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歪む月

ー/ー



「誰が、布団くっつけてんだ」
 気づくと、流がタオルで髪を拭きながら、立っていた。
「一つで良かったのに」
 わざと、呟いてみた。予想通り、一瞬だけ、流がとことん嫌そうな顔をする。
 今日は無視されなかっただけ、ましな方だと思う。
 窓辺に座り込んでいた玲は流を見上げた。
 いつも通り、へらへらと笑って流を見られているのか、自信がなかった。
 年下の幼馴染を揶揄う、お調子者のばかな男に見えているだろうか。そんな男なら、気まぐれに遊び来ても、少々際どい冗談を言っても、許される。
 こうして別の顔を見せていれば、このまま、そばにいられる。それでいいと、今までそう思って、やってきた。
 窓は開いたままだ。満月はしっかり見えている。
 流が黙って、部屋の灯りを落とした。無言の不機嫌を感じる。
 古びた小さな豆球だけの薄暗くなった部屋に、満月の光が差し込んで、余計に目立つ。
 玲の前に立った流は、感情の見えない目で見下ろしていた。
「窓、閉めろよ。寒い」
「きれいな満月だ」
「寒い。閉めろ」
「もう少し、いいだろ」
 少し意地になっていた。
 いつもなら、はいはいと笑って窓を閉めていたが、なぜか今日は月を見ていたいと思ってしまった。


 今日はどうかしている。
 坂道を息を切らして上がった時から、いつもと違う。
 何かがあったわけではない。
 強いて言うなら、あの日の月を思い出してしまったせいかもしれない。
 あの日も、今日のように月がいつもより大きく近く見えた。そのせいで、あの日が鮮やかに着色し直されたように甦ってきて、流を諦めきれない自分が顔を出している。
 濡れた髪と少し上気した顔の流は、無表情で見下ろしているにも関わらず、玲を誘っているように見えて、じっと見つめてしまった。
 だから、窓を閉めるタイミングを失った。


 ついに我慢できなくなったのか、流が大股で近づいてきた。
「閉めろって」
 流の薄い体が、ぶつかるように玲の体を乗り越えて、窓を乱暴にしめた。
 玲は膝の上に流をうけとめた。
 逃げる暇はなかった。
 窓際に座っているのだから、仕方がない。それに、どうせ、すぐに流の方から離れていく。
 それが、いつもの流のやり方だから、玲はじっと息を止めて待っていればよかった。
 今日は、なぜか、そのまま流が玲の膝に体重を乗せてきた。
 風呂上がりの流は体温が高く、薄いシャツを通しても、冷えた玲の体には熱いくらいに感じられる。
 その感覚は一瞬で全身に広がった。
「体冷えてる」
 流の声が、玲の膝に響いた。動かない流の洗い髪が目の前にあって、シャンプーの匂いがする。
 玲は、思わず息を止めた。
 大人になって、ここまで流が玲に体を預けたことはない。
 何をする気だ。
 そう思った瞬間、そのままの姿勢で、流が玲のシャツの袖をそろりとたくしあげた。
 反射的に腕を引いたが、流はしっかりと左手で玲の右腕を掴んでいた。
 右手の指先で傷跡に触れてくる。まるで、たった今ついた傷に触れるように、恐る恐る反応を確かめているようだ。
 流の長い指がなぞると、全身に電流が走った。
 この家の前で流と再会したあの日から、今まで、こんなことは一度もなかった。
 流の手で、体の中をかき混ぜられているようだ。
「そこ、触んな」
 思わず、情けない声が出た。
「どうして」
 感情の乗らない声で流が聞いた。
 いつもより低い声で冷静に聞かれると、一人慌てているのが滑稽に思えてくる。
 体を捩って抵抗を試みたが、あっさりと封じられた。
「だから、傷に触るな」
 普通に言ったつもりだったが、声が裏返る。
「もう痛くないんだろ」
「触るなって」
 今度は、子供が嫌がっているような声になってしまった。
 流は玲を横目で見上げて、揶揄うように尋ねてきた。
「今日は、 どうした」
 いつも仕掛けているのは、玲の方だった。
 わざわざ満月の夜に流の家を訪ねているのも、嫌がることを承知で揶揄うのも、玲の方で、それを流がいつも無表情でかわしていた。
 今日はどうしたと聞きたいのは、こっちの方だと、玲は奥歯を噛み締めた。


 おもちゃを指先で遊ぶように、流はゆるゆると玲の腕の傷を触っていた。
