その日は連休の真ん中だった。明日の月曜日が祝日で会社が休みであり、僕の住んでいる地域は月曜が可燃物の日と決められている。
せっかくの休みだ。朝はだらだら寝ていたい。僕は日曜の夜にゴミを出しておくことにした。あまり褒められた行為ではないが、幸いアパートのゴミ捨て場なので、公道に迷惑はかからない。ゴミ捨て場は上からネットで覆われているのでカラス対策も万全だ。頭の中でそんな言い訳をしながら、僕は夜十時を回った頃に膨らんだゴミ袋を持って外へ出た。
***
三月も下旬の入り口で、近頃の夜の気温は落ち切らず、少し湿った闇がそわそわと広がっている。僕にはわからないが、会社の先輩によるともう花粉が飛んでいるらしい。ぼんやり視線を投げると、家々の隙間から白い花々が手のように妖しく揺れていた。桜の前、季節は白木連である。
――それは突然の物音だった。
ゴミ捨て場へあと一歩と迫ったところでビニール袋がガサッと鳴り、何かの影が素早く飛び出した。
闇は濃密で光はなく、人通りのないゴミ捨て場である。僕はまず驚いた。心臓がゴンゴン跳ねた。別にビビりだと笑われたって構わない。笑う奴は、僕が日々平穏でつつがなく過ごしていることに悔しがれば良いと思う。こういう時、すぐに物音を確認するタイプと、しばらくじっとして動かなくなるタイプがいるが、僕は百パーセント後者である。
僕はゴミ袋を提げたまま口の端を横へ引いた。歯の隙間からそよ風のように息が漏れる。心臓に合わせて頬の皮膚が硬くなっていく心地がした。
一体何の音だったのか。ありがちな可能性としてはカラスか虫だろうか。僕は眼球だけ動かして周囲を窺った。妙なものがいない事を祈りながら。
アパートの前の道に車も人も現れる気配はない。実際、物音ひとつしない閑静な住宅街なのだ。体重を乗せ替えただけで、砂利を噛む靴の音が聞こえる程である。僕はふと、道路の反対側へ目をやり、そこに動く何かに気付いた。
影である。やや離れて点く電灯からの光の粒が、仄かに輪郭を浮かび上がらせていた。影はそれ程大きくなく、むしろ小さいと言っていい。小さいと言ってもカラスよりは大きそうで、曲線は見えるが嘴はなさそうだ。僕の心臓が別の緊張に襲われる。これは、まさか――。
刹那、ニャーッ、と影が鳴いた。それを聞いた時の僕の気持ちを、皆さん想像出来るだろうか? 同時に全く冷静じゃない脳みそがデータの蓄積を開始する。とりあえず汚い声だ。汚いニャーだ。
僕はまずゴミを捨てた。音の出る物を身の周りから排除しなければならない。それから何気ないフリをして猫に近付いた。心はもう浮き上がって仕方なく、同時に「慌てるな。おつとめは準備が肝心だ」と盗賊のお頭的な存在がその根っこを踏みつける。
足音は当然立てない。猫の目は見つめない。極力ゆったりした動作を心がける。そしてどんなに最短ルートを通りたくても直進しない。
猫は逃げなかった。逃げなかったのだ。何と言う事だろう! 鳩でさえ接近すれば逃げると言うのに!
猫は黒猫だった。夜が保護色になるほど真っ黒だ。正直、猫が物音を立てなければ僕が気付くことはなかったと思う。
いよいよ近付いて全体を把握する。どうやらうちの五キロのハチワレ殿より小さい。もしかしたら三キロぐらいかもしれない。
黒猫だと確認してジロジロ見てもやはり猫は逃げなかった。逃げずにニャーニャー言っている。普通、野良猫は逃げる。その異常事態に、ある一つの可能性が胸の中で輝いた。ひょっとして、ひょっとしなくても、ついに僕の元へNNNの派遣が来たのか!
