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8.平瀬

ー/ー



 記憶の中で最も古く強烈なものは何かと問われれば、私は間違いなくバス停と答える。
 幼い頃、父が失踪した。その父を暫くの間、毎日母とバス停で待ったのだ。ちなみにそれより以前の記憶はほとんどない。
 だから、私の記憶の中の父は、物言わぬ錆びたバス停の標識である。

 ***

 車のエンジン音がして意識の泥から引き上げられた。揺れる視界に目を凝らしても、全く見覚えのない冴え冴えとした灰色の天井が見えるだけだ。散らかった記憶を何度も手繰り寄せ、ようやく昨晩の事を思い出した。ここは穴の受付だった。
 長椅子から体を起こすと背中が軋む。疲れは全く取れていない。同時に家の畳や懐かしい布団の感覚を思い出して、無性に帰りたくなった。良質な睡眠の欠乏は人の意思を曲げさせるのかもしれない。
 洗っていない頭が気持ち悪い。耳を澄ませると昨日からずっと止まない強い風の音だけが鳴っていて、誰かがこちらへ来る気配はないようだ。私はスポーツバッグからタオルを取り出し昨晩案内された洗面台へ向かった。こんな汚い状態で明るい時間に誰かとハチ合わせするのは嫌だ。
 洗面台には「ご自由にお使い下さい」というバケツの中に試供品の洗髪料が溜まって置いてあった。一回しか使えない封を切って使うタイプだ。
 随分とサービス精神に溢れた施設だと思う。場所が場所だからか。頬が解れていくように笑いが込み上げた。
 バスを降りたのが一昨日とは思えないほど時間が過ぎた気がする。どうせまだ学校は騒がしくないだろう。本田がはっきり止めなければ、穴へ行こうと決めていた。
 頭を洗って体を拭くと一瞬体重が軽くなったような気がした。次に足を持ち上げようとして重さに落ち込む。着替えはあるが、あえて一昨日からと同じ服を着た。着替えは一つしかない。
 カウンターの前に置かれた長椅子へ戻ったのと、作業服姿の老人がスーパー袋を提げて受付へ入って来たのはほぼ同時だった。老人は私の顔を見て元気そうにスーパー袋を上げた。入っているものに重みがあるのか、ゆらゆらと袋が左右に揺れている。
「よう寝れたけ」
 この人が何を言っているのか、私にはどうもよくわからない。昨晩洗面台とトイレへ案内してもらったが訛が酷い。悪意は全く感じないので、良い人なのだろうと思う。まともに会話が出来なくて逆に申し訳なくなる。
 じっと黙っている私に気付いたのかは知らないが、今度はスーパー袋をカウンターに置いて、しきりにその袋を指し始めた。まさか同じ日本人同士でこれほど意思疎通に困難を生むとは思っていなかった。テレビでたまに見る山奥の方言のようなものだ。テロップが出ないと全くわからない。
