場末の路地裏に店を構える喫茶『ポム』
ここの看板メニューは、店主の佐藤さんが焼く、バターの香り高いアップルパイだ。
「はい、お待ち遠さま。熱いから気をつけてくださいね」
佐藤さんは、柔和な笑みを浮かべて皿を置いた。客の男は、眉間に深い傷跡のある、どう見ても「カタギ」ではない風貌。
通称『カミソリの鉄』
彼は震える手でフォークを握っていた。
「……マスター。俺は、昨日の夜八時、ここにいたよな?」
「ええ、いらっしゃいましたよ」
佐藤さんはのんびりと答える。
「ちょうど新作のパイ生地を練っていた時です。鉄さんが『シナモンは多めがいい』ってアドバイスしてくれたじゃないですか。おかげで今日のパイは、一段と香りがいい」
鉄は、むせび泣くようにパイを口に運んだ。
「そうか……俺は、ここにいたんだな。あのアパートで、組長を……いや、なんでもねえ。俺は、ここのパイを食っていたんだ」
鉄の言う通り、彼は昨晩ここにいた。
ただし、滞在時間はわずか五分。
アリバイとしては成立しないはずなのだが、なぜかこの店の店主に「いた」と言われると、警察も「なら仕方ない」と引き下がってしまう妙な磁場がある。
というのも、店主の佐藤さんは、この界隈で「あまりにも無垢すぎる善人」として神格化されていた。
彼が「いた」と言えば、それは天の啓示に等しい。もっとも、佐藤さん自身は、客が指名手配犯だろうが、懐にチャカを隠していようが、全く気づいていない。
「おや、あちらの黒ずくめの方々。そんなに慌ててコーヒーを飲んだら、胃に障りますよ」
佐藤さんが声をかけたのは、銀行強盗の逃走中と思われる三人組だ。足元には重そうなボストンバッグ。
「あ、ああ。悪いなマスター。急ぎの仕事なんだ」
「お仕事ですか、お疲れ様です。あ、そうだ。ちょうど今、リンゴが大量に余りましてね。これ、ウサギさんの形に剥いたので、皆さんでどうぞ」
佐藤さんは、小皿に乗った大量のウサギリンゴをカウンターに並べた。
「……ウサギ?」
「ええ。疲れた時にはビタミンですよ。さあ、食べて食べて」
凶悪な強盗犯たちは、毒気を抜かれたように顔を見合わせ、無言でウサギリンゴをシャリシャリと咀嚼し始めた。殺気立っていた空気が、一瞬にして小学校の給食時間のようになる。
「マスター。俺、自首するわ」
突然、カミソリの鉄が立ち上がった。
「おや、急にどうしたんですか?」
「あんたのパイを食ってたら、嘘をつくのがバカらしくなった。俺のアリバイは……昨日の八時は、やっぱり現場にいたよ。ここには五分しかいなかった」
佐藤さんは不思議そうに首を傾げた。
「あら。でも、私の記憶の中では、鉄さんはずっとそこに座って、私の無駄話を聞いてくれていた気がしますけどねえ。まあ、お出かけなら仕方ありません。これ、お土産です」
差し出されたのは、丁寧にラッピングされたアップルパイの切れ端。
「留置所じゃ食えねえだろうなあ……」
鉄は苦笑いして店を出た。
その後を追うように、強盗犯たちも
「ウサギ、ごちそうさま」
と小声で言い残し、警察署の方角へと歩き出した。
今日も『ポム』は平和である。
店主の佐藤さんは、鼻歌まじりに皿を洗いながら、独り言をこぼした。
「不思議だねえ。うちの店、なぜか皆さん、帰る時はとってもスッキリした顔をされるんだよね」
彼の背後のテレビでは、指名手配犯の連続逮捕というニュースが流れていたが、佐藤さんはタイマーが鳴ったオーブンへ、楽しそうに駆け寄っていった。