半刻ほど歩けば、ようやく|香鹿町《かしかまち》が見えてきた。しかし、すでに町は寝静まっており街路に人気はない。
祢墨は狭い裏路地に入ると、とある商店の裏口前で止まった。そして裏口の扉をコンコンと軽く二回叩いた。何をしているのだろうかとあぐりが困惑して祢墨を見つめていると、不意に扉の反対側から誰かがコンと扉を一回叩く音がした。
「闇夜に落ちてきた」
祢墨は声を潜めて扉に言う。急に何を言い出したのかとあぐりが驚いていると、今度は扉の奥から「今夜は月が出ていますよ」としわがれた男の声が聞こえてきた。
「私の目に月は映らない」
祢墨が言えば、ゆっくりと裏口が開かれる。そこには行灯を持った老年の男性が立っており、無表情にあぐりたちを見下ろしていた。
祢墨は男性と何も言葉を交わさず、行灯を受け取ると裏口をくぐり中へと入っていった。あぐりは戸惑いつつも男性に軽く会釈をし、祢墨に手を引かれるまま中へと入る。
祢墨は迷わずに薄暗い室内を進み、階段を上って二階にある部屋へと入った。いくつも荷物が置いてある部屋で、物置部屋のようだ。
「もうしゃべっていいよ」
祢墨は部屋に置いてあった行灯に火を灯しながら言う。
「……ここって、墨の仲間の人の家?」
あぐりは座りながら問いかける。祢墨は室内にある棚や箱を探りながら口を開いた。
「う~ん、仲間っていえば仲間か。でも、森じゃないよ。森の協力者の人。物品の提供とかしてくれる。森に仲間はいないよ。僕、森に追われているから」
思いもしない返答に、「ど、どういうこと?」と声がもれる。
「順を追って話すよ。まずはあぐりの髪を切ろう」
どこからか鋏を見つけてきた祢墨が唐突にそんなことを言うので、あぐりはさらに驚いた。
「どうして?」
「変装だよ。兵士がそこら中を捜しているだろうから、少しでも変装しておこう」
「あ、なるほど……」
変装なんて悪いことをしたみたいだ、と思ったが、冷静に考えると|色見《いろみ》なのに逃げたり、逃げる最中に人を殺したりしている。実際に自分が殺したわけではないのだが、すべて自分が逃げたことが原因であることに変わりない。自分が罪人であることに気付きあぐりは胃が重くなってきた。
腰まであるあぐりの髪を、祢墨は容赦なく肩あたりまで切っていく。
もともと身だしなみに興味を持つ暇などなく、髪は伸びっぱなしにしていただけなので、特に思い入れはない。床に落ちていく自分の髪を見て、手入れが楽になりそうだなとだけ思った。
「森にも派閥があってさ、『|白狼《びゃくろう》』って人の派閥と、『|未鷹《みたか》』って人の派閥があったんだよね。僕は白狼に育てられたから、そのまま白狼の派閥に入ってたんだ」
髪を切りながら祢墨は話し出す。
「去年の年末に前の頭領が急死してさ、次の頭領は順当にいけば白狼だったんだけど、未鷹がそれを拒んだ。未鷹は白狼を殺そうと自分の暗殺部隊を送り込んで、僕らもそれに抵抗したから、派閥間の争いが起きたんだ」
祢墨は淡々と壮絶なことを言う。あぐりは黙って祢墨の話に耳を傾けていた。
「白狼は隠れ家で指示を出してたんだけど、僕が不在の間に隠れ家が襲われたんだ。白狼は致命傷を負ってたけど、僕が戻ってきたときにはまだ生きてて、虫の息だったけど僕に命じたんだよね。『未鷹を殺せ』って。そう言ってすぐ死んだよ」
祢墨は感情なく言うが、あぐりはぞくりと心が冷える。昨晩祢墨は出会ったときの彼の言葉が、あぐりの頭をよぎった。
「殺さなきゃいけないやつってもしかして……」
あぐりは恐る恐る声を出す。
「そう、未鷹」
祢墨の言葉に、あぐりは声を失う。森である祢墨が殺すべき相手は、元来仲間であるはずの森だったのだ。
「白狼が死んだ今、未鷹が頭領になった。白狼派のみんなはもう死んだと思う。生き残りがいたとしても、どこにいるか分からない。だから味方はいない」
「……敵討ちってこと?」
「う~ん、一般的に見ればそうなるのかな。でも、敵を討ちたいというより、命令だからやるってだけだよ」
「もう、白狼さんは死んだのに?」
「うん」