「やめろって」
 我慢できずに、大きな声が出た。
 一瞬、流の体がふわりと浮いた。
 離れてくれるのかと思ったら、今度は、両手でしっかりと玲の腕を掴んで、容赦なく流の体が擦り寄ってきた。
 逃げる暇も、言葉で制止する余裕もなかった。
 流の顔が、すぐ目の前にあった。幼い頃の面影がはっきりと見える。
 子供の頃と同じように、下から玲の目を覗き込むようにして、流は頼み事をする顔になった。
「だからさ。満月の日に来ないでよ。会いたくない」
 子供のような甘えた口調で言いながら、玲を見上げている。
 こんな言い方をする流は、子供の頃以来だ。
 この顔でこんなふうに言われると、だめだと言えなくて、結局、いいよと折れていた昔を思い出した。
 いきなり、あの頃に帰ったようで、返事に詰まった。
 流はため息をついて体を起こした。
「嫌がってるのは、知ってるだろ。お前、何しに来るんだ」
 また、流が感情の乗らない声に戻って、淡々と世間話をするように喋る。
 玲に尋ねているのに、いつもと同じように冷たく突き放していて、返事など求めていない。
 子供と大人とがくるくる入れ替わるような、このアンバランスな感じは不愉快で、なのに、どこか懐かしい心地よさがついてくる。
 流は、確かにこんな子供だった。
 賢くて、大人のような口をきいているかと思えば、子供らしい甘え方をしてくる。気まぐれで、つかみどころのない子供だった。めんどくさいと思っても、それが彼の魅力でもあった。
 あの日から、急に大人になってしまった流が、子供の頃に戻ったような気分になる。
 相変わらず、流の手が玲の腕を撫でていた。
 息ができない。
 心臓の鼓動が激しくて、胸が痛い。
 翻弄されている苛立たしさがあるのに、それをずっと待っていたような気持ちが湧き上がってくる。
 研ぎ澄まされていく感覚を逃すために、玲は言葉を捻り出した。
「お前はさ」
 その一言で黙ってしまった玲を横目で見て、流は聞こえていない顔になった。
 

 無視してくる流に煽られるように、つい、今まで聞かずにいたことを聞いた。
「知ってたのか。あの時、誰と行ったか」
「あの時って」
「お前の母親」
 流が手の動きを止めた。
 やっと息が継げたと思った途端、今度は、玲の首筋に流の右手がのびた。
「今、それ、聞くのか」
 体を引こうとする動きは、流の左手で止められた。
 触れられているところが熱い。流の長い指が絡みつくように、玲の首筋を捉えていた。触れると言うより、逃がさないように絡め取られているようだ。
 玲は、金縛りにあったように動けなくなった。
「転校してすぐ知ってたよ」
 まるで、昨日の出来事を報告するかのように、淡々と流は答える。
 玲を見つめたまま、世間話をする口調で、流が尋ねた。
「お前は。いつ、知った」
「退院した後、学校に行き始めて」
 こちらから聞いたのに、答えさせられた気分だった。
 流の目が、少し細くなる。
 怒っているのだと、すぐにわかった。子供の頃から、相手に吐き出すより前に、流はそういう表情をする。
「どうして」
 そう言いかけて、流は黙った。
 どうして、今まで何も言わなかったのか。
 そう聞きたかったのだろう。でも、それは。
「お前もだろ」
 声に出た。
 今まで、二人とも何も言わなかった。
 黙っていても、事実は事実だ。だけど、わざわざ口にはしたくなかった。言葉にしてしまえば、それは重さを持ってしまう。
 それは、流も同じだと思っていた。
 いきなり、流は手をはなし、体を起こして玲を見据えた。
「勝手に、わかったようなこと言うな」
 流は、そう言った。
 何に対してかは分からなかったが、流が怒っているのはわかった。
 怒っている理由がわからなくて、思考が停止した。思わず、言い訳めいた言葉が出た。
「お前も知っているだろうと思ったし、言う機会がなかったから」
 睨んだ顔のまま、しばらく流はじっと玲を見ていた。
 いつもの無表情じゃない。
 流の感情がはっきり見えていることに、玲はやっと気づいた。


 拗ねた時の癖で、流の唇がきつく結ばれている。
 子供の頃、よく見ていた表情だったと思い出した。
「お前はずっと勝手だよ」
 そっぽを向いて、また、感情の見えない顔で、そう呟かれた。
 近くに来たかと思ったら、急に遠くなる。
