた。
(まさか、刀身に毒が塗ってあるのか?)
虎次郎はハッとして少年の持つ短刀に目を遣った。
先ほど頬を斬られたときに、毒が体内に入り込んだのか。
体がサッと冷たくなり、ゾクリと心臓が戦く。
遅行性の毒か。死に至るのか。
いや、そんなことを考えている余裕はない。
今はとにかく、目の前の少年に一撃与えることを考えろ。
虎次郎は自身を奮い立たせ、感覚を失いつつある手に力を込める。
当の少年は息一つ乱さず、顔色も変えないまま闇のように静かな瞳でこちらを見据えている。
まるで人の熱を感じない。本当に傀儡のようだ。
少年は勢いをつけ虎次郎の元へ飛び込んでくる。それを見計らい、虎次郎は足元にあった行灯を少年に向かって蹴りつけた。
行灯は少年の顔目掛けて飛んでいき、少年は左手で振り払う。
バキッと行灯の破壊される音が部屋に響く。油皿が落ちて畳に油が広がったが、灯心の火は燃え移る前に少年が踏んで消えた。
行灯に少年の視線が隠れた一瞬を狙い、虎次郎は少年の頭目掛けて刀を振り下ろした。
少年は右腕をかざし頭をかばう。
右腕を斬った、と思ったが、刃が少年の右腕に触れた瞬間ガキン!という金属音が響いた。
固い衝撃が虎次郎の両腕に響く。
(こいつ、腕になにか仕込んでるのか⁉)
虎次郎は驚きつつも、そのまま刀を少年の腕に押し込む。
しかし、痺れる手ではうまく力を入れることができず、少年に弾かれてしまった。
それほど少年の腕力が強いわけではなかったのに、虎次郎は簡単に体勢を崩す。
すでに痺れは全身に回り、瞼も痙攣し始めていた。
少年の短刀が目前に迫ってきているのが見え、なんとか避けようとするが、足がもつれて後ろにあった壁にぶつかってしまう。
その瞬間、少年の短刀が深々と虎次郎の胸を貫いた。
焼けるような痛みが全身を駆け巡り、口から抑えられないうめき声がもれる。
少年は無表情のまま短刀を抜いたかと思うと、今度は腹に突き刺し鍔が着物に沈む。
さらなる痛みに襲われ、虎次郎はうめきながらずるずると力なくその場にくずおれた。
短刀を抜いた少年は、闇のような純黒の瞳で静かに虎次郎を見下ろすだけだ。
虎次郎は刺された腹を痺れる右手で押さえるが、血の勢いは止まらずただ右手を赤く染め上げる。
(これはもう助からないな……)
畳に広がる自身の血を見つめながら、虎次郎はどこか冷静に考えた。
まさか、たった一人の少年に部隊が壊滅させられるとは、誰が思っただろうか。
「……なぁ、冥土の土産に教えてくれよ。お前の目的はなんだ?」
背中を壁にあずけ、顔を上げて虎次郎は問う。しかし、少年は虎次郎の方を見ず刀身についた血を無造作に振り払っていた。
(俺に興味なんてないか……)
少年にとって、人の命など道端の虫と同程度のものなのだろう。
今までも、なんの感情も持たず何人もの命を奪ってきたに違いない。
自分の意志ではなく、命令のために。
人を殺す傀儡として感情を殺され、死ぬまでそのままだ。
その死すらも、命令によって決められるのかもしれない。
不思議と虎次郎は少年が憎く思えなかった。
仲間を殺され、自分も死ぬことに対しては憎いが、それ以上にこの少年が憐れだと思った。
あぁ、冬馬が飛炎に抱いていた感情はこういうことかと、今になって分かった気がする。
「ただ殺すだけの人生なんて、お前、かわいそうだな……」
心からの憐憫の情を乗せ、虎次郎は声をこぼす。
霞む視界の先で、少年の瞳が揺れ動いた気配がした。
◆◆◆◆ ◆◆◆◆ ◆◆◆◆
与えられた一室で足を抱え座っていたあぐりは、胸を震わせながら耳を澄ませる。
不意に金属音と足音が止み、あたりは急に静かになった。
あぐりが息を殺していると、廊下から「あぐり」と呼ぶ聞きなじみのある声が聞こえた。
「墨!」
あぐりはすぐに返事をする。
よかった、彼は生きていたとあぐりはひとまず胸を撫で下ろした。
しばらくすると戸が開き、祢墨はいつも通り無表情な顔であぐりを見下ろし「いた」とつぶやいた。
もう二度と会えないかもしれないと思っていた彼の顔を見て、あぐりの胸に温かい感情が広がっていく。