祢墨は平然と頷き、「このくらいでいいかな」とあぐりの髪を切るのをやめた。切られた長い髪が床に散らばっており、あぐりの頭は幾分軽くなったが、胃は重いままだ。
あぐりは祢墨が何を考えているのか分からない。今までも分かったことはないのだが、死んだ人の命令のためにたった一人で森の頭領を殺しに行くというなんてこと、あぐりには理解しがたかった。
客観的に見れば反逆である。まるで死にに行くようなものだ。敵討ちならまだなんとなく分かるが、命令だから行くとはどういうことか。命令を出した人が死んでいるのなら、背いても罰は下らないのではないか。
祢墨には、自分の意志というものがないのだろうか。
呆然としているあぐりをよそに、祢墨はまたどこからか変な臭いのする瓶を持ってきた。
「な、なにそれ」
「髪を染める液。これであぐりを黒髪にする。肌につくとなかなか取れないから、これ巻いてて」
そう言って祢墨は布をあぐりの首元を巻いた。そして手袋をし、瓶の中から黒い液を刷毛のようなもので掬い、容赦なくあぐりの髪につけていった。形容しがたい臭いが液から漂ってきたが、あぐりは我慢して祢墨になされるがままになる。あぐりの亜麻色の髪が、祢墨の手によってどんどん漆黒へと染まっていく。
「……その未鷹って人を殺すのと、私が|虚色《きょしょく》の王の元へ行くのになんの関係があるの?」
あぐりは疑問だったことを問いかける。森の頭領と虚色の王がどう繋がるのか、まったく分からなかった。
「言ったでしょ。森は|幻日国《げんじつこく》お抱えの集団だって。色見を虚色の王のところへ連れて行くっていうのは、この国の将来を決める重要な任務じゃん。絶対に森が絡んでくる」
「そういうものなの?」
「うん。未鷹は森のくせに戦線に自ら立ちたがるやつだ。白狼も、未鷹が自ら手下を引き連れて隠れ家に乗り込んで来たって言ってた。今回も色見を虚色の王の元へ連れて行く最中に姿を現すはずだ」
「……なんでそう言い切れるの? 姿を現すかどうかなんて分からないと思うけど……」
「僕がいると知ったら?」
祢墨の声の色が強くなった気がして、あぐりはドクリと胸が鳴る。
「未鷹派の森は今も僕を殺そうと捜している。そして僕を殺そうとしてきた未鷹派の森を全員殺している。現に派閥争いが始まってから僕は未鷹派の森を二十人以上殺したし、中には幹部もいた。未鷹は絶対に僕を自らの手で殺したがっている」
祢墨は淡々と恐ろしいことを言う。私の髪を染めているその手で、一体何人殺めてきたのだろうかと思ったが、あぐりは訊けなかった。
「虚色の王のところに向かう色見を、色見を保護する兵士もろとも僕が殺したら絶対にあいつが出てくる。そこを狙う」
あぐりの体がさっと冷たくなっていく。そしてすぐに「それはだめ」と声を出した。
色見も、色見を保護する兵士たちも、みな罪のない人たちばかりだ。あぐりと出会ってから祢墨が殺したのは義兄たちだったり、盗賊の夫婦だったりで、確かに殺されても仕方がない人たちだったかもしれない。しかし、明らかに罪のない人を殺すのはだめだ。
「なんで?」
祢墨は不思議そうな声色で問いかけてくる。祢墨は目的遂行のためなら、罪のない人でも迷わずに殺せるのだろう。そんな祢墨相手に、「罪のない人を殺してはだめだ」という言葉を吐いても意味がない。
祢墨を止めることができそうな言い訳をあぐりは必死に考える。
「……墨が死ぬかもしれない。色見を兵士や森が保護しているのなら、たった一人で戦おうなんて向こう見ずすぎるよ」
「大丈夫、真っ向から勝負はしないよ。闇にまぎれて一人ずつ確実にいくから」
「それでも無茶だよ」
「……まぁ確かに、兵と森と未鷹相手だったら分が悪いね。さすがに死ぬかもしれない」
「じゃぁ、やめようよ。白狼さんだって死んだのに、死んだ人の無茶な命令で死にに行くなんておかしいよ」
「死んだかどうかなんて関係ないよ。僕たち森にとって、上からの命令は絶対だ。なんとしてでも未鷹を殺しに行く。刺し違えてでもね」
祢墨はまっすぐな声で告げる。
だめだ、祢墨は死ぬのを承知で命令に従い、未鷹に立ち向かっていくつもりなのだ。
なら、祢墨が死んではいけない理由を言うしかない。