 このまま、離れていきそうで、玲は呼び止める言葉を探した。
「お前だって、俺の傷を見えないふりをしてたじゃないか」
 初めて流にそう言った。
 今まで、一度も指摘したことがないことだ。
 流の目がまた少し細くなる。微かに口元だけ笑ったように見えた。
 唐突に、流の人差し指が、玲の腕の傷に触れた。
「ここ」
「それから、ここも」
 玲の前髪を人差し指で持ち上げると、傷に触れた。
「親父がつけた傷だ」
 嬉しそうに言い、微笑む。
 不謹慎な態度にすら見えたその顔が、いきなり真顔になった。
「ずっと、残る」
 つぶやいた流の声は、怖いほど感情が見えない。玲を見つめる目もガラス玉のようだ。
 なのに、流の痛みが透けて見える。
 そのまま俯く流は、泣いているようにさえ見える。
 傷が久しぶりに疼いて、玲は顔を顰めて身を捩った。
 玲の傷は、いつも見えている。もう傷は癒えて、痕跡が残るだけだ。ただ、時々疼く。
 流の傷は見えていなくても、まだ生々しくそこにあった。
 冷静な顔しか見せない流だったが、それが玲にはどこか不安定に見え、その感覚がいつも拭えなかった。見えない傷から流れ続けているものがあったからだと、やっと玲は気づいた。
 だから、流の感情が見えてこないことに苛立っていた。
 辛いなら、辛いと言ってほしい。泣きたいなら、泣いてほしい。
 そう願っていたのだと思う。
 だけど、こんなふうに、流に言わせたかったわけではないと、玲は悟った。
 もう無かったことにしたかった。
 無邪気に一緒に遊んだあの頃に戻りたかっただけだ。
 ずっと玲の後ろをついてきた、あの頃の流を、もう一度、抱きしめたかった。
 どうしたら、よかったのだろう。
 感情がうまく整理できない。
 言葉が出てこない。
 やっぱり、自分から流には触れられなかった。


 ため息をついて、流が顔を上げた。
 流の唇がまた拗ねたように動いて、玲を睨みつけてくる。
 いきなり流は玲の腕の傷に唇を押し付けてきた。
 指先より温度が高くて、熱い。
 反射的に腕をひこうとしたが、流がしっかりと握って離さない。手首から肘の方へ、少しずつ唇は上がってくる。
 息が吸えなくなる。
 流の行動が読めなくて、振り回されていた。
「ふざけるな。やめろ。酔ってんのか」
 情けない声が出た。
 玲の言葉など耳に入っていないように、流は玲の腕に顔を埋めたままだ。
 本気で振りほどくつもりなら、それは可能だった。
 流より一回り大きな体と、毎日の肉体労働をする体力は、運動などしない華奢な流など相手にならないことは、はっきりわかっていた。
 なのに、動けなかった。
 今まで何もできなかった自分が、流を拒否するようなことなどできなかった。
 やっと顔を上げた流は、吐き捨てるように言った。
「酔ってるかもね。いつものように、なかったことにすればいい」
 流が怒っている。
 怒らせてしまったのに、流の感情が言葉に素直に出ているのは、本当に久しぶりで、それだけで玲は泣きそうになる。
 本音が口について出た。
「俺は、どうしたらよかったんだ」
 掠れた声で玲が呟いた。
 流の顔がゆっくり変化していく。
 泣きそうに歪んでいった。
 流の感情がはっきりと見える顔は何年ぶりだろう。
 子供の頃、こんなふうに泣き出しそうな流を宥めるには、抱きしめるしかなかった。
 いつから、それができなくなったか。
 あの日、この家の前で泣いていた流を抱きしめたきり、できなくなった。流が感情を表情に出さなくなったせいだ。   
 ずっと、この顔が見たかった。
 流の唇が震えていた。
「ルウ」
 子供の頃の呼び方が、一瞬で流を子供に戻した。
「レイちゃんは」
 絞り出すような声は、ほとんど泣いているように聞こえる。
「あれから、全然、僕に触らなくなった」
 違う。
 触れたかった。   
 いつも、流に触れたかった。
 玲が言葉を探している間に、流が独り言のように喋り続ける。
「なかなか会いにきてくれないし。会っても、よそよそしい。僕の知ってるレイちゃんはいなくなった」
「違う」
 思いがけない言葉に、玲は言葉より先に、首を横に振った。
 玲の言葉が聞こえていないように、流は喋り続ける。
「言葉では揶揄うのに、触れるだけで避ける。会うたびに、もう次はないって」
「違う」
 大きな声で、遮った。
「ずっと、触れたかった」
