歪む月
ー/ー「誰が、布団くっつけてんだ」
気づくと、流がタオルで髪を拭きながら、立っていた。
「一つで良かったのに」
わざと、呟いてみた。予想通り、一瞬だけ、流がとことん嫌そうな顔をする。
今日は無視されなかっただけ、ましな方だと思う。
窓辺に座り込んでいた玲は流を見上げた。
いつも通り、へらへらと笑って流を見られているのか、自信がなかった。
年下の幼馴染を揶揄う、お調子者のばかな男に見えているだろうか。そんな男なら、気まぐれに遊び来ても、少々際どい冗談を言っても、許される。
こうして別の顔を見せていれば、このまま、そばにいられる。それでいいと、今までそう思って、やってきた。
窓は開いたままだ。満月はしっかり見えている。
流が黙って、部屋の灯りを落とした。無言の不機嫌を感じる。
古びた小さな豆球だけの薄暗くなった部屋に、満月の光が差し込んで、余計に目立つ。
玲の前に立った流は、感情の見えない目で見下ろしていた。
「窓、閉めろよ。寒い」
「きれいな満月だ」
「寒い。閉めろ」
「もう少し、いいだろ」
少し意地になっていた。
いつもなら、はいはいと笑って窓を閉めていたが、なぜか今日は月を見ていたいと思ってしまった。
今日はどうかしている。
坂道を息を切らして上がった時から、いつもと違う。
何かがあったわけではない。
強いて言うなら、あの日の月を思い出してしまったせいかもしれない。
あの日も、今日のように月がいつもより大きく近く見えた。そのせいで、あの日が鮮やかに着色し直されたように甦ってきて、流を諦めきれない自分が顔を出している。
濡れた髪と少し上気した顔の流は、無表情で見下ろしているにも関わらず、玲を誘っているように見えて、じっと見つめてしまった。
だから、窓を閉めるタイミングを失った。
ついに我慢できなくなったのか、流が大股で近づいてきた。
「閉めろって」
流の薄い体が、ぶつかるように玲の体を乗り越えて、窓を乱暴にしめた。
玲は膝の上に流をうけとめた。
逃げる暇はなかった。
窓際に座っているのだから、仕方がない。それに、どうせ、すぐに流の方から離れていく。
それが、いつもの流のやり方だから、玲はじっと息を止めて待っていればよかった。
今日は、なぜか、そのまま流が玲の膝に体重を乗せてきた。
風呂上がりの流は体温が高く、薄いシャツを通しても、冷えた玲の体には熱いくらいに感じられる。
その感覚は一瞬で全身に広がった。
「体冷えてる」
流の声が、玲の膝に響いた。動かない流の洗い髪が目の前にあって、シャンプーの匂いがする。
玲は、思わず息を止めた。
大人になって、ここまで流が玲に体を預けたことはない。
何をする気だ。
そう思った瞬間、そのままの姿勢で、流が玲のシャツの袖をそろりとたくしあげた。
反射的に腕を引いたが、流はしっかりと左手で玲の右腕を掴んでいた。
右手の指先で傷跡に触れてくる。まるで、たった今ついた傷に触れるように、恐る恐る反応を確かめているようだ。
流の長い指がなぞると、全身に電流が走った。
この家の前で流と再会したあの日から、今まで、こんなことは一度もなかった。
流の手で、体の中をかき混ぜられているようだ。
「そこ、触んな」
思わず、情けない声が出た。
「どうして」
感情の乗らない声で流が聞いた。
いつもより低い声で冷静に聞かれると、一人慌てているのが滑稽に思えてくる。
体を捩って抵抗を試みたが、あっさりと封じられた。
「だから、傷に触るな」
普通に言ったつもりだったが、声が裏返る。
「もう痛くないんだろ」
「触るなって」
今度は、子供が嫌がっているような声になってしまった。
流は玲を横目で見上げて、揶揄うように尋ねてきた。
「今日は、 どうした」
いつも仕掛けているのは、玲の方だった。
わざわざ満月の夜に流の家を訪ねているのも、嫌がることを承知で揶揄うのも、玲の方で、それを流がいつも無表情でかわしていた。
今日はどうしたと聞きたいのは、こっちの方だと、玲は奥歯を噛み締めた。
おもちゃを指先で遊ぶように、流はゆるゆると玲の腕の傷を触っていた。
「やめろって」
我慢できずに、大きな声が出た。
一瞬、流の体がふわりと浮いた。
離れてくれるのかと思ったら、今度は、両手でしっかりと玲の腕を掴んで、容赦なく流の体が擦り寄ってきた。
逃げる暇も、言葉で制止する余裕もなかった。
流の顔が、すぐ目の前にあった。幼い頃の面影がはっきりと見える。
子供の頃と同じように、下から玲の目を覗き込むようにして、流は頼み事をする顔になった。
「だからさ。満月の日に来ないでよ。会いたくない」
子供のような甘えた口調で言いながら、玲を見上げている。
こんな言い方をする流は、子供の頃以来だ。
この顔でこんなふうに言われると、だめだと言えなくて、結局、いいよと折れていた昔を思い出した。
いきなり、あの頃に帰ったようで、返事に詰まった。
流はため息をついて体を起こした。
「嫌がってるのは、知ってるだろ。お前、何しに来るんだ」
また、流が感情の乗らない声に戻って、淡々と世間話をするように喋る。
玲に尋ねているのに、いつもと同じように冷たく突き放していて、返事など求めていない。
子供と大人とがくるくる入れ替わるような、このアンバランスな感じは不愉快で、なのに、どこか懐かしい心地よさがついてくる。
流は、確かにこんな子供だった。
賢くて、大人のような口をきいているかと思えば、子供らしい甘え方をしてくる。気まぐれで、つかみどころのない子供だった。めんどくさいと思っても、それが彼の魅力でもあった。
あの日から、急に大人になってしまった流が、子供の頃に戻ったような気分になる。
相変わらず、流の手が玲の腕を撫でていた。
息ができない。
心臓の鼓動が激しくて、胸が痛い。
翻弄されている苛立たしさがあるのに、それをずっと待っていたような気持ちが湧き上がってくる。
研ぎ澄まされていく感覚を逃すために、玲は言葉を捻り出した。
「お前はさ」
その一言で黙ってしまった玲を横目で見て、流は聞こえていない顔になった。
無視してくる流に煽られるように、つい、今まで聞かずにいたことを聞いた。
「知ってたのか。あの時、誰と行ったか」
「あの時って」
「お前の母親」
流が手の動きを止めた。
やっと息が継げたと思った途端、今度は、玲の首筋に流の右手がのびた。
「今、それ、聞くのか」
体を引こうとする動きは、流の左手で止められた。
触れられているところが熱い。流の長い指が絡みつくように、玲の首筋を捉えていた。触れると言うより、逃がさないように絡め取られているようだ。
玲は、金縛りにあったように動けなくなった。
「転校してすぐ知ってたよ」
まるで、昨日の出来事を報告するかのように、淡々と流は答える。
玲を見つめたまま、世間話をする口調で、流が尋ねた。
「お前は。いつ、知った」
「退院した後、学校に行き始めて」
こちらから聞いたのに、答えさせられた気分だった。
流の目が、少し細くなる。
怒っているのだと、すぐにわかった。子供の頃から、相手に吐き出すより前に、流はそういう表情をする。
「どうして」
そう言いかけて、流は黙った。
どうして、今まで何も言わなかったのか。
そう聞きたかったのだろう。でも、それは。
「お前もだろ」
声に出た。
今まで、二人とも何も言わなかった。
黙っていても、事実は事実だ。だけど、わざわざ口にはしたくなかった。言葉にしてしまえば、それは重さを持ってしまう。
それは、流も同じだと思っていた。
いきなり、流は手をはなし、体を起こして玲を見据えた。
「勝手に、わかったようなこと言うな」
流は、そう言った。
何に対してかは分からなかったが、流が怒っているのはわかった。
怒っている理由がわからなくて、思考が停止した。思わず、言い訳めいた言葉が出た。
「お前も知っているだろうと思ったし、言う機会がなかったから」
睨んだ顔のまま、しばらく流はじっと玲を見ていた。
いつもの無表情じゃない。
流の感情がはっきり見えていることに、玲はやっと気づいた。
拗ねた時の癖で、流の唇がきつく結ばれている。
子供の頃、よく見ていた表情だったと思い出した。
「お前はずっと勝手だよ」
そっぽを向いて、また、感情の見えない顔で、そう呟かれた。
近くに来たかと思ったら、急に遠くなる。