「墨が死んだら、一体誰が私を殺すの?」
ピタリと、祢墨の動きが止まる。
そして「そうだった、そういう約束だった」と静かな声でつぶやいた。
「そうだよ。墨が私のことを殺してくれるっていうから虚色の王のところまで行こうとしているのに、墨が死んだら意味がない」
あぐりは強い口調で祢墨に言う。なんだか説得できそうな雰囲気になってきた。
「……本当に僕が殺さないとだめ? 勝手に死んでくれない?」
「だめ。それなら私は今ここで死ぬ」
あぐりがきっぱりと言えば、「それは困るな……」と祢墨は眉を寄せた。
「あぐりが王になれば殺さずに済むんだから、王になればいいじゃん」
「それができないだろうから殺して欲しいって言ってるの。私が王になったかどうか分かるまで、墨には生きていてもらわないと困るよ」
「……そうか」
祢墨の声にわずかに|菫《すみれ》色が混ざる。紫系の色は、悩んでいるときの色だ。適当に「分かった」と言っておけばいいだけなのに、祢墨はそれをしない。あぐりが嘘を見抜けると分かっているからだ。本気であぐりをどうすればいいか考えているのだろう。
「私を囮にすれば?」
「あぐりを?」
祢墨は怪訝そうな声を出す。
「私のほかに色見がいるかどうかも分からないでしょ。それなら私を人質にとったふりをして、未鷹を出せって要求すればいいんじゃないかな? 国だって色見に死なれると困るから要求を飲みそうだし、未鷹って人も墨を殺したがっているのなら姿を現すと思うよ。私のことは適当な場面で殺していいから」
「適当な場面って……、王に会う前に死ぬ気?」
「うん。元々私は王になれる気なんてないし、本当は祢墨と出会ったときに死んでいるはずだったもの」
あぐりは思ったことを口にする。この方法ならば祢墨があまり人を殺さずに済むのではないかと考えた。そのために私一人が死ぬことなんて、どうということはない。
祢墨は少し黙ったあと「その手もあるね」と言い、「そうだよ、その手でいこう」とあぐりは内心ほっとしながら返す。
そんなあぐりの様子を見て、「本当に変なやつだねあぐりは」と祢墨はつぶやいた。
「まぁ、まずは無事に最初の試練の場所に行かないとね」
淡々と言う祢墨に、あぐりは「そうだね」と頷く。祢墨の言う通り、虚色の王の元に行くには、とにもかくにも試練を乗り越えなければならないのだ。
「はい、できた」
そう言って祢墨はあぐりの髪から手を離す。髪染めが終わったらしい。部屋に姿見があったのでそれで自分の姿を見てみると、見事に漆黒の髪となっていた。髪も短くなっているので、まるで別人のようだ。
「完全に乾くまで三刻はかかるから、触らないようにね」
「分かった」
結構かかるな……、とあぐりは心の中でつぶやく。髪は顔にかからないよう頭の後ろで一つに束ねられてはいるが、少し顔に髪が触れてしまっており黒くなっている。嫌な臭いが髪から漂い、この臭いは取れるのだろうかとあぐりは不安になってきた。
不意に部屋の扉が開き、あぐりは驚いて声を上げてしまった。扉の向こうには先ほどの老年の男性がおり、目を見張って祢墨を見つめている。
「あんた、まさかあの祢墨かい?」
男性はしわがれた声で尋ねる。「えぇまぁ」と祢墨が返すと、「本当にいたのか……」と男性は信じられないといったふうに声をもらした。どういう意味だろうかとあぐり不思議に思う。
「白狼さんの敵討ちに行くのかい。よく兵や森よりも先に色見を捕まえられたもんだ。未鷹は確かに腕が立つが、森の頭領には向かん。あいつは自分の立場と利益にしか興味がない。そんなやつが森の頭領であってはいけん。森は国の平穏のため自らを殺し、影に生き影に死なねばならん。あいつはその器じゃない」
男性はまるで森の内情を知っているかのような口ぶりで話を続ける。男性はじっと祢墨を見つめ熱弁していたが、祢墨は無表情に男を見返しているだけだ。
「頼むぞ祢墨。白狼さんの最高傑作と言われるお前なら、必ず未鷹を討てる」
男性は老いた目を輝かせ力強く言うと、扉を閉め去っていってしまった。急な出来事にあぐりは困惑しながら「あの人本当に森じゃないの?」と問いかけた。