 どう言ったらいいのか、分からない。
 あの日からの長い時間を、どう説明したらいいのか。
 ただ同じ言葉を玲はくり返した。
「違うんだ。俺は、ずっと。ずっと触れたかった」
 泣くのを我慢していた小学生の流のように、満月の光の中で、玲を見上げていた。
 いきなり、流の両手が玲の首に回って、抱きついてきた。
 流の体重を乗せられて、玲の体は壁にもたれかかる。
 流の体の震えだけが伝わってきた。


 ずいぶん長い時間、じっとしていた気がする。
 混乱していた。流の重みが現実だと玲に知らせている。
 流の髪の湿気がしっとりと玲のシャツに移る。ほのかに立ち昇ってくる流の体の匂いは、同じ石鹸のはずなのに、全く違うものに感じる。
 あの日を境に、あっという間に大人になった流に強く惹かれた。
 最初は無自覚だったその気持ちに、玲が気づいた頃には、流との距離はどんどん遠くなっていた。
「お前、俺を許してくれるのか」
 ずっと、聞きたかった。
 感情を隠すことを覚えた流が、何を考えているのか、ずっと分からなかった。
 流は一度も両親のことをはっきりと言ったことがない。ましてや、玲を責めたこともない。
 会いに来れば、拒みはしないが、本当は恨んでいるのではないかと、ずっと考えていた。
 あの夜、玲がけがをすることがなければ、少なくとも、父親がいなくなることはなかった。母親に対する思いも、玲が関係していなければ、もっと違っていたかもしれない。
 玲の存在が、流のあれからを変えてしまった気がしていた。
「なんだよ。それ」
 玲の胸の上で、流の声がする。
 言葉は乱暴だったが、幼さが加わって、むしろ全身にまとわりつく。
「レイちゃんは、ずっとそうだ」
 ぽとりと小石を落とすように、小さな声で流が呟いた。
 えっと、声が出た。 
「レイちゃんは、ずっと、自分に責任があると思ってる」
「それは」
「僕が親に捨てられて、かわいそうだから、来る」
 流の声がだんだんと小さくなって、掠れてくる。
「そうじゃない」
 慌てて大きな声で否定すると、流の体がぴくりと揺れた。
 確かに、自分のせいだと感じて、流が心配だった。でも、それだけで来ていたわけではない。
「いつまで経っても、幼馴染の弟でしかない」
 それだけの関係でいいと諦めていたのは、怖かったからだ。 
 ずっと聞きたかった。流が、どう思っているのか。
 でも、玲の方から聞く勇気はなかった。
 幼馴染としての流まで失いたくなかったから。
 流を失うくらいなら、生殺しのような時間も、耐える価値があった。
「玲が来るのを、いつも待ってた」
 知っている。
 流は、いつも玲を待っていた。はっきりと口に出すことはなかったが、それはわかっていた。
「でも、玲はそこから進まない」
 そう言うと、流が顔を上げて、玲を下から見つめた。
 泣いていないのに、もう泣いているように見える表情に、息が止まった。
「怖かった。失いたくなくて、だから」
 絞り出すように出した玲の言葉は、掠れて、語尾が消えた。
 俯いた流のまつ毛が影を作る。
 形のいい唇がかすかに開いた。
「ちゃんと、言え」
 流にここまで言わせて、やっと言う覚悟ができた。
「ずっと、好きだった」
 流の唇がぎゅっと固く結ばれて、小さな声が漏れた。
「玲。遅いよ」
 本当に遅すぎる。何年、遠回りをしたのだろう。
「ごめん」
 流の体を引き寄せて、玲はしっかりと抱きしめた。
 子供の頃とは違う、流の大人の骨格と体温の高さに玲は震えた。
 お互いの鼓動が重なって、どちらのものか、わからなくなる。

 
 傷のある右手で、流の小さな丸い頭を支え、左手で頬を撫でた。
 流の白い肌がうっすらとピンク色に染まっていく。
 ゆっくりと閉じられた目の長いまつ毛が月の光で影を作る。
 流の赤い唇が誘っている。
 引き寄せられるように、流の唇に自分の唇を重ねながら、窓の方に視線を向けた。
 満月が少し庭の樹にかかり始めていた。
 額の傷がちりっと痛む。
 あの月も、ずっと残る傷も、なくなりはしない。ずっと二人の間に存在する。
 それでも、痛みはすぐ消える。
 月は、規則正しく巡っているだけだとわかっている。
 その日を一緒に過ごす相手がいれば、それで良かったのだと今になって気づいた。
 古びた窓ガラスを通して見える月は、少し歪んでいた。




