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9.仕方がない空欠の街

ー/ー



 病院の喫煙室は狭いスペースだが日当たりは良く、遠くの空まで見渡すことが出来た。窓の外は目の覚めるような青で、見下ろしたアスファルトは涙を誘うほど乾ききっている。
 喫煙室に先客はなかった。灰皿には幾ばくかの灰が落ちているから、僕が一番手と言うわけではないだろう。
 昨日の昼に連絡を受けて、たった今弟を送りつけたところだ。そのまま是非とも実家へ連れ帰ってもらいたい。
 穴へ行ってしまった弟の友人が病院に昨日搬送された。本人とは面会謝絶だがその親族が病院へ詰めており、先方と相談した結果本日病院で会う事になったらしい。
 弟が僕の下宿へ来た時、僕はすぐに実家へ連絡した。そして実家から学校へ連絡が行き、学校からその友人の親族へ連絡が行き、親族から警察へ連絡が行ったという流れだ。
 とにかくその友人、平瀬由紀はまだ生きている。
 この街は空に穴があいている。
 正確に言うと、穴があるように見える。
 原因はとにかく不明なのだが、上空のある一部に広帯域の波長の光を吸収する靄のような物質が溜まっている。光を吸収する範囲は少なくとも紫外光から赤外光、電波なんかも通さない場合があるらしい。しかも靄自体が不安定な物質で直接の測定や評価が難しく、靄が何なのか、なぜこの街に溜まっているのか、いまだに解明されていない。
 その靄が光をシャットアウトするため、靄が広がる領域の真下は太陽光の照射がなく、非常に気温が低い。靄の外の空気と隔てられるわけではないので、完全に冷え切ることはないが、温度が最も上がった状態で四度程度と言う話なので、やはり寒いのだ。
 穴に行った者がほぼ確実に命を絶てるのは、つまり凍死が簡単というだけの話である。
 夏は当然ながら温度が上昇する。大学の研究者が穴で実験を行うのもこの期間が多い。平瀬由紀が生き残ってしまったのは夏のせいだ。

 ***

 灰皿を煙草一本分汚して、僕は自分の車へ足を向けた。
 病院の待合室へ抜けると、そこは人の姿で埋まっていた。半分以上が矍鑠たる老人だ。一病息災とはよく言ったものである。
 その片隅に弱々しく座る人物に目が止まり、僕は思わず苦笑した。どの病人よりも青い顔をした健康体の弟だ。彼は僕に気付くと糸で吊られたように立ち上がった。先方との面会が終わったのだろうか。
「実家に帰らないのか」
 掠れた声が「荷物があるから」と言葉を結んだ。駐車場へ向かう僕の横に亡骸のごとく寄り添っている。
「荷物取ったらバスで帰れよ」
「わかった」
 あまりにも当然のように返ってくるので、「阿呆」が口から出てしまった。こんな事を言ってしまえば送らなければ仕方がない。
 蒸し上がってしまった車に弟を詰め込み、炎天下の駐車場から走り出した。暑いとも糞暑いとも言わない助手席が重々しい口を開いたのは、冷房が満遍なく効いて文句を垂れないで済む頃になってからだった。