このまま、離れていきそうで、玲は呼び止める言葉を探した。
「お前だって、俺の傷を見えないふりをしてたじゃないか」
初めて流にそう言った。
今まで、一度も指摘したことがないことだ。
流の目がまた少し細くなる。微かに口元だけ笑ったように見えた。
唐突に、流の人差し指が、玲の腕の傷に触れた。
「ここ」
「それから、ここも」
玲の前髪を人差し指で持ち上げると、傷に触れた。
「親父がつけた傷だ」
嬉しそうに言い、微笑む。
不謹慎な態度にすら見えたその顔が、いきなり真顔になった。
「ずっと、残る」
つぶやいた流の声は、怖いほど感情が見えない。玲を見つめる目もガラス玉のようだ。
なのに、流の痛みが透けて見える。
そのまま俯く流は、泣いているようにさえ見える。
傷が久しぶりに疼いて、玲は顔を顰めて身を捩った。
玲の傷は、いつも見えている。もう傷は癒えて、痕跡が残るだけだ。ただ、時々疼く。
流の傷は見えていなくても、まだ生々しくそこにあった。
冷静な顔しか見せない流だったが、それが玲にはどこか不安定に見え、その感覚がいつも拭えなかった。見えない傷から流れ続けているものがあったからだと、やっと玲は気づいた。
だから、流の感情が見えてこないことに苛立っていた。
辛いなら、辛いと言ってほしい。泣きたいなら、泣いてほしい。
そう願っていたのだと思う。
だけど、こんなふうに、流に言わせたかったわけではないと、玲は悟った。
もう無かったことにしたかった。
無邪気に一緒に遊んだあの頃に戻りたかっただけだ。
ずっと玲の後ろをついてきた、あの頃の流を、もう一度、抱きしめたかった。
どうしたら、よかったのだろう。
感情がうまく整理できない。
言葉が出てこない。
やっぱり、自分から流には触れられなかった。
ため息をついて、流が顔を上げた。
流の唇がまた拗ねたように動いて、玲を睨みつけてくる。
いきなり流は玲の腕の傷に唇を押し付けてきた。
指先より温度が高くて、熱い。
反射的に腕をひこうとしたが、流がしっかりと握って離さない。手首から肘の方へ、少しずつ唇は上がってくる。
息が吸えなくなる。
流の行動が読めなくて、振り回されていた。
「ふざけるな。やめろ。酔ってんのか」
情けない声が出た。
玲の言葉など耳に入っていないように、流は玲の腕に顔を埋めたままだ。
本気で振りほどくつもりなら、それは可能だった。
流より一回り大きな体と、毎日の肉体労働をする体力は、運動などしない華奢な流など相手にならないことは、はっきりわかっていた。
なのに、動けなかった。
今まで何もできなかった自分が、流を拒否するようなことなどできなかった。
やっと顔を上げた流は、吐き捨てるように言った。
「酔ってるかもね。いつものように、なかったことにすればいい」
流が怒っている。
怒らせてしまったのに、流の感情が言葉に素直に出ているのは、本当に久しぶりで、それだけで玲は泣きそうになる。
本音が口について出た。
「俺は、どうしたらよかったんだ」
掠れた声で玲が呟いた。
流の顔がゆっくり変化していく。
泣きそうに歪んでいった。
流の感情がはっきりと見える顔は何年ぶりだろう。
子供の頃、こんなふうに泣き出しそうな流を宥めるには、抱きしめるしかなかった。
いつから、それができなくなったか。
あの日、この家の前で泣いていた流を抱きしめたきり、できなくなった。流が感情を表情に出さなくなったせいだ。
ずっと、この顔が見たかった。
流の唇が震えていた。
「ルウ」
子供の頃の呼び方が、一瞬で流を子供に戻した。
「レイちゃんは」
絞り出すような声は、ほとんど泣いているように聞こえる。
「あれから、全然、僕に触らなくなった」
違う。
触れたかった。
いつも、流に触れたかった。
玲が言葉を探している間に、流が独り言のように喋り続ける。
「なかなか会いにきてくれないし。会っても、よそよそしい。僕の知ってるレイちゃんはいなくなった」
「違う」
思いがけない言葉に、玲は言葉より先に、首を横に振った。
玲の言葉が聞こえていないように、流は喋り続ける。
「言葉では揶揄うのに、触れるだけで避ける。会うたびに、もう次はないって」
「違う」
大きな声で、遮った。
「ずっと、触れたかった」
どう言ったらいいのか、分からない。
あの日からの長い時間を、どう説明したらいいのか。
ただ同じ言葉を玲はくり返した。
「違うんだ。俺は、ずっと。ずっと触れたかった」
泣くのを我慢していた小学生の流のように、満月の光の中で、玲を見上げていた。
いきなり、流の両手が玲の首に回って、抱きついてきた。
流の体重を乗せられて、玲の体は壁にもたれかかる。
流の体の震えだけが伝わってきた。
ずいぶん長い時間、じっとしていた気がする。
混乱していた。流の重みが現実だと玲に知らせている。
流の髪の湿気がしっとりと玲のシャツに移る。ほのかに立ち昇ってくる流の体の匂いは、同じ石鹸のはずなのに、全く違うものに感じる。
あの日を境に、あっという間に大人になった流に強く惹かれた。
最初は無自覚だったその気持ちに、玲が気づいた頃には、流との距離はどんどん遠くなっていた。
「お前、俺を許してくれるのか」
ずっと、聞きたかった。
感情を隠すことを覚えた流が、何を考えているのか、ずっと分からなかった。
流は一度も両親のことをはっきりと言ったことがない。ましてや、玲を責めたこともない。
会いに来れば、拒みはしないが、本当は恨んでいるのではないかと、ずっと考えていた。
あの夜、玲がけがをすることがなければ、少なくとも、父親がいなくなることはなかった。母親に対する思いも、玲が関係していなければ、もっと違っていたかもしれない。
玲の存在が、流のあれからを変えてしまった気がしていた。
「なんだよ。それ」
玲の胸の上で、流の声がする。
言葉は乱暴だったが、幼さが加わって、むしろ全身にまとわりつく。
「レイちゃんは、ずっとそうだ」
ぽとりと小石を落とすように、小さな声で流が呟いた。
えっと、声が出た。
「レイちゃんは、ずっと、自分に責任があると思ってる」
「それは」
「僕が親に捨てられて、かわいそうだから、来る」
流の声がだんだんと小さくなって、掠れてくる。
「そうじゃない」
慌てて大きな声で否定すると、流の体がぴくりと揺れた。
確かに、自分のせいだと感じて、流が心配だった。でも、それだけで来ていたわけではない。
「いつまで経っても、幼馴染の弟でしかない」
それだけの関係でいいと諦めていたのは、怖かったからだ。
ずっと聞きたかった。流が、どう思っているのか。
でも、玲の方から聞く勇気はなかった。
幼馴染としての流まで失いたくなかったから。
流を失うくらいなら、生殺しのような時間も、耐える価値があった。
「玲が来るのを、いつも待ってた」
知っている。
流は、いつも玲を待っていた。はっきりと口に出すことはなかったが、それはわかっていた。
「でも、玲はそこから進まない」
そう言うと、流が顔を上げて、玲を下から見つめた。
泣いていないのに、もう泣いているように見える表情に、息が止まった。
「怖かった。失いたくなくて、だから」
絞り出すように出した玲の言葉は、掠れて、語尾が消えた。
俯いた流のまつ毛が影を作る。
形のいい唇がかすかに開いた。
「ちゃんと、言え」
流にここまで言わせて、やっと言う覚悟ができた。
「ずっと、好きだった」
流の唇がぎゅっと固く結ばれて、小さな声が漏れた。
「玲。遅いよ」
本当に遅すぎる。何年、遠回りをしたのだろう。
「ごめん」
流の体を引き寄せて、玲はしっかりと抱きしめた。
子供の頃とは違う、流の大人の骨格と体温の高さに玲は震えた。
お互いの鼓動が重なって、どちらのものか、わからなくなる。
傷のある右手で、流の小さな丸い頭を支え、左手で頬を撫でた。
流の白い肌がうっすらとピンク色に染まっていく。
ゆっくりと閉じられた目の長いまつ毛が月の光で影を作る。
流の赤い唇が誘っている。
引き寄せられるように、流の唇に自分の唇を重ねながら、窓の方に視線を向けた。
満月が少し庭の樹にかかり始めていた。
額の傷がちりっと痛む。
あの月も、ずっと残る傷も、なくなりはしない。ずっと二人の間に存在する。
それでも、痛みはすぐ消える。
月は、規則正しく巡っているだけだとわかっている。