 やがてカウンターに置いた袋をより私の方向へ押し出して、笑顔のまま受付の奥へ消えて行った。中を見ると、何種類かのパンとおにぎり、ペットボトルのコーラとお茶が入っていた。スーパー袋の内側には水滴がついている。きっと朝に買ってきてくれたのだ。
 私はお礼すら言っていない。
 受付の奥とこちらは扉で隔てられているわけではない。追いかけてお礼を言えばいい。それだけなのに私は一歩も動くことが出来なかった。この狭い空間の外へ踏み出す事が漠然とただ恐ろしい。
 スーパー袋を握りしめると当たり前のようにカシャカシャと鳴った。己が酷く情けないものに思える。俯いた視界に涙が落ちた。
 その日の夜も、その翌日も、受付には誰も現れなかった。受付の奥からパソコンを打つ音が聞こえてくる以外に人の存在を感じる事は何もなく、私は寝たり起きたりしながら、どうしてもパンやおにぎりには手を出せないまま、お茶だけをちびちびと消費した。元々荷物の中にカロリー摂取の為の食料を入れていたので、空腹が酷くなるとそれで凌いだ。
 この穴へ来るまでの道の途中、三つの使われていないバスの待合室に立ち寄った。どこの待合室にも落書きやメッセージがあって、あの道を歩いた者達特有の仲間意識を感じさせた。私は独りではないと感じると心強かった。同時に穴へ行く意思をより強く固めなければならなかった。孤独ではないと知る事は孤独へ向かう意思を揺らがせる。このパンやおにぎりを手に取れないのも、つまりはそういう事なのかもしれない。
 受付に女性が現れたのは、さらにその翌日の昼の事だ。手には茶封筒を持っている。最初に会った時と同様、無機質な声でカウンター越しに「遺留品になります」と言って、そのものを私へ差し出した。来てしまった。
 受け取ってみると茶封筒は予想より温く感じられた。特にくたびれた様子はないし埃っぽくもない。茶封筒を開けると、中央ピッタリに「遺書」と書かれた白い封筒が入っていた。
 封筒を開けて、途端に私は父を思い出した。まさしく父はこういう人なのだ。母と二人で父を待った幼い日々が浮んで来て、自然と顔が綻んだ。私の記憶の中の父は何一つ語る事はない。
 遺書は白紙だった。
 なにもない。
 今、とても軽いとわかった。
 固めなければならない決意というものから解き放たれたような気がする。満たされて知る幸福ではなく、投げ捨てられて感じる幸福があるのだと思った。私には今、なにもない。
 手の中の白紙にあの老人への感謝の言葉と謝罪を書いて、スーパー袋に入れた。気付けば辺りには誰もいなくなっていた。
 私は着替えとタオルを持って洗面台へ向かった。髪を洗って体を拭いて綺麗な服に着替えたら、穴へ行こう。
 足を踏み出すと嗅ぎ慣れた匂いがした。私の家の柔軟剤の香りだった。


