表示設定
表示設定
目次 目次




ー ゼロの庭、シリウスの種 ー Episode 3

ー/ー



* 境界線の渇き*

​ ​影たちの虚ろな足音が、ノイズのように耳にこびりついて離れない。


「ああはならない」

ユリは心の中で何度も繰り返した。
自分を保つために、彼らとは違うのだと自分に言い聞かせる必要があった。


だが、その強迫観念こそが、彼女をさらに深く「アーカイブ」の深淵へと引きずり込んでいく。


​椅子に戻った彼女が最初にしたことは、キーボードを叩くことではなく、やはり画面の更新だった。


​(お願い、一つでいい。誰か、私がここにいると証明して)


​指先がキーに触れるたび、視界がちかちかと明滅する。


影たちが数字という器を覗き込んでいたのと同じ目で、彼女もまた、画面に浮かぶ無機質な「0」を凝視していた。



他人の執着を冷ややかに見ていたはずの彼女の瞳には、いつの間にか、それ以上の激しい渇きが宿っている。


​彼女の肉体がさらに薄れ、机の木目が膝を透過して見え始めたのは、その瞬間だった。


​「……っ、書かなきゃ。もっと、あいつらが好むようなものを」


​物語の純度は、焦燥という濁流に呑み込まれていく。



​(何でもいい。誰でもいい。私を見て)



​ーー書きたい物語があったはずだ。


庭に咲いた小さな青い花について、
あるいは風の匂いについて。


けれど今のユリの脳内を占めているのは、もっと「効率的」な言葉たちだった。


目を引くタイトル。流行のキーワード。
誰かを怒らせ、あるいは誰かに媚びるための、記号としての文章。


​そうしなければ、消えてしまう。


足首まで透け、椅子の脚と同化し始めた自分を繋ぎ止めるには、他人の視線という「杭」が必要だった。



​「……お願い、私を、消さないで」


​ユリが祈るようにキーボードに縋り付いた、その時だった。


​頭上の暗雲が、暴力的なまでの白光に焼き切られた。


落雷ではない。それは、もっと巨大で、質量を持った「光の塊」の落下だった。


​「アーカイブ」の上層から、一筋の青白い閃光が最短距離で底辺へと突き刺さる。


轟音。

爆風。


底辺に淀んでいた古い霧が一気に吹き飛ばされ、ユリはあまりの眩しさに腕で顔を覆った。


​光の中心にいたのは、一人の男だった。


その胸には、底辺の住人が一生かけても集められないほどの、天文学的な数字が刻まれている。


​「……シリウス」

​ユリは、その名を震える声で呼んだ。


常にランキングの頂点で不動の地位を誇っていた、冷たいほどに輝かしい一等星。


墜落した彼の体からは、かつての神々しい光は失われていた。


代わりに、割れたガラスのようなデジタルの破片が、皮膚を裂いて溢れ出している。





スタンプを贈って作者を応援しよう!



みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



* 境界線の渇き*
​ ​影たちの虚ろな足音が、ノイズのように耳にこびりついて離れない。
「ああはならない」
ユリは心の中で何度も繰り返した。
自分を保つために、彼らとは違うのだと自分に言い聞かせる必要があった。
だが、その強迫観念こそが、彼女をさらに深く「アーカイブ」の深淵へと引きずり込んでいく。
​椅子に戻った彼女が最初にしたことは、キーボードを叩くことではなく、やはり画面の更新だった。
​(お願い、一つでいい。誰か、私がここにいると証明して)
​指先がキーに触れるたび、視界がちかちかと明滅する。
影たちが数字という器を覗き込んでいたのと同じ目で、彼女もまた、画面に浮かぶ無機質な「0」を凝視していた。
他人の執着を冷ややかに見ていたはずの彼女の瞳には、いつの間にか、それ以上の激しい渇きが宿っている。
​彼女の肉体がさらに薄れ、机の木目が膝を透過して見え始めたのは、その瞬間だった。
​「……っ、書かなきゃ。もっと、あいつらが好むようなものを」
​物語の純度は、焦燥という濁流に呑み込まれていく。
​(何でもいい。誰でもいい。私を見て)
​ーー書きたい物語があったはずだ。
庭に咲いた小さな青い花について、
あるいは風の匂いについて。
けれど今のユリの脳内を占めているのは、もっと「効率的」な言葉たちだった。
目を引くタイトル。流行のキーワード。
誰かを怒らせ、あるいは誰かに媚びるための、記号としての文章。
​そうしなければ、消えてしまう。
足首まで透け、椅子の脚と同化し始めた自分を繋ぎ止めるには、他人の視線という「杭」が必要だった。
​「……お願い、私を、消さないで」
​ユリが祈るようにキーボードに縋り付いた、その時だった。
​頭上の暗雲が、暴力的なまでの白光に焼き切られた。
落雷ではない。それは、もっと巨大で、質量を持った「光の塊」の落下だった。
​「アーカイブ」の上層から、一筋の青白い閃光が最短距離で底辺へと突き刺さる。
轟音。
爆風。
底辺に淀んでいた古い霧が一気に吹き飛ばされ、ユリはあまりの眩しさに腕で顔を覆った。
​光の中心にいたのは、一人の男だった。
その胸には、底辺の住人が一生かけても集められないほどの、天文学的な数字が刻まれている。
​「……シリウス」
​ユリは、その名を震える声で呼んだ。
常にランキングの頂点で不動の地位を誇っていた、冷たいほどに輝かしい一等星。
墜落した彼の体からは、かつての神々しい光は失われていた。
代わりに、割れたガラスのようなデジタルの破片が、皮膚を裂いて溢れ出している。