その日を一緒に過ごす相手がいれば、それで良かったのだと今になって気づいた。
古びた窓ガラスを通して見える月は、少し歪んでいた。
気づくと、流がタオルで髪を拭きながら、立っていた。
「一つで良かったのに」
わざと、呟いてみた。予想通り、一瞬だけ、流がとことん嫌そうな顔をする。
今日は無視されなかっただけ、ましな方だと思う。
窓辺に座り込んでいた玲は流を見上げた。
いつも通り、へらへらと笑って流を見られているのか、自信がなかった。
年下の幼馴染を揶揄う、お調子者のばかな男に見えているだろうか。そんな男なら、気まぐれに遊び来ても、少々際どい冗談を言っても、許される。
こうして別の顔を見せていれば、このまま、そばにいられる。それでいいと、今までそう思って、やってきた。
窓は開いたままだ。満月はしっかり見えている。
流が黙って、部屋の灯りを落とした。無言の不機嫌を感じる。
古びた小さな豆球だけの薄暗くなった部屋に、満月の光が差し込んで、余計に目立つ。
玲の前に立った流は、感情の見えない目で見下ろしていた。
「窓、閉めろよ。寒い」
「きれいな満月だ」
「寒い。閉めろ」
「もう少し、いいだろ」
少し意地になっていた。
いつもなら、はいはいと笑って窓を閉めていたが、なぜか今日は月を見ていたいと思ってしまった。
今日はどうかしている。
坂道を息を切らして上がった時から、いつもと違う。
何かがあったわけではない。
強いて言うなら、あの日の月を思い出してしまったせいかもしれない。
あの日も、今日のように月がいつもより大きく近く見えた。そのせいで、あの日が鮮やかに着色し直されたように甦ってきて、流を諦めきれない自分が顔を出している。
濡れた髪と少し上気した顔の流は、無表情で見下ろしているにも関わらず、玲を誘っているように見えて、じっと見つめてしまった。
だから、窓を閉めるタイミングを失った。
ついに我慢できなくなったのか、流が大股で近づいてきた。
「閉めろって」
流の薄い体が、ぶつかるように玲の体を乗り越えて、窓を乱暴にしめた。
玲は膝の上に流をうけとめた。
逃げる暇はなかった。
窓際に座っているのだから、仕方がない。それに、どうせ、すぐに流の方から離れていく。
それが、いつもの流のやり方だから、玲はじっと息を止めて待っていればよかった。
今日は、なぜか、そのまま流が玲の膝に体重を乗せてきた。
風呂上がりの流は体温が高く、薄いシャツを通しても、冷えた玲の体には熱いくらいに感じられる。
その感覚は一瞬で全身に広がった。
「体冷えてる」
流の声が、玲の膝に響いた。動かない流の洗い髪が目の前にあって、シャンプーの匂いがする。
玲は、思わず息を止めた。
大人になって、ここまで流が玲に体を預けたことはない。
何をする気だ。
そう思った瞬間、そのままの姿勢で、流が玲のシャツの袖をそろりとたくしあげた。
反射的に腕を引いたが、流はしっかりと左手で玲の右腕を掴んでいた。
右手の指先で傷跡に触れてくる。まるで、たった今ついた傷に触れるように、恐る恐る反応を確かめているようだ。
流の長い指がなぞると、全身に電流が走った。
この家の前で流と再会したあの日から、今まで、こんなことは一度もなかった。
流の手で、体の中をかき混ぜられているようだ。
「そこ、触んな」
思わず、情けない声が出た。
「どうして」
感情の乗らない声で流が聞いた。
いつもより低い声で冷静に聞かれると、一人慌てているのが滑稽に思えてくる。
体を捩って抵抗を試みたが、あっさりと封じられた。
「だから、傷に触るな」
普通に言ったつもりだったが、声が裏返る。
「もう痛くないんだろ」
「触るなって」
今度は、子供が嫌がっているような声になってしまった。
流は玲を横目で見上げて、揶揄うように尋ねてきた。
「今日は、 どうした」
いつも仕掛けているのは、玲の方だった。
わざわざ満月の夜に流の家を訪ねているのも、嫌がることを承知で揶揄うのも、玲の方で、それを流がいつも無表情でかわしていた。
今日はどうしたと聞きたいのは、こっちの方だと、玲は奥歯を噛み締めた。
おもちゃを指先で遊ぶように、流はゆるゆると玲の腕の傷を触っていた。
「やめろって」
我慢できずに、大きな声が出た。
一瞬、流の体がふわりと浮いた。
離れてくれるのかと思ったら、今度は、両手でしっかりと玲の腕を掴んで、容赦なく流の体が擦り寄ってきた。
逃げる暇も、言葉で制止する余裕もなかった。
流の顔が、すぐ目の前にあった。幼い頃の面影がはっきりと見える。
子供の頃と同じように、下から玲の目を覗き込むようにして、流は頼み事をする顔になった。
「だからさ。満月の日に来ないでよ。会いたくない」
子供のような甘えた口調で言いながら、玲を見上げている。
こんな言い方をする流は、子供の頃以来だ。
この顔でこんなふうに言われると、だめだと言えなくて、結局、いいよと折れていた昔を思い出した。
いきなり、あの頃に帰ったようで、返事に詰まった。
流はため息をついて体を起こした。
「嫌がってるのは、知ってるだろ。お前、何しに来るんだ」
また、流が感情の乗らない声に戻って、淡々と世間話をするように喋る。
玲に尋ねているのに、いつもと同じように冷たく突き放していて、返事など求めていない。
子供と大人とがくるくる入れ替わるような、このアンバランスな感じは不愉快で、なのに、どこか懐かしい心地よさがついてくる。
流は、確かにこんな子供だった。
賢くて、大人のような口をきいているかと思えば、子供らしい甘え方をしてくる。気まぐれで、つかみどころのない子供だった。めんどくさいと思っても、それが彼の魅力でもあった。
あの日から、急に大人になってしまった流が、子供の頃に戻ったような気分になる。
相変わらず、流の手が玲の腕を撫でていた。
息ができない。
心臓の鼓動が激しくて、胸が痛い。
翻弄されている苛立たしさがあるのに、それをずっと待っていたような気持ちが湧き上がってくる。
研ぎ澄まされていく感覚を逃すために、玲は言葉を捻り出した。
「お前はさ」
その一言で黙ってしまった玲を横目で見て、流は聞こえていない顔になった。
無視してくる流に煽られるように、つい、今まで聞かずにいたことを聞いた。
「知ってたのか。あの時、誰と行ったか」
「あの時って」
「お前の母親」
流が手の動きを止めた。
やっと息が継げたと思った途端、今度は、玲の首筋に流の右手がのびた。
「今、それ、聞くのか」
体を引こうとする動きは、流の左手で止められた。
触れられているところが熱い。流の長い指が絡みつくように、玲の首筋を捉えていた。触れると言うより、逃がさないように絡め取られているようだ。
玲は、金縛りにあったように動けなくなった。
「転校してすぐ知ってたよ」
まるで、昨日の出来事を報告するかのように、淡々と流は答える。
玲を見つめたまま、世間話をする口調で、流が尋ねた。
「お前は。いつ、知った」
「退院した後、学校に行き始めて」
こちらから聞いたのに、答えさせられた気分だった。
流の目が、少し細くなる。
怒っているのだと、すぐにわかった。子供の頃から、相手に吐き出すより前に、流はそういう表情をする。
「どうして」
そう言いかけて、流は黙った。
どうして、今まで何も言わなかったのか。
そう聞きたかったのだろう。でも、それは。
「お前もだろ」
声に出た。
今まで、二人とも何も言わなかった。
黙っていても、事実は事実だ。だけど、わざわざ口にはしたくなかった。言葉にしてしまえば、それは重さを持ってしまう。
それは、流も同じだと思っていた。
いきなり、流は手をはなし、体を起こして玲を見据えた。
「勝手に、わかったようなこと言うな」
流は、そう言った。
何に対してかは分からなかったが、流が怒っているのはわかった。
怒っている理由がわからなくて、思考が停止した。思わず、言い訳めいた言葉が出た。
「お前も知っているだろうと思ったし、言う機会がなかったから」
睨んだ顔のまま、しばらく流はじっと玲を見ていた。
いつもの無表情じゃない。
流の感情がはっきり見えていることに、玲はやっと気づいた。
拗ねた時の癖で、流の唇がきつく結ばれている。
子供の頃、よく見ていた表情だったと思い出した。
「お前はずっと勝手だよ」
そっぽを向いて、また、感情の見えない顔で、そう呟かれた。
