「野良猫が入って来ちゃうんですよ」
僕の頭の中がやはり「いいなぁ」の一言に支配された。
今は年末へ足を踏み入れつつある十一月末で、オフィス周辺の芋畑はすっかり禿げてしまっている。確認しなくても気温の低い日だらけになって、僕の家のエアコンは毎日フル稼働だ。当然ながら電気代は跳ね上がるが、猫とは寒さに弱い動物なので致し方ない。
さて、本日も三時のお茶休憩の時間である。電気ポットの湯気がブワッと立ち昇ったと思ったら、室長が勢いよくやってきた。
「しかも一匹はもう家の外へ出て行かなくて。もう一匹のメスはね、いたりいなかったりするんですが」
はい、ちょっと整理しよう。つまりアレですね。二匹プラスですね。もともと二匹と通い猫一匹だったのが、三匹と通い猫二匹になったんですね。
とりあえず、どうなってんだNNN。
しかしそれを室長に確認したところ、見覚えある高速運動で否定された。身に覚えのあるでっかい疑問符が脳みその中で「わーかーらーんーわー」と絶叫している。
「あれ、言ってませんでしたっけ? 二匹出て行っちゃったんですよ。やっぱオスって縄張りを変えるんでしょうね。出て行っちゃうんですね」
僕は脳みそを働かせようと意識を集中した。具体的には質問すべき事柄を高速で選び出した。
「えー、ちょっと待って下さい。元々いた一匹は……」
「メスです。年寄りの母猫です」
「あ、そっちは出て行っていないわけですか」
そういえば、二階の窓が開いていて、元々いる猫は年寄りだから階段を上らないという話だった。つまり、母猫は残留だ。
「秋ぐらいに一匹猫が増えて、もう一匹通い猫がいた筈ですよね?」
「その二匹がいなくなったんです。若い猫なんですけどね。オスは出て行くんですね」
心なしか室長の眉毛に元気がないように見える。僕は全く気付かなかったが、いつの間にか初期状態の一匹に戻っていたわけだ。そこに新猫が二匹。つまりやっぱり二階の窓は開けたままらしい。
室長を前にすると飼育本が揺らいでしまうが、一応、猫は外に出さないのがセオリーだ。野良生活は交通事故もあるし、人間による悪戯の危険性もあるし、餌や糞の問題もある。そもそも窓を開けっ放しにしている事自体がおかしいわけだが、室長はひと昔前の飼い方をしている人なので、そこを突っ込んでも仕方がないだろう。
「今居着いているのもオスの若い猫なんですよ。これもね、多分出て行っちゃうんだと思うんですけどね」
「えー、じゃあ出入りしてるのはメスですか?」
「メスです。どうしようかと思ってね、困ってるんですよ」
室長の困っている詐欺は置いておいて、ここでようやく室長の家の猫状況が判明した。状況を理解すると同時に、羨ましいような信じられないような、浮ついた憧れが胸の内に広がる。半年以内に猫が計四匹派遣されるなんて、野良猫に一匹も出会わない僕にしてみれば非現実的としか言いいようがない。突然猫がにゃーんとやって来るなんて、嬉しいし幸せに決まっているじゃないか。
「元々いる猫は新しい猫と上手くやっているんですか?」
そして僕は最近、「猫 二匹目」というキーワードでネット検索をするのが癖になっている。話によると、仲良く出来たり出来なかったりして実はかなり個体差があるらしい。まあ、確かに「人間同士だから仲良くしろ」と言われても「阿呆め」と思うので、猫がそうだったとしても特に不思議はない。
僕の言葉に室長は全身で肯いた。その動きに合わせ、床屋へ行きそびれている頭頂の残留毛が、ふんわりと頭を追いかける。
「大丈夫です。それは問題ないです。元々母猫は子猫と一緒にうちに来たんですけどね、その子猫がオスで外に出ちゃって、車に跳ねられて死んじゃったんですね。それから元気がなくなってたんです。それで、住みついたオス猫を子供だと思ってるみたいで」
滅多にないほど饒舌である。室長の思い込みが過剰のような気もする。もっとも、今いる猫のうち母猫とは一番長い期間を過ごしている筈なので、余計に思い入れが深いのだろう。
「ああ、じゃあ仲良いんですね」
「そうなんです。いいんです。もう、毎日追いかけっこしてます。元気になっちゃって」
室長の目がキラキラ輝いた。僕は内心苦笑する。「オスが外に出たがる」とか「子猫を亡くして元気がなくなる」とか、このあたりは全く論理的ではない。そんな情報は飼育本にもネットにもないので、根拠がかなり薄い。仕事では論理的に物事を片付けていく頼れる上司だが、予想外に感情的な一面である。
