朝靄の立ちこめる公園は、何かが息をひそめているようだった。
湿った土と、刈り込まれたばかりの芝生の匂いが混じり合う。私は貸ボート屋の脇にある、普段は古びた什器が積まれているだけの細い通路へ足を踏み入れた。
霧の深い朝にだけ、その突き当たりに錆びた鉄の扉が現れる。
看板はない。
扉に刻まれた文字だけが、そこが店であることを示していた。
「時の質店」
扉を開けると、空気がわずかに沈んだ。外よりも、数度低い。
カウンターの向こうで、店主が古いオイルランプに火を灯している。彼は私を見ず、ただ卓上の空いた場所を指した。
「何を預けますか」
私は紙袋から、それを取り出した。
泥が染み込み、噛み裂かれた穴の残る、古いジョギングシューズ。かかとにも甲にも、鋭い牙で何度も確かめるようにつけられた傷跡がある。
「……これを」
店主は手袋をはめ、壊れ物に触れるようにシューズを持ち上げた。
「ひどい傷だ。だが、手放されなかった」
独り言のように呟き、続ける。
「足が受けた衝撃よりも、別のものが注がれている」
「犬が、やったんです。走りに行こうとすると、行かせないように」
ゴールデン・レトリバーのハル。
最後の一ヶ月、彼は玄関に来なかった。ただ私の顔を見上げ、動かない尾を床に伏せていた。
もっと一緒に走りたかった。
風を切って、何も考えずに。
「この靴を預かり、あなたに『もう一度』を貸しましょう」
店主は背後の棚に、シューズを静かに置いた。
「代わりに、あなたの脚は“急ぐ”ということを忘れます。
坂道も、駅の階段も、二度と駆け抜けることはできない。それでも?」
取り戻せるとは限らない。
そう告げる目だった。
私は膝を握りしめ、短く答えた。
「はい」
次の瞬間、私はボート池を望む、いつものジョギングコースに立っていた。
足元には、あのシューズ。ボロボロのままなのに、吸い付くように馴染む。
「ワンッ!」
振り返ると、若々しい毛並みのハルがいた。
尻尾を振り、今にも跳び出しそうに。
「……ハル」
私たちは走り出した。
ハルは前へ、横へ、楽しげに位置を変える。地面を蹴るたび、爪の音がすぐそばで弾んだ。
肺が熱くなる。
心臓の鼓動が、足音に重なる。
この先の人生で、もう全力で走ることはないだろう。
急な雨から逃げることも、誰かを追いかけることも。
それでも、この一瞬のストライドだけが、欠けていた最後のものだった。
朝陽が霧を割り、視界が白く染まる。
隣を走っていた温もりが、光の中にほどけていく。
私は速度を落とさず、前だけを見ていた。