近くに来たかと思ったら、急に遠くなる。
このまま、離れていきそうで、玲は呼び止める言葉を探した。
「お前だって、俺の傷を見えないふりをしてたじゃないか」
初めて流にそう言った。
今まで、一度も指摘したことがないことだ。
流の目がまた少し細くなる。微かに口元だけ笑ったように見えた。
唐突に、流の人差し指が、玲の腕の傷に触れた。
「ここ」
「それから、ここも」
玲の前髪を人差し指で持ち上げると、傷に触れた。
「親父がつけた傷だ」
嬉しそうに言い、微笑む。
不謹慎な態度にすら見えたその顔が、いきなり真顔になった。
「ずっと、残る」
つぶやいた流の声は、怖いほど感情が見えない。玲を見つめる目もガラス玉のようだ。
なのに、流の痛みが透けて見える。
そのまま俯く流は、泣いているようにさえ見える。
傷が久しぶりに疼いて、玲は顔を顰めて身を捩った。
玲の傷は、いつも見えている。もう傷は癒えて、痕跡が残るだけだ。ただ、時々疼く。
流の傷は見えていなくても、まだ生々しくそこにあった。
冷静な顔しか見せない流だったが、それが玲にはどこか不安定に見え、その感覚がいつも拭えなかった。見えない傷から流れ続けているものがあったからだと、やっと玲は気づいた。
だから、流の感情が見えてこないことに苛立っていた。
辛いなら、辛いと言ってほしい。泣きたいなら、泣いてほしい。
そう願っていたのだと思う。
だけど、こんなふうに、流に言わせたかったわけではないと、玲は悟った。
もう無かったことにしたかった。
無邪気に一緒に遊んだあの頃に戻りたかっただけだ。
ずっと玲の後ろをついてきた、あの頃の流を、もう一度、抱きしめたかった。
どうしたら、よかったのだろう。
感情がうまく整理できない。
言葉が出てこない。
やっぱり、自分から流には触れられなかった。
ため息をついて、流が顔を上げた。
流の唇がまた拗ねたように動いて、玲を睨みつけてくる。
いきなり流は玲の腕の傷に唇を押し付けてきた。
指先より温度が高くて、熱い。
反射的に腕をひこうとしたが、流がしっかりと握って離さない。手首から肘の方へ、少しずつ唇は上がってくる。
息が吸えなくなる。
流の行動が読めなくて、振り回されていた。
「ふざけるな。やめろ。酔ってんのか」
情けない声が出た。
玲の言葉など耳に入っていないように、流は玲の腕に顔を埋めたままだ。
本気で振りほどくつもりなら、それは可能だった。
流より一回り大きな体と、毎日の肉体労働をする体力は、運動などしない華奢な流など相手にならないことは、はっきりわかっていた。
なのに、動けなかった。
今まで何もできなかった自分が、流を拒否するようなことなどできなかった。
やっと顔を上げた流は、吐き捨てるように言った。
「酔ってるかもね。いつものように、なかったことにすればいい」
流が怒っている。
怒らせてしまったのに、流の感情が言葉に素直に出ているのは、本当に久しぶりで、それだけで玲は泣きそうになる。
本音が口について出た。
「俺は、どうしたらよかったんだ」
掠れた声で玲が呟いた。
流の顔がゆっくり変化していく。
泣きそうに歪んでいった。
流の感情がはっきりと見える顔は何年ぶりだろう。
子供の頃、こんなふうに泣き出しそうな流を宥めるには、抱きしめるしかなかった。
いつから、それができなくなったか。
あの日、この家の前で泣いていた流を抱きしめたきり、できなくなった。流が感情を表情に出さなくなったせいだ。
ずっと、この顔が見たかった。
流の唇が震えていた。
「ルウ」
子供の頃の呼び方が、一瞬で流を子供に戻した。
「レイちゃんは」
絞り出すような声は、ほとんど泣いているように聞こえる。
「あれから、全然、僕に触らなくなった」
違う。
触れたかった。
いつも、流に触れたかった。
玲が言葉を探している間に、流が独り言のように喋り続ける。
「なかなか会いにきてくれないし。会っても、よそよそしい。僕の知ってるレイちゃんはいなくなった」
「違う」
思いがけない言葉に、玲は言葉より先に、首を横に振った。
玲の言葉が聞こえていないように、流は喋り続ける。
「言葉では揶揄うのに、触れるだけで避ける。会うたびに、もう次はないって」
「違う」
大きな声で、遮った。
「ずっと、触れたかった」
どう言ったらいいのか、分からない。
あの日からの長い時間を、どう説明したらいいのか。
ただ同じ言葉を玲はくり返した。
「違うんだ。俺は、ずっと。ずっと触れたかった」
泣くのを我慢していた小学生の流のように、満月の光の中で、玲を見上げていた。
いきなり、流の両手が玲の首に回って、抱きついてきた。
流の体重を乗せられて、玲の体は壁にもたれかかる。
流の体の震えだけが伝わってきた。
ずいぶん長い時間、じっとしていた気がする。
混乱していた。流の重みが現実だと玲に知らせている。
流の髪の湿気がしっとりと玲のシャツに移る。ほのかに立ち昇ってくる流の体の匂いは、同じ石鹸のはずなのに、全く違うものに感じる。
あの日を境に、あっという間に大人になった流に強く惹かれた。
最初は無自覚だったその気持ちに、玲が気づいた頃には、流との距離はどんどん遠くなっていた。
「お前、俺を許してくれるのか」
ずっと、聞きたかった。
感情を隠すことを覚えた流が、何を考えているのか、ずっと分からなかった。
流は一度も両親のことをはっきりと言ったことがない。ましてや、玲を責めたこともない。
会いに来れば、拒みはしないが、本当は恨んでいるのではないかと、ずっと考えていた。
あの夜、玲がけがをすることがなければ、少なくとも、父親がいなくなることはなかった。母親に対する思いも、玲が関係していなければ、もっと違っていたかもしれない。
玲の存在が、流のあれからを変えてしまった気がしていた。
「なんだよ。それ」
玲の胸の上で、流の声がする。
言葉は乱暴だったが、幼さが加わって、むしろ全身にまとわりつく。
「レイちゃんは、ずっとそうだ」
ぽとりと小石を落とすように、小さな声で流が呟いた。
えっと、声が出た。
「レイちゃんは、ずっと、自分に責任があると思ってる」
「それは」
「僕が親に捨てられて、かわいそうだから、来る」
流の声がだんだんと小さくなって、掠れてくる。
「そうじゃない」
慌てて大きな声で否定すると、流の体がぴくりと揺れた。
確かに、自分のせいだと感じて、流が心配だった。でも、それだけで来ていたわけではない。
「いつまで経っても、幼馴染の弟でしかない」
それだけの関係でいいと諦めていたのは、怖かったからだ。
ずっと聞きたかった。流が、どう思っているのか。
でも、玲の方から聞く勇気はなかった。
幼馴染としての流まで失いたくなかったから。
流を失うくらいなら、生殺しのような時間も、耐える価値があった。
「玲が来るのを、いつも待ってた」
知っている。
流は、いつも玲を待っていた。はっきりと口に出すことはなかったが、それはわかっていた。
「でも、玲はそこから進まない」
そう言うと、流が顔を上げて、玲を下から見つめた。
泣いていないのに、もう泣いているように見える表情に、息が止まった。
「怖かった。失いたくなくて、だから」
絞り出すように出した玲の言葉は、掠れて、語尾が消えた。
俯いた流のまつ毛が影を作る。
形のいい唇がかすかに開いた。
「ちゃんと、言え」
流にここまで言わせて、やっと言う覚悟ができた。
「ずっと、好きだった」
流の唇がぎゅっと固く結ばれて、小さな声が漏れた。
「玲。遅いよ」
本当に遅すぎる。何年、遠回りをしたのだろう。
「ごめん」
流の体を引き寄せて、玲はしっかりと抱きしめた。
子供の頃とは違う、流の大人の骨格と体温の高さに玲は震えた。
お互いの鼓動が重なって、どちらのものか、わからなくなる。
傷のある右手で、流の小さな丸い頭を支え、左手で頬を撫でた。
流の白い肌がうっすらとピンク色に染まっていく。
ゆっくりと閉じられた目の長いまつ毛が月の光で影を作る。
流の赤い唇が誘っている。
引き寄せられるように、流の唇に自分の唇を重ねながら、窓の方に視線を向けた。
満月が少し庭の樹にかかり始めていた。
額の傷がちりっと痛む。
あの月も、ずっと残る傷も、なくなりはしない。ずっと二人の間に存在する。
それでも、痛みはすぐ消える。