「それでね、メスをどうしようかと思ってまして。今は大丈夫そうですが、猫は四、五匹産みますからね」
室長は眉間に皺を寄せた。どうやら今回は本当に困っていたらしい。
確かにメスは若く見えても妊娠している可能性がある。メス猫の発情期は早くて生後半年程で来る場合があり、交尾の妊娠率はほぼ百パーセントだ。ちなみに、オスに発情期はない。これこそ、悩むぐらいならさっさと手を打つべき事案だろう。
「とりあえず手術するしかないんじゃないですか?」
「それがですね、聞いて下さいよ。うちの近所の医者だと避妊手術に二、三万円取られちゃうんですよ」
「いや、どうですかね。二万円ぐらいってのはよく聞きますけど」
室長は渋い顔のまま唸っている。手術費用や医療費は獣医毎でまちまちだ。野良猫に三万円は高い気もするが、法外な値段とは言えないだろう。それに言っちゃ何だが、室長は僕より遥かに高給取りで独身なわけで、出せない額ではない筈だ。
「でも室長、今大丈夫でもいつ妊娠するかわからないですよ」
「そうなんですよ。もう、困っちゃってね。大きいオスがね、夜中に入って来てるみたいなんです」
ちょっと待って。ちょっと待て、すみません。
計算がおかしくなってきたぞ。既に話している体で新情報をブチ込まれるのは、ほんとに辛い。混乱する。あと文と文との接続が繋がらないのはどうにかならないものか。より混乱する。
「母猫一匹、居座った若いオス猫一匹、通いのメス猫一匹で、夜中に来る大きいオス猫一匹で合ってますか?」
僕の指は四本折られた状態だ。ついでに心の中では秋にやって来たオス猫達の分も二本折っている。ここに死んだ子猫を加えるとのべ七匹だ。七匹――。
「そうです。私驚いちゃってね。夜中に目が合ったんですよ」
「……その、大きいオスと?」
「ええ。猫って顔に出るんですね。目が合った瞬間、『しまった』って顔しましてね。ぴゅーっと逃げて行っちゃったんですよ」
先程寄った筈の眉は額まで持ち上がり、一瞬にして頬が輝いた。よほど運命的な出会いだったのかもしれない。猫のオスだけど。
僕は自分の家のハチワレ殿を思い浮かべた。飼ってみてわかったことだが、猫は感情が顔にかなり出る。
「ウチの猫もしまったとか、感情は結構顔に出ますね。満足顔とか撫でろ顔とか」
「そうなんですか。オスって人懐っこいですね。メスはね、ツーンとしててね。壁紙なんかガリガリやっちゃうんですよ」
「ガリガリ」のところで猫手を作った四十代独身を見ながら、僕は思った。懐っこさも壁紙も個体差です。そして話が脱線した挙句に横転しています。
僕は話を本筋へ戻すことにした。
「でもそうですね。オスが入って来るなら、避妊手術しといた方がいいと思いますよ」
妊娠、なんて事になったら間違いなく室長の家で産む。そしてきっとのべ数二桁達成だ。それはさすがに苛酷だろう。もしたとえそうなったとしても、二階の窓を閉めるという選択肢は室長の頭の中にないような気がする。
「やっぱりそうですかね。本当、参っちゃうな」
静電気に揺れる髪を撫で上げながら、室長はブツブツ呟いてデスクへ戻って行った。薄い猫背はいつも通りだ。のべ七匹を迎えたりなくしたりして、その度に一喜一憂していれば確かに困るし参ってしまうかもしれない。
僕はコーヒーに口をつけた。やはり温くなっていた。
***
そのまま年末年始の忙しさと忘年会だの新年会だのに時間を取られ、気付けば二月になっていた。例によって、室長があの後新たな情報を出すことなく日々が流れてしまったので、やはり僕は好奇心を抑えられずに続報を求めた。
「それがね、出て行っちゃったんですよ」
これで何度目だろうか。室長は眉をハの字にしながら、ブワッと生命力を漲らせて僕のデスクをやって来た。
「今何匹なんですか?」
「二匹です。やっぱりオスって出て行っちゃうんですね。縄張りがあるから」
と言う事は、通い猫状態だったメスが居座ったという事なのだろうか。しかし、安直に算数をしてはいけない。もしかしたら猫の入れ替えが発生しているかもしれないのだ。
「元々いた母猫と、通い猫だったメスが残っている、でいいんですか?」