「早くここを出るぞ」
「うん」
あぐりが立ち上がると、祢墨は速足で廊下を進んで行ってしまう。置いて行かれないよう、あぐりは必死に祢墨の後を追って廊下を進んだ。
しかし、突き当りを曲がった先の光景を見て、あぐりは足を止めてしまう。
目に飛び込んできたのは、兵士たちの変わり果てた姿だった。
皆ピクリとも動かず、胸や首、腹から大量の血が流れ出て、廊下を赤く染めている。
明らかに全員死んでいる。
祢墨が助けに来たと分かった時、こうなるのではないかとあぐりは覚悟はしていたつもりだったが、実際に目にすると受け止めきれないほどの衝撃だった。
――あぁ、殺してしまった。
皆、いい人たちばかりだった。
本当に私のことを心配してくれた。
言葉に嘘はなかった。
それなのに、殺してしまった。
すべて私のせいだ――
視界が大きく揺らぎ、急激に胃が収縮する。
耐えきれず、あぐりは前のめりになって嘔吐した。
何も食べていないせいで吐くものが無く、口からは苦い胃液しか出てこない。
それでも吐き気は治まらない。
涙を滲ませながら吐き続けるあぐりの背を、祢墨は静かに撫でた。
祢墨の手は何十人もの命を奪った血濡れた手であることをあぐりは分かっていたが、それでもその手のひらは温かい
あぐりは必死に呼吸を整え、吐き気を抑え込んだ。
少し落ち着いたところで、「なにも食べてないのか?」と祢墨は問いかけてきた。
「うん。食欲が無くて、水しか飲めなかった……」
あぐりはかすれた声で返す。その水すらも、夕暮れ時にようやく口にしただけだった。「そうか」と祢墨は短く頷き、あぐりに背を見せてしゃがみ込んだ。
「俺に乗れ。背負って行く。見たくないなら、目を閉じていろ」
「わ、分かった……」
足を動かす気力も失ったあぐりは、素直に祢墨の背に乗った。
あぐりを背負った祢墨はすぐに立ち上がり、廊下を駆け抜けていく。
あぐりは瞼を固く閉じて祢墨に揺られるままになる。だが、濃い血の臭いが鼻をつき、兵士たちの無残な姿が脳裏に浮かんで離れない。
祢墨は兵士たちを全員殺したはずなのに、疲れた様子を見せず、あぐりを背負って走り続けた。その力強さに、あぐりは恐怖に近い感情を抱く。
兵舎を出て冷たい夜風が頬を撫でたところで、あぐりはゆっくりと瞼を開いた。
草木の香りが血の臭いを忘れさせてくれるのではないかと思ったが、そうはならなかった。
どこまで行っても血の臭いが鼻に届く。もしかしたら、この臭いは祢墨から漂っているのかもしれない。
外はすっかり暗く、夜空に浮かぶ三日月がささやかな光を落としている。鬱蒼とした森の中を、祢墨は迷いなく駆けて行った。
「……どこまで行くの?」
あぐりはかすれた声で尋ねる。「この先にちょうどいい洞穴を見つけたから、そこで一息つこう」と、祢墨は走る速度を緩めずに答えた。
しばらく走れば本当に洞穴があり、洞穴の中に入ると祢墨はゆっくりとあぐりを降ろした。「ありがとう」とあぐりは礼を言う。
「……墨、大丈夫? 怪我はしてない?」
「うん、ちょっと打撲したくらい。服についてる血は全部返り血だから安心して」
「そっか……」
返り血に濡れた服を見て安心していいものかあぐりは疑問に思ったが、祢墨の言葉に嘘はないので本当に軽い怪我しかしていないのだろう。武器を持った十人以上もの男性相手に軽い怪我で済むとは、恐ろしいほどの強さだ。
「兵士たち、全員殺したの?」
「うん、それと兵舎の近くに森が三人潜んでいたから、ついでに殺しておいた」
まるで蚊でも殺したかのような軽さで祢墨は告げる。兵士たちの遺体が脳裏によみがえり、また吐き気を催すが、あぐりはゆっくりと深呼吸して耐えた。
「悪いけど、あんまり休んでいる暇はないよ。もうじき増援が来るって兵士たちが会話していたから、夜のうちに山狩りが始まると思う」
祢墨は洞穴の奥を指差し、「そこに置いてある服に着替えて」と言った。祢墨の指の先には、風呂敷に包まれた荷物と畳まれた着物が二つある。
「どうしたのこの服?」