みんなのリアクション

「誰が、布団くっつけてんだ」
 気づくと、流がタオルで髪を拭きながら、立っていた。
「一つで良かったのに」
 わざと、呟いてみた。予想通り、一瞬だけ、流がとことん嫌そうな顔をする。
 今日は無視されなかっただけ、ましな方だと思う。
 窓辺に座り込んでいた玲は流を見上げた。
 いつも通り、へらへらと笑って流を見られているのか、自信がなかった。
 年下の幼馴染を揶揄う、お調子者のばかな男に見えているだろうか。そんな男なら、気まぐれに遊び来ても、少々際どい冗談を言っても、許される。
 こうして別の顔を見せていれば、このまま、そばにいられる。それでいいと、今までそう思って、やってきた。
 窓は開いたままだ。満月はしっかり見えている。
 流が黙って、部屋の灯りを落とした。無言の不機嫌を感じる。
 古びた小さな豆球だけの薄暗くなった部屋に、満月の光が差し込んで、余計に目立つ。
 玲の前に立った流は、感情の見えない目で見下ろしていた。
「窓、閉めろよ。寒い」
「きれいな満月だ」
「寒い。閉めろ」
「もう少し、いいだろ」
 少し意地になっていた。
 いつもなら、はいはいと笑って窓を閉めていたが、なぜか今日は月を見ていたいと思ってしまった。
 今日はどうかしている。
 坂道を息を切らして上がった時から、いつもと違う。
 何かがあったわけではない。
 強いて言うなら、あの日の月を思い出してしまったせいかもしれない。
 あの日も、今日のように月がいつもより大きく近く見えた。そのせいで、あの日が鮮やかに着色し直されたように甦ってきて、流を諦めきれない自分が顔を出している。
 濡れた髪と少し上気した顔の流は、無表情で見下ろしているにも関わらず、玲を誘っているように見えて、じっと見つめてしまった。
 だから、窓を閉めるタイミングを失った。
 ついに我慢できなくなったのか、流が大股で近づいてきた。
「閉めろって」
 流の薄い体が、ぶつかるように玲の体を乗り越えて、窓を乱暴にしめた。
 玲は膝の上に流をうけとめた。
 逃げる暇はなかった。
 窓際に座っているのだから、仕方がない。それに、どうせ、すぐに流の方から離れていく。
 それが、いつもの流のやり方だから、玲はじっと息を止めて待っていればよかった。
 今日は、なぜか、そのまま流が玲の膝に体重を乗せてきた。
 風呂上がりの流は体温が高く、薄いシャツを通しても、冷えた玲の体には熱いくらいに感じられる。
 その感覚は一瞬で全身に広がった。
「体冷えてる」
 流の声が、玲の膝に響いた。動かない流の洗い髪が目の前にあって、シャンプーの匂いがする。
 玲は、思わず息を止めた。
 大人になって、ここまで流が玲に体を預けたことはない。
 何をする気だ。
 そう思った瞬間、そのままの姿勢で、流が玲のシャツの袖をそろりとたくしあげた。
 反射的に腕を引いたが、流はしっかりと左手で玲の右腕を掴んでいた。
 右手の指先で傷跡に触れてくる。まるで、たった今ついた傷に触れるように、恐る恐る反応を確かめているようだ。
 流の長い指がなぞると、全身に電流が走った。
 この家の前で流と再会したあの日から、今まで、こんなことは一度もなかった。
 流の手で、体の中をかき混ぜられているようだ。
「そこ、触んな」
 思わず、情けない声が出た。
「どうして」
 感情の乗らない声で流が聞いた。
 いつもより低い声で冷静に聞かれると、一人慌てているのが滑稽に思えてくる。
 体を捩って抵抗を試みたが、あっさりと封じられた。
「だから、傷に触るな」
 普通に言ったつもりだったが、声が裏返る。
「もう痛くないんだろ」
「触るなって」
 今度は、子供が嫌がっているような声になってしまった。
 流は玲を横目で見上げて、揶揄うように尋ねてきた。
「今日は、 どうした」
 いつも仕掛けているのは、玲の方だった。
 わざわざ満月の夜に流の家を訪ねているのも、嫌がることを承知で揶揄うのも、玲の方で、それを流がいつも無表情でかわしていた。
 今日はどうしたと聞きたいのは、こっちの方だと、玲は奥歯を噛み締めた。
 おもちゃを指先で遊ぶように、流はゆるゆると玲の腕の傷を触っていた。
「やめろって」
 我慢できずに、大きな声が出た。
 一瞬、流の体がふわりと浮いた。