「謝ったら許された」
 先方親族との面会はアッサリしたものだったらしい。特に責められるようなこともなく終了してしまったようだ。
「良かったじゃないか」
「許されたくなかった」
 ここ一週間程、弟は友人を必死で制止しなかった事を悔やんでいるようだった。それは仕方ない。弟にとって死が身近でない証だ。全くもって真っ当に育っているということで、身内びいきだろうが悪い事だとは思わない。
 信号を左折してバス通りに出ると、助手席の窓から穴が見えた。病院は穴と近い場所に建てられている。
「平瀬が見つかった時、ほっとした」
 弟の視線の先には多分穴がある。僕の視界から弟の顔を見る事はできそうもない。先程掠れていた声が厚みを増した。ずっと隠していた言葉を絞り出しているような気がした。
「一週間ずっと、平瀬が遺書を書いていないか考えてた」
 視界は明るく、馬鹿のように眩しかった。
「平瀬が、僕の名前を遺書に書いていないか考えてた」
 シートベルトで挟んでいなければ、今彼はまともに座れていないかもしれない。
「名前があるのがバレたら僕は責められる。親も責められる。怖かった」
 僕は日常的にテレビから垂れ流れされる報道の数々を思い出した。当事者でない限り犯罪も事故も娯楽でしかない。
「平瀬の生死よりもそれを考えた事が、怖かった」
 叩きつけるように鋭い言葉が吐き出される。
「なんて酷い、身勝手な奴なんだろうと思った」
 堪え切れない感情が嗚咽となって漏れていた。
 人間はどこかで己を善良だと思いたがるフシがある。特に子供の頃はその傾向が強く、自分は疑いも無く善良だと信じ切っている。
 善良と言う名の椅子から落下した事に気付く瞬間、そこに生まれるのは強い悲しみだと僕は思う。弟は哀れにもまだ中学三年生にしてそうなってしまった。日常が穏やかすぎた皺寄せにしては随分と惨い。
「平瀬さんが生きてると聞いてほっとしたか」
「ほっとした」
 間髪入れずに涙声が返ってきた。
「それとは別に、平瀬さんが生きてて嬉しいとか良かったとか思うか」
「思う」
 ほとんど号泣と言っても良い。
「じゃあいいんだよ。それで」
 応答は泣き声だった。考えてしまうアレコレは脳みその自由だから仕方ないだろう。口外しなければバレずに済むだけの話だ。真面目な彼の横で下世話な話だが、いい感じの女性を頭の中で裸にしてみるのと実は大した違いはない。そんな事を言って笑いでも取ろうかと一瞬思ったが、兄の沽券に関わるので止めておいた。
 下宿の前に車を止めると、弟が荷物を取りに降りていった。
 街の上は、空の遠くにいつも通り穴があった。歳を取ると、僕達が善良から落ちたのではないと知る。ここは、穴の底だ。
 この外へ這い出したいのか、這い出せずに怨嗟を吐くのか、見上げるだけか、見る事さえ捨てるのか。それは各自の自由でしかない。正しさもない。僕はただ、人を見ていたいだけだ。
 外は炎天下真っ最中らしく歩く生き物はいない。よく冷えた車の中で僕は弟が戻って来るのを待った。