月は、規則正しく巡っているだけだとわかっている。
その日を一緒に過ごす相手がいれば、それで良かったのだと今になって気づいた。
古びた窓ガラスを通して見える月は、少し歪んでいた。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
「誰が、布団くっつけてんだ」
気づくと、流がタオルで髪を拭きながら、立っていた。
「一つで良かったのに」
わざと、呟いてみた。予想通り、一瞬だけ、流がとことん嫌そうな顔をする。
今日は無視されなかっただけ、ましな方だと思う。
窓辺に座り込んでいた玲は流を見上げた。
いつも通り、へらへらと笑って流を見られているのか、自信がなかった。
年下の幼馴染を揶揄う、お調子者のばかな男に見えているだろうか。そんな男なら、気まぐれに遊び来ても、少々際どい冗談を言っても、許される。
こうして別の顔を見せていれば、このまま、そばにいられる。それでいいと、今までそう思って、やってきた。
窓は開いたままだ。満月はしっかり見えている。
流が黙って、部屋の灯りを落とした。無言の不機嫌を感じる。
古びた小さな豆球だけの薄暗くなった部屋に、満月の光が差し込んで、余計に目立つ。
玲の前に立った流は、感情の見えない目で見下ろしていた。
「窓、閉めろよ。寒い」
「きれいな満月だ」
「寒い。閉めろ」
「もう少し、いいだろ」
少し意地になっていた。
いつもなら、はいはいと笑って窓を閉めていたが、なぜか今日は月を見ていたいと思ってしまった。
気づくと、流がタオルで髪を拭きながら、立っていた。
「一つで良かったのに」
わざと、呟いてみた。予想通り、一瞬だけ、流がとことん嫌そうな顔をする。
今日は無視されなかっただけ、ましな方だと思う。
窓辺に座り込んでいた玲は流を見上げた。
いつも通り、へらへらと笑って流を見られているのか、自信がなかった。
年下の幼馴染を揶揄う、お調子者のばかな男に見えているだろうか。そんな男なら、気まぐれに遊び来ても、少々際どい冗談を言っても、許される。
こうして別の顔を見せていれば、このまま、そばにいられる。それでいいと、今までそう思って、やってきた。
窓は開いたままだ。満月はしっかり見えている。
流が黙って、部屋の灯りを落とした。無言の不機嫌を感じる。
古びた小さな豆球だけの薄暗くなった部屋に、満月の光が差し込んで、余計に目立つ。
玲の前に立った流は、感情の見えない目で見下ろしていた。
「窓、閉めろよ。寒い」
「きれいな満月だ」
「寒い。閉めろ」
「もう少し、いいだろ」
少し意地になっていた。
いつもなら、はいはいと笑って窓を閉めていたが、なぜか今日は月を見ていたいと思ってしまった。
今日はどうかしている。
坂道を息を切らして上がった時から、いつもと違う。
何かがあったわけではない。
強いて言うなら、あの日の月を思い出してしまったせいかもしれない。
あの日も、今日のように月がいつもより大きく近く見えた。そのせいで、あの日が鮮やかに着色し直されたように甦ってきて、流を諦めきれない自分が顔を出している。
濡れた髪と少し上気した顔の流は、無表情で見下ろしているにも関わらず、玲を誘っているように見えて、じっと見つめてしまった。
だから、窓を閉めるタイミングを失った。
坂道を息を切らして上がった時から、いつもと違う。
何かがあったわけではない。
強いて言うなら、あの日の月を思い出してしまったせいかもしれない。
あの日も、今日のように月がいつもより大きく近く見えた。そのせいで、あの日が鮮やかに着色し直されたように甦ってきて、流を諦めきれない自分が顔を出している。
濡れた髪と少し上気した顔の流は、無表情で見下ろしているにも関わらず、玲を誘っているように見えて、じっと見つめてしまった。
だから、窓を閉めるタイミングを失った。
ついに我慢できなくなったのか、流が大股で近づいてきた。
「閉めろって」
流の薄い体が、ぶつかるように玲の体を乗り越えて、窓を乱暴にしめた。
玲は膝の上に流をうけとめた。
逃げる暇はなかった。
窓際に座っているのだから、仕方がない。それに、どうせ、すぐに流の方から離れていく。
それが、いつもの流のやり方だから、玲はじっと息を止めて待っていればよかった。
今日は、なぜか、そのまま流が玲の膝に体重を乗せてきた。
風呂上がりの流は体温が高く、薄いシャツを通しても、冷えた玲の体には熱いくらいに感じられる。
その感覚は一瞬で全身に広がった。
「体冷えてる」
流の声が、玲の膝に響いた。動かない流の洗い髪が目の前にあって、シャンプーの匂いがする。
玲は、思わず息を止めた。
大人になって、ここまで流が玲に体を預けたことはない。
何をする気だ。
そう思った瞬間、そのままの姿勢で、流が玲のシャツの袖をそろりとたくしあげた。
反射的に腕を引いたが、流はしっかりと左手で玲の右腕を掴んでいた。
右手の指先で傷跡に触れてくる。まるで、たった今ついた傷に触れるように、恐る恐る反応を確かめているようだ。
流の長い指がなぞると、全身に電流が走った。
この家の前で流と再会したあの日から、今まで、こんなことは一度もなかった。
流の手で、体の中をかき混ぜられているようだ。
「そこ、触んな」
思わず、情けない声が出た。
「どうして」
感情の乗らない声で流が聞いた。
いつもより低い声で冷静に聞かれると、一人慌てているのが滑稽に思えてくる。
体を捩って抵抗を試みたが、あっさりと封じられた。
「だから、傷に触るな」
普通に言ったつもりだったが、声が裏返る。
「もう痛くないんだろ」
「触るなって」
今度は、子供が嫌がっているような声になってしまった。
流は玲を横目で見上げて、揶揄うように尋ねてきた。
「今日は、 どうした」
いつも仕掛けているのは、玲の方だった。
わざわざ満月の夜に流の家を訪ねているのも、嫌がることを承知で揶揄うのも、玲の方で、それを流がいつも無表情でかわしていた。
今日はどうしたと聞きたいのは、こっちの方だと、玲は奥歯を噛み締めた。
「閉めろって」
流の薄い体が、ぶつかるように玲の体を乗り越えて、窓を乱暴にしめた。
玲は膝の上に流をうけとめた。
逃げる暇はなかった。
窓際に座っているのだから、仕方がない。それに、どうせ、すぐに流の方から離れていく。
それが、いつもの流のやり方だから、玲はじっと息を止めて待っていればよかった。
今日は、なぜか、そのまま流が玲の膝に体重を乗せてきた。
風呂上がりの流は体温が高く、薄いシャツを通しても、冷えた玲の体には熱いくらいに感じられる。
その感覚は一瞬で全身に広がった。
「体冷えてる」
流の声が、玲の膝に響いた。動かない流の洗い髪が目の前にあって、シャンプーの匂いがする。
玲は、思わず息を止めた。
大人になって、ここまで流が玲に体を預けたことはない。
何をする気だ。
そう思った瞬間、そのままの姿勢で、流が玲のシャツの袖をそろりとたくしあげた。
反射的に腕を引いたが、流はしっかりと左手で玲の右腕を掴んでいた。
右手の指先で傷跡に触れてくる。まるで、たった今ついた傷に触れるように、恐る恐る反応を確かめているようだ。
流の長い指がなぞると、全身に電流が走った。
この家の前で流と再会したあの日から、今まで、こんなことは一度もなかった。
流の手で、体の中をかき混ぜられているようだ。
「そこ、触んな」
思わず、情けない声が出た。
「どうして」
感情の乗らない声で流が聞いた。
いつもより低い声で冷静に聞かれると、一人慌てているのが滑稽に思えてくる。
体を捩って抵抗を試みたが、あっさりと封じられた。
「だから、傷に触るな」
普通に言ったつもりだったが、声が裏返る。
「もう痛くないんだろ」
「触るなって」
今度は、子供が嫌がっているような声になってしまった。
流は玲を横目で見上げて、揶揄うように尋ねてきた。
「今日は、 どうした」
いつも仕掛けているのは、玲の方だった。
わざわざ満月の夜に流の家を訪ねているのも、嫌がることを承知で揶揄うのも、玲の方で、それを流がいつも無表情でかわしていた。
今日はどうしたと聞きたいのは、こっちの方だと、玲は奥歯を噛み締めた。
おもちゃを指先で遊ぶように、流はゆるゆると玲の腕の傷を触っていた。
「やめろって」
我慢できずに、大きな声が出た。
