「遅かったな。あと二日遅かったら失格だったぞ」
「え?」
衝撃的なことを子供に言われる。|色見《いろみ》の試練に時間制限があることなど知らなかった。それに先ほどの子供の口ぶりからして、やはり別の色見はすでに一つ目の試練を終えているようだ。
「あ、あなたは何者なんですか?」
「私は虚色の王に仕える者だ。この試練の監督を任されている」
子供は毅然とした声で返してくる。
あぐりは呆然としながら子供を見つめた。子供から、魂の色が一切見えないのだ。
あぐりは人間の他にも、犬や猫、猿といった動物にもわずかに魂の色が見えることがある。一方、虫や草花、ただの物には魂の色が見えたことはない。
そして、人間でも動物でも、死んだら魂の色が見えなくなる。
目の前の子供は生きていないのかもしれないと、あぐりは背筋を冷たく震わせた。
「あなたも、虚色の王のような亡霊なのですか?」
「……まぁ、その認識で構わない。おしゃべりは終わりだ、さっさと試練を行うぞ。お前に虚色の王の元へ向かう資質があるか試してやる」
子供がそう言った瞬間、あぐりの目の前に突如として石造りの机が降ってきた。ドン!と大きな音を立てながら机は着地する。「きゃぁ!」とあぐりは飛び退いたが、子供は「まずは小手調べだ」と冷静に言う。
「この机の上にある石を、色が薄い順に並べろ」
子供は机の上を指差す。机の上には赤い色のついた正方形の石が十個ばらばらに置かれていた。あぐりは恐る恐る一つ手に取る。手のひらに収まるほどの大きさで、思いのほか軽かった。
「この砂時計の砂が落ち切るまでに答えろ」
子供はどこからか砂時計を取り出し、机の上に置いた。すでにサラサラと砂が落ち始めており、あぐりは慌てて机の上の石に向かい合う。
石は全て赤色だったが、よく見れば少しずつ濃淡が違う。
あぐりは目を凝らし、薄い色から順に石を左から並べていった。
全て並べ終え、何度も確認し、砂が落ち切る前に「できました」とあぐりは緊張しながら口を開いた。
「正解だ」
子供の面の下から鋭い声が響く。あぐりはほっと胸を撫で下ろすが、「この程度、分かってもらわなくては困る」と子供はどこか冷たい声でつぶやいた。
「次だ」
子供が告げた瞬間、突然地響きがして石壁が揺れ動き出した。
足元がおぼつかず、あぐりは転ばないよう足を開きなんとか体勢を整える。
すると、目の前の石壁の表面がガラガラと崩れ落ち、中から黒い扉が出現した。
呆然としているあぐりをよそに、子供は扉を開け「お前も早く来い」と手招きする。あぐりは慌てて子供のあとを追い黒い扉の中へと入った。
扉の中は、冷たい石造りの四角い部屋だった。あぐりはおずおずと部屋の中へ進み、足音が小さく室内に反響する。
今あぐりが入ってきた黒い扉がある壁以外の三つの壁にも、それぞれ扉がついている。扉は三つとも色が違い、あぐりから見て左回りに薄紅色、淡い水色、黄緑色だ。各扉の横には古びた石の灯籠が一つずつ立ち、揺れる炎が壁に淡い影を投げかけていた。
「今入ってきた黒い扉以外の三つの扉のうち、一つだけ違う色がある。それを選んで次の部屋へ進め」
「え」
あぐりは狼狽えながら目の前にいる子供を見る。扉は全部違う色なのに、一体なにを言っているのだろうか。
「どうした? 時間は有限だぞ」
子供は手に持った砂時計をあぐりに見せつける。すでに砂は落ち始めており、あぐりは目を泳がせながら扉を見た。近くで観察しても、やはりそれぞれ薄紅色、淡い水色、黄緑色だ。当たる光によって色の見え方が変わることがあるので、灯籠の明かりも確認したが、すべて同じ色の光だった。
あぐりは焦りながら扉を見比べる。心臓がうるさいほど早鐘を打っていた。
私にとって全て違う色に見えるけれど、人によっては同じ色に見える色があるのかもしれない。そうなると、水色と黄緑色が近いのではないだろうか。緑色を青色と呼ぶ人もいるし、同じ色とみなしてもいいのかもしれない。
でも、本当にそれでいいのだろうか?
