風邪の日は、治すことだけを考えなくてはならない。
枕元に置いたスポーツ飲料の結露が、じわりとコースターを濡らしていく。私は重い瞼をこすりながら、「今日は絶対に何もしない!」と固く心に誓った。
それはある種義務でもある……
今日の私に課せられた唯一の仕事だった。
咳き込みながら布団に深く潜り込んだその瞬間、カチリ、と部屋の時計が小さく咳払いをした気がした。
それを合図に、世界の解像度がふわりと変化する。秒針の動きは蜂蜜の中を泳ぐように鈍くなり、窓の外を走る車の走行音は、遠い海の波音へと書き換えられていった。
「……お目覚めですか。いえ、まだ眠りの中でしょうか」
霧のような声に顔を上げると、枕元に白衣を着た影が立っていた。透き通ったその姿は、人というよりは陽炎に近い。影は手にした手帳へ何かを書き留めると、穏やかな口調で私を諭した。
「本日のあなたの業務は『完全な空白』です。回復には、静寂という名の劇薬が必要です。余計な思考や、明日の段取りといった雑音は、すべて私が預かりましょう」
影が細い指先で私の額に触れる。ひんやりとした冷たさが心地よく、思考の熱を吸い取っていく。私は抗うことなく、意識を深い闇へと沈めていった。
次に意識を浮上させたとき、部屋は淡い茜色に包まれていた。
夕方の光が、埃のダンスを優しく照らしている。身体は驚くほど軽くなり、しつこかった熱の気配は綺麗に消え去っていた。
ふと壁を見ると、時計は何事もなかったような顔をして、規則正しく時を刻んでいる。
けれど、サイドテーブルには見慣れない小さな紙片が残されていた。
『業務完遂。お疲れ様でした。』
文字は西日に照らされ、やがて光に溶けるように消えていった。
私は深く息を吐き、改めて布団を整える。不思議な処方箋のおかげで、明日からはまた、騒がしい日常を歩き出せそうだった。