「森じゃないよ。昔は森だったらしいけどね。白狼さんとも知り合いだったみたい」
「なるほど」
だから森の内情に詳しかったらしい。あぐりは続けて「墨が最高傑作ってどういうこと?」と問いかけたが、「さぁ、分かんない」と祢墨は返してきた。おそらく、白狼が育てた中で一番強いという意味ではないかとあぐりは考える。今までの祢墨の言動からしてありえそうだ。男性の口ぶりからして、祢墨は森の中でも有名な方なのではないかと思ってしまう。
「……墨ってどうやって森に入ったの?」
「小さいころ親に捨てられてさまよってたら、変な大人に拾われていつの間にか森に入れられてた」
淡々と答える祢墨に、「そうなんだ」とあぐりはわずかな憐みを感じて返した。辛くはなかったかと訊こうとしたが、祢墨がため息を吐いたのでやめた。
「……ちょっと話しすぎちゃったな。ここでならいいけど、外に出たら森の話題は一切口に出しちゃだめだよ」
釘を刺すように言われ、「うん」とあぐりは頷いた。
祢墨から色々な話を聞いたが、それでも疑問は消えない。王の元へ行けるかどうかすら怪しい自分を使って未鷹を誘い出すよりも、もっといい方法があるのではないかと思ってしまう。
そもそも、祢墨と自分が出会ったのは偶然だ。あの時自分を助けなかった場合、祢墨はどうやって未鷹の元へ行くつもりだったのだろうか。
それに、未鷹を殺す作戦というのも無謀すぎる。
確実に未鷹を殺したいならば、何年かけてでも地道に情報収集をして未鷹の居場所を突き止め、暗殺した方がいいのではないか。
虚色の王へ向かう最中の色見を襲うなんて、目立つし危険すぎる気がする。
なぜ偶然出会った自分を利用してまで、無謀な作戦を実行しようとしているのか。
「……本当に、未鷹を殺すこと|だ《・》|け《・》が墨の目的なの?」
あぐりは祢墨を見つめ問いかける。すると、祢墨の白銀の魂の色がわずかに揺らめいた。
「うん」
祢墨は静かに返すが、あぐりにはその揺らぎが見える。
嘘を吐いているのだ。
しかし、あぐりはそれ以上追及しようとせず「そっか……」とだけ返した。
きっと、祢墨はあぐりが嘘に気づいていることを分かっているだろう。それを承知で嘘を吐いている。つまり祢墨は決して本心を話すつもりはないのだ。
一体祢墨の本当の目的が何なのか分からないが、考えたところで分からないので、あぐりは一旦すべてを置いておくことにした。
「僕もさすがに眠くなったから寝るね」
祢墨は小さくあくびをし、その場でゴロリと横になり目を閉じた。
「おやすみ」とあぐりが声をかけると祢墨も「おやすみ」と返し、それきり何も言わなくなった。先ほど盗賊の家で眠っていたせいかあぐりはまったく眠くない。自分も横になろうかと思ったが、髪がまだ乾いていないので横になったら床を汚してしまうので気が引ける。
このまま起きてるしかないか……と、あぐりは眠っている祢墨を見ながら思う。かすかに息をしているようだが、ピクリとも動かないのでまるで死んでいるかのようだ。本当に寝ているのかどうかも分からない。
寝顔だけを見れば、自分と同じか少し年下の少年にしか見えない。人身売買で森に売られ、そこから暗殺者として育てられ生きてきた彼は、一体なにを思って未鷹を殺しに行くのだろうか。もしかしたら、なんの感情もなく、本当にただ命令のために反逆者として未鷹を殺しにいくだけなのかもしれない。
そんなの、ただの人間の形をした道具だ。
あぐりは憐みを感じながら祢墨を見つめる。
しかし、よく考えれば自分も似たようなものだと気付いた。
義家族に虐げられ、自分の意志もなく、ただ生きてきただけだ。
生きる目的がある分、祢墨の方が人間らしいのかもしれない。
これからのことを考えあぐりはため息が出る。
祢墨の目的を果たすため試練を乗り越えなければならないが、正直一つ目の試練さえ越えられる気がしない。そうなったら、祢墨は約束通り私を殺してくれるだろうか。
考えてもどうしようもないことばかりあぐりは頭に浮かぶ。もう何も考えないようにしようと、あぐりは目を閉じ朝が来るまで無心でいることにした。
瞼の裏に、祢墨の白銀の輝きが残像としてしばらく焼き付いていた。