あぐりは戸惑いつつも薄紅色の扉へと近づいていく。
子供の持っている砂時計は、あと少しで全て落ちてしまいそうだ。迷っている暇はない。
あぐりは震える手で薄紅色の扉に手をかける。
確率は三分の一だ。
間違っていたら、|祢墨《ねずみ》との約束を果たせなくなる。この場で彼に見捨てられて、置き去りにされてしまう。
それだけは絶対に嫌だ。
心が暗然とし、扉にかけた指先の震えが大きくなる。
(もしかして墨って、白黒で世界が見えているの?)
あぐりははっとして目を開く。
なぜか唐突に、昼間祢墨と話した内容を思い出したのだ。
あの時祢墨は、桜と曇り空の色が同化してよく分からないと言っていた。つまり祢墨にとって、|空色鼠《そらいろねず》と薄紅色は同じ色に見えている。もしかして、祢墨がこの扉を見たら、一つだけ違った色に見えるのではないだろうか。
(……色の鮮やかさや明るさのことを言っているの?)
あぐりは閃く。
色には、青色だとか赤色だとかの区別の他にも、青色の中でも薄い青や鮮やかな青、くすんだ青など様々な種類がある。明るさが低いほど暗く重い色になるし、鮮やかさが低ければくすんだような色になる。
(私の感覚でしかないけど、墨と見た曇り空と桜の色は、鮮やかさも明るさも同じだったような気がする……)
となると、目の前にある三つの扉の内、鮮やかさも明るさも似たような感じなのは薄紅色と淡い水色の扉だ。
黄緑色の扉は、灯籠の光の下で他の二つより鮮やかに輝いているように見える。祢墨の言葉と私の感覚が一致するなら、これしかない。
正解という確信はない。それでも、自分の色彩感覚を信じて進むしかない。
私が色見に選ばれたのは、常人よりも多くの色を見分け、優れた色彩感覚を持つからだ。
その感覚を信じないでどうする。
あぐりは自分に言い聞かせ、ごくりと唾を吞み黄緑色の扉に手をかけた。
意を決して一思いに開く。
すると、扉の先には後ろにいたはずの子供が立っていた。
驚いて振り向くと、今通ってきたはずの扉は消えただの壁になっており、あぐりはさらに瞠目した。
「……正解だ。時間ぎりぎりだったな」
子供は静かに告げる。
(やった……!)と、あぐりは心の中で叫ぶ。自分の感覚が合っていたのだ。
初めて、自分の目が色見としての力を持つと信じられた。
高揚するあぐりとは裏腹に、子供は「次が最後だ」と冷静に言った。
あぐりと子供がいる空間は、岩壁に囲まれた広大な洞窟だった。いくつかの灯籠と宙に浮く提灯しか見当たらず、冷たい闇に淡い光を落としている。上を見上げると、天井が遠く霞んで見えた。
最後の試練は一体なんなのだろうかと、あぐりは緊張しながら白虎の面をつけた子供の顔をじっと見つめた。
「ここに来るまでに、お前は|深桜山《みおうざん》の桜を見てきただろう」
子供がそう言った瞬間、上からいくつもの桜の花弁が降り注いできた。
あぐりは目を見張って天井を仰ぐ。
遥か先にある天井から、何百、何千という花弁が出現してはハラハラと舞い落ちていた。
地面はすぐさま桜色に色づき、桜吹雪の中あぐりは呆然と立ち尽くした。
「この花弁の中から、本物の深桜山の桜を選べ」
子供は告げ、手に持った砂時計をひっくり返した。また砂がサラサラと落ち始める。
桜吹雪に圧倒されていたあぐりは、はっとして花弁に集中する。
花弁の形は全て同じだが、色が違っていた。
薄紅色の他に桃色、|海棠《かいどう》色、|槿花《むくげ》色、|退紅《あらぞめ》色など様々だ。同じような色のものでも、よく見ればわずかに濃淡が違っている。
こんな無限にあるようにも思える花弁の中で、どうやって本物の桜を見つければよいのだろう。
あぐりは愕然としながら、嵐のように降りそそぐ桜を見つめる。
そうこうしているうちに砂はどんどんと落ちていき、桜の花弁は暗い室内を覆いあぐりを飲み込んでいく。
途方もない気持ちになり、呼吸がだんだん浅くなってきた。
やはり、私には無理なのだろうか。最初の試練で終わってしまうのか。