 離れてくれるのかと思ったら、今度は、両手でしっかりと玲の腕を掴んで、容赦なく流の体が擦り寄ってきた。
 逃げる暇も、言葉で制止する余裕もなかった。
 流の顔が、すぐ目の前にあった。幼い頃の面影がはっきりと見える。
 子供の頃と同じように、下から玲の目を覗き込むようにして、流は頼み事をする顔になった。
「だからさ。満月の日に来ないでよ。会いたくない」
 子供のような甘えた口調で言いながら、玲を見上げている。
 こんな言い方をする流は、子供の頃以来だ。
 この顔でこんなふうに言われると、だめだと言えなくて、結局、いいよと折れていた昔を思い出した。
 いきなり、あの頃に帰ったようで、返事に詰まった。
 流はため息をついて体を起こした。
「嫌がってるのは、知ってるだろ。お前、何しに来るんだ」
 また、流が感情の乗らない声に戻って、淡々と世間話をするように喋る。
 玲に尋ねているのに、いつもと同じように冷たく突き放していて、返事など求めていない。
 子供と大人とがくるくる入れ替わるような、このアンバランスな感じは不愉快で、なのに、どこか懐かしい心地よさがついてくる。
 流は、確かにこんな子供だった。
 賢くて、大人のような口をきいているかと思えば、子供らしい甘え方をしてくる。気まぐれで、つかみどころのない子供だった。めんどくさいと思っても、それが彼の魅力でもあった。
 あの日から、急に大人になってしまった流が、子供の頃に戻ったような気分になる。
 相変わらず、流の手が玲の腕を撫でていた。
 息ができない。
 心臓の鼓動が激しくて、胸が痛い。
 翻弄されている苛立たしさがあるのに、それをずっと待っていたような気持ちが湧き上がってくる。
 研ぎ澄まされていく感覚を逃すために、玲は言葉を捻り出した。
「お前はさ」
 その一言で黙ってしまった玲を横目で見て、流は聞こえていない顔になった。
 無視してくる流に煽られるように、つい、今まで聞かずにいたことを聞いた。
「知ってたのか。あの時、誰と行ったか」
「あの時って」
「お前の母親」
 流が手の動きを止めた。
 やっと息が継げたと思った途端、今度は、玲の首筋に流の右手がのびた。
「今、それ、聞くのか」
 体を引こうとする動きは、流の左手で止められた。
 触れられているところが熱い。流の長い指が絡みつくように、玲の首筋を捉えていた。触れると言うより、逃がさないように絡め取られているようだ。
 玲は、金縛りにあったように動けなくなった。
「転校してすぐ知ってたよ」
 まるで、昨日の出来事を報告するかのように、淡々と流は答える。
 玲を見つめたまま、世間話をする口調で、流が尋ねた。
「お前は。いつ、知った」
「退院した後、学校に行き始めて」
 こちらから聞いたのに、答えさせられた気分だった。
 流の目が、少し細くなる。
 怒っているのだと、すぐにわかった。子供の頃から、相手に吐き出すより前に、流はそういう表情をする。
「どうして」
 そう言いかけて、流は黙った。
 どうして、今まで何も言わなかったのか。
 そう聞きたかったのだろう。でも、それは。
「お前もだろ」
 声に出た。
 今まで、二人とも何も言わなかった。
 黙っていても、事実は事実だ。だけど、わざわざ口にはしたくなかった。言葉にしてしまえば、それは重さを持ってしまう。
 それは、流も同じだと思っていた。
 いきなり、流は手をはなし、体を起こして玲を見据えた。
「勝手に、わかったようなこと言うな」
 流は、そう言った。
 何に対してかは分からなかったが、流が怒っているのはわかった。
 怒っている理由がわからなくて、思考が停止した。思わず、言い訳めいた言葉が出た。
「お前も知っているだろうと思ったし、言う機会がなかったから」
 睨んだ顔のまま、しばらく流はじっと玲を見ていた。
 いつもの無表情じゃない。
 流の感情がはっきり見えていることに、玲はやっと気づいた。
 拗ねた時の癖で、流の唇がきつく結ばれている。
 子供の頃、よく見ていた表情だったと思い出した。
「お前はずっと勝手だよ」
 そっぽを向いて、また、感情の見えない顔で、そう呟かれた。
 近くに来たかと思ったら、急に遠くなる。
 このまま、離れていきそうで、玲は呼び止める言葉を探した。
「お前だって、俺の傷を見えないふりをしてたじゃないか」