一瞬、流の体がふわりと浮いた。
離れてくれるのかと思ったら、今度は、両手でしっかりと玲の腕を掴んで、容赦なく流の体が擦り寄ってきた。
逃げる暇も、言葉で制止する余裕もなかった。
流の顔が、すぐ目の前にあった。幼い頃の面影がはっきりと見える。
子供の頃と同じように、下から玲の目を覗き込むようにして、流は頼み事をする顔になった。
「だからさ。満月の日に来ないでよ。会いたくない」
子供のような甘えた口調で言いながら、玲を見上げている。
こんな言い方をする流は、子供の頃以来だ。
この顔でこんなふうに言われると、だめだと言えなくて、結局、いいよと折れていた昔を思い出した。
いきなり、あの頃に帰ったようで、返事に詰まった。
流はため息をついて体を起こした。
「嫌がってるのは、知ってるだろ。お前、何しに来るんだ」
また、流が感情の乗らない声に戻って、淡々と世間話をするように喋る。
玲に尋ねているのに、いつもと同じように冷たく突き放していて、返事など求めていない。
子供と大人とがくるくる入れ替わるような、このアンバランスな感じは不愉快で、なのに、どこか懐かしい心地よさがついてくる。
流は、確かにこんな子供だった。
賢くて、大人のような口をきいているかと思えば、子供らしい甘え方をしてくる。気まぐれで、つかみどころのない子供だった。めんどくさいと思っても、それが彼の魅力でもあった。
あの日から、急に大人になってしまった流が、子供の頃に戻ったような気分になる。
相変わらず、流の手が玲の腕を撫でていた。
息ができない。
心臓の鼓動が激しくて、胸が痛い。
翻弄されている苛立たしさがあるのに、それをずっと待っていたような気持ちが湧き上がってくる。
研ぎ澄まされていく感覚を逃すために、玲は言葉を捻り出した。
「お前はさ」
その一言で黙ってしまった玲を横目で見て、流は聞こえていない顔になった。
「やめろって」
我慢できずに、大きな声が出た。
一瞬、流の体がふわりと浮いた。
離れてくれるのかと思ったら、今度は、両手でしっかりと玲の腕を掴んで、容赦なく流の体が擦り寄ってきた。
逃げる暇も、言葉で制止する余裕もなかった。
流の顔が、すぐ目の前にあった。幼い頃の面影がはっきりと見える。
子供の頃と同じように、下から玲の目を覗き込むようにして、流は頼み事をする顔になった。
「だからさ。満月の日に来ないでよ。会いたくない」
子供のような甘えた口調で言いながら、玲を見上げている。
こんな言い方をする流は、子供の頃以来だ。
この顔でこんなふうに言われると、だめだと言えなくて、結局、いいよと折れていた昔を思い出した。
いきなり、あの頃に帰ったようで、返事に詰まった。
流はため息をついて体を起こした。
「嫌がってるのは、知ってるだろ。お前、何しに来るんだ」
また、流が感情の乗らない声に戻って、淡々と世間話をするように喋る。
玲に尋ねているのに、いつもと同じように冷たく突き放していて、返事など求めていない。
子供と大人とがくるくる入れ替わるような、このアンバランスな感じは不愉快で、なのに、どこか懐かしい心地よさがついてくる。
流は、確かにこんな子供だった。
賢くて、大人のような口をきいているかと思えば、子供らしい甘え方をしてくる。気まぐれで、つかみどころのない子供だった。めんどくさいと思っても、それが彼の魅力でもあった。
あの日から、急に大人になってしまった流が、子供の頃に戻ったような気分になる。
相変わらず、流の手が玲の腕を撫でていた。
息ができない。
心臓の鼓動が激しくて、胸が痛い。
翻弄されている苛立たしさがあるのに、それをずっと待っていたような気持ちが湧き上がってくる。
研ぎ澄まされていく感覚を逃すために、玲は言葉を捻り出した。
「お前はさ」
その一言で黙ってしまった玲を横目で見て、流は聞こえていない顔になった。
無視してくる流に煽られるように、つい、今まで聞かずにいたことを聞いた。
「知ってたのか。あの時、誰と行ったか」
「あの時って」
「お前の母親」
流が手の動きを止めた。
やっと息が継げたと思った途端、今度は、玲の首筋に流の右手がのびた。
「今、それ、聞くのか」
体を引こうとする動きは、流の左手で止められた。
触れられているところが熱い。流の長い指が絡みつくように、玲の首筋を捉えていた。触れると言うより、逃がさないように絡め取られているようだ。
玲は、金縛りにあったように動けなくなった。
「転校してすぐ知ってたよ」
まるで、昨日の出来事を報告するかのように、淡々と流は答える。
玲を見つめたまま、世間話をする口調で、流が尋ねた。
「お前は。いつ、知った」
「退院した後、学校に行き始めて」
こちらから聞いたのに、答えさせられた気分だった。
流の目が、少し細くなる。
怒っているのだと、すぐにわかった。子供の頃から、相手に吐き出すより前に、流はそういう表情をする。
「どうして」
そう言いかけて、流は黙った。
どうして、今まで何も言わなかったのか。
そう聞きたかったのだろう。でも、それは。
「お前もだろ」
声に出た。
今まで、二人とも何も言わなかった。
黙っていても、事実は事実だ。だけど、わざわざ口にはしたくなかった。言葉にしてしまえば、それは重さを持ってしまう。
それは、流も同じだと思っていた。
いきなり、流は手をはなし、体を起こして玲を見据えた。
「勝手に、わかったようなこと言うな」
流は、そう言った。
何に対してかは分からなかったが、流が怒っているのはわかった。
怒っている理由がわからなくて、思考が停止した。思わず、言い訳めいた言葉が出た。
「お前も知っているだろうと思ったし、言う機会がなかったから」
睨んだ顔のまま、しばらく流はじっと玲を見ていた。
いつもの無表情じゃない。
流の感情がはっきり見えていることに、玲はやっと気づいた。
「知ってたのか。あの時、誰と行ったか」
「あの時って」
「お前の母親」
流が手の動きを止めた。
やっと息が継げたと思った途端、今度は、玲の首筋に流の右手がのびた。
「今、それ、聞くのか」
体を引こうとする動きは、流の左手で止められた。
触れられているところが熱い。流の長い指が絡みつくように、玲の首筋を捉えていた。触れると言うより、逃がさないように絡め取られているようだ。
玲は、金縛りにあったように動けなくなった。
「転校してすぐ知ってたよ」
まるで、昨日の出来事を報告するかのように、淡々と流は答える。
玲を見つめたまま、世間話をする口調で、流が尋ねた。
「お前は。いつ、知った」
「退院した後、学校に行き始めて」
こちらから聞いたのに、答えさせられた気分だった。
流の目が、少し細くなる。
怒っているのだと、すぐにわかった。子供の頃から、相手に吐き出すより前に、流はそういう表情をする。
「どうして」
そう言いかけて、流は黙った。
どうして、今まで何も言わなかったのか。
そう聞きたかったのだろう。でも、それは。
「お前もだろ」
声に出た。
今まで、二人とも何も言わなかった。
黙っていても、事実は事実だ。だけど、わざわざ口にはしたくなかった。言葉にしてしまえば、それは重さを持ってしまう。
それは、流も同じだと思っていた。
いきなり、流は手をはなし、体を起こして玲を見据えた。
「勝手に、わかったようなこと言うな」
流は、そう言った。
何に対してかは分からなかったが、流が怒っているのはわかった。
怒っている理由がわからなくて、思考が停止した。思わず、言い訳めいた言葉が出た。
「お前も知っているだろうと思ったし、言う機会がなかったから」
睨んだ顔のまま、しばらく流はじっと玲を見ていた。
いつもの無表情じゃない。
流の感情がはっきり見えていることに、玲はやっと気づいた。
拗ねた時の癖で、流の唇がきつく結ばれている。
子供の頃、よく見ていた表情だったと思い出した。
「お前はずっと勝手だよ」
そっぽを向いて、また、感情の見えない顔で、そう呟かれた。
近くに来たかと思ったら、急に遠くなる。
このまま、離れていきそうで、玲は呼び止める言葉を探した。
「お前だって、俺の傷を見えないふりをしてたじゃないか」
初めて流にそう言った。
今まで、一度も指摘したことがないことだ。
流の目がまた少し細くなる。微かに口元だけ笑ったように見えた。