いや、諦めるな。さっきもなんとか突破できたじゃないか。
外で待っている祢墨に、「合格した」と告げるんだ。
あぐりは諦めそうになる心をなんとか奮い立たせ、歯を食いしばる。
手を強く握りしめ、目を閉じてゆっくりと深呼吸をした。
柔らかな桜の香りが肺を満たしていく。
すると瞼の裏に、ここに来るまでに見た深桜山の夜桜が浮かび上がった。
色は光に強く影響される。
たとえ同じ物だとしても、昼間の日光に当てて見たときと星明りの下で見たとき、蠟燭に照らされて見たときとではどれも色が違って見える。
この場所は暗く、明かりは灯籠のみ。
そして、あぐりは先ほど灯籠の明かりに照らされた桜をじっくりと見ていた。
あぐりは瞼を開き、脳裏に残る夜桜と目の前の桜吹雪を見比べる。
私は色見だ。
自分の感覚を信じろ。
あぐりは手を伸ばし、舞い落ちる桜の中から|一片《ひとひら》の花弁を指先でつかんだ。
|瞬《まじろ》ぎもせず観察したあと、|雲母《きら》引きのように敷かれた花弁の上を歩き子供の方へと向かう。
「これです」
あぐりは落ち着いた口調で子供の前に花弁を差し出す。声とは裏腹に、心はどうしようもないくらい震えていた。
子供の表情は白虎の面に隠れて見えず、一抹の不安を抱きながらもあぐりは花弁を差し出し続けた。
「……合格」
子供がそう告げた瞬間、地面に落ちた花弁が一斉に舞い上がり、桜色の輝きとなって消えていった。
心臓が弾けるように震え出し、言葉にできない燦然とした感情が全身を貫いていく。
合格したのだ。
初めて自分の頭で考え、答えを導き出し、なにかを成し遂げることができたのだ。
今まで感じたことのない高揚感が全身を包み込み、心臓の震えが止まらない。いつの間にか涙が目尻に滲んできていた。
あぐりが声も出せずに立ち尽くしていると、「最初の試練達成だ。お前にこれを渡そう」と子供が何かを差し出してきた。
子供が手に持っていた物は、黒く艶やかな長方形の石の板だった。
手のひらほどの大きさのその石には、中央に縦並びで三つの窪みがある。
あぐりはおずおずと石を受け取った。
片方の短辺側の端には小さな穴があいており、そこには黒い紐が通され首にかけられるようになっている。
「これは虚色の王の元へ行くための通行証だ。中央の窪みには、試練を達成するたびに宝玉が嵌められる。最初の宝玉はこれだ」
子供は懐から鮮やかな紅の珠を取り出した。
なんと美しい珠であろうか。
表面には一切の|瑕《きず》がなく、まるで珠の内側から光を発しているかのように、鮮烈な紅が煌々と輝いている。
あぐりが珠に見惚れていると、珠は子供の手から独りでに動き出し宙へ浮いた。
珠は引き寄せられるかのようにあぐりの手元にある石へと動き、一番上の窪みへと静かに嵌った。
あぐりは驚いて珠に触れてみるが、珠が外れる気配はない。どういう仕組みなのかは分からないが、完全に嵌ってしまっている。
「三つの試練を全て合格すれば、その通行証がお前を虚色の王の元へ導く」
冷静な子供の声に、あぐりははっとして視線を子供に戻す。どういう意味かと問おうとしたが、「次の場所はここだ」と言う子供の声に遮られた。
その瞬間、あぐりの脳内に見たことのない景色が流れ込んでくる。
上空から地を見下ろす視点だった。
視界いっぱいに、青い水たまりのようなものが広がっている。
水面には白い波が次々と現れては、地面に押し寄せ水しぶきを上げながら消えていく。
知らない鳥が空を飛び鳴いている。
嗅いだことのないしょっぱい臭いが鼻をつく。
この広大な水たまりはなんだろう。
もしかして、『海』というものだろうか。
あぐりが困惑していると、視点が水たまりの中の一点に近づいていった。
そこにあったのは、赤い鳥居だった。
鳥居は人が二十人くらいしか立てないのではないかと思うほど小さな島に建っている。
島の中央には大きな翡翠色の岩が置かれており、岩にはしめ縄が巻かれていた。