 初めて流にそう言った。
 今まで、一度も指摘したことがないことだ。
 流の目がまた少し細くなる。微かに口元だけ笑ったように見えた。
 唐突に、流の人差し指が、玲の腕の傷に触れた。
「ここ」
「それから、ここも」
 玲の前髪を人差し指で持ち上げると、傷に触れた。
「親父がつけた傷だ」
 嬉しそうに言い、微笑む。
 不謹慎な態度にすら見えたその顔が、いきなり真顔になった。
「ずっと、残る」
 つぶやいた流の声は、怖いほど感情が見えない。玲を見つめる目もガラス玉のようだ。
 なのに、流の痛みが透けて見える。
 そのまま俯く流は、泣いているようにさえ見える。
 傷が久しぶりに疼いて、玲は顔を顰めて身を捩った。
 玲の傷は、いつも見えている。もう傷は癒えて、痕跡が残るだけだ。ただ、時々疼く。
 流の傷は見えていなくても、まだ生々しくそこにあった。
 冷静な顔しか見せない流だったが、それが玲にはどこか不安定に見え、その感覚がいつも拭えなかった。見えない傷から流れ続けているものがあったからだと、やっと玲は気づいた。
 だから、流の感情が見えてこないことに苛立っていた。
 辛いなら、辛いと言ってほしい。泣きたいなら、泣いてほしい。
 そう願っていたのだと思う。
 だけど、こんなふうに、流に言わせたかったわけではないと、玲は悟った。
 もう無かったことにしたかった。
 無邪気に一緒に遊んだあの頃に戻りたかっただけだ。
 ずっと玲の後ろをついてきた、あの頃の流を、もう一度、抱きしめたかった。
 どうしたら、よかったのだろう。
 感情がうまく整理できない。
 言葉が出てこない。
 やっぱり、自分から流には触れられなかった。
 ため息をついて、流が顔を上げた。
 流の唇がまた拗ねたように動いて、玲を睨みつけてくる。
 いきなり流は玲の腕の傷に唇を押し付けてきた。
 指先より温度が高くて、熱い。
 反射的に腕をひこうとしたが、流がしっかりと握って離さない。手首から肘の方へ、少しずつ唇は上がってくる。
 息が吸えなくなる。
 流の行動が読めなくて、振り回されていた。
「ふざけるな。やめろ。酔ってんのか」
 情けない声が出た。
 玲の言葉など耳に入っていないように、流は玲の腕に顔を埋めたままだ。
 本気で振りほどくつもりなら、それは可能だった。
 流より一回り大きな体と、毎日の肉体労働をする体力は、運動などしない華奢な流など相手にならないことは、はっきりわかっていた。
 なのに、動けなかった。
 今まで何もできなかった自分が、流を拒否するようなことなどできなかった。
 やっと顔を上げた流は、吐き捨てるように言った。
「酔ってるかもね。いつものように、なかったことにすればいい」
 流が怒っている。
 怒らせてしまったのに、流の感情が言葉に素直に出ているのは、本当に久しぶりで、それだけで玲は泣きそうになる。
 本音が口について出た。
「俺は、どうしたらよかったんだ」
 掠れた声で玲が呟いた。
 流の顔がゆっくり変化していく。
 泣きそうに歪んでいった。
 流の感情がはっきりと見える顔は何年ぶりだろう。
 子供の頃、こんなふうに泣き出しそうな流を宥めるには、抱きしめるしかなかった。
 いつから、それができなくなったか。
 あの日、この家の前で泣いていた流を抱きしめたきり、できなくなった。流が感情を表情に出さなくなったせいだ。   
 ずっと、この顔が見たかった。
 流の唇が震えていた。
「ルウ」
 子供の頃の呼び方が、一瞬で流を子供に戻した。
「レイちゃんは」
 絞り出すような声は、ほとんど泣いているように聞こえる。
「あれから、全然、僕に触らなくなった」
 違う。
 触れたかった。   
 いつも、流に触れたかった。
 玲が言葉を探している間に、流が独り言のように喋り続ける。
「なかなか会いにきてくれないし。会っても、よそよそしい。僕の知ってるレイちゃんはいなくなった」
「違う」
 思いがけない言葉に、玲は言葉より先に、首を横に振った。
 玲の言葉が聞こえていないように、流は喋り続ける。
「言葉では揶揄うのに、触れるだけで避ける。会うたびに、もう次はないって」
「違う」
 大きな声で、遮った。
「ずっと、触れたかった」
 どう言ったらいいのか、分からない。
 あの日からの長い時間を、どう説明したらいいのか。