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 記憶の中で最も古く強烈なものは何かと問われれば、私は間違いなくバス停と答える。
 幼い頃、父が失踪した。その父を暫くの間、毎日母とバス停で待ったのだ。ちなみにそれより以前の記憶はほとんどない。
 だから、私の記憶の中の父は、物言わぬ錆びたバス停の標識である。
 ***
 車のエンジン音がして意識の泥から引き上げられた。揺れる視界に目を凝らしても、全く見覚えのない冴え冴えとした灰色の天井が見えるだけだ。散らかった記憶を何度も手繰り寄せ、ようやく昨晩の事を思い出した。ここは穴の受付だった。
 長椅子から体を起こすと背中が軋む。疲れは全く取れていない。同時に家の畳や懐かしい布団の感覚を思い出して、無性に帰りたくなった。良質な睡眠の欠乏は人の意思を曲げさせるのかもしれない。
 洗っていない頭が気持ち悪い。耳を澄ませると昨日からずっと止まない強い風の音だけが鳴っていて、誰かがこちらへ来る気配はないようだ。私はスポーツバッグからタオルを取り出し昨晩案内された洗面台へ向かった。こんな汚い状態で明るい時間に誰かとハチ合わせするのは嫌だ。
 洗面台には「ご自由にお使い下さい」というバケツの中に試供品の洗髪料が溜まって置いてあった。一回しか使えない封を切って使うタイプだ。
 随分とサービス精神に溢れた施設だと思う。場所が場所だからか。頬が解れていくように笑いが込み上げた。
 バスを降りたのが一昨日とは思えないほど時間が過ぎた気がする。どうせまだ学校は騒がしくないだろう。本田がはっきり止めなければ、穴へ行こうと決めていた。
 頭を洗って体を拭くと一瞬体重が軽くなったような気がした。次に足を持ち上げようとして重さに落ち込む。着替えはあるが、あえて一昨日からと同じ服を着た。着替えは一つしかない。
 カウンターの前に置かれた長椅子へ戻ったのと、作業服姿の老人がスーパー袋を提げて受付へ入って来たのはほぼ同時だった。老人は私の顔を見て元気そうにスーパー袋を上げた。入っているものに重みがあるのか、ゆらゆらと袋が左右に揺れている。
「よう寝れたけ」
 この人が何を言っているのか、私にはどうもよくわからない。昨晩洗面台とトイレへ案内してもらったが訛が酷い。悪意は全く感じないので、良い人なのだろうと思う。まともに会話が出来なくて逆に申し訳なくなる。
 じっと黙っている私に気付いたのかは知らないが、今度はスーパー袋をカウンターに置いて、しきりにその袋を指し始めた。まさか同じ日本人同士でこれほど意思疎通に困難を生むとは思っていなかった。テレビでたまに見る山奥の方言のようなものだ。テロップが出ないと全くわからない。
 やがてカウンターに置いた袋をより私の方向へ押し出して、笑顔のまま受付の奥へ消えて行った。中を見ると、何種類かのパンとおにぎり、ペットボトルのコーラとお茶が入っていた。スーパー袋の内側には水滴がついている。きっと朝に買ってきてくれたのだ。
 私はお礼すら言っていない。
 受付の奥とこちらは扉で隔てられているわけではない。追いかけてお礼を言えばいい。それだけなのに私は一歩も動くことが出来なかった。この狭い空間の外へ踏み出す事が漠然とただ恐ろしい。
 スーパー袋を握りしめると当たり前のようにカシャカシャと鳴った。己が酷く情けないものに思える。俯いた視界に涙が落ちた。
 その日の夜も、その翌日も、受付には誰も現れなかった。受付の奥からパソコンを打つ音が聞こえてくる以外に人の存在を感じる事は何もなく、私は寝たり起きたりしながら、どうしてもパンやおにぎりには手を出せないまま、お茶だけをちびちびと消費した。元々荷物の中にカロリー摂取の為の食料を入れていたので、空腹が酷くなるとそれで凌いだ。
 この穴へ来るまでの道の途中、三つの使われていないバスの待合室に立ち寄った。どこの待合室にも落書きやメッセージがあって、あの道を歩いた者達特有の仲間意識を感じさせた。私は独りではないと感じると心強かった。同時に穴へ行く意思をより強く固めなければならなかった。孤独ではないと知る事は孤独へ向かう意思を揺らがせる。このパンやおにぎりを手に取れないのも、つまりはそういう事なのかもしれない。
 受付に女性が現れたのは、さらにその翌日の昼の事だ。手には茶封筒を持っている。最初に会った時と同様、無機質な声でカウンター越しに「遺留品になります」と言って、そのものを私へ差し出した。来てしまった。
 受け取ってみると茶封筒は予想より温く感じられた。特にくたびれた様子はないし埃っぽくもない。茶封筒を開けると、中央ピッタリに「遺書」と書かれた白い封筒が入っていた。
 封筒を開けて、途端に私は父を思い出した。まさしく父はこういう人なのだ。母と二人で父を待った幼い日々が浮んで来て、自然と顔が綻んだ。私の記憶の中の父は何一つ語る事はない。
 遺書は白紙だった。
 なにもない。
 今、とても軽いとわかった。
 固めなければならない決意というものから解き放たれたような気がする。満たされて知る幸福ではなく、投げ捨てられて感じる幸福があるのだと思った。私には今、なにもない。
 手の中の白紙にあの老人への感謝の言葉と謝罪を書いて、スーパー袋に入れた。気付けば辺りには誰もいなくなっていた。
 私は着替えとタオルを持って洗面台へ向かった。髪を洗って体を拭いて綺麗な服に着替えたら、穴へ行こう。
 足を踏み出すと嗅ぎ慣れた匂いがした。私の家の柔軟剤の香りだった。