確認すると、今回は肯定が返って来た。さすがに冬場となればNNNの活動も落ち着くのかもしれない。
「そう言えば、結局メス猫の避妊はどうしたんですか?」
出入りしていた猫の手術をどうするかについて、室長は悩んでいた筈だ。
「しました。K市に野良を安く手術してくれる病院があったんですよ」
室長の表情がパッと明るいものへ変わった。どうやらわざわざ安い病院を探したらしい。K市は隣の県だ。室長は車を持っていない。僕は猫一匹連れて電車に乗る室長を思い浮かべた。なかなかシュールな映像だ。
避妊・去勢手術の費用は病院ごとで違う。中にはTNR活動に協力する病院があって、そういう病院は野良猫を安く手術してくれる。TNR活動と言うのは、野良猫が増えないようにする為に捕獲し、避妊去勢手術をした後、元の場所へ返す活動のことだ。地域猫はこれにあたる。
ちなみに、地域猫運動とは、避妊去勢手術をすることで将来的に野良猫をゼロにすることを目的とした運動だ。誤解されがちだが、地域で猫を飼い続けることが目的ではない。
「ああいうのは市で取り組みしているんですね。猫の捕獲器もね、売ってないんですよ。市役所で借りるんです。最近虐待とかありますからね」
さて、また室長の話が飛んで行ってしまった。捕獲器? 一体何の話だろう。
だが、僕も室長の猫トークのコツを呑み込みつつある。人は成長するのだ。
「室長、K市で捕獲器借りたんですか?」
「はい、もう返しましたけど」
どうやら僕の質問はストライクゾーンへ入ったようだ。入ったようだが、また新たな疑問が涌き上がってくる。まさしくプログラムのバグを直しつつバグを作っているような心境だ。
「何の為にですか?」
室長は当然のように言った。
「近くの野良猫を全部捕まえまして」
僕は固まらざるを得なかった。呼吸も止まる。しかし室長には微塵も変わったところがない。それこそ誇らしげだとか色々あってもいい筈だが、全く当たり前のように言葉を続ける。ちなみに職場もシンとしてしまった。おやつタイムにまさかの爆弾が炸裂である。
「これでもう野良は増えませんね」
「ええと、近所の野良猫を全部手術したんですか?」
「ええ。K市にね、安く手術してくれる病院があるんですよ。捕まえるのは捕獲器がないと無理ですね」
いや、そういう事が聞きたいんじゃないんです。動機を知りたいんです。
「何で近所の野良全部を……」
「猫と言うのはですね、手術しないとアッという間に増えちゃうんです。安い病院があるので助かりましたよ。捕獲器も買わなくて済みましたし」
なぜこんなにも新しい情報を引き出せないのか。甘かった。やはり僕の対室長スキルはまだまだ未熟だった。
「ちなみに、何匹ぐらいですか?」
「数えていません。そんな大した数じゃないですよ」
僕は衝撃のあまり、日夜猫を捕獲する中年男を思い浮かべた。猫背の痩せ形に背丈は小さく頭は禿げている。そして手には捕獲した猫。たぶんニャーニャー文句を言っている。見た目、ただの怪しいおっさんだ。しかし目の前の、この僕の上司であることは疑いようもない。
「そうだ、O公園の名物猫知ってますか? インターネットでも出ていたらしいんですけどね。最近ちょっと元気なくなっちゃったらしいんですよ。歳ですかね」
室長の猫情報が続いている。どこまで猫好きなんだろうか、この人は。看板猫、有名猫までチェックしているとは。こういう人のところへNNNが猫を派遣するのなら、僕なんかのところへは来ないに決まっている。
猫情報を聞きながら、僕は心の内で謝り倒した。端的に言えば、例のメス猫の避妊手術代三万円ぐらい出せよケチ、と思っていた。それがまさか自費かつ個人で周辺のTNR活動をやってしまうとは予想すらしていなかった。普通、そういうのは団体でやるものじゃないのか。いや、僕が団体でやるものと決めつけていただけで、出来るなら個人でやったっていいのだ。
その日、そこはかとない罪悪感や劣等感に苛まれながら帰宅すると、家猫のハチワレ殿がいつも通りのしのし歩いて迎えに来てくれた。そしてやはりカーペットの上にドスンと音を立てて寝転がり、「しょぼくれてんじゃねえよ。撫でろゴルァ」と目で訴えてくる。
もはや慣れたものだ。僕は減った腹を鳴かせながら、背中を丸めて、温かい猫を撫でまくった。