希望というのは人間を大胆にさせるらしい。僕は黒猫とコミュニケーションを取ってみることにした。試しに屈んで人指し指を猫の鼻先へさし出すと、黒猫は抵抗なく匂いを嗅ぎ、そして鼻の横をズリーっとこすり付けた。指先に湿り気が移る。濡れた鼻! 乾いた髭! 僕は溶け崩れる肺を実感した。
さらにさらにいけそうな気がする。僕はもっとアグレッシブに攻めることにした。ドキドキしながら小さい頭を撫でてみる。すると、黒猫はじっと撫でられてくれた。触ってみた感じだと、予想外に毛質は滑らかだ。なんということだろう! 歓喜のあまり僕の口から変な声が漏れそうになる。暫らく堪能していると手に噛みつかれた。しかし甘噛み。こやつ、出来る。
あらゆる思考が緩みきった僕の周りを、今度は黒猫がぐるぐる回り始めた。回りながら僕のジーパンに体を擦りつけ、所々で頭突きを忘れない。ついでに汚い声でニャーニャー鳴く。尻尾は真っ直ぐ上に伸びている。上機嫌だ。
これが伝説の、ごろごろスリスリの頭ごっつんごっつんという状態なのか。とてつもない奇跡だ。ひょっとしたら僕は明日死ぬのだろうか。ハチワレ殿を残すわけにはいかないのでそれは困る。
だが可愛い。本っ当に可愛い。すっかり脳みそが「可愛い」量産機になってしまった。僕はニヤケ溶けながら、可愛さ余って僕とあなたは初対面ですよと内心ツッコミを入れた。
これはもう、連れて帰るしかない。運命だ。そうに決まっている。
答えを弾き出すやいなや、僕は黒猫を抱き上げた。黒猫は全く抵抗せず、大人しく腕に収容される。あまつさえ爪を立てて僕の服にしがみ付いている。これはたまらない。誘拐せよと言わんばかりではないか。
ちなみにうちのハチワレ殿は抱っこが嫌いである。しがみ付く事もなく、ひたすら降ろされるのを待つ。黙って我慢するタイプの男前だ。
黒猫を抱き上げてアパートの入り口へ歩き出す。相変わらず周囲に人も車もなく、僕による黒猫の誘拐現場を目撃する者もいない。当然、数分前の僕の奇怪な動きを見ている者もいない筈だ。
数分前に暗いと感じた夜道は、もう目が慣れてしまったのか輪郭が露わになっている。ゴミ捨て場には既にゴミの山が出来ていて、僕の同類が複数いる事を証明していた。勿論、今は引っ越しシーズンなのでそのゴミもあるだろうが、見たところ生活ゴミが大多数だ。
明日は祝日なので動物病院へ行く時間は十分ある。黒猫はまず健康診断が必要だろう。
そこまで考えたところで、頭の中に疑問が浮かぶ。この猫、うちのハチワレ殿と仲良く出来るだろうか? それに猫エイズやその他伝染性の病気を持っていたら? もし一緒に飼えないとわかった場合どうするのか。僕に里親探しをやる根気はあるのか?