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 病院の喫煙室は狭いスペースだが日当たりは良く、遠くの空まで見渡すことが出来た。窓の外は目の覚めるような青で、見下ろしたアスファルトは涙を誘うほど乾ききっている。
 喫煙室に先客はなかった。灰皿には幾ばくかの灰が落ちているから、僕が一番手と言うわけではないだろう。
 昨日の昼に連絡を受けて、たった今弟を送りつけたところだ。そのまま是非とも実家へ連れ帰ってもらいたい。
 穴へ行ってしまった弟の友人が病院に昨日搬送された。本人とは面会謝絶だがその親族が病院へ詰めており、先方と相談した結果本日病院で会う事になったらしい。
 弟が僕の下宿へ来た時、僕はすぐに実家へ連絡した。そして実家から学校へ連絡が行き、学校からその友人の親族へ連絡が行き、親族から警察へ連絡が行ったという流れだ。
 とにかくその友人、平瀬由紀はまだ生きている。
 この街は空に穴があいている。
 正確に言うと、穴があるように見える。
 原因はとにかく不明なのだが、上空のある一部に広帯域の波長の光を吸収する靄のような物質が溜まっている。光を吸収する範囲は少なくとも紫外光から赤外光、電波なんかも通さない場合があるらしい。しかも靄自体が不安定な物質で直接の測定や評価が難しく、靄が何なのか、なぜこの街に溜まっているのか、いまだに解明されていない。
 その靄が光をシャットアウトするため、靄が広がる領域の真下は太陽光の照射がなく、非常に気温が低い。靄の外の空気と隔てられるわけではないので、完全に冷え切ることはないが、温度が最も上がった状態で四度程度と言う話なので、やはり寒いのだ。
 穴に行った者がほぼ確実に命を絶てるのは、つまり凍死が簡単というだけの話である。
 夏は当然ながら温度が上昇する。大学の研究者が穴で実験を行うのもこの期間が多い。平瀬由紀が生き残ってしまったのは夏のせいだ。
 ***
 灰皿を煙草一本分汚して、僕は自分の車へ足を向けた。
 病院の待合室へ抜けると、そこは人の姿で埋まっていた。半分以上が矍鑠たる老人だ。一病息災とはよく言ったものである。
 その片隅に弱々しく座る人物に目が止まり、僕は思わず苦笑した。どの病人よりも青い顔をした健康体の弟だ。彼は僕に気付くと糸で吊られたように立ち上がった。先方との面会が終わったのだろうか。
「実家に帰らないのか」
 掠れた声が「荷物があるから」と言葉を結んだ。駐車場へ向かう僕の横に亡骸のごとく寄り添っている。
「荷物取ったらバスで帰れよ」
「わかった」
 あまりにも当然のように返ってくるので、「阿呆」が口から出てしまった。こんな事を言ってしまえば送らなければ仕方がない。
 蒸し上がってしまった車に弟を詰め込み、炎天下の駐車場から走り出した。暑いとも糞暑いとも言わない助手席が重々しい口を開いたのは、冷房が満遍なく効いて文句を垂れないで済む頃になってからだった。
「謝ったら許された」
 先方親族との面会はアッサリしたものだったらしい。特に責められるようなこともなく終了してしまったようだ。
「良かったじゃないか」
「許されたくなかった」
 ここ一週間程、弟は友人を必死で制止しなかった事を悔やんでいるようだった。それは仕方ない。弟にとって死が身近でない証だ。全くもって真っ当に育っているということで、身内びいきだろうが悪い事だとは思わない。
 信号を左折してバス通りに出ると、助手席の窓から穴が見えた。病院は穴と近い場所に建てられている。
「平瀬が見つかった時、ほっとした」
 弟の視線の先には多分穴がある。僕の視界から弟の顔を見る事はできそうもない。先程掠れていた声が厚みを増した。ずっと隠していた言葉を絞り出しているような気がした。
「一週間ずっと、平瀬が遺書を書いていないか考えてた」
 視界は明るく、馬鹿のように眩しかった。
「平瀬が、僕の名前を遺書に書いていないか考えてた」
 シートベルトで挟んでいなければ、今彼はまともに座れていないかもしれない。
「名前があるのがバレたら僕は責められる。親も責められる。怖かった」
 僕は日常的にテレビから垂れ流れされる報道の数々を思い出した。当事者でない限り犯罪も事故も娯楽でしかない。
「平瀬の生死よりもそれを考えた事が、怖かった」
 叩きつけるように鋭い言葉が吐き出される。
「なんて酷い、身勝手な奴なんだろうと思った」
 堪え切れない感情が嗚咽となって漏れていた。
 人間はどこかで己を善良だと思いたがるフシがある。特に子供の頃はその傾向が強く、自分は疑いも無く善良だと信じ切っている。
 善良と言う名の椅子から落下した事に気付く瞬間、そこに生まれるのは強い悲しみだと僕は思う。弟は哀れにもまだ中学三年生にしてそうなってしまった。日常が穏やかすぎた皺寄せにしては随分と惨い。
「平瀬さんが生きてると聞いてほっとしたか」
「ほっとした」
 間髪入れずに涙声が返ってきた。
「それとは別に、平瀬さんが生きてて嬉しいとか良かったとか思うか」
「思う」
 ほとんど号泣と言っても良い。
「じゃあいいんだよ。それで」
 応答は泣き声だった。考えてしまうアレコレは脳みその自由だから仕方ないだろう。口外しなければバレずに済むだけの話だ。真面目な彼の横で下世話な話だが、いい感じの女性を頭の中で裸にしてみるのと実は大した違いはない。そんな事を言って笑いでも取ろうかと一瞬思ったが、兄の沽券に関わるので止めておいた。
 下宿の前に車を止めると、弟が荷物を取りに降りていった。
 街の上は、空の遠くにいつも通り穴があった。歳を取ると、僕達が善良から落ちたのではないと知る。ここは、穴の底だ。
 この外へ這い出したいのか、這い出せずに怨嗟を吐くのか、見上げるだけか、見る事さえ捨てるのか。それは各自の自由でしかない。正しさもない。僕はただ、人を見ていたいだけだ。
 外は炎天下真っ最中らしく歩く生き物はいない。よく冷えた車の中で僕は弟が戻って来るのを待った。