 ただ同じ言葉を玲はくり返した。
「違うんだ。俺は、ずっと。ずっと触れたかった」
 泣くのを我慢していた小学生の流のように、満月の光の中で、玲を見上げていた。
 いきなり、流の両手が玲の首に回って、抱きついてきた。
 流の体重を乗せられて、玲の体は壁にもたれかかる。
 流の体の震えだけが伝わってきた。
 ずいぶん長い時間、じっとしていた気がする。
 混乱していた。流の重みが現実だと玲に知らせている。
 流の髪の湿気がしっとりと玲のシャツに移る。ほのかに立ち昇ってくる流の体の匂いは、同じ石鹸のはずなのに、全く違うものに感じる。
 あの日を境に、あっという間に大人になった流に強く惹かれた。
 最初は無自覚だったその気持ちに、玲が気づいた頃には、流との距離はどんどん遠くなっていた。
「お前、俺を許してくれるのか」
 ずっと、聞きたかった。
 感情を隠すことを覚えた流が、何を考えているのか、ずっと分からなかった。
 流は一度も両親のことをはっきりと言ったことがない。ましてや、玲を責めたこともない。
 会いに来れば、拒みはしないが、本当は恨んでいるのではないかと、ずっと考えていた。
 あの夜、玲がけがをすることがなければ、少なくとも、父親がいなくなることはなかった。母親に対する思いも、玲が関係していなければ、もっと違っていたかもしれない。
 玲の存在が、流のあれからを変えてしまった気がしていた。
「なんだよ。それ」
 玲の胸の上で、流の声がする。
 言葉は乱暴だったが、幼さが加わって、むしろ全身にまとわりつく。
「レイちゃんは、ずっとそうだ」
 ぽとりと小石を落とすように、小さな声で流が呟いた。
 えっと、声が出た。 
「レイちゃんは、ずっと、自分に責任があると思ってる」
「それは」
「僕が親に捨てられて、かわいそうだから、来る」
 流の声がだんだんと小さくなって、掠れてくる。
「そうじゃない」
 慌てて大きな声で否定すると、流の体がぴくりと揺れた。
 確かに、自分のせいだと感じて、流が心配だった。でも、それだけで来ていたわけではない。
「いつまで経っても、幼馴染の弟でしかない」
 それだけの関係でいいと諦めていたのは、怖かったからだ。 
 ずっと聞きたかった。流が、どう思っているのか。
 でも、玲の方から聞く勇気はなかった。
 幼馴染としての流まで失いたくなかったから。
 流を失うくらいなら、生殺しのような時間も、耐える価値があった。
「玲が来るのを、いつも待ってた」
 知っている。
 流は、いつも玲を待っていた。はっきりと口に出すことはなかったが、それはわかっていた。
「でも、玲はそこから進まない」
 そう言うと、流が顔を上げて、玲を下から見つめた。
 泣いていないのに、もう泣いているように見える表情に、息が止まった。
「怖かった。失いたくなくて、だから」
 絞り出すように出した玲の言葉は、掠れて、語尾が消えた。
 俯いた流のまつ毛が影を作る。
 形のいい唇がかすかに開いた。
「ちゃんと、言え」
 流にここまで言わせて、やっと言う覚悟ができた。
「ずっと、好きだった」
 流の唇がぎゅっと固く結ばれて、小さな声が漏れた。
「玲。遅いよ」
 本当に遅すぎる。何年、遠回りをしたのだろう。
「ごめん」
 流の体を引き寄せて、玲はしっかりと抱きしめた。
 子供の頃とは違う、流の大人の骨格と体温の高さに玲は震えた。
 お互いの鼓動が重なって、どちらのものか、わからなくなる。
 傷のある右手で、流の小さな丸い頭を支え、左手で頬を撫でた。
 流の白い肌がうっすらとピンク色に染まっていく。
 ゆっくりと閉じられた目の長いまつ毛が月の光で影を作る。
 流の赤い唇が誘っている。
 引き寄せられるように、流の唇に自分の唇を重ねながら、窓の方に視線を向けた。
 満月が少し庭の樹にかかり始めていた。
 額の傷がちりっと痛む。
 あの月も、ずっと残る傷も、なくなりはしない。ずっと二人の間に存在する。
 それでも、痛みはすぐ消える。
 月は、規則正しく巡っているだけだとわかっている。
 その日を一緒に過ごす相手がいれば、それで良かったのだと今になって気づいた。
 古びた窓ガラスを通して見える月は、少し歪んでいた。


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