唐突に頭の熱が急落下して、足裏を突き抜けていくのがわかった。次々生まれる疑問に対して、無意識にいちいち「無理」「無理」と即答する僕がいた。
黒猫がまたニャーッ、と鳴く。あ、と思った時には、重みが腕から消えていた。そして次に目が捉えたのは、夜へ走り去っていく黒い影だった。
軽くなった両腕をぶら下げて僕は家の扉を開けた。先程溜め込んだ興奮の置き所がわからず、固い筈の地面がふらふらする。
家の中はテレビも電気もつけっ放しで、元々ゴミ捨ての為に外へ出たことを思い出させる。その明るい部屋の奥から家猫殿がのしのし歩いて来た。なんともゆったり、じっくり、だらーんとした空気を纏っている。僕は浅く息を吐いた。日常だ。平和だ。僕は今平和で幸せだったのだ。
***
休み明けの火曜日、僕は黙っていられずに、室長に全て報告した。室長は目をとんでもなく見開き、耳もついでに開ききって僕の話を聞いてくれた。猫については饒舌になる口も挟まず、ひたすら肯いている。そして、一言。
「そういう猫は大丈夫です。余所で餌を貰えます。拾わなくても大丈夫です」
言葉はこの上もなく力強く、確信に満ちていた。
その瞬間僕の体を貫いたのは、「納得」の二文字だった。そうか。室長は猫の幸せを考えている人なのだ。室長は出来れば全ての猫を拾いたいと思っているのだろう。だが一人の手には限りがあって、全ての猫を保護するなんて不可能だ。保護出来ない猫へ、室長は罪悪感を持っているのかもしれない。
僕は僕の幸福を第一に置いていた。全然違うじゃないか。
「それに黒猫は人懐っこいんですよ。白いのはツーンとしててね」
「ああ、そうですね。黒猫は懐くってよく言いますね」
「ちなみにオスでしたか? メスでしたか? オスはね、出て行っちゃうんですよ。メスだったら子供がいたかもしれません」
僕の背がヒヤッと冷えた。そしてそんな自分に気付いて心底項垂れた。メスを拾って子供が生まれたら、世話をするのはかなり厳しかったに違いない。知識として知っていた筈なのにその可能性は微塵も頭を過らなかった。厳しい、と考えてしまうあたり、僕は子猫まで面倒を見るつもりがないのだろう。
完全に冷えた頭が平時のように飼育本を捲り始める。そこで、ある一つの一般的なパターンが頭に浮かんだ。
「あ、もしかしたら飼い猫だったのかもしれないです。かなり人に慣れていたので」
「いえ、いえ、逃げたばかりの飼い猫は、興奮しちゃって飼い主も触れないんですよ。そういう猫は心配ですが、人慣れしていたなら大丈夫です。多分そうやれば餌が貰えることがわかっている猫です。大丈夫です」
慰めてくれているのであろう室長は、一昨日の僕の感動をナチュラルに破壊した。なるほどあのごろスリごっつんは餌のためか。そうか、そうか……。野良ってやはり厳しいんだな。思い返せばあの黒猫はゴミを漁っていたわけで、つまり食糧調達をしていたのだ。
この日室長は言葉を変え、「拾わなくても大丈夫です」を繰り返した。多分、僕の何かを誤解しているのだろう。室長のように野良猫の事を第一に考えているような徳の高い猫好きではないので、どうにも身の置き所がない。
「そういう猫はまた同じ時間に来ますよ」
最後に室長はこう締め括った。言葉の根底には室長の豊富すぎる経験があるに違いない。
思い返せば「オスは出て行ってしまう」も、室長は実体験をベースにしていた。実際に室長の家へやって来たオスはじゃんじゃん出て行くし、居座るのはメスしかいない。飼育本には書かれていない統計が室長にはあるのだ。
僕は、自分が猫を見ていなかった事に気付いた。今まで知識を前提にして、その知識に猫の行動を当て嵌めてはいたが、純粋に実際の猫を知ろうとしていただろうか。
僕は家のハチワレ殿を思い浮かべた。非常に心のデカい男前で粗相もなく、初心者に優しい猫だ。だが、それに胡坐を掻いていい加減な世話をしていないだろうか。幸せを倍増させたいなら、猫を増やすより彼をもっと大事にした方がいいに決まっている。
たしか先程室長は、黒猫がまた来るかもしれないと言っていた。黒猫にしてみれば誘拐されそうになったわけなので、警戒して近付かない可能性の方が高いような気もする。でももしかしたらまた会うかもしれない。そうなったらどうしようか。
――猫を見て決めよう。
僕は、そう決意した。