島には白い波が押し寄せ、砕けるたびにしょっぱい香りが漂う。小さな島に立つ赤い鳥居は、まるで海に浮かぶ炎のように孤高に輝いていた。
この鳥居はなんだろう思っているうちに、脳内から景色は消え去り、あぐりの視界は暗い洞穴の中へと戻ってきた。
「場所は|翠光《すいこう》海岸の翠光ノ祠だ。期限は卯月の|朔日《ついたち》の十二ノ刻まで。弥生が終わる前に行った方がいいぞ」
あぐりは目を瞬かせながら子供を見る。今日は弥生の二十日だ。卯月の朔日まであと十日しかないではないか。
翠光海岸と言われても、あぐりのまったく知らない名前であるし、見当がつかない。
祢墨ならすぐに分かるのだろうか。
「期待しているぞ。色見よ。我が主に虚色がなにかを示してくれ」
子供は静かにあぐりに言う。
その声が、今までの冷たいものとは違い、わずかに力強くなった気がした。
まるで願いをかけているかのようだ。
あぐりがなにか問おうとする前に、視界は急に暗転してしまった。
✿ ✿ ✿
唐突に森の匂いが鼻をついた。足元は石の床から柔らかい土に変わり、遠くで木々が夜風にざわめく。
気が付けば、あぐりは暗闇の中に立っていた。
森の匂いがするということは、恐らく洞穴に入る前にいた森の中なのだと思うが、確信はない。
洞穴の前にいたはずの見張りたちがおらず、祢墨もどこにいるか分からない。
あぐりは暗闇に立ち尽くし、月光の欠片すら見えない森に不安が募った。山道に戻った方がいいかと思うが、真っ暗なせいでどこに進めばいいかさっぱり分からない。
「あぐり」
不意に左側からかすかに声がした。
声の方向に顔を向けると、闇の中わずかに白銀の輝きが見えて、あぐりはほっとしながら「墨」と小さく名を呼ぶ。
「静かにこっちに来い」
冷たい白銀を纏った声が耳を刺す。
いつもと違う声色の祢墨に疑問を覚えながら、あぐりは手探りでゆっくりと近づいていった。
祢墨は草むらの中に身を隠しており、あぐりもしゃがんで祢墨のそばに寄る。
「どうだった?」
静かな問いかけに、「合格したよ」とあぐりは嬉しさを隠しきれずに答える。
「よくやった」
感情のない端的な賞賛の言葉。それでもあぐりは嬉しくて、胸が温かくなるのを感じた。
「もうしゃべるな。俺の手を決して離すなよ」
そう言って祢墨はあぐりの左手を強く握り、ゆっくりと歩き出す。祢墨の一人称が『俺』に変わったことに気付き、あぐりは戦慄する。最初に会ったときと、盗賊夫婦を殺したときのようだ。
祢墨の一人称が『俺』になるのは、人を殺すときだとあぐりは考えている。
現に祢墨の全身から沸き立つ白銀は平時よりも強く輝いており、殺気立った様子だ。
つまり、誰かを殺さなければならないほど、危機が迫っているのかもしれない。
見張りに気付かれたのだろうかとあぐりは恐怖に駆られるが、祢墨を信じ、なにも訊かず祢墨の手を強く握り返した。
静かに呼吸をし、音を出さないように歩き、時折止まって動き出すのを繰り返す。
祢墨は常に周囲を警戒している様子だった。
少しだけ目が慣れ、かすかな月明りを頼りにあぐりは周りを見渡してみるが、静寂に包まれた暗い木々しか見えなかった。
息を殺しながらあぐりたちは進んで行く。
一体洞穴を出てからどれほどの時間が経ったのだろう。
一刻以上は経ったような気がしていると、不意に祢墨が立ち止まり「もう大丈夫」とあぐりの方を向いた。一気に緊張が解けたあぐりは、はぁと大きくため息を吐く。
「だ、誰かに追われていたの?」
あぐりが声を潜めて尋ねると、祢墨は「うん」と頷いた。
「あの見張りの兵たちの他にも誰かいたみたい。たぶん森だね。|虫声《むしせい》の音を聞かれちゃったかな」
「え?」
祢墨はなんてことなさそうに言うが、あぐりは動揺を隠せない。以前祢墨が言っていた通り、本当に森が関わってきていたのだ。
「だ、大丈夫なの?」
「まいたから大丈夫。あの場に森がいることは想定内だよ」
祢墨は平然と言うが、あぐりの恐怖は拭えなかった。自分にはなにも見えなかった濃紺の闇の中、何者かが自分たちを狩ろうとしていたのだ。まるで狼に追われる兎になったかのような気分だ。
