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陽だまりの侵入者

ー/ー



 クリーニング店『霧雨堂(きりさめどう)』の店内には、常に二つの時間が流れている。


一つは、店主の霧斗(きりと)が振るうアイロンによって、記憶が真っ白な霧へと還っていく忘却の時間。

もう一つは、アルバイトの(かい)がその霧を言葉に換え、紙の上に繋ぎ止めようとする執着の時間だ。



​「……霧斗さん、そのコート、もう声が聞こえなくなりました」

​櫂がペンを置かずに呟く。霧斗は答えず、ただ無機質な蒸気の音だけを響かせていた。二人の間に流れるのは、消す者と記す者、それぞれの静かな意地がぶつかり合う、張り詰めた静寂だった。


​ その均衡を、唐突に鳴り響いたドアベルが打ち砕く。


​「ただいまー! 兄さん、生きてる?」

​冬の陽光をそのまま引き連れてきたような声と共に、一人の女性が飛び込んできた。

カラフルなスニーカーを履いたその女性――(はる)は、カウンターにドーナツの箱を置くと、店内の淀んだ空気をかき回すように笑った。


​ 霧斗の手が、初めて止まった。その表情には、櫂が一度も目にしたことのない困惑が、さざ波のように広がっている。

​「陽……なぜここに」
「なぜって、兄さんが全然連絡くれないからでしょ」


​陽は、メモ帳を抱えたまま固まっている櫂に快活な視線を投げた。

「あ、君が新しいバイト君? 苦労してるでしょ、この偏屈な兄さんに仕えて。兄さん、昔からそうなの。大事なことは全部自分の胸にアイロンかけて、真っ平らにしちゃうんだから」


​ 陽が放つ「言葉」は、霧斗が消し去ろうとする記憶の霧を、いとも容易く晴らしていく。


霧斗は深く溜息をつき、熱を帯びたアイロンを置いた。

​「陽。ここは記憶を捨てに来る場所だ。お前のように、思い出をばら撒きに来る場所じゃない」
「いいじゃない。消しすぎると、世界が真っ白になっちゃうよ?」



​陽はカウンター越しに身を乗り出し、霧斗の頬を指先で突いた。
霧斗はそれを拒むこともせず、ただ苦々しく顔を背ける。

​霧の主である霧斗と、それを晴らす陽。そして、その光景を逃さぬようペンを握りしめる櫂。

三人の影が、白く立ち上る蒸気の向こうで交錯していた。

​櫂は、新しく開いたページに一文を刻む。
――霧を統べる者の名は、霧斗。だが、その霧を唯一晴らせる太陽の名は、陽というらしい。

​シュ、と。

遠くでアイロンの蒸気が上がる音が、三人の沈黙を再び包み込んでいった。






みんなのリアクション

 クリーニング店『|霧雨堂《きりさめどう》』の店内には、常に二つの時間が流れている。
一つは、店主の|霧斗《きりと》が振るうアイロンによって、記憶が真っ白な霧へと還っていく忘却の時間。
もう一つは、アルバイトの|櫂《かい》がその霧を言葉に換え、紙の上に繋ぎ止めようとする執着の時間だ。
​「……霧斗さん、そのコート、もう声が聞こえなくなりました」
​櫂がペンを置かずに呟く。霧斗は答えず、ただ無機質な蒸気の音だけを響かせていた。二人の間に流れるのは、消す者と記す者、それぞれの静かな意地がぶつかり合う、張り詰めた静寂だった。
​ その均衡を、唐突に鳴り響いたドアベルが打ち砕く。
​「ただいまー! 兄さん、生きてる?」
​冬の陽光をそのまま引き連れてきたような声と共に、一人の女性が飛び込んできた。
カラフルなスニーカーを履いたその女性――|陽《はる》は、カウンターにドーナツの箱を置くと、店内の淀んだ空気をかき回すように笑った。
​ 霧斗の手が、初めて止まった。その表情には、櫂が一度も目にしたことのない困惑が、さざ波のように広がっている。
​「陽……なぜここに」
「なぜって、兄さんが全然連絡くれないからでしょ」
​陽は、メモ帳を抱えたまま固まっている櫂に快活な視線を投げた。
「あ、君が新しいバイト君? 苦労してるでしょ、この偏屈な兄さんに仕えて。兄さん、昔からそうなの。大事なことは全部自分の胸にアイロンかけて、真っ平らにしちゃうんだから」
​ 陽が放つ「言葉」は、霧斗が消し去ろうとする記憶の霧を、いとも容易く晴らしていく。
霧斗は深く溜息をつき、熱を帯びたアイロンを置いた。
​「陽。ここは記憶を捨てに来る場所だ。お前のように、思い出をばら撒きに来る場所じゃない」
「いいじゃない。消しすぎると、世界が真っ白になっちゃうよ?」
​陽はカウンター越しに身を乗り出し、霧斗の頬を指先で突いた。
霧斗はそれを拒むこともせず、ただ苦々しく顔を背ける。
​霧の主である霧斗と、それを晴らす陽。そして、その光景を逃さぬようペンを握りしめる櫂。
三人の影が、白く立ち上る蒸気の向こうで交錯していた。
​櫂は、新しく開いたページに一文を刻む。
――霧を統べる者の名は、霧斗。だが、その霧を唯一晴らせる太陽の名は、陽というらしい。
​シュ、と。
遠くでアイロンの蒸気が上がる音が、三人の沈黙を再び包み込んでいった。


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