「あぐりが捕まっている間にそろえておいた。あぐりの見た目が兵にばれちゃったから、少しでも変装しておこう。僕もこの服替えたいし」
そう言いながら祢墨は袴の帯を解き着物を脱ぎにかかる。なんだか気まずくてあぐりは祢墨から目を逸らした。
「これ食べて。少しでもお腹に入れないと倒れるよ」
祢墨は着物から巾着を取り出しあぐりに差し出す。あぐりは祢墨の体を見ないようにしながら巾着を受け取った。
巾着の中には、木の実と兵糧丸がいくつも入っていた。「水はそこにあるから」と祢墨は着物の横にある風呂敷に包まれた荷物を指差した。いつも祢墨が肩にかけている荷物だ。
あぐりは荷物に近付き結びをほどく。懐の中には瓢箪でできた水筒の他に、手ぬぐいや縄、何かの小物入れが入っていた。
あぐりは瓢箪を手に取り、中に入った水を飲み喉を潤す。食欲はやはり無かったが、小ぶりな赤い木の実を二つだけ食べた。思いのほか酸味の強い味だ。
「翠光ノ祠で、勝手に離れてごめんね。あの場所じゃあぐりを助けられないから、一旦退散したんだ。さすがに無理な作戦だったね」
祢墨は着替えながら言う。あぐりは木の実を飲み込み、「いいよ、墨のことはばれなかったから」と返した。確かに試練を終えて祠から出たら兵士たちがおり、祢墨の姿が無かったことに狼狽えはしたが、あの状況なら祢墨の撤退は致し方無いと思う。
「今回は兵たちを襲って目立ち過ぎちゃったから、僕の存在はばれただろうね。未鷹も感づくと思う。これからは今まで以上に気を付けて進まないといけない」
「これまで以上……」
祢墨はこれから、もっと多くの人を殺すのだろうか。出会ったころ言っていたように、もう一人の色見も、彼を護衛する兵士も全員殺して、未鷹に挑んでいくのだろうか。
私が囮になれば、色見と兵士は殺さずに済むだろうか。
あぐりが悶々と考えていると、いつの間にか着替え終えていた祢墨が「最後の試練の場所はどこなの?」と尋ねてきた。
「……|蜃龍山《しんりゅうざん》の、|泡影湖《ほうようこ》にある|虹楼閣《こうろうかく》」
「蜃龍山の泡影湖か……遠いなぁ」
祢墨は驚く様子を見せずつぶやく。自分の言葉をすんなりと受け入れる祢墨に驚き、「泡影湖に虹楼閣があるの?」とあぐりは問いかけた。
「さぁ、聞いたことがないけど、その試練の監督が言うならあるんじゃない? 今までの試練も不思議なことしか起こらなかったから、虹楼閣があっても不思議じゃないと思うな」
「……そうだね」
確かに、今までの試練は現実では起こりえないことが次々に起こったので、幻と言われている虹楼閣が出現してもおかしくはないだろう。あの白虎の面をつけた子供が不思議な力で虹楼閣を造るのかもしれない。
「そういえば、例の白虎の面の監督が『ようじゅつ』を使って試練の空間を作ったらしいけど、何のことか分かる?」
「え、妖術? 『妖気』とかいう変な力を使って幻を見せたり、火とか水とか出す古代の術じゃなかったかな?」
祢墨はわずかに白銀の魂の色を揺らして答える。
古代の術が使えるということは、あの子供もやはり虚色の王のように古代の亡霊なのだろうかと、あぐりは白い炎を思い出しながら考えた。
「妖術なんて、ただの昔々のおとぎ話だと思ってたけど、その監督が使ってたなら本当にあるんだね。試練の場所も妖術を使って造り出していたのなら合点がいくよ」
祢墨は納得したように頷くと、「そろそろ出発したいから着替えて」とあぐりを見て言った。「うん」とあぐりは返事をし、巾着を祢墨に返して急いで着替えた。
「脱いだ服はどうするの?」
「穴に埋める。昼間のうちに掘っておいた。あとで埋めるの手伝って」
「分かった」
祢墨の言う穴は洞穴近くの木々の中に掘られており、二人は服を埋めたあとすぐに南に向けて出発した。すでに夜は更け暗闇が広がっていたが、祢墨はいつも通りあぐりの手を引き難なく森の中を進んで行った。
「いよいよ虚色の王に近づいてきたね」
祢墨は前を見ながら言い、あぐりは「うん……」と曖昧に頷いた。
旅の終わりが近い。
この旅の最後に待ち受けているのは、私の死だけなのだろうかと、あぐりは暗澹とした気持ちで考えていた。