表示設定
表示設定
目次 目次




ー/ー



 時間帯としては夜の入り口だが、日はすっかり落ちていた。私が外へ出るとすぐに、待っていた弟が駆け出した。懐中電灯を持たないまま来てしまったが、電信柱に備え付けられた外灯を頼れば探せない事もない。
 弟の小さな背中へ流れて来る呼吸は白く、いつも通り手袋を忘れた手はあっと言う間に赤色を帯びる。私がハネウオの姿を知らないので手分けして探す事も出来ない。
 まず弟は自分の部屋の窓がある方向へぐるっと回り込んだ。部屋の換気をしていたら、目を離した隙にいなくなったらしい。窓を中心にして俯きながら側溝や電信柱の影、路地などを確認していく。
「ハネウオって飛ぶんでしょ。なんで地面見てんの?」
「飛んでたらいいんだ。地面にいたらダメなんだ」
 言われてみれば、地面に落ちるのは弱った時だけかもしれない。
「いた」
 駆けていた足が止まった。案外近い。家から五十メートルといったところか。外灯や家々の明かりが道の両脇に灯って比較的明るい一帯である。
 小さな頭がひとつの電信柱へ真っ直ぐに向いていた。そこはちょうど明かりの真下で、生えている雑草でさえ輪郭を保っている。靄のような夜があるだけだった。私の目にはそれだけだった。
「どこにいるの」
 微かな期待は小さな指によって砕かれる。弟が指した先には何もなかった。
「なんで? そこに飛んでるよ」
 空間があった。決定的に何かを欠いてしまった後の――。何も言わない私を弟が振り返った。ああ、目が言っている。なんで見えないの。
 先程の階段上から投げつけられた言葉が、今更心臓を打った。なぜ見えないのか。信じないからだ。信じるつもりがないからだ。
 冷えた空気が頬をそっと撫でる。どこかで流布している「大人」と言うありきたりのフレーズが頭の中を駆け巡った。
 指先が凍る。非常に不本意だ。
「ハネウオはどうしてるの」
「……飛んでる」
 堂々と尋ねると、躊躇うような答えがあった。私はもう一度目を凝らして前方を見た。いつも通りの夜しかない。やはり見えない。
 私は意識して頭の中を整理した。さっきのくだらない言葉が、したり顔で説教を垂れようとしている。視線を少し上げると透き通った空を振動するように星々があった。月はない。きっとこの天へハネウオは飛んで行く。そうに違いない。
 弟が何かの動きを追うように、ぎこちなく空を見上げた。まっ白い額が夜の中では尚白く、纏う空気を透明な色へ変えていく。その姿勢のまま彼は一分程静止して、今度は私を振り返り「飛んで行った」と弾んだ声で言った。
「で、元気そうだったの」
「うん」
 晴れやかな声音が温かく耳に触れる。さっきまでの細かなやりとりを綺麗サッパリ忘れたらしい。疑うのは信じないからではない。信じたいから疑うのだ。
 私はハネウオを鮮やかに思い浮かべることが出来る。銀の鱗を纏った流線型の体は燐光を放ち、蜻蛉のような薄い翅は星を受けて仄白く輝いている。雲の上を泳ぎながら風を抜き、夜と夜とを真っ直ぐに駆け抜けて行く。
「あんたに挨拶する為に待ってたのかもね」
 ハネウオにしてみたら、空へさっさと行ってしまっても良かった筈だ。本当の事は誰にもわからないけれど。
 弟が両手の掌を頭の上に挙げて私を見た。満面の笑顔である。私はその小さな掌をわざわざ音を立てるように叩いた。弟にしてみればハイタッチだ。ぱん、と軽い音が大気に溶けて、軽やかな靴が跳ぶように駆け出した。家まで走るつもりらしい。その時、どこか遠くで犬が鳴いた。
 次はわからない。諦めるのは早いじゃないか。星の下、私は一歩を踏み出した。



スタンプを贈って作者を応援しよう!



みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 時間帯としては夜の入り口だが、日はすっかり落ちていた。私が外へ出るとすぐに、待っていた弟が駆け出した。懐中電灯を持たないまま来てしまったが、電信柱に備え付けられた外灯を頼れば探せない事もない。
 弟の小さな背中へ流れて来る呼吸は白く、いつも通り手袋を忘れた手はあっと言う間に赤色を帯びる。私がハネウオの姿を知らないので手分けして探す事も出来ない。
 まず弟は自分の部屋の窓がある方向へぐるっと回り込んだ。部屋の換気をしていたら、目を離した隙にいなくなったらしい。窓を中心にして俯きながら側溝や電信柱の影、路地などを確認していく。
「ハネウオって飛ぶんでしょ。なんで地面見てんの?」
「飛んでたらいいんだ。地面にいたらダメなんだ」
 言われてみれば、地面に落ちるのは弱った時だけかもしれない。
「いた」
 駆けていた足が止まった。案外近い。家から五十メートルといったところか。外灯や家々の明かりが道の両脇に灯って比較的明るい一帯である。
 小さな頭がひとつの電信柱へ真っ直ぐに向いていた。そこはちょうど明かりの真下で、生えている雑草でさえ輪郭を保っている。靄のような夜があるだけだった。私の目にはそれだけだった。
「どこにいるの」
 微かな期待は小さな指によって砕かれる。弟が指した先には何もなかった。
「なんで? そこに飛んでるよ」
 空間があった。決定的に何かを欠いてしまった後の――。何も言わない私を弟が振り返った。ああ、目が言っている。なんで見えないの。
 先程の階段上から投げつけられた言葉が、今更心臓を打った。なぜ見えないのか。信じないからだ。信じるつもりがないからだ。
 冷えた空気が頬をそっと撫でる。どこかで流布している「大人」と言うありきたりのフレーズが頭の中を駆け巡った。
 指先が凍る。非常に不本意だ。
「ハネウオはどうしてるの」
「……飛んでる」
 堂々と尋ねると、躊躇うような答えがあった。私はもう一度目を凝らして前方を見た。いつも通りの夜しかない。やはり見えない。
 私は意識して頭の中を整理した。さっきのくだらない言葉が、したり顔で説教を垂れようとしている。視線を少し上げると透き通った空を振動するように星々があった。月はない。きっとこの天へハネウオは飛んで行く。そうに違いない。
 弟が何かの動きを追うように、ぎこちなく空を見上げた。まっ白い額が夜の中では尚白く、纏う空気を透明な色へ変えていく。その姿勢のまま彼は一分程静止して、今度は私を振り返り「飛んで行った」と弾んだ声で言った。
「で、元気そうだったの」
「うん」
 晴れやかな声音が温かく耳に触れる。さっきまでの細かなやりとりを綺麗サッパリ忘れたらしい。疑うのは信じないからではない。信じたいから疑うのだ。
 私はハネウオを鮮やかに思い浮かべることが出来る。銀の鱗を纏った流線型の体は燐光を放ち、蜻蛉のような薄い翅は星を受けて仄白く輝いている。雲の上を泳ぎながら風を抜き、夜と夜とを真っ直ぐに駆け抜けて行く。
「あんたに挨拶する為に待ってたのかもね」
 ハネウオにしてみたら、空へさっさと行ってしまっても良かった筈だ。本当の事は誰にもわからないけれど。
 弟が両手の掌を頭の上に挙げて私を見た。満面の笑顔である。私はその小さな掌をわざわざ音を立てるように叩いた。弟にしてみればハイタッチだ。ぱん、と軽い音が大気に溶けて、軽やかな靴が跳ぶように駆け出した。家まで走るつもりらしい。その時、どこか遠くで犬が鳴いた。
 次はわからない。諦めるのは早いじゃないか。星の下、私は一歩を踏み出した。