唐突に、流の人差し指が、玲の腕の傷に触れた。
「ここ」
「それから、ここも」
玲の前髪を人差し指で持ち上げると、傷に触れた。
「親父がつけた傷だ」
嬉しそうに言い、微笑む。
不謹慎な態度にすら見えたその顔が、いきなり真顔になった。
「ずっと、残る」
つぶやいた流の声は、怖いほど感情が見えない。玲を見つめる目もガラス玉のようだ。
なのに、流の痛みが透けて見える。
そのまま俯く流は、泣いているようにさえ見える。
傷が久しぶりに疼いて、玲は顔を顰めて身を捩った。
玲の傷は、いつも見えている。もう傷は癒えて、痕跡が残るだけだ。ただ、時々疼く。
流の傷は見えていなくても、まだ生々しくそこにあった。
冷静な顔しか見せない流だったが、それが玲にはどこか不安定に見え、その感覚がいつも拭えなかった。見えない傷から流れ続けているものがあったからだと、やっと玲は気づいた。
だから、流の感情が見えてこないことに苛立っていた。
辛いなら、辛いと言ってほしい。泣きたいなら、泣いてほしい。
そう願っていたのだと思う。
だけど、こんなふうに、流に言わせたかったわけではないと、玲は悟った。
もう無かったことにしたかった。
無邪気に一緒に遊んだあの頃に戻りたかっただけだ。
ずっと玲の後ろをついてきた、あの頃の流を、もう一度、抱きしめたかった。
どうしたら、よかったのだろう。
感情がうまく整理できない。
言葉が出てこない。
やっぱり、自分から流には触れられなかった。
子供の頃、よく見ていた表情だったと思い出した。
「お前はずっと勝手だよ」
そっぽを向いて、また、感情の見えない顔で、そう呟かれた。
近くに来たかと思ったら、急に遠くなる。
このまま、離れていきそうで、玲は呼び止める言葉を探した。
「お前だって、俺の傷を見えないふりをしてたじゃないか」
初めて流にそう言った。
今まで、一度も指摘したことがないことだ。
流の目がまた少し細くなる。微かに口元だけ笑ったように見えた。
唐突に、流の人差し指が、玲の腕の傷に触れた。
「ここ」
「それから、ここも」
玲の前髪を人差し指で持ち上げると、傷に触れた。
「親父がつけた傷だ」
嬉しそうに言い、微笑む。
不謹慎な態度にすら見えたその顔が、いきなり真顔になった。
「ずっと、残る」
つぶやいた流の声は、怖いほど感情が見えない。玲を見つめる目もガラス玉のようだ。
なのに、流の痛みが透けて見える。
そのまま俯く流は、泣いているようにさえ見える。
傷が久しぶりに疼いて、玲は顔を顰めて身を捩った。
玲の傷は、いつも見えている。もう傷は癒えて、痕跡が残るだけだ。ただ、時々疼く。
流の傷は見えていなくても、まだ生々しくそこにあった。
冷静な顔しか見せない流だったが、それが玲にはどこか不安定に見え、その感覚がいつも拭えなかった。見えない傷から流れ続けているものがあったからだと、やっと玲は気づいた。
だから、流の感情が見えてこないことに苛立っていた。
辛いなら、辛いと言ってほしい。泣きたいなら、泣いてほしい。
そう願っていたのだと思う。
だけど、こんなふうに、流に言わせたかったわけではないと、玲は悟った。
もう無かったことにしたかった。
無邪気に一緒に遊んだあの頃に戻りたかっただけだ。
ずっと玲の後ろをついてきた、あの頃の流を、もう一度、抱きしめたかった。
どうしたら、よかったのだろう。
感情がうまく整理できない。
言葉が出てこない。
やっぱり、自分から流には触れられなかった。
ため息をついて、流が顔を上げた。
流の唇がまた拗ねたように動いて、玲を睨みつけてくる。
いきなり流は玲の腕の傷に唇を押し付けてきた。
指先より温度が高くて、熱い。
反射的に腕をひこうとしたが、流がしっかりと握って離さない。手首から肘の方へ、少しずつ唇は上がってくる。
息が吸えなくなる。
流の行動が読めなくて、振り回されていた。
「ふざけるな。やめろ。酔ってんのか」
情けない声が出た。
玲の言葉など耳に入っていないように、流は玲の腕に顔を埋めたままだ。
本気で振りほどくつもりなら、それは可能だった。
流より一回り大きな体と、毎日の肉体労働をする体力は、運動などしない華奢な流など相手にならないことは、はっきりわかっていた。
なのに、動けなかった。
今まで何もできなかった自分が、流を拒否するようなことなどできなかった。
やっと顔を上げた流は、吐き捨てるように言った。
「酔ってるかもね。いつものように、なかったことにすればいい」
流が怒っている。
怒らせてしまったのに、流の感情が言葉に素直に出ているのは、本当に久しぶりで、それだけで玲は泣きそうになる。
本音が口について出た。
「俺は、どうしたらよかったんだ」
掠れた声で玲が呟いた。
流の顔がゆっくり変化していく。
泣きそうに歪んでいった。
流の感情がはっきりと見える顔は何年ぶりだろう。
子供の頃、こんなふうに泣き出しそうな流を宥めるには、抱きしめるしかなかった。
いつから、それができなくなったか。
あの日、この家の前で泣いていた流を抱きしめたきり、できなくなった。流が感情を表情に出さなくなったせいだ。
ずっと、この顔が見たかった。
流の唇が震えていた。
「ルウ」
子供の頃の呼び方が、一瞬で流を子供に戻した。
「レイちゃんは」
絞り出すような声は、ほとんど泣いているように聞こえる。
「あれから、全然、僕に触らなくなった」
違う。
触れたかった。
いつも、流に触れたかった。
玲が言葉を探している間に、流が独り言のように喋り続ける。
「なかなか会いにきてくれないし。会っても、よそよそしい。僕の知ってるレイちゃんはいなくなった」
「違う」
思いがけない言葉に、玲は言葉より先に、首を横に振った。
玲の言葉が聞こえていないように、流は喋り続ける。
「言葉では揶揄うのに、触れるだけで避ける。会うたびに、もう次はないって」
「違う」
大きな声で、遮った。
「ずっと、触れたかった」
どう言ったらいいのか、分からない。
あの日からの長い時間を、どう説明したらいいのか。
ただ同じ言葉を玲はくり返した。
「違うんだ。俺は、ずっと。ずっと触れたかった」
泣くのを我慢していた小学生の流のように、満月の光の中で、玲を見上げていた。
いきなり、流の両手が玲の首に回って、抱きついてきた。
流の体重を乗せられて、玲の体は壁にもたれかかる。
流の体の震えだけが伝わってきた。
流の唇がまた拗ねたように動いて、玲を睨みつけてくる。
いきなり流は玲の腕の傷に唇を押し付けてきた。
指先より温度が高くて、熱い。
反射的に腕をひこうとしたが、流がしっかりと握って離さない。手首から肘の方へ、少しずつ唇は上がってくる。
息が吸えなくなる。
流の行動が読めなくて、振り回されていた。
「ふざけるな。やめろ。酔ってんのか」
情けない声が出た。
玲の言葉など耳に入っていないように、流は玲の腕に顔を埋めたままだ。
本気で振りほどくつもりなら、それは可能だった。
流より一回り大きな体と、毎日の肉体労働をする体力は、運動などしない華奢な流など相手にならないことは、はっきりわかっていた。
なのに、動けなかった。
今まで何もできなかった自分が、流を拒否するようなことなどできなかった。
やっと顔を上げた流は、吐き捨てるように言った。
「酔ってるかもね。いつものように、なかったことにすればいい」
流が怒っている。
怒らせてしまったのに、流の感情が言葉に素直に出ているのは、本当に久しぶりで、それだけで玲は泣きそうになる。
本音が口について出た。
「俺は、どうしたらよかったんだ」
掠れた声で玲が呟いた。
流の顔がゆっくり変化していく。
泣きそうに歪んでいった。
流の感情がはっきりと見える顔は何年ぶりだろう。
子供の頃、こんなふうに泣き出しそうな流を宥めるには、抱きしめるしかなかった。
いつから、それができなくなったか。
あの日、この家の前で泣いていた流を抱きしめたきり、できなくなった。流が感情を表情に出さなくなったせいだ。
ずっと、この顔が見たかった。
流の唇が震えていた。
「ルウ」
子供の頃の呼び方が、一瞬で流を子供に戻した。
「レイちゃんは」
絞り出すような声は、ほとんど泣いているように聞こえる。
「あれから、全然、僕に触らなくなった」
違う。
触れたかった。
いつも、流に触れたかった。