「それよりも、合格したって本当?」
祢墨に問われ、あぐりははっとして「うん」と頷く。
「見て」
あぐりは首にかけた紐を手繰り寄せ、通行証を胸元から取り出した。
「これ、虚色の王の元への通行証なんだって。試練を合格するたびに真ん中の窪みに宝玉が嵌って、三つそろえたら虚色の王への道が示されるらしいよ」
あぐりは自分でも声が上擦っているのが分かった。
一つ目の試練も突破することができないと思っていたのに、自分を信じて突破することができたのだ。
これが自信っていうやつなのかなと、あぐりは通行証を示しながら思っていた。
祢墨は通行証をまじまじと見つめ、「へぇ、不思議な通行証だね」と感情無く返す。
少しは驚いてくれるのではないかと期待したが、相変わらず祢墨は淡泊だった。
「洞穴の中に誰かいたの?」
「うん、白虎の面を被った試練の監督がいた。見た目は子供みたいだったよ」
あぐりは洞穴の中で行われた試練の内容を祢墨に話していく。
白虎の面を被った虚色の王に仕える者、色の濃淡順に石を並べる試練、色の違う扉を見抜く試練、そして深桜山の桜と同じ桜の花弁を選ぶ試練。
どれもつい先ほど起こったことなのに、あぐりはどこか夢見心地で話していた。
洞穴の中を思い出しても、現実ではなかったかのように思える。
「試練の二つ目を合格できたのは、墨のおかげだよ」
「僕の?」
「うん。宿で桜を見ていたとき、墨が空の色と桜が同化していてよく分からないって言ってたでしょ? それで明るさと鮮やかさが違う扉を選べたの」
「そっか。役に立ててよかったよ」
祢墨のあの言葉がなければ、自分は間違った選択をしていただろう。もしかしたら、自分の感覚だけで物事を判断しないことが、試練を突破する上で重要なのかもしれない。
「そう言えば、見張りたちはどこに行ったの?」
「あの後乱闘騒ぎになっちゃって、最終的に町長が出てきて全員で山を下りていったよ。今頃事情聴取中じゃないかな」
「そうなんだ。うまく対処してくれてありがとう。おかげで試練の場所に行けたよ」
「どういたしまして。次の試練の場所はどこなの?」
「えっと、翠光海岸の翠光ノ祠ってところ」
「え、翠光ノ祠? 困ったな」
祢墨はわずかに眉を寄せる。
「なにが困るの?」
「周りになにもないところなんだよ。海の中にポツンと鳥居が建っているだけで、隠れる場所がない。兵たちが常に見張ってるだろうし、普通に行ったらまず捕まるね」
「確かに……」
あぐりは先ほど見せられた景色を思い出す。やはりあの広大な水たまりは海だったようだ。どうやって海を渡って祠まで行けばいいのか分からないし、そもそも海岸に近づいただけで兵士に見つかりそうな気がする。
「期限は卯月の朔日までって言われたけど、間に合うかな?」
「試練に期限があるの?」
「うん。監督に言われたよ。一つ目の試練もあと二日遅かったら失格だったって」
「危なかったんだね。翠光ノ祠までは七日もあれば着くだろうけど、そのあとどうするかだね。まぁ、向かいながら考えようか」
祢墨が歩き出そうとしたところで、あぐりはあることを思い出し「あ」と声が出る。
「どうしたの?」と祢墨はあぐりを見た。
「そういえば、監督が『ようやく来たか、二人目の色見』って言っていたのを思い出したの。たぶん、私以外の色見はもう一人だけだと思う」
「そうなんだ。何日前にその色見が来たか言ってた?」
「ううん、そこまでは……」
「そっか。馬で移動していることを考えれば、二日前にはここに来て、もう翠光ノ祠に向かっているだろうね」
「ひとまず、山を下りよう」と祢墨はあぐりに左手を差し出す。あぐりが右手を祢墨の手に重ねると、祢墨はあぐりの手を柔く握り、ゆっくりと歩き出した。
祢墨の体からは相変わらず冷ややかな白銀が沸き立っていたが、祢墨の手は温かい。
この温もりは信じていいはずだと、あぐりの迷いは小さくなっていった。