玲が言葉を探している間に、流が独り言のように喋り続ける。
「なかなか会いにきてくれないし。会っても、よそよそしい。僕の知ってるレイちゃんはいなくなった」
「違う」
思いがけない言葉に、玲は言葉より先に、首を横に振った。
玲の言葉が聞こえていないように、流は喋り続ける。
「言葉では揶揄うのに、触れるだけで避ける。会うたびに、もう次はないって」
「違う」
大きな声で、遮った。
「ずっと、触れたかった」
どう言ったらいいのか、分からない。
あの日からの長い時間を、どう説明したらいいのか。
ただ同じ言葉を玲はくり返した。
「違うんだ。俺は、ずっと。ずっと触れたかった」
泣くのを我慢していた小学生の流のように、満月の光の中で、玲を見上げていた。
いきなり、流の両手が玲の首に回って、抱きついてきた。
流の体重を乗せられて、玲の体は壁にもたれかかる。
流の体の震えだけが伝わってきた。
ずいぶん長い時間、じっとしていた気がする。
混乱していた。流の重みが現実だと玲に知らせている。
流の髪の湿気がしっとりと玲のシャツに移る。ほのかに立ち昇ってくる流の体の匂いは、同じ石鹸のはずなのに、全く違うものに感じる。
あの日を境に、あっという間に大人になった流に強く惹かれた。
最初は無自覚だったその気持ちに、玲が気づいた頃には、流との距離はどんどん遠くなっていた。
「お前、俺を許してくれるのか」
ずっと、聞きたかった。
感情を隠すことを覚えた流が、何を考えているのか、ずっと分からなかった。
流は一度も両親のことをはっきりと言ったことがない。ましてや、玲を責めたこともない。
会いに来れば、拒みはしないが、本当は恨んでいるのではないかと、ずっと考えていた。
あの夜、玲がけがをすることがなければ、少なくとも、父親がいなくなることはなかった。母親に対する思いも、玲が関係していなければ、もっと違っていたかもしれない。
玲の存在が、流のあれからを変えてしまった気がしていた。
「なんだよ。それ」
玲の胸の上で、流の声がする。
言葉は乱暴だったが、幼さが加わって、むしろ全身にまとわりつく。
「レイちゃんは、ずっとそうだ」
ぽとりと小石を落とすように、小さな声で流が呟いた。
えっと、声が出た。
「レイちゃんは、ずっと、自分に責任があると思ってる」
「それは」
「僕が親に捨てられて、かわいそうだから、来る」
流の声がだんだんと小さくなって、掠れてくる。
「そうじゃない」
慌てて大きな声で否定すると、流の体がぴくりと揺れた。
確かに、自分のせいだと感じて、流が心配だった。でも、それだけで来ていたわけではない。
「いつまで経っても、幼馴染の弟でしかない」
それだけの関係でいいと諦めていたのは、怖かったからだ。
ずっと聞きたかった。流が、どう思っているのか。
でも、玲の方から聞く勇気はなかった。
幼馴染としての流まで失いたくなかったから。
流を失うくらいなら、生殺しのような時間も、耐える価値があった。
「玲が来るのを、いつも待ってた」
知っている。
流は、いつも玲を待っていた。はっきりと口に出すことはなかったが、それはわかっていた。
「でも、玲はそこから進まない」
そう言うと、流が顔を上げて、玲を下から見つめた。
泣いていないのに、もう泣いているように見える表情に、息が止まった。
「怖かった。失いたくなくて、だから」
絞り出すように出した玲の言葉は、掠れて、語尾が消えた。
俯いた流のまつ毛が影を作る。
形のいい唇がかすかに開いた。
「ちゃんと、言え」
流にここまで言わせて、やっと言う覚悟ができた。
「ずっと、好きだった」
流の唇がぎゅっと固く結ばれて、小さな声が漏れた。
「玲。遅いよ」
本当に遅すぎる。何年、遠回りをしたのだろう。
「ごめん」
流の体を引き寄せて、玲はしっかりと抱きしめた。
子供の頃とは違う、流の大人の骨格と体温の高さに玲は震えた。
お互いの鼓動が重なって、どちらのものか、わからなくなる。
混乱していた。流の重みが現実だと玲に知らせている。
流の髪の湿気がしっとりと玲のシャツに移る。ほのかに立ち昇ってくる流の体の匂いは、同じ石鹸のはずなのに、全く違うものに感じる。
あの日を境に、あっという間に大人になった流に強く惹かれた。
最初は無自覚だったその気持ちに、玲が気づいた頃には、流との距離はどんどん遠くなっていた。
「お前、俺を許してくれるのか」
ずっと、聞きたかった。
感情を隠すことを覚えた流が、何を考えているのか、ずっと分からなかった。
流は一度も両親のことをはっきりと言ったことがない。ましてや、玲を責めたこともない。
会いに来れば、拒みはしないが、本当は恨んでいるのではないかと、ずっと考えていた。
あの夜、玲がけがをすることがなければ、少なくとも、父親がいなくなることはなかった。母親に対する思いも、玲が関係していなければ、もっと違っていたかもしれない。
玲の存在が、流のあれからを変えてしまった気がしていた。
「なんだよ。それ」
玲の胸の上で、流の声がする。
言葉は乱暴だったが、幼さが加わって、むしろ全身にまとわりつく。
「レイちゃんは、ずっとそうだ」
ぽとりと小石を落とすように、小さな声で流が呟いた。
えっと、声が出た。
「レイちゃんは、ずっと、自分に責任があると思ってる」
「それは」
「僕が親に捨てられて、かわいそうだから、来る」
流の声がだんだんと小さくなって、掠れてくる。
「そうじゃない」
慌てて大きな声で否定すると、流の体がぴくりと揺れた。
確かに、自分のせいだと感じて、流が心配だった。でも、それだけで来ていたわけではない。
「いつまで経っても、幼馴染の弟でしかない」
それだけの関係でいいと諦めていたのは、怖かったからだ。
ずっと聞きたかった。流が、どう思っているのか。
でも、玲の方から聞く勇気はなかった。
幼馴染としての流まで失いたくなかったから。
流を失うくらいなら、生殺しのような時間も、耐える価値があった。
「玲が来るのを、いつも待ってた」
知っている。
流は、いつも玲を待っていた。はっきりと口に出すことはなかったが、それはわかっていた。
「でも、玲はそこから進まない」
そう言うと、流が顔を上げて、玲を下から見つめた。
泣いていないのに、もう泣いているように見える表情に、息が止まった。
「怖かった。失いたくなくて、だから」
絞り出すように出した玲の言葉は、掠れて、語尾が消えた。
俯いた流のまつ毛が影を作る。
形のいい唇がかすかに開いた。
「ちゃんと、言え」
流にここまで言わせて、やっと言う覚悟ができた。
「ずっと、好きだった」
流の唇がぎゅっと固く結ばれて、小さな声が漏れた。
「玲。遅いよ」
本当に遅すぎる。何年、遠回りをしたのだろう。
「ごめん」
流の体を引き寄せて、玲はしっかりと抱きしめた。
子供の頃とは違う、流の大人の骨格と体温の高さに玲は震えた。
お互いの鼓動が重なって、どちらのものか、わからなくなる。
傷のある右手で、流の小さな丸い頭を支え、左手で頬を撫でた。
流の白い肌がうっすらとピンク色に染まっていく。
ゆっくりと閉じられた目の長いまつ毛が月の光で影を作る。
流の赤い唇が誘っている。
引き寄せられるように、流の唇に自分の唇を重ねながら、窓の方に視線を向けた。
満月が少し庭の樹にかかり始めていた。
額の傷がちりっと痛む。
あの月も、ずっと残る傷も、なくなりはしない。ずっと二人の間に存在する。
それでも、痛みはすぐ消える。
月は、規則正しく巡っているだけだとわかっている。
その日を一緒に過ごす相手がいれば、それで良かったのだと今になって気づいた。
古びた窓ガラスを通して見える月は、少し歪んでいた。
流の白い肌がうっすらとピンク色に染まっていく。
ゆっくりと閉じられた目の長いまつ毛が月の光で影を作る。
流の赤い唇が誘っている。
引き寄せられるように、流の唇に自分の唇を重ねながら、窓の方に視線を向けた。
満月が少し庭の樹にかかり始めていた。
額の傷がちりっと痛む。
あの月も、ずっと残る傷も、なくなりはしない。ずっと二人の間に存在する。
それでも、痛みはすぐ消える。
月は、規則正しく巡っているだけだとわかっている。
その日を一緒に過ごす相手がいれば、それで良かったのだと今になって気づいた。
古びた窓ガラスを通して見える